心の奥に刃は眠る

 白い階段は、どこまでも下へ続いているように見えた。

 蓮司(れんじ)は一段ずつ階段を下りながら、周囲を見た。

 壁はほとんど見えない。
 白い空間に白い階段だけが浮いているようだった。

 だが、表層の部屋にあった清潔な白とは違う。
 何かを上から何度も塗って、元の色を隠したような白だった。

 足音はほとんど響かない。

 外界とも違う。
 現実とも違う。

 音が吸われていくような感覚があった。

「思ったより静かだな」

 蓮司が言うと、前を歩く葛城(かつらぎ)が短く答えた。

「深層に近づいている」

「表層とどう違うんだ?」

「本人が普段見せないものに近づく。何が起こるかも分からないが、情報の価値も増す」

「心の奥ってことだな」

「意識を切らすな。ここは黒沢悠斗の内側だ」

 その言い方は、いつもより少し硬かった。

 蓮司は口を閉じる。

 分かっている。
 ここは誰かの心の中だ。

 床も壁も、ただの構造物ではない。
 勝手に踏み荒らせば、黒沢に影響が出る。

 しばらく降りると、階段の途中に小さな踊り場があった。
 そこから先は、二つに分かれている。

 左は、さらに白い廊下。
 右は、少しだけ乱れた廊下。

 右の奥には、床に落ちた紙や、倒れた椅子の脚らしきものが見えた。
 散らかっている。
 蓮司はそちらを見る。

「右の方が黒沢っぽい」

「理由は」

「散らかってるから」

「雑な判断だな」

「でも、間違ってねえだろ」

 葛城は少しだけ黙った。

「おそらくな」

 右の廊下には、使い古された鞄、曲がったプリント、半分開いたロッカーのようなものが見えた。
 どれも乱れている。

 表層の白い部屋とは違う。
 人が使って、置きっぱなしにして、後で片づけようとして忘れたものたち。
 そんな散らかり方だった。

 蓮司はそちらへ足を向けようとした。
 だが、葛城が手で制した。

「先に左を見る」

「何でだよ。右の方が黒沢の本音っぽいだろ」

「だからだ」

「は?」

「本人らしいものが残っている場所に、いきなり踏み込むな。まず、違和感のある方を見る」

 葛城は左の廊下を見た。

 白い。

 まっすぐで、何もない。
 その奥に、薄い光が見える。

「黒沢が本来の散らかりを見ないようにしているものがあるなら、そちらが先だ」

「相変わらず回りくどいな」

「観察とはそういうものだ」

 蓮司は言い返しかけて、やめた。
 渋々、葛城の後に続いて左の廊下へ進む。

 白い床には、足跡があった。
 前に外界で見たものに似ている。

 ただし、こちらはもっとはっきりしていた。

「また足跡か」

「外界で見たものより深い。黒沢の内側に定着している」

「定着って」

「一時的な誘導ではなく、本人の内界の構造になりつつあるということだ」

 蓮司の胸に、嫌な重さが残った。
 構造になる。
 つまり、黒沢の心の一部になる。
 外から与えられた道が、自分の道のようになる。

 そんなことがあるのか。

 いや。

 精神世界なら、あるのだろう。
 蓮司は白い足跡を踏まないように歩いた。

 理由は分からない。
 ただ、踏みたくなかった。

 廊下の奥に、広い空間があった。

 白い部屋。

 いや、部屋というより礼拝堂に近い。
 天井が高く、壁は丸く湾曲している。

 窓はない。
 それなのに、どこからか柔らかい光が降っている。

 そして。

 中央に、何かがいた。

 像だった。
 人間よりも一回り以上大きい。
 3m近くありそうだった。

 白い布をまとった人型。
 顔ははっきりしない。
 笑っているようにも見える。
 何も考えていないようにも見える。

 その両腕が、何かを抱きしめるように閉じている。

 黒沢だった。
 黒沢のシンボルはその腕の中にいた。

 現実の黒沢と同じ制服。
 薄い表情。
 口元だけが、わずかに笑っている。

 像のようなものの白い腕が、黒沢の肩に置かれている。
 もう片方の腕は、背中から回り込んで、黒沢の体を包んでいた。

 白い布が、黒沢の腕や足にかかっている。

 柔らかそうだった。
 冷たくは見えない。
 強く締めつけているようにも見えない。

 むしろ、守っているように見えた。

 けれど、あれでは黒沢は動けない。

 抱きしめられている。
 守られている。

 同時に、固定されている。

「……何だよ、あれ」

 蓮司の声が低くなる。

「像だな」

「見れば分かる」

「黒沢の内界が作ったものか、外から作られたものかは分からない」

「救済団体の影響か」

「可能性はある。だが、まだ断定するな」

「またそれかよ」

「状況を想定するだけだ」

 葛城の声はいつも通りだった。
 だが、目は像から離れていない。

 警戒している。

 それだけで、蓮司にも分かった。
 この像は、ただの飾りではない。

 蓮司は一歩近づく。
 白い像は動かない。
 ただ、白い布がわずかに揺れた。

 風はない。

 それでも、布は呼吸するように揺れている。
 部屋の壁には、文字が浮かび上がっていた。

 選ばなくていい。
 迷わなくていい。
 ここにいればいい。
 答えは預ければいい。

 表層で見た言葉と似ている。

 だが、ここでは優しい文面ではなかった。
 どちらかというと、命令に近い。

 直感的に、そう感じた。

 蓮司は胸の奥に小さな引っかかりを覚える。

 これが救いなのか。

 白い像は、黒沢を傷つけているようには見えない。
 むしろ、抱きしめている。
 苦しみから守っているように見える。

 けれど、その腕の中で、黒沢はどこにも行けない。

「高城」

 葛城が言った。

「近づきすぎるな」

「分かってる」

「分かっていないときの返事だ」

「うるせえな」

 蓮司は足を止めた。

 そのとき、黒沢のシンボルの口元が、わずかに動いた。
 声はほとんどなかった。
 ただ、言葉の形だけが、白い部屋に落ちる。

(……ここなら、楽)

 それだけだった。
 声というより、内側から漏れた感情に近い。
 黒沢のシンボルは蓮司たちを見ていない。
 誰に言ったわけでもない。

 ただ、その言葉だけが、部屋に残った。
 蓮司の指先に力が入る。

 黒沢にとって、ここは楽なのだ。

 だから、簡単に否定できない。
 だが、白い腕は黒沢を離さない。
 白い布は、黒沢の足元まで優しく覆っている。

 優しいからこそ、逃げにくい。

「先生」

 蓮司は言った。

「あれ、どうすればいい」

「まだ判断するな」

「判断?」

「黒沢があれを支えにしている可能性がある。無理に引き離せば、一気に不安定になるかもしれない」

「でも、あれは」

「拘束だな」

 葛城は言った。

「ただし、優しい拘束だ」

 蓮司は白い像を見る。
 その言葉が、妙にしっくりきた。

 痛くない。
 怖くない。
 むしろ安心できる。

 だが、動けない。
 自分の足で立てない。

 蓮司の中で、何かが音を立てずに傾いた。

「考えなくていいって」

 蓮司の声が低くなる。

「それで、いいのかよ」

 白い像は答えない。
 黒沢のシンボルも、動かない。
 ただ、白い腕だけが、黒沢をさらに優しく包み込んだ。

 守るように。
 逃がさないように。

「奥を見るぞ」

「奥?」

 葛城は部屋の反対側を指した。
 白い像の背後。
 そこに、小さな扉があった。

 白い壁とほとんど同じ色で、注意していなければ見落とす。
 扉の下から、かすかに色が漏れていた。

 白ではない。
 灰色でもない。

 乱れた色。

 黒沢らしい、雑で、まとまらない色だった。

「まだ残っている」

 葛城は言った。

「黒沢自身の散らかりだ」

 蓮司は扉を見る。
 奥に行くほど、心の深層に近づくと葛城は言っていた。
 つまり、まだ心の深層には黒沢らしさが残っているということか。
 逆に、ここまで白が来ているということは、心の深層の一部はすでに塗り替えられているということか。

 そして、白い像は、その扉の前に立ちはだかるように黒沢を抱えていた。

 守っているのは黒沢か。
 それとも、その奥にあるものから黒沢を遠ざけているのか。

 少なくとも奥への道を塞いでいるのは間違いなさそうだった。

「道を守る門番の役割もありそうだな」

 葛城は鋭く前を見ている。
 蓮司が扉の方へ半歩踏み出した。
 その瞬間、白い像が初めて動いた。

 ゆっくりと顔を上げる。
 顔はない。
 目も口もない。

 だが、見られた。

 そう感じた。

 部屋の空気が、少し重くなる。
 壁の文字が一斉に揺れた。

 白い像の腕が、黒沢を抱いたまま、蓮司たちの方へわずかに向く。

 敵意ではない。
 怒りでもない。

 ただ、拒絶だった。

 これ以上来るな。

 考えさせるな。
 選ばせるな。

 そう言われている気がした。

「高城」

 葛城の声が低くなる。

「構えろ。こちらも奥を確認するまでは退けない」

「戦うのか?」

「今は反応を見ろ。だが、攻撃されるようなら対処はする」

 蓮司は右手を開きかけて、止めた。
 ティルヴァを出すにはまだ早い。

 白い像が、一歩進んだ。
 黒沢を抱えたまま。

 その動きは遅い。

 だが、部屋全体が一緒に迫ってくるような圧があった。

 白い布が床を這う。
 床に並んでいた足跡が、布の下へ隠れていく。

「高城、気をつけろ」

 葛城は腕を構えている。
 まだ、ライフルは具現化していないが、いつでも出せる姿勢だ。
 次の一手が来れば、葛城はためらわずに牽制するだろう。

 その様子を見て、蓮司は短く息を吐いた。

「黒沢」

 蓮司は、像の腕の中にいるシンボルを見た。

 口元だけが、わずかに笑っている。

 楽そうに。
 何も考えなくてよさそうに。

 その顔を見ていると、胸の奥がざわついた。

 救われているように見える。
 でも、動けない。

 安心しているように見える。
 でも、選べない。

 それを放っておくことは、黒沢から自由を奪うものを見過ごすことではないのか。
 例えその方が楽だとしても、自分の意思で選べないのは、ただの拘束ではないのか。

 それは、救いとは呼べないのではないか。

 少なくとも黒沢自身の望みだけとは思えない。

 何かが歪だ。

 その歪の中心は、あの像だ。
 あれは……異質だ。

 蓮司は、右手を強く握った。
 それに反応するように白い像の腕が、蓮司たちの前にゆっくりと広がる。

 優しく包み込むように。
 それでいて、進路を塞ぐように。

 葛城が言った。

「来るぞ」

 白い布が、音もなく床を走った。