心の奥に刃は眠る

 黒沢(くろさわ)悠斗(ゆうと)の足跡に引っかかりを覚えた、その直後だった。

 廊下の空気が、わずかによどんだ。

 灰色が一段濃くなる。
 窓の外の光が薄れる。

 周囲のシンボルたちの輪郭が、少しだけ乱れた。
 蓮司(れんじ)は反射的に右手を握った。

「葛城(かつらぎ)先生」

「分かっている」

 葛城は廊下の奥を見ていた。

 階段へ続く曲がり角。
 そこに、黒い染みのようなものが床に張りついていた。

 何かを形づくってはいない。
 ただ、黒い霧のようなものが集まり、影を落としている。
 黒い水たまりにも見える。

 そこから、何かが立ち上がりかけている。

 輪郭はぼやけている。
 頭も腕もはっきりしない。

 だが、こちらを向いたように感じた。

 空気が冷える。
 近くにいた生徒のシンボルが、わずかに傾いだ。

 黒いものは、床を這うように動いている。
 廊下の端から端へ、べたりと染みを伸ばしながら、何かを探しているように揺れていた。

「何だよ、あれ」

「外界に滞った、行き場のない負の感情だな」

 葛城の声は冷静だった。

「敵性を持ったシンボルの状態にまで成長しかけている」

「誰かの内界だけじゃないのか」

「外界にも残る。誰かのものだった感情が、流れずに固まり、形を持つことがある」

 葛城は視線を外さずに続ける。

「一人のものなら形になることは少ない。だが、集まれば、ああやって具現化されるようになる」

 影の黒さが濃さを増していく。
 周りから、黒い霧が集まってきているように見える。

 近くのシンボルたちは反応しない。
 見えていない。

 黒いものが、ぬるりと動いた。

 近くにいた男子生徒のシンボルが、それに触れられた瞬間、輪郭を歪ませた。
 本人は気づいていない。
 現実では、ただ少し肩をすくめただけかもしれない。
 だが、外界のシンボルは、黒い染みに触れた部分から少し濁った。

 蓮司の背筋に冷たいものが走った。

「放っておいたら?」

「近くのシンボルを巻き込む。現実の人にも多少は影響が出るかもしれない。そういう意味では、ない方がいい」

「ない方がいい、ね」

 蓮司は黒いものを見る。
 確かに、見ているだけで気分が悪い。

 飲み込まれた苛立ち。
 言えなかった不満。
 誰にも向かなかった怒り。

 そういうものが、べたりと廊下に張りついているようだった。

「高城」

 葛城が言った。

「ティルヴァを出せ」

 蓮司の右手の奥が、強く軋んだ。

「……ここで?」

「そうだ。慣れる必要がある」

 黒いものが、動いている。
 周囲の薄いシンボルの輪郭が、さらに乱れた。

 蓮司は息を吸った。
 右手に意識を集める。

 あれを、何とかしたい。

 声ではない。
 感情だ。

 感覚が、手の奥から上がってくる。
 黒い輪郭が指先に集まる。

 だが、形が定まらない。
 刃になりかけて、ほどける。
 握ろうとすると、重さだけが先に落ちてくる。

「くそ……」

「焦るな」

「焦らせてんのは先生だろ」

「具体的にイメージしろ。精神世界では心がそのまま現れる」

「分かってる」

 蓮司はさらに意識を集中させる。
 黒い刃の重さ、歪さを想像する。
 右腕に黒い輪郭が集まり始める。

 黒い刃を振るった時の感覚。影を切ったときの感覚。
 森下の内界での戦いを思い出す。

 黒い輪郭が、ようやく形を得た。

 歪な黒い刃。
 ティルヴァ。
 黒い破壊の象徴。

 それらのイメージをさらに集中させ、蓮司はゆっくりと手のひらを閉じた。
 手には刃を握る感覚があった。
 握った瞬間、外界の廊下がかすかに軋んだ。

 掲示板の紙が震える。
 床の灰色が、一瞬だけ沈む。

 近くにいたシンボルたちが、音もなく身を引いた。

 蓮司は刃を構えた。

 重い。

 やはり、鉄の重さではない。
 胸の奥まで沈むような重さ。

 それをどうにか腕で支える。

「構えが荒い」

「うるせえ」

「長くは持たないな」

「分かってるなら早く指示しろよ」

 黒い敵性シンボルが、ぬるりと形を変えた。
 それまで様子をうかがう形だったのに、一気に攻撃の様相に変わる。
 床に溜まった影のようなものから、細い腕が伸びる。

 周囲のシンボルではなく、蓮司へ向かって。

 ティルヴァに反応している。

 そう分かった。

 蓮司の口の中が乾く。

 葛城の右手には、まだライフルはない。
 ただ、冷静に状況を見ている。

「処理してみろ」

 葛城は言った。
 蓮司は黒い刃を握り直す。

 処理。

 その言葉が、妙に耳に残った。
 感情って、処理するもんなのかよ。
 そう思った。

 だが、黒い腕はもう目の前まで迫っていた。

 蓮司は一歩前へ出る。
 足元の灰色が揺れる。
 現実ではない。

 それでも、ここで間違えれば何かが傷つく。
 そのことだけは、もう知っていた。

 黒い腕が、跳ねる。

 蓮司はティルヴァを振り上げた。
 だが、刃は重い。
 思ったよりも、動きが遅れる。

「右だ」

 葛城の声。
 蓮司は反射的に体をひねった。
 黒い腕が、さっきまで首のあった位置を通り過ぎる。

「っぶねえ!」

「見えていないものを、感覚で追うな。動きを見ろ」

「授業中かよ!」

「授業中だ」

 黒い腕が、再び床を這う。
 蓮司は刃を構え直した。
 敵性シンボルの輪郭は、まだぼやけている。
 明確な形はない。

 だが、その中心だけは、少し黒が濃い。
 そこに感情が滞っている。

 たぶん。

 蓮司は息を吐く。

 観察する。
 判断する。
 必要なら動く。

 黒い腕が、三本に分かれた。

 蓮司は息を止める。
 ティルヴァが、手の中で重く沈んだ。

 刃を振る。

 一本目の腕を、どうにか斬った。
 黒い腕が、煤のように散る。
 手応えはあった。

 残りの二本が交差しながら蓮司を襲う。
 ティルヴァを構えて、迫る腕を何とか受け止める。

「ぐっ!」

「受けるな!」

「この!」

 蓮司は体をひねりながら腕を受け流す。
 伸び切った腕を二本まとめて切り払う。

「相手に合わせるな。対応しているだけでは状況は変わらない」

「簡単に言うな!」

「簡単ではない。だから見ろ」

 蓮司は舌打ちしながら、黒い塊を見た。

 腕ではない。
 外側の揺れでもない。
 中心。
 黒が濃くなっている場所。

 そこに、固まりきらない核のようなものがある。
 森下の内界で見た黒い杭ほど、はっきりした形ではない。
 もっと曖昧で、まだ名前も輪郭も持っていない。

 だからこそ、気持ちが悪かった。

 何に怒っているのか分からない怒り。
 誰に向ければいいのか分からない苛立ち。
 意味を持てないまま残った感情。

 黒いものが大きく膨れ上がった。
 影のない外界に、そこだけ濃い闇が立ち上がる。
 蓮司は思わず呟いた。

「……何だよ、これ」

 黒いものの裂け目が、口のように開いた。
 声はない。

 だが、怒りとも悲しみともつかない感情が、廊下いっぱいに広がった。
 葛城の声が、背後から落ちる。

「来るぞ」

 次の瞬間、黒い塊が蓮司へ向かって跳んだ。
 蓮司は反射的にティルヴァを横へ振った。
 刃が黒い塊の端を削る。

 だが、中心には届かない。

 黒い塊は形を変え、蓮司の足元へ絡みつこうとした。

「足元!」

「分かってる!」

 蓮司は床を蹴った。
 現実ではありえない高さまで体が浮く。
 外界の廊下が一瞬だけ遠ざかる。
 その違和感に気を取られた瞬間、黒い腕が横から伸びた。

「っ!」

 避けきれない。
 黒い腕が蓮司の左腕をかすめた。
 痛みはない。

 だが、ぞっとするような感情が流れ込んできた。

 うるさい。
 面倒くさい。
 どうせ誰も聞かない。
 言っても無駄だ。

 言葉ではない。

 けれど、そういう意味だけが胸の中へ押し込まれる。

「……っざけんな!」

 蓮司は着地と同時にティルヴァを振り下ろした。
 黒い腕が断ち切られる。
 だが、勢い余って刃が床に触れた。

 外界の廊下に、細い亀裂が走る。

「高城」

 葛城の声が低くなる。

「深く入れるな」

「分かってる!」

「分かっていない。刃の勢いで斬るな。狙う場所を決めろ」

 蓮司は息を荒くしながら、黒い塊を見る。

 重い。

 ティルヴァを出しているだけで、胸の奥が削られていくようだった。
 長く持たない。
 それは自分でも分かる。

 黒い塊が再び膨れる。

 周囲のシンボルたちが、さらに輪郭を乱した。
 このままでは、巻き込まれる。

 蓮司は一歩踏み込んだ。

 狙うのは腕ではない。
 外側でもない。
 中心。

 まだ形を持ちきれていない、黒の濃い場所。
 蓮司はティルヴァを握り直した。

 壊す。

 だが、全部ではない。
 今、周囲に広がろうとしている部分だけ。

 そう自分に言い聞かせる。
 できるかどうかは分からない。
 けれど、何も考えずに振れば、また余計なものまで壊す。

 それだけは分かっていた。

「高城、今だ」

 葛城の声。
 蓮司は床を蹴った。

 黒い腕が左右から伸びる。

 その一本をかわし、もう一本を刃の腹で弾く。
 衝撃が腕に来る。
 ティルヴァの輪郭が一瞬だけぶれた。
 それでも、蓮司は前へ出た。

「はっ!」

 声と同時に、ティルヴァを振り下ろす。
 刃が黒い塊の中心に食い込んだ。

 硬い。

 いや、硬いというより、粘る。
 怒りとも不満ともつかないものが、刃にまとわりつく。

 壊されたくない。
 消えたくない。
 聞け。
 見ろ。

 そんな感覚が、蓮司の腕を通って流れ込んでくる。

「……っ!」

 蓮司は歯を食いしばった。
 感情は、そこにあった。
 意味も、持ち主も、もう分からない。
 けれど、確かにそこに残っていた。

 それをただ消すことに、一瞬だけ迷いが生まれる。
 その迷いの分だけ、ティルヴァが鈍くなる。

 黒い塊が、逆に蓮司へまとわりつこうとした。

「迷うな」

 葛城の声が響く。

「今それは、周囲を巻き込む敵性だ」

「……分かってる!」

 蓮司は刃を押し込んだ。
 黒い塊の中心に、ひびが入る。
 次の瞬間、黒が弾けた。

 音はなかった。

 煤のようなものが外界の廊下に散り、すぐに薄れていく。
 廊下を覆っていた重さが、少しずつ引いていった。
 周囲のシンボルの輪郭も、元に戻っていく。

 蓮司は肩で息をしていた。
 右手のティルヴァは、まだかろうじて形を保っている。
 だが、刃の輪郭はもう崩れかけていた。

「……やったのか」

「ひとまずはな」

 葛城は廊下を見回した。

「完全に消えたわけではない。だが、外界で人を巻き込むほどの形は失った」

「それ、倒したって言わねえのかよ」

「精神世界では、言葉を雑に使うな」

「面倒くせえ」

「だが、前回よりはましだった」

 蓮司は顔を上げる。

「褒めてんのか、それ」

「検証だ」

「ムカつく言い方すんな」

 ティルヴァが、蓮司の手の中でほどける。
 黒い輪郭が空気に溶けるように消えた。
 消えた瞬間、膝に力が抜けそうになる。

 蓮司は壁に手をついた。

「……きっつ」

「まだ消耗は激しそうだな」

「言われなくても分かってる」

「ならいい」

 葛城は平然としている。
 ライフルは一度も出していない。
 蓮司はそれが少し腹立たしかった。

「先生、手ぇ貸す気なかっただろ」

「必要なら出した」

「必要って、俺が吹っ飛ばされてからか?」

「君が取り返しのつかない傷を負う前には動いた」

「信用できねえ基準だな……」

 蓮司は息を整えながら、さっき黒い塊がいた場所を見る。

 そこにはもう、濃い闇はない。
 ただ、床に薄い灰色の染みのようなものが残っている。
 完全には消えていない。

 でも、先ほどのように周囲へ絡みつく気配はなかった。

「今のも、誰かの感情だったんだよな」

「おそらくはな」

「それを壊した」

「周囲を巻き込む形を壊した」

「言い方の違いじゃねえの」

「違う」

 葛城は即答した。

「感情そのものを否定するな。だが、害を持った形になったなら、対処が必要だ」

「……感情って、処理するもんなのかよ」

 蓮司は小さく呟いた。
 葛城はすぐには答えなかった。

 少しだけ間を置いてから、静かに言う。

「処理すべきものもある。残すべきものもある。向き合うべきものもある」

「区別が面倒すぎるだろ」

「だから観察する」

「結局それかよ」

「結局それだ」

 蓮司はため息をついた。

 反論したい。

 だが、今の戦いで分かったこともある。
 何も見ずに振れば、ティルヴァは余計なものまで削る。
 狙う場所を決めれば、少なくとも前よりはましになる。
 力があることと、正しく使えることは違う。

 葛城の言葉が、また頭の奥に残った。

「戻るぞ」

 葛城が言った。

「今日はここまでだ」

「もうかよ」

「君の消耗が大きい」

「まだ歩ける」

「外界では歩けても、現実に戻ってから反動が出ることがある」

「過保護かよ」

「管理だ」

「言い方」

 蓮司が文句を言いかけた、そのときだった。
 廊下の向こうから、別のシンボルが歩いてきていた。

 瀬川(せがわ)遥(はるか)だった。

 現実の本人も、この廊下を通っているのだろう。
 外界の遥のシンボルは、他の生徒と同じように色が薄い。

 表情もほとんどない。
 声もない。

 外界の中では、時間の流れが遅い。
 だから、遥のシンボルもほとんど止まっているように見えた。
 それでも、ほんの少しだけこちらへ向いている気がした。
 蓮司は何気なくそちらを見た。

 そして、息を止めた。

 遥のシンボルが、蓮司の右手を見ていた。

 もうティルヴァはない。
 黒い刃は消えている。
 それなのに、遥のシンボルは、蓮司の右手から目を離さなかった。

 無表情のまま。
 声もなく。
 ゆっくりと、足を止めた。

「……瀬川?」

 蓮司が呟いた瞬間、遥のシンボルの口元がわずかに動いた。
 声は聞こえない。
 けれど、蓮司には分かった気がした。

 やめて。

 背筋が冷えた。
 財布事件の最初に見た、あの灰色の遥と同じだった。

 声のない口元。
 見えない訴え。

 蓮司は一歩踏み出そうとした。

「どうした?」

 葛城がこちらを見ている。

「いや、別に……」

 葛城に動揺していることを見られたくない。
 蓮司はとっさに視線を外した。

「……瀬川か。何か見えたか?」

「何もない」

「ならいい。戻るぞ」

 葛城の声は静かだった。

「分かってる」

 葛城は外界の廊下を戻り始めていた。
 蓮司もその後に続く。
 途中で蓮司は少しだけ振り返った。
 遥のシンボルは、すでに背を向けていた。

「遅れるな」

 葛城の声が、蓮司をこちら側に引き戻す。

 動揺していることを悟られたくない、蓮司にはそういう思いもあった。
 あえて何もなかったかのように葛城に続く。

 だが、動揺を隠すことに必死で、葛城の違和感には意識が向いていなかった。
 普段なら小さな変化も見逃さない葛城が、瀬川遥の変化に反応していない。

 そのことに蓮司は気づいていなかった。