心の奥に刃は眠る

 数学準備室へ戻るあいだも、蓮司の頭には遥のシンボルの「やめて」と、さっき斬った黒い塊の感触が残っていた。

 外界の廊下は、現実の校舎と同じ形をしている。
 シンボルたちは声もなく、緩慢に動いている。
 誰も蓮司たちを見ない。

「……あれだけ暴れても、何も変わってないように見えるな」

 蓮司は、半分独り言のように言った。

「大きな影響は出ていない」

 葛城は振り返らずに答える。

「出てたらまずいのか」

「当然だ。外界での干渉が現実に大きく残るようなら、処理としては失敗だ」

「処理、ね」

 葛城の言っていることは分かる。
 ただ、あれも、もとは誰かの感情だった。
 それを斬った感触は、まだ手の奥に残っている。

 葛城は数学準備室の扉の前で足を止めた。

 外界の扉は、現実と同じ位置にある。
 だが、色が薄く、取っ手には影がない。

 葛城が扉を開ける。

「入れ」

「命令形ばっかだな」

 文句を言いながら、蓮司は数学準備室へ入った。

「椅子に座れ」

 葛城が言った。

「戻るぞ」

 葛城は蓮司の前に立った。

「現実へ意識を合わせろ。重なっている現実の方へ戻る」

「分かった」

「慣れ親しんだ世界の方だ。戻る方が容易い」

「なるほどね」

 蓮司は息を吐いた。

 外界の数学準備室を見る。
 その奥に、現実を重ねる。

 最初は水の中に沈んだような音だった。
 それが、少しずつ輪郭を取り戻す。

 廊下の声。
 校庭の掛け声。
 窓の外の風。

 机の脚に影が戻る。
 壁に色が戻る。
 窓の外に赤が戻る。

 次の瞬間、蓮司は現実の数学準備室に座っていた。

「……戻った」

「問題ないな」

 葛城も、いつもの教師姿に戻っている。

「こっちの方が体が軽いな」

 蓮司はふぅっと息を吐きながら、椅子の背に体を預けた。

 葛城は机の前に立ち、蓮司の様子を見ていた。
 表情は変わらない。

 だが、目は細かく蓮司の状態を測っている。
 そういうところが、余計に教師らしくて腹が立った。

「今のが、外界での基本的な対処だ」

「基本であれかよ……」

 蓮司は右手を見ながら聞く。

「なあ」

「何だ」

「あの刃、本当に何なんだよ」

 蓮司は右手を見たまま言った。

「ティルヴァって呼んでたよな」

 葛城はすぐには答えなかった。

 何を話すかを選んでいる。
 蓮司にはそう見えた。

「君の刃には、元になった名がある」

 葛城は静かに言った。

「ティルヴィング。破滅を招く魔剣の名だ」

 聞いたことのない名前だった。
 なのに、完全に知らない言葉ではない気がした。

「魔剣?」

「北欧の伝承に出てくる剣だ。強い力を持つが、災いを招く。抜かれれば血を求め、持ち主にも破滅をもたらす」

「縁起でもねえな」

「縁起のいい刃には見えないだろう」

「否定できねえけどさ」

 蓮司は再び、自分の右手を見る。

 黒い刃。
 光を吸うような輪郭。
 握った瞬間、世界そのものが軋む感覚。

 確かに、まっとうな武器には見えない。

「正確には、君がそう名づけたわけではない」

「じゃあ、先生が勝手に呼んでるだけか」

「扱いやすいように、私はティルヴァと呼んでいる」

「略称かよ」

「長い名は実戦向きではない」

「そういう問題なのか」

「そういう問題でもある」

 葛城は淡々と言った。
 蓮司はため息をつく。

「で、その破滅を招く魔剣とやらが、俺の心象具ってわけか」

「そうだ」

「ひでえな、俺の心」

「心象具は、単純に善悪を表すものではない」

「でも、破滅だろ」

「破壊の性質が強い、ということだ」

 葛城の声は静かだった。

「君の刃は、対象を斬るというより、そこにある意味ごと削る。精神世界の構造物にも干渉できる。私のライフルでは届かない場所にも届く」

「便利そうに言うな」

「実際、非常に強力だ」

「それで?」

 蓮司は葛城を見る。

「強力だから、危ないって話だろ」

「その通りだ」

 葛城は否定しなかった。

「君は、早くその扱いに慣れなければならない」

「慣れろって言われてもな」

「慣れなければ、また余計なものまで壊す」

 その言葉に、蓮司は黙った。
 さっきの外界の廊下の傷、そして森下の内界を思い出す。

「俺が悪いって言いたいのか」

「違う」

 葛城は即答した。

「君自身が理解する必要がある」

 蓮司は右手を握った。

「さっきのやつも、俺が壊してよかったのか」

「周囲を巻き込む敵性だった。対処は必要だった」

「感情そのものじゃなくて、害を持った形を壊した。そういうことだろ」

「理解はしているな」

「分かった気はしねえけどな」

「それでいい。分かったつもりの方が危険だ」

「先生って、本当に褒めるの下手だな」

「必要があれば褒める」

「今じゃねえのかよ」

「今ではない」

「ひでえ」

 蓮司は椅子の背にもたれた。
 体が少し重い。

 だが、頭だけは妙に冴えている。
 やはり、現実世界は精神世界とは違う。

 ティルヴィング。
 破滅を招く魔剣。

 ティルヴァ。
 自分の心象具。

 その名前が、胸の奥に沈んでいく。
 まるで、最初からそこにあったものを、ようやく呼び出されたような感覚があった。

「次は……」

 葛城が言いかけた、そのときだった。
 数学準備室の扉が軽く叩かれた。

「葛城先生、失礼します」

 聞き慣れた声だった。
 葛城が短く答える。

「入れ」

 扉が開き、瀬川(せがわ)遥(はるか)が顔をのぞかせた。
 遥は蓮司に気づくと、少しだけ目を丸くした。

「あ、蓮司くんもいたんだ」

「……おう」

 蓮司は短く返した。
 葛城の前で長く話す空気ではない。
 遥もそれは分かっているのか、すぐに葛城の方へ向き直った。

「あの、進路希望調査の予備って、こちらにありますか」

「棚の上だ」

「ありがとうございます」

 遥は棚の上からプリントを一枚取る。
 その時、廊下の向こうから男子の声が聞こえた。

「黒沢、今日どうすんの?」

「えー、俺? いや、別に何でもいいけど」

 蓮司の目が、扉の方へ動いた。
 黒沢(くろさわ)悠斗(ゆうと)の声だった。

 軽い調子。
 いつも通りの声。

 遥もプリントを持ったまま、少しだけ廊下の方を見る。

「じゃあ、来いよ。人数足りねえし」

「いや、俺そっち行くって言ってたっけ?」

「言ってないけど、来るだろ」

「雑だな、おい」

 廊下の向こうで笑い声が起こる。

 黒沢も笑っていた。
 その笑い方は明るい。
 周囲の空気に、すぐ溶け込む声だった。

 少しして、黒沢たちが数学準備室の前を通りかかった。

 数人の男子に囲まれている。
 黒沢はその中心で、片手をひらひらさせていた。

「俺、便利屋じゃねえんだけどな」

「便利だから呼んでんだよ」

「そこは否定しろよ」

「いや、便利」

「ひでえな」

 黒沢は笑った。
 自分が軽く扱われていることも、冗談に変えている。
 相手も笑う。

 何でもない放課後の一場面。
 普通なら、それで終わりだった。

 だが、蓮司の頭には、外界で見た足跡が浮かんでいた。
 現実の黒沢の笑い声が、少し遠く聞こえる。

 現実の黒沢は、ちゃんと歩いている。
 それなのに、蓮司には、どこにも向かっていないように見えた。

 遥も、廊下の黒沢を見ていた。
 表情は大きく変わらない。
 けれど、プリントを持つ指先が、ほんの少しだけ止まっていた。

 黒沢たちの声は、廊下の向こうへ遠ざかっていく。
 数学準備室に、短い沈黙が戻った。

「……失礼しました」

 遥はプリントを手に取り、小さく頭を下げながら出ていった。
 扉が閉まる。
 準備室には、蓮司と葛城だけが残った。

 蓮司はまだ扉の方を見ていた。

「今の」

 葛城が言った。

「外界で見た違和感か」

 蓮司は少しだけ目を細める。

「黒沢だ」

「どう見えた」

 ただのクラスメイトたちの軽い会話だった。
 普通ならそれで終わりだ。

 でも、一度あの足跡を見てしまうと、別のものに見えた。

「自分で決めてねえ」

 蓮司は小さく言った。

「周りに合わせてる。楽しそうには見える。でも、どこにも行ってない」

「断定するな」

「分かってる」

 蓮司は顔をしかめた。

「でも、気持ち悪いんだよ。今の、普通の黒沢っぽいのに、普通に見えなかった」

 葛城はしばらく黙っていた。
 その沈黙は、否定ではなかった。

「気になるなら観察しろ」

 葛城は静かに言った。

「違和感を見た。現実でも引っかかりを覚えた。そこまではいい」

 葛城は机の上に指を置いた。

「だが、彼が本当に問題を抱えているのか。抱えているとして、それは今こちらが踏み込むべきものなのか。動くのは、それを見極めてからだ」

 蓮司は右手を見た。
 何もない。

「急ぐな。君の刃は、影響力が大きい」

 葛城の声が静かに響く。

「分かってる」

 蓮司は右手を握った。
 ティルヴァは出ない。

 黒沢は笑っている。
 周りも笑っている。
 ただよくある、周りに合わせているだけ。

 誰も困っているようには見えない。
 違和感は、まだ形にならない。

 だが、どこにも続かない足跡だけが、まだ目の奥に残っていた。