蓮司は数学準備室を出る。
少し先に、瀬川遥がいた。
さっき取ったプリントを鞄にしまいながら、廊下の向こうを見ている。
黒沢たちが去っていった方角だった。
「瀬川」
蓮司が声をかけると、遥は振り返った。
「あ、蓮司くん」
「まだいたのか」
「うん。プリント、鞄にしまってただけ」
遥は鞄の口を閉じた。
「蓮司くん、よく数学準備室に行くの?」
「まあな」
「補習?」
「そんなもん」
遥は少しだけ意外そうな顔をした。
「蓮司くんが?」
「悪いかよ」
「悪くないけど、ちょっと意外」
「俺だって、たまには勉強くらいするぞ」
「本当に?」
「疑うの早くねえか」
遥は小さく笑った。
それから、少し迷うように視線を動かす。
「さっきの黒沢くんだよね」
蓮司は黙って遥を見る。
「いつも通りなんだけど……」
「何か気になるのか?」
「うん。ちょっとだけ」
遥は言葉を探すように、黒沢たちが消えた廊下の先を見る。
「黒沢くんって、面白い人だったけど……」
蓮司は少し考える。
「軽口が上手いやつではあった気がするが」
「うん。誰とでもうまくやれるよね」
「だな」
「でも、あんなにホイホイ合わせる人だったかなって」
蓮司も遥と同じように、廊下の先を見る。
「俺は去年も同じクラスだったが、どっちかというと面倒は人に投げるタイプだった気がする」
「そうだよね。でもさっきのは考える前に、返事している感じ?」
蓮司の頭に、外界で見たどこにも行かない足跡が浮かんだ。
「……お前も、そう見えるのか」
「も?」
「あ、いや」
蓮司は視線をそらした。
「俺も、ちょっと気になっただけだ」
遥は少し安心したように息を吐いた。
「私だけじゃないんだ」
確証はない。
でも、何か変だと思う。
遥は森下の財布事件のときも、そういう違和感に気づいていた。
実際に遥は人をよく見ている。
小さな変化にもよく気がつくし、話しやすいので男女ともに人気がある。
今回も、同じなのかもしれない。
「気のせいかもしれないけど」
遥が小さく言った。
「知らねえけど」
蓮司はそう返してから、少しだけ言い方が雑すぎたかと思った。
けれど、遥は気にした様子もなく、小さく頷いた。
「うん。そうだね」
遥は鞄を持ち直した。
「あ、私、そろそろ戻るね」
遥は小さく笑いながら言う。
その笑い方に違和感はない。
蓮司は、そのことに少しだけ安心した。
外界で見た遥のシンボルのことは、まだ頭の隅に残っている。
だが、今ここにいる遥は、普通に笑っている。
それでいい。
今は、それ以上考えない。
「じゃあ、また明日」
「おう」
遥は会釈して、廊下を歩いていった。
蓮司はその背中を少しだけ見送ってから、反対方向へ歩き出す。
遥の言葉が、胸の奥の違和感を少しだけ濃くしていた。
◇◇◇
翌日の始業前。
蓮司は現実の黒沢をそれとなく観察していた。
いつものように軽口を叩き、頼まれれば文句を言いながら引き受ける。
ただ、その返事が以前より早く感じられる。
考える前に流れへ乗っているように見えた。
不意に黒沢がこちらへやって来る。
少し見過ぎたようだ。
「高城~。何見てんの。俺に惚れた?」
「寝言は寝て言え」
「冷たいなあ」
黒沢は蓮司の前の席に勝手に腰を下ろした。
「今日の小テストって数学だっけ?」
「知らねえのかよ」
「昨日いろいろあってさ」
「遊んでただけだろ」
「まあ、それもある」
黒沢はにやっと笑う。
その笑い方は、前と同じようで、少し違う。
軽い。
けれど、前より引っかかりがない。
何かを誤魔化すために笑っているというより、最初から気にしていないように見えた。
「黒沢」
「ん?」
「お前、最近何か変わった?」
黒沢は一瞬だけ目を丸くした。
それから、嬉しそうに顔全体で笑顔をつくる。
「分かる?」
「……分かるっていうか」
「いやー、分かるか。高城、意外と人のこと見てるよな」
「意外とは余計だ」
「でも、何か前より楽なんだよね」
「楽?」
「うん。色々」
黒沢は椅子の背に腕を乗せる。
「前はさ、何か全部めんどかったんだよ。考えるだけでだるいっていうか」
「今は違うのか」
「違うな」
黒沢はあっさり頷いた。
「考えすぎなくなった」
蓮司の指先が、机の上で止まる。
「考えすぎなくなった?」
「そう。これ、けっこう大事らしいんだよ」
「何の話だ」
「ああ、言ってなかったっけ」
黒沢は鞄からスマホを取り出した。
少し操作して、蓮司に画面を向ける。
そこには、落ち着いた色合いの画像が表示されていた。
柔らかい光。
笑顔の学生たち。
中央には、短い言葉が載っている。
――もう、選ばなくていい。
蓮司の目が、その一文で止まった。
「何だ、これ」
「相談会、みたいなやつ。まあ、そんな大げさなもんじゃないけど」
「……救済団体かよ」
「名前だけ聞くと怪しいよな」
「聞かなくても怪しい」
「ひど」
黒沢は笑いながら答える。
だが、気にした様子はない。
むしろ、その反応も予想していたようだった。
「でも、別に宗教とかじゃないって。悩み相談とか、考え方の整理とか、そういうやつ」
「いつから行ってんだよ」
「一か月くらい前かな。部活の先輩に紹介されて」
蓮司は黒沢を見る。
「で、何するんだよ」
「話を聞いてもらう。あと、考え方を教えてもらう」
「考え方?」
「自分で全部抱え込まない、とか。無理に決めようとしない、とか。人に委ねることも大事、とか」
「委ねる」
「そうそう」
黒沢は軽く頷いた。
「俺さ、もともと人に合わせるの得意じゃん」
「自分で言うな」
「いや、得意だろ。高城と違って」
「比較すんな」
「で、それって悪いことじゃないって言われたんだよ。自分の意見がないんじゃなくて、人の流れを読めるってことだって」
黒沢は少し得意そうに笑った。
「だから、無理に自分で決めようとしなくていいって」
蓮司の胸の奥に、鈍い違和感が残る。
悪い言葉ではない。
むしろ、正しいようにも聞こえる。
だが、黒沢の言い方には、どこか引っかかるものがあった。
「自分で考えなくていいのか」
蓮司はわざと強めに言う。
「考えすぎなくていいんだよ」
「同じに聞こえるけどな」
「違うって」
黒沢は笑う。
「考えすぎて動けなくなるより、流れに乗った方がいいってこと」
流れに乗る。
その言葉が、外界で見た黒沢のシンボルと重なる。
誰かに呼ばれるたびに、方向を変える。
自分で選ぶ前に、次の声へ傾く。
それを、今の黒沢は楽だと言っている。
「高城もさ」
黒沢が急にこちらを見た。
「何」
「けっこう合うと思うんだよな」
「俺が?」
「うん」
黒沢はスマホをしまいながら言った。
「高城って、何かいつも一人で考えてるじゃん。人に頼るの下手そうだし。そういうやつほど、一回話聞いてみると楽になるらしい」
「余計なお世話だ」
「まあまあ。興味あれば紹介するぞ」
「いらねえ」
「即答かよ」
黒沢は笑顔を崩さない。
それでも、少しも引いている様子はない。
「でもさ、本当に変なとこじゃないって。俺、けっこう助かってるし」
「助かってる?」
「うん」
蓮司は何も言えなかった。
本人がそう感じているなら、外から簡単に間違いだとは言えない。
「まあ、気が向いたら言ってくれよ」
黒沢は立ち上がった。
「紹介くらいならできるから」
「いらねぇよ」
「はいはい。高城はそう言うと思った」
黒沢は笑って、自分の席へ戻っていった。
蓮司はその背中を見送る。
現実の黒沢は、ちゃんと歩いている。
周囲にも馴染んでいる。
――もう、選ばなくていい。
それは黒沢にとって、救いなのかもしれない。
だが蓮司には、どうしてもその言葉が引っかかっていた。
選ばなくていい。
決めなくていい。
責任を持たなくていい。
考えなくていい。
そう聞こえてしまうのは、蓮司だけなのか。
それは、本当に救いなのか。
少し先に、瀬川遥がいた。
さっき取ったプリントを鞄にしまいながら、廊下の向こうを見ている。
黒沢たちが去っていった方角だった。
「瀬川」
蓮司が声をかけると、遥は振り返った。
「あ、蓮司くん」
「まだいたのか」
「うん。プリント、鞄にしまってただけ」
遥は鞄の口を閉じた。
「蓮司くん、よく数学準備室に行くの?」
「まあな」
「補習?」
「そんなもん」
遥は少しだけ意外そうな顔をした。
「蓮司くんが?」
「悪いかよ」
「悪くないけど、ちょっと意外」
「俺だって、たまには勉強くらいするぞ」
「本当に?」
「疑うの早くねえか」
遥は小さく笑った。
それから、少し迷うように視線を動かす。
「さっきの黒沢くんだよね」
蓮司は黙って遥を見る。
「いつも通りなんだけど……」
「何か気になるのか?」
「うん。ちょっとだけ」
遥は言葉を探すように、黒沢たちが消えた廊下の先を見る。
「黒沢くんって、面白い人だったけど……」
蓮司は少し考える。
「軽口が上手いやつではあった気がするが」
「うん。誰とでもうまくやれるよね」
「だな」
「でも、あんなにホイホイ合わせる人だったかなって」
蓮司も遥と同じように、廊下の先を見る。
「俺は去年も同じクラスだったが、どっちかというと面倒は人に投げるタイプだった気がする」
「そうだよね。でもさっきのは考える前に、返事している感じ?」
蓮司の頭に、外界で見たどこにも行かない足跡が浮かんだ。
「……お前も、そう見えるのか」
「も?」
「あ、いや」
蓮司は視線をそらした。
「俺も、ちょっと気になっただけだ」
遥は少し安心したように息を吐いた。
「私だけじゃないんだ」
確証はない。
でも、何か変だと思う。
遥は森下の財布事件のときも、そういう違和感に気づいていた。
実際に遥は人をよく見ている。
小さな変化にもよく気がつくし、話しやすいので男女ともに人気がある。
今回も、同じなのかもしれない。
「気のせいかもしれないけど」
遥が小さく言った。
「知らねえけど」
蓮司はそう返してから、少しだけ言い方が雑すぎたかと思った。
けれど、遥は気にした様子もなく、小さく頷いた。
「うん。そうだね」
遥は鞄を持ち直した。
「あ、私、そろそろ戻るね」
遥は小さく笑いながら言う。
その笑い方に違和感はない。
蓮司は、そのことに少しだけ安心した。
外界で見た遥のシンボルのことは、まだ頭の隅に残っている。
だが、今ここにいる遥は、普通に笑っている。
それでいい。
今は、それ以上考えない。
「じゃあ、また明日」
「おう」
遥は会釈して、廊下を歩いていった。
蓮司はその背中を少しだけ見送ってから、反対方向へ歩き出す。
遥の言葉が、胸の奥の違和感を少しだけ濃くしていた。
◇◇◇
翌日の始業前。
蓮司は現実の黒沢をそれとなく観察していた。
いつものように軽口を叩き、頼まれれば文句を言いながら引き受ける。
ただ、その返事が以前より早く感じられる。
考える前に流れへ乗っているように見えた。
不意に黒沢がこちらへやって来る。
少し見過ぎたようだ。
「高城~。何見てんの。俺に惚れた?」
「寝言は寝て言え」
「冷たいなあ」
黒沢は蓮司の前の席に勝手に腰を下ろした。
「今日の小テストって数学だっけ?」
「知らねえのかよ」
「昨日いろいろあってさ」
「遊んでただけだろ」
「まあ、それもある」
黒沢はにやっと笑う。
その笑い方は、前と同じようで、少し違う。
軽い。
けれど、前より引っかかりがない。
何かを誤魔化すために笑っているというより、最初から気にしていないように見えた。
「黒沢」
「ん?」
「お前、最近何か変わった?」
黒沢は一瞬だけ目を丸くした。
それから、嬉しそうに顔全体で笑顔をつくる。
「分かる?」
「……分かるっていうか」
「いやー、分かるか。高城、意外と人のこと見てるよな」
「意外とは余計だ」
「でも、何か前より楽なんだよね」
「楽?」
「うん。色々」
黒沢は椅子の背に腕を乗せる。
「前はさ、何か全部めんどかったんだよ。考えるだけでだるいっていうか」
「今は違うのか」
「違うな」
黒沢はあっさり頷いた。
「考えすぎなくなった」
蓮司の指先が、机の上で止まる。
「考えすぎなくなった?」
「そう。これ、けっこう大事らしいんだよ」
「何の話だ」
「ああ、言ってなかったっけ」
黒沢は鞄からスマホを取り出した。
少し操作して、蓮司に画面を向ける。
そこには、落ち着いた色合いの画像が表示されていた。
柔らかい光。
笑顔の学生たち。
中央には、短い言葉が載っている。
――もう、選ばなくていい。
蓮司の目が、その一文で止まった。
「何だ、これ」
「相談会、みたいなやつ。まあ、そんな大げさなもんじゃないけど」
「……救済団体かよ」
「名前だけ聞くと怪しいよな」
「聞かなくても怪しい」
「ひど」
黒沢は笑いながら答える。
だが、気にした様子はない。
むしろ、その反応も予想していたようだった。
「でも、別に宗教とかじゃないって。悩み相談とか、考え方の整理とか、そういうやつ」
「いつから行ってんだよ」
「一か月くらい前かな。部活の先輩に紹介されて」
蓮司は黒沢を見る。
「で、何するんだよ」
「話を聞いてもらう。あと、考え方を教えてもらう」
「考え方?」
「自分で全部抱え込まない、とか。無理に決めようとしない、とか。人に委ねることも大事、とか」
「委ねる」
「そうそう」
黒沢は軽く頷いた。
「俺さ、もともと人に合わせるの得意じゃん」
「自分で言うな」
「いや、得意だろ。高城と違って」
「比較すんな」
「で、それって悪いことじゃないって言われたんだよ。自分の意見がないんじゃなくて、人の流れを読めるってことだって」
黒沢は少し得意そうに笑った。
「だから、無理に自分で決めようとしなくていいって」
蓮司の胸の奥に、鈍い違和感が残る。
悪い言葉ではない。
むしろ、正しいようにも聞こえる。
だが、黒沢の言い方には、どこか引っかかるものがあった。
「自分で考えなくていいのか」
蓮司はわざと強めに言う。
「考えすぎなくていいんだよ」
「同じに聞こえるけどな」
「違うって」
黒沢は笑う。
「考えすぎて動けなくなるより、流れに乗った方がいいってこと」
流れに乗る。
その言葉が、外界で見た黒沢のシンボルと重なる。
誰かに呼ばれるたびに、方向を変える。
自分で選ぶ前に、次の声へ傾く。
それを、今の黒沢は楽だと言っている。
「高城もさ」
黒沢が急にこちらを見た。
「何」
「けっこう合うと思うんだよな」
「俺が?」
「うん」
黒沢はスマホをしまいながら言った。
「高城って、何かいつも一人で考えてるじゃん。人に頼るの下手そうだし。そういうやつほど、一回話聞いてみると楽になるらしい」
「余計なお世話だ」
「まあまあ。興味あれば紹介するぞ」
「いらねえ」
「即答かよ」
黒沢は笑顔を崩さない。
それでも、少しも引いている様子はない。
「でもさ、本当に変なとこじゃないって。俺、けっこう助かってるし」
「助かってる?」
「うん」
蓮司は何も言えなかった。
本人がそう感じているなら、外から簡単に間違いだとは言えない。
「まあ、気が向いたら言ってくれよ」
黒沢は立ち上がった。
「紹介くらいならできるから」
「いらねぇよ」
「はいはい。高城はそう言うと思った」
黒沢は笑って、自分の席へ戻っていった。
蓮司はその背中を見送る。
現実の黒沢は、ちゃんと歩いている。
周囲にも馴染んでいる。
――もう、選ばなくていい。
それは黒沢にとって、救いなのかもしれない。
だが蓮司には、どうしてもその言葉が引っかかっていた。
選ばなくていい。
決めなくていい。
責任を持たなくていい。
考えなくていい。
そう聞こえてしまうのは、蓮司だけなのか。
それは、本当に救いなのか。
