心の奥に刃は眠る

 翌日の放課後、蓮司は数学準備室にいた。
 机の上に、昨日もらったカードを置く。

 葛城は表と裏を一度ずつ見る。

「行動が早いな」

 珍しく葛城が感心しているように見えた。

「どうだった」

「普通だった。言ってることも、たぶん間違ってない」

「なら、何が気になる」

「楽になる代わりに、考えなくなってる気がする」

 葛城の指がカードの上で止まった。

「楽になること自体は悪くない。問題は、そのために判断する力まで手放しているかどうかだ」

「先生はどう思う」

「苦しさを減らすことと、考える力を奪うことは違う」

 蓮司は黙った。
 昨日、蓮司が感じた引っかかりに近い。
 言葉にされると分かりやすい。

 蓮司は、現実の黒沢の返事が以前より早いことと、外界で見た途中で消える足跡を話した。

「それが違和感か」

「たぶん」

 葛城は少し姿勢を変える。

「なら、一度外界で見てみるか?」

「俺が決めるのか?」

「外界で様子を見るだけだがな。ただーー」

 葛城はそこで少し間を置く。

「違和感が強いのなら、次の段階は私が判断する」

「次の段階って」

「内界だ」

 その言葉で、蓮司の中に少しだけ緊張が走る。
 森下の内界を思い出していた。
 まだ、あの感覚は忘れていない。

「だが勘違いするな」

 葛城の目が少しだけ鋭くなる。

「我々は救世主ではない。これはヒーローごっこではない」

「分かってる」

「違和感が大きいなら観察する。対処すべき案件なら対処する。それだけだ」

 蓮司は少し不満だった。
 自分は森下を救ったはず。

 あれはおままごとのつもりでやったわけではない。

 放っておけなかった。
 助けたかった。

 だが、葛城からすればそれはただの対処すべき案件でしかなかったのか。
 葛城の判断基準はまだよく分からない。

「では、今から外界に入るわけだが」

 葛城は椅子の上で、ゆっくりと蓮司の方に体を向ける。

「これからは精神世界に入るときに必ず『目標』を持つことだ」

「目標?」

「そうだ。精神世界では心が不安定になると消耗が早い。あれもこれもと意識が分散すると安定しない」

 精神世界に限らず有言実行は重要ということらしい。
 蓮司もこの考えは嫌いではない。

「やることを先に決めておくってことだな」

「そういうことだ」

「じゃあ、今回の目標は黒沢の“観察”だな」

「理解が早いな」

 葛城は立ち上がった。

「行くぞ」

 蓮司も立ち上がる。

「入れるな?」

「なめんな」

 蓮司は意識を集中する。

 数学準備室の色が、少しずつ薄れていく。

 机の影が消える。
 窓の外の夕方の赤が、灰色に沈む。
 音が遠くなる。

 次の瞬間、蓮司は外界の数学準備室に立っていた。
 葛城も黒いコート姿で横に立っている。
 もう最初ほど驚かない。

 葛城とともに廊下へ出る。

「黒沢を探すぞ」

 灰色の生徒たちの間を、二人は歩き始めた。

 黒沢のシンボルは、すぐに見つかった。階段の近くだ。
 数人のシンボルに囲まれている。

 やはり中心にいる。
 笑っているように輪郭が揺れている。

 だが、蓮司はその足元を見て、眉をひそめた。

「……前より薄い」

「何がだ」

「足跡」

 黒沢の足元には、いくつもの足跡があった。
 だが、前よりも輪郭が薄い。
 どれも、二歩目どころか、一歩目の終わりでかすれている。

 それだけではない。

 黒沢の足元に、新しい足跡が現れていた。
 本人が踏み出す前に、先に床へ浮かぶ足跡。

 こちらへ行けばいい。
 そう示すように、薄い足跡が黒沢の前に並んでいる。

 黒沢のシンボルは、その足跡をなぞるように動いていた。

「これ、何だよ」

「誘導だな」

 葛城の声が低くなる。

「本人の意思より先に、進む先が示されている」

「誰が示してる」

「分からない」

「救済団体か」

「可能性はある」

 蓮司の右手が、わずかに疼いた。

 その足跡は、黒くはない。
 敵性シンボルのような濁った感情でもない。

 むしろ、白っぽい。
 優しそうで、柔らかい。

 けれど、見ていると胸の奥がざわついた。

 黒沢のシンボルが、誰かに呼ばれたように向きを変える。
 その前に、床へ薄い足跡が浮かぶ。
 黒沢は、それをなぞる。

 自分で選ぶ前に、次の足場が用意されている。

「……気持ち悪いな」

「壊すな」

 葛城が即座に言った。
 蓮司は振り返る。

「まだ何もしてねえよ」

「右手に力が入っている」

「観察細かすぎだろ」

「君は壊せる。だから止めている」

 葛城は黒沢の足元を見たまま言った。

「まだ役割が分からない。あの足跡が黒沢を縛っているのか、支えているのか、今は判断できない」

「支えてる?」

「本人が望んでいる場合、外から見れば不自然でも、内側では支えになっていることがある」

「でも、あれは」

「分かっている。だが、今壊せば、彼が立てなくなる可能性もある」

 蓮司は言葉を失った。
 黒沢のシンボルを見る。

 足元に先回りして現れる足跡。
 それをなぞる黒沢。

 あれは確かに気持ち悪い。

 けれど、もし黒沢がそれに寄りかかっているなら。
 壊すことが、そのまま救いになるとは限らない。
 蓮司は右手を下ろした。

「……分かったよ」

「よし」

 葛城が短く言った。
 その時だった。

 黒沢のシンボルの前に、別のものが浮かんだ。

 足跡ではない。
 小さな標識のようなものだった。

 白い板。
 文字は読めない。
 ただ、矢印だけが描かれている。

 黒沢の進む先を示している。
 その矢印の根元から、薄い光のようなものが黒沢の足元へ伸びていた。
 黒沢のシンボルは、ゆっくりとその方向へ向く。

「葛城先生」

「ああ」

 葛城の表情は変わらない。
 だが、声は明らかに低くなっていた。

「これは自然発生とは考えにくいな」

「どういう意味だ」

「外から干渉されている可能性が高い」

 蓮司は葛城を見る。

「どういうことだよ」

「私たちと同じように精神世界に干渉している者がいる可能性がある」

 蓮司の喉が鳴る。

「……別の潜心者か」

「断定はしない」

「でも、可能性はあるんだろ」

「ある」

 葛城は黒沢のシンボルから目を離さない。

「黒沢の内界に入る必要が出てきた」

「今からか」

「今からだ」

 蓮司は無意識に右腕を握っていた。

「分かった」

「今回は、高城(たかしろ)が入ってみろ」

 いきなりのことで、面食らう。

「俺が? どうやって?」

「難しくはない。シンボルに接触して、扉をイメージして開けるだけだ」

「言うだけなら簡単そうだな……」

 この世界では迷うだけ時間の無駄だ。

 蓮司はふぅっと息を吐くと、黒沢のシンボルの肩に手を置く。
 影のようなシンボルだが、触った感覚はちゃんとあった。

 だが、境界がはっきりしない。
 触れている部分がブレているようだった。

 蓮司は静かに目を閉じる。

 家の玄関の扉をイメージする。
 不思議とそうするのが自然だと分かった。

 その様相も鮮明にイメージできる。
 ここが精神世界だからだろうか。

 扉に手をかけてゆっくり引く。

「黒沢、邪魔するぞ」

 自然と言葉が出ていた。
 次の瞬間、世界が白く反転した。
 足元の感覚が消える。
 廊下の壁が遠ざかる。
 音も色も、いったん全部薄くなった。

 そして。

 気がつくと、蓮司は白い部屋に立っていた。

「入った……」

「上出来だ」

 葛城も横に並んでいた。
 いつも蓮司の後に行動しているはずなのに、気がつけば一歩先にいる。
 相変わらず、底が知れない。

 そんな思いを抱きながらも、蓮司は注意深く部屋を見渡す。

 広い部屋だった。

 天井は高すぎない。
 壁は白い。
 床も白に近い灰色。
 窓から柔らかい光が入っている。

 机と椅子が、きれいに並んでいた。

 丸い机。
 角のない椅子。
 観葉植物。

 壁には、柔らかい色のポスターが貼られている。

 ――もう、選ばなくていい。

 蓮司は眉をひそめた。

 救済団体の部屋に貼られていた言葉だ。
 その下には、小さな文字が並んでいる。

 迷ったら、誰かに預けてもいい。
 あなたはもう、一人で答えを抱えなくていい。

 そして。

 部屋の中央には、黒沢のシンボルがいた。

 椅子に座っている。
 現実の黒沢と同じ制服姿。

 けれど、表情は薄い。
 口元だけが、笑っているように見える。

 周囲には、いくつもの椅子が置かれていた。
 どれもきれいに整っている。
 机の上には、カードが並んでいる。

 あなたはもう十分頑張った。
 選ばなくてもいい日があっていい。
 誰かに委ねることは、弱さではない。

 救済団体で見たものと同じだった。

「……まんまだな」

 蓮司は呟いた。

「表層だからな」

「表層?」

「本人が普段、人に見せている心に近い部分だ。外向きの顔、日常の振る舞い、表面的な自己認識が形になる」

「つまり、浅いところか」

「そうだ」

 葛城は部屋を見回す。

「本人が普段受け入れているもの、外から見せている顔に近い。現実で印象が強いものは、そのまま形になりやすい」

「じゃあ、黒沢はこれを受け入れてるってことか」

「少なくとも表層ではな」

 部屋は穏やかだった。
 救済団体で見た部屋によく似ている。
 ただし、こちらの方がずっと整っていた。

 異常なくらいに。

「……気持ち悪いな」

「理由は?」

「黒沢らしくねえ。あいつ、もっと雑だろ」

 穏やかで、明るく、迷いがない。
 そう見せている心なのかもしれない。

 けれど蓮司には、その完璧さそのものが一番不自然に思えた。

「本当にこれが黒沢なのか」

「だから見る」

 蓮司は黒沢のシンボルに近づいた。
 シンボルの黒沢は、椅子に座ったまま動かない。

 笑っているように見える。
 けれど、目の焦点はあいまいだ。

 机の上のカードを、ただ眺めているようにも見える。
 蓮司はその視線を追った。

 よく見ると、部屋のあちこちに言葉があった。

 机のカードには『選ばなくていい』。
 壁には『誰かに頼っていい』。
 椅子の背には『流れに任せていい』。

「多すぎねえか」

 蓮司は眉をひそめる。

 一つだけなら、優しい言葉に見えた。
 だが、どこへ目を向けても同じ答えしかない。
 救いというより、部屋そのものから言い聞かされているようだった。

 蓮司は息苦しさを覚えた。
 優しい言葉なのに、逃げ場がない。

 蓮司は奥に目を向ける。

 よく見ると、扉があった。
 白い扉だ。
 部屋の壁と同じ色で、最初は気づかなかった。

 取っ手も白い。
 扉の上には、小さな札がある。

 ――この先、考えなくていい

 蓮司は足を止めた。

「何だ、あれ」

「奥へ続く道だろう」

「表層の奥?」

「深層だ」

 葛城は扉を見た。

「人の心は一枚ではない。表層では穏やかに見えても、奥へ行くほど、本人が見たくないものが形になる」

「じゃあ、あの先に黒沢の本音があるのか」

「断定するな。本音かもしれないし、別の作り物かもしれない」

「作り物?」

 蓮司は葛城を見る。
 葛城は少しだけ目を細めた。

「今は言葉の通りだ。心は、自分自身にも嘘をつく」

「自分にも?」

「そうだ」

 葛城は部屋を見回す。

「この表層は穏やかだ。だが、穏やかすぎる。黒沢らしい散らかり方がない。迷いがなさすぎる。それに、外界で見た標識の出どころが見えない。なら、奥を見る必要がある」

「入るのか」

「入る」

 葛城は即答した。

「表層だけって言わなかったか?」

「ここだけでは判断がつかない。奥も見ておいた方がよい」

 蓮司の右手が、わずかに重くなった。
 扉の上の札を見る。

 この先、考えなくていい。

 嫌な言葉だった。
 優しいようで、奥へ行くほど何かを奪われる気がする。

 黒沢のシンボルは、椅子に座ったまま動かない。
 口元だけが、笑っているように見える。

 蓮司は一度だけ、そのシンボルを見た。

「黒沢」

 声をかけても、反応はない。

 シンボルはただ、まっすぐ前を向いている。
 どこも見ていない。

 蓮司は胸がすっきりしないのを感じる。

「高城」

 葛城が扉の前に立った。

「次は深層へ行く。今より影響が強くなる。自分を保て」

「分かってる」

 葛城はしばらく蓮司の目を見る。
 その言葉の深さを確かめているようだった。

 そして、葛城は白い扉の取っ手に手をかけた。

 その瞬間、部屋の壁に貼られた言葉が、わずかに揺れた。
 優しい言葉たちが、音もなくこちらを見ているようだった。

 蓮司は右手を握る。

 扉が、ゆっくりと開いた。

 その向こうには、白い階段が下へ続いていた。

 階段の先は見えない。
 ただ、どこか遠くから、黒沢の笑い声に似たものが聞こえた気がした。

 軽くて、明るくて。

 それなのに、ひどく空っぽな声だった。