心の奥に刃は眠る

 放課後、黒沢(くろさわ)悠斗(ゆうと)は本当に蓮司(れんじ)を待っていた。
 教室の後ろの扉にもたれ、スマホを片手に軽く手を振る。

「高城(たかしろ)、行く?」

 蓮司も始めは迷っていたが、救済団体に対する違和感もあった。
「話だけ」という条件でついていくことにする。

 黒沢は嬉しそうに、案内してくれた。

 そこは駅から十分ほどの雑居ビルだった。
 三階の踊り場には、スマホで見たのと同じ言葉が貼られている。

――もう、選ばなくていい。

 下には、小さく別の文が添えられていた。

 迷ったら、誰かに預けてもいい。
 あなたはもう、一人で答えを抱えなくていい。

 蓮司は足を止めた。

「これ、黒沢が見せてきたやつだな」

「そうそう。いい言葉だろ?」

「……お前にはな」

 選ぶことに疲れた黒沢には刺さる言葉なのだろう。

 それは分かる。
 分かるからこそ、気持ち悪かった。

 黒沢は三階の扉を開ける。

 中は拍子抜けするほど普通だった。
 白い壁に丸い机、観葉植物。
 大学生や社会人、高校生らしい参加者が十人ほどいる。
 進行役の女性も穏やかで、強制する様子はない。

 会はすでに始まっている様子だ。

 黒沢が軽く蓮司を紹介している。

「今日は、新しく来てくれた人もいるので、軽く共有だけにしましょう」

 進行役の女性が言った。

「ここでは、正しい答えを出す必要はありません。自分で無理に決める必要もありません。疲れているときは、誰かの言葉に寄りかかっていい。流れに身を任せていいんです」

 黒沢が小さく頷いた。

 その表情は、教室で見せる軽い笑顔とは少し違った。
 安心しているように見えた。

 蓮司はそれを見て、言葉を失う。

 黒沢は、本当にここで楽になっている。
 それは嘘ではない。

 だから余計に、簡単に否定できない。

 自分は本当に正しいことをしているのだろうか。
 この違和感は見当違いではないのだろうか。

 蓮司は少し自信がなくなってきていた。

「前は、何でも自分で決めなきゃって思ってたんです」

 向かいに座る大学生くらいの男が話していた。

「でも、ここで『決められないなら預けてもいい』って言われて、すごく楽になりました」

「私も」

 隣の女性が頷く。

「考えすぎると、結局動けなくなるから」

 進行役の女性が柔らかく笑った。

「誰かに預けることも、自分で選べる一つの方法です」

 間違ったことを言っているようには聞こえない。
 それでも蓮司の頭には、黒沢の足元で消えていった足跡が浮かんでいた。

 預ける。

 その先で、自分の足はどこへ向かうのだろう。

「高城」

 黒沢が小声で言った。

「どう?」

「何が」

「変なとこじゃないだろ」

「……まあ、思ったよりは普通だな」

「だろ」

 黒沢は少し嬉しそうだった。

「俺、ここ来てから楽なんだよ。前はさ、頼まれたら断るのも面倒で、引き受けても後でだるくて、でも断ったら空気悪くなるかなって考えてたんだけど」

「今は?」

「考えすぎなくなった」

 黒沢はあっさり言った。

「とりあえず流れに乗ればいいって思うと、楽」

 蓮司は何も言えなかった。

 しんどくない。
 その言葉は強い。

 苦しんでいる人間にとって、それは救いだ。

 けれど、蓮司にはまだ引っかかる。
 苦しさをなくすことと、考えなくなることは同じなのか。

 会は一時間ほどで終わった。

 会の終わり際、蓮司にも「もう、選ばなくていい」と書かれたカードが渡された。

 帰り道、黒沢は上機嫌だった。

「な? 変なとこじゃなかっただろ」

「普通すぎて、逆に分かんねえ」

「高城、疑いすぎ」

 黒沢は笑った。

 「また、一緒に行こうぜ」と言いながら、黒沢は分かれた。

 その夜、机に置いたカードを見ながら、蓮司は考えた。
 苦しさを減らすことと、考えることをやめることは同じなのか。

 それは、本当に救いなのか。
 蓮司には、まだ分からなかった。