黒沢(くろさわ)悠斗(ゆうと)の足跡に引っかかりを覚えた、その直後だった。
廊下の空気が、わずかによどんだ。
灰色が一段濃くなる。
窓の外の光が薄れる。
周囲のシンボルたちの輪郭が、少しだけ乱れた。
蓮司(れんじ)は反射的に右手を握った。
「葛城(かつらぎ)先生」
「分かっている」
葛城は廊下の奥を見ていた。
階段へ続く曲がり角。
そこに、黒い染みのようなものが床に張りついていた。
何かを形づくってはいない。
ただ、黒い霧のようなものが集まり、影を落としている。
黒い水たまりにも見える。
そこから、何かが立ち上がりかけている。
輪郭はぼやけている。
頭も腕もはっきりしない。
だが、こちらを向いたように感じた。
空気が冷える。
近くにいた生徒のシンボルが、わずかに傾いだ。
黒いものは、床を這うように動いている。
廊下の端から端へ、べたりと染みを伸ばしながら、何かを探しているように揺れていた。
「何だよ、あれ」
「外界に滞った、行き場のない負の感情だな」
葛城の声は冷静だった。
「敵性を持ったシンボルの状態にまで成長しかけている」
「誰かの内界だけじゃないのか」
「外界にも残る。誰かのものだった感情が、流れずに固まり、形を持つことがある」
葛城は視線を外さずに続ける。
「一人のものなら形になることは少ない。だが、集まれば、ああやって具現化されるようになる」
影の黒さが濃さを増していく。
周りから、黒い霧が集まってきているように見える。
近くのシンボルたちは反応しない。
見えていない。
黒いものが、ぬるりと動いた。
近くにいた男子生徒のシンボルが、それに触れられた瞬間、輪郭を歪ませた。
本人は気づいていない。
現実では、ただ少し肩をすくめただけかもしれない。
だが、外界のシンボルは、黒い染みに触れた部分から少し濁った。
蓮司の背筋に冷たいものが走った。
「放っておいたら?」
「近くのシンボルを巻き込む。現実の人にも多少は影響が出るかもしれない。そういう意味では、ない方がいい」
「ない方がいい、ね」
蓮司は黒いものを見る。
確かに、見ているだけで気分が悪い。
飲み込まれた苛立ち。
言えなかった不満。
誰にも向かなかった怒り。
そういうものが、べたりと廊下に張りついているようだった。
「高城」
葛城が言った。
「ティルヴァを出せ」
蓮司の右手の奥が、強く軋んだ。
「……ここで?」
「そうだ。慣れる必要がある」
黒いものが、動いている。
周囲の薄いシンボルの輪郭が、さらに乱れた。
蓮司は息を吸った。
右手に意識を集める。
あれを、何とかしたい。
声ではない。
感情だ。
感覚が、手の奥から上がってくる。
黒い輪郭が指先に集まる。
だが、形が定まらない。
刃になりかけて、ほどける。
握ろうとすると、重さだけが先に落ちてくる。
「くそ……」
「焦るな」
「焦らせてんのは先生だろ」
「具体的にイメージしろ。精神世界では心がそのまま現れる」
「分かってる」
蓮司はさらに意識を集中させる。
黒い刃の重さ、歪さを想像する。
右腕に黒い輪郭が集まり始める。
黒い刃を振るった時の感覚。影を切ったときの感覚。
森下の内界での戦いを思い出す。
黒い輪郭が、ようやく形を得た。
歪な黒い刃。
ティルヴァ。
黒い破壊の象徴。
それらのイメージをさらに集中させ、蓮司はゆっくりと手のひらを閉じた。
手には刃を握る感覚があった。
握った瞬間、外界の廊下がかすかに軋んだ。
掲示板の紙が震える。
床の灰色が、一瞬だけ沈む。
近くにいたシンボルたちが、音もなく身を引いた。
蓮司は刃を構えた。
重い。
やはり、鉄の重さではない。
胸の奥まで沈むような重さ。
それをどうにか腕で支える。
「構えが荒い」
「うるせえ」
「長くは持たないな」
「分かってるなら早く指示しろよ」
黒い敵性シンボルが、ぬるりと形を変えた。
それまで様子をうかがう形だったのに、一気に攻撃の様相に変わる。
床に溜まった影のようなものから、細い腕が伸びる。
周囲のシンボルではなく、蓮司へ向かって。
ティルヴァに反応している。
そう分かった。
蓮司の口の中が乾く。
葛城の右手には、まだライフルはない。
ただ、冷静に状況を見ている。
「処理してみろ」
葛城は言った。
蓮司は黒い刃を握り直す。
処理。
その言葉が、妙に耳に残った。
感情って、処理するもんなのかよ。
そう思った。
だが、黒い腕はもう目の前まで迫っていた。
蓮司は一歩前へ出る。
足元の灰色が揺れる。
現実ではない。
それでも、ここで間違えれば何かが傷つく。
そのことだけは、もう知っていた。
黒い腕が、跳ねる。
蓮司はティルヴァを振り上げた。
だが、刃は重い。
思ったよりも、動きが遅れる。
「右だ」
葛城の声。
蓮司は反射的に体をひねった。
黒い腕が、さっきまで首のあった位置を通り過ぎる。
「っぶねえ!」
「見えていないものを、感覚で追うな。動きを見ろ」
「授業中かよ!」
「授業中だ」
黒い腕が、再び床を這う。
蓮司は刃を構え直した。
敵性シンボルの輪郭は、まだぼやけている。
明確な形はない。
だが、その中心だけは、少し黒が濃い。
そこに感情が滞っている。
たぶん。
蓮司は息を吐く。
観察する。
判断する。
必要なら動く。
黒い腕が、三本に分かれた。
蓮司は息を止める。
ティルヴァが、手の中で重く沈んだ。
刃を振る。
一本目の腕を、どうにか斬った。
黒い腕が、煤のように散る。
手応えはあった。
残りの二本が交差しながら蓮司を襲う。
ティルヴァを構えて、迫る腕を何とか受け止める。
「ぐっ!」
「受けるな!」
「この!」
蓮司は体をひねりながら腕を受け流す。
伸び切った腕を二本まとめて切り払う。
「相手に合わせるな。対応しているだけでは状況は変わらない」
「簡単に言うな!」
「簡単ではない。だから見ろ」
蓮司は舌打ちしながら、黒い塊を見た。
腕ではない。
外側の揺れでもない。
中心。
黒が濃くなっている場所。
そこに、固まりきらない核のようなものがある。
森下の内界で見た黒い杭ほど、はっきりした形ではない。
もっと曖昧で、まだ名前も輪郭も持っていない。
だからこそ、気持ちが悪かった。
何に怒っているのか分からない怒り。
誰に向ければいいのか分からない苛立ち。
意味を持てないまま残った感情。
黒いものが大きく膨れ上がった。
影のない外界に、そこだけ濃い闇が立ち上がる。
蓮司は思わず呟いた。
「……何だよ、これ」
黒いものの裂け目が、口のように開いた。
声はない。
だが、怒りとも悲しみともつかない感情が、廊下いっぱいに広がった。
葛城の声が、背後から落ちる。
「来るぞ」
次の瞬間、黒い塊が蓮司へ向かって跳んだ。
蓮司は反射的にティルヴァを横へ振った。
刃が黒い塊の端を削る。
だが、中心には届かない。
黒い塊は形を変え、蓮司の足元へ絡みつこうとした。
「足元!」
「分かってる!」
蓮司は床を蹴った。
現実ではありえない高さまで体が浮く。
外界の廊下が一瞬だけ遠ざかる。
その違和感に気を取られた瞬間、黒い腕が横から伸びた。
「っ!」
避けきれない。
黒い腕が蓮司の左腕をかすめた。
痛みはない。
だが、ぞっとするような感情が流れ込んできた。
うるさい。
面倒くさい。
どうせ誰も聞かない。
言っても無駄だ。
言葉ではない。
けれど、そういう意味だけが胸の中へ押し込まれる。
「……っざけんな!」
蓮司は着地と同時にティルヴァを振り下ろした。
黒い腕が断ち切られる。
だが、勢い余って刃が床に触れた。
外界の廊下に、細い亀裂が走る。
「高城」
葛城の声が低くなる。
「深く入れるな」
「分かってる!」
「分かっていない。刃の勢いで斬るな。狙う場所を決めろ」
蓮司は息を荒くしながら、黒い塊を見る。
重い。
ティルヴァを出しているだけで、胸の奥が削られていくようだった。
長く持たない。
それは自分でも分かる。
黒い塊が再び膨れる。
周囲のシンボルたちが、さらに輪郭を乱した。
このままでは、巻き込まれる。
蓮司は一歩踏み込んだ。
狙うのは腕ではない。
外側でもない。
中心。
まだ形を持ちきれていない、黒の濃い場所。
蓮司はティルヴァを握り直した。
壊す。
だが、全部ではない。
今、周囲に広がろうとしている部分だけ。
そう自分に言い聞かせる。
できるかどうかは分からない。
けれど、何も考えずに振れば、また余計なものまで壊す。
それだけは分かっていた。
「高城、今だ」
葛城の声。
蓮司は床を蹴った。
黒い腕が左右から伸びる。
その一本をかわし、もう一本を刃の腹で弾く。
衝撃が腕に来る。
ティルヴァの輪郭が一瞬だけぶれた。
それでも、蓮司は前へ出た。
「はっ!」
声と同時に、ティルヴァを振り下ろす。
刃が黒い塊の中心に食い込んだ。
硬い。
いや、硬いというより、粘る。
怒りとも不満ともつかないものが、刃にまとわりつく。
壊されたくない。
消えたくない。
聞け。
見ろ。
そんな感覚が、蓮司の腕を通って流れ込んでくる。
「……っ!」
蓮司は歯を食いしばった。
感情は、そこにあった。
意味も、持ち主も、もう分からない。
けれど、確かにそこに残っていた。
それをただ消すことに、一瞬だけ迷いが生まれる。
その迷いの分だけ、ティルヴァが鈍くなる。
黒い塊が、逆に蓮司へまとわりつこうとした。
「迷うな」
葛城の声が響く。
「今それは、周囲を巻き込む敵性だ」
「……分かってる!」
蓮司は刃を押し込んだ。
黒い塊の中心に、ひびが入る。
次の瞬間、黒が弾けた。
音はなかった。
煤のようなものが外界の廊下に散り、すぐに薄れていく。
廊下を覆っていた重さが、少しずつ引いていった。
周囲のシンボルの輪郭も、元に戻っていく。
蓮司は肩で息をしていた。
右手のティルヴァは、まだかろうじて形を保っている。
だが、刃の輪郭はもう崩れかけていた。
「……やったのか」
「ひとまずはな」
葛城は廊下を見回した。
「完全に消えたわけではない。だが、外界で人を巻き込むほどの形は失った」
「それ、倒したって言わねえのかよ」
「精神世界では、言葉を雑に使うな」
「面倒くせえ」
「だが、前回よりはましだった」
蓮司は顔を上げる。
「褒めてんのか、それ」
「検証だ」
「ムカつく言い方すんな」
ティルヴァが、蓮司の手の中でほどける。
黒い輪郭が空気に溶けるように消えた。
消えた瞬間、膝に力が抜けそうになる。
蓮司は壁に手をついた。
「……きっつ」
「まだ消耗は激しそうだな」
「言われなくても分かってる」
「ならいい」
葛城は平然としている。
ライフルは一度も出していない。
蓮司はそれが少し腹立たしかった。
「先生、手ぇ貸す気なかっただろ」
「必要なら出した」
「必要って、俺が吹っ飛ばされてからか?」
「君が取り返しのつかない傷を負う前には動いた」
「信用できねえ基準だな……」
蓮司は息を整えながら、さっき黒い塊がいた場所を見る。
そこにはもう、濃い闇はない。
ただ、床に薄い灰色の染みのようなものが残っている。
完全には消えていない。
でも、先ほどのように周囲へ絡みつく気配はなかった。
「今のも、誰かの感情だったんだよな」
「おそらくはな」
「それを壊した」
「周囲を巻き込む形を壊した」
「言い方の違いじゃねえの」
「違う」
葛城は即答した。
「感情そのものを否定するな。だが、害を持った形になったなら、対処が必要だ」
「……感情って、処理するもんなのかよ」
蓮司は小さく呟いた。
葛城はすぐには答えなかった。
少しだけ間を置いてから、静かに言う。
「処理すべきものもある。残すべきものもある。向き合うべきものもある」
「区別が面倒すぎるだろ」
「だから観察する」
「結局それかよ」
「結局それだ」
蓮司はため息をついた。
反論したい。
だが、今の戦いで分かったこともある。
何も見ずに振れば、ティルヴァは余計なものまで削る。
狙う場所を決めれば、少なくとも前よりはましになる。
力があることと、正しく使えることは違う。
葛城の言葉が、また頭の奥に残った。
「戻るぞ」
葛城が言った。
「今日はここまでだ」
「もうかよ」
「君の消耗が大きい」
「まだ歩ける」
「外界では歩けても、現実に戻ってから反動が出ることがある」
「過保護かよ」
「管理だ」
「言い方」
蓮司が文句を言いかけた、そのときだった。
廊下の向こうから、別のシンボルが歩いてきていた。
瀬川(せがわ)遥(はるか)だった。
現実の本人も、この廊下を通っているのだろう。
外界の遥のシンボルは、他の生徒と同じように色が薄い。
表情もほとんどない。
声もない。
外界の中では、時間の流れが遅い。
だから、遥のシンボルもほとんど止まっているように見えた。
それでも、ほんの少しだけこちらへ向いている気がした。
蓮司は何気なくそちらを見た。
そして、息を止めた。
遥のシンボルが、蓮司の右手を見ていた。
もうティルヴァはない。
黒い刃は消えている。
それなのに、遥のシンボルは、蓮司の右手から目を離さなかった。
無表情のまま。
声もなく。
ゆっくりと、足を止めた。
「……瀬川?」
蓮司が呟いた瞬間、遥のシンボルの口元がわずかに動いた。
声は聞こえない。
けれど、蓮司には分かった気がした。
やめて。
背筋が冷えた。
財布事件の最初に見た、あの灰色の遥と同じだった。
声のない口元。
見えない訴え。
蓮司は一歩踏み出そうとした。
「どうした?」
葛城がこちらを見ている。
「いや、別に……」
葛城に動揺していることを見られたくない。
蓮司はとっさに視線を外した。
「……瀬川か。何か見えたか?」
「何もない」
「ならいい。戻るぞ」
葛城の声は静かだった。
「分かってる」
葛城は外界の廊下を戻り始めていた。
蓮司もその後に続く。
途中で蓮司は少しだけ振り返った。
遥のシンボルは、すでに背を向けていた。
「遅れるな」
葛城の声が、蓮司をこちら側に引き戻す。
動揺していることを悟られたくない、蓮司にはそういう思いもあった。
あえて何もなかったかのように葛城に続く。
だが、動揺を隠すことに必死で、葛城の違和感には意識が向いていなかった。
普段なら小さな変化も見逃さない葛城が、瀬川遥の変化に反応していない。
そのことに蓮司は気づいていなかった。
廊下の空気が、わずかによどんだ。
灰色が一段濃くなる。
窓の外の光が薄れる。
周囲のシンボルたちの輪郭が、少しだけ乱れた。
蓮司(れんじ)は反射的に右手を握った。
「葛城(かつらぎ)先生」
「分かっている」
葛城は廊下の奥を見ていた。
階段へ続く曲がり角。
そこに、黒い染みのようなものが床に張りついていた。
何かを形づくってはいない。
ただ、黒い霧のようなものが集まり、影を落としている。
黒い水たまりにも見える。
そこから、何かが立ち上がりかけている。
輪郭はぼやけている。
頭も腕もはっきりしない。
だが、こちらを向いたように感じた。
空気が冷える。
近くにいた生徒のシンボルが、わずかに傾いだ。
黒いものは、床を這うように動いている。
廊下の端から端へ、べたりと染みを伸ばしながら、何かを探しているように揺れていた。
「何だよ、あれ」
「外界に滞った、行き場のない負の感情だな」
葛城の声は冷静だった。
「敵性を持ったシンボルの状態にまで成長しかけている」
「誰かの内界だけじゃないのか」
「外界にも残る。誰かのものだった感情が、流れずに固まり、形を持つことがある」
葛城は視線を外さずに続ける。
「一人のものなら形になることは少ない。だが、集まれば、ああやって具現化されるようになる」
影の黒さが濃さを増していく。
周りから、黒い霧が集まってきているように見える。
近くのシンボルたちは反応しない。
見えていない。
黒いものが、ぬるりと動いた。
近くにいた男子生徒のシンボルが、それに触れられた瞬間、輪郭を歪ませた。
本人は気づいていない。
現実では、ただ少し肩をすくめただけかもしれない。
だが、外界のシンボルは、黒い染みに触れた部分から少し濁った。
蓮司の背筋に冷たいものが走った。
「放っておいたら?」
「近くのシンボルを巻き込む。現実の人にも多少は影響が出るかもしれない。そういう意味では、ない方がいい」
「ない方がいい、ね」
蓮司は黒いものを見る。
確かに、見ているだけで気分が悪い。
飲み込まれた苛立ち。
言えなかった不満。
誰にも向かなかった怒り。
そういうものが、べたりと廊下に張りついているようだった。
「高城」
葛城が言った。
「ティルヴァを出せ」
蓮司の右手の奥が、強く軋んだ。
「……ここで?」
「そうだ。慣れる必要がある」
黒いものが、動いている。
周囲の薄いシンボルの輪郭が、さらに乱れた。
蓮司は息を吸った。
右手に意識を集める。
あれを、何とかしたい。
声ではない。
感情だ。
感覚が、手の奥から上がってくる。
黒い輪郭が指先に集まる。
だが、形が定まらない。
刃になりかけて、ほどける。
握ろうとすると、重さだけが先に落ちてくる。
「くそ……」
「焦るな」
「焦らせてんのは先生だろ」
「具体的にイメージしろ。精神世界では心がそのまま現れる」
「分かってる」
蓮司はさらに意識を集中させる。
黒い刃の重さ、歪さを想像する。
右腕に黒い輪郭が集まり始める。
黒い刃を振るった時の感覚。影を切ったときの感覚。
森下の内界での戦いを思い出す。
黒い輪郭が、ようやく形を得た。
歪な黒い刃。
ティルヴァ。
黒い破壊の象徴。
それらのイメージをさらに集中させ、蓮司はゆっくりと手のひらを閉じた。
手には刃を握る感覚があった。
握った瞬間、外界の廊下がかすかに軋んだ。
掲示板の紙が震える。
床の灰色が、一瞬だけ沈む。
近くにいたシンボルたちが、音もなく身を引いた。
蓮司は刃を構えた。
重い。
やはり、鉄の重さではない。
胸の奥まで沈むような重さ。
それをどうにか腕で支える。
「構えが荒い」
「うるせえ」
「長くは持たないな」
「分かってるなら早く指示しろよ」
黒い敵性シンボルが、ぬるりと形を変えた。
それまで様子をうかがう形だったのに、一気に攻撃の様相に変わる。
床に溜まった影のようなものから、細い腕が伸びる。
周囲のシンボルではなく、蓮司へ向かって。
ティルヴァに反応している。
そう分かった。
蓮司の口の中が乾く。
葛城の右手には、まだライフルはない。
ただ、冷静に状況を見ている。
「処理してみろ」
葛城は言った。
蓮司は黒い刃を握り直す。
処理。
その言葉が、妙に耳に残った。
感情って、処理するもんなのかよ。
そう思った。
だが、黒い腕はもう目の前まで迫っていた。
蓮司は一歩前へ出る。
足元の灰色が揺れる。
現実ではない。
それでも、ここで間違えれば何かが傷つく。
そのことだけは、もう知っていた。
黒い腕が、跳ねる。
蓮司はティルヴァを振り上げた。
だが、刃は重い。
思ったよりも、動きが遅れる。
「右だ」
葛城の声。
蓮司は反射的に体をひねった。
黒い腕が、さっきまで首のあった位置を通り過ぎる。
「っぶねえ!」
「見えていないものを、感覚で追うな。動きを見ろ」
「授業中かよ!」
「授業中だ」
黒い腕が、再び床を這う。
蓮司は刃を構え直した。
敵性シンボルの輪郭は、まだぼやけている。
明確な形はない。
だが、その中心だけは、少し黒が濃い。
そこに感情が滞っている。
たぶん。
蓮司は息を吐く。
観察する。
判断する。
必要なら動く。
黒い腕が、三本に分かれた。
蓮司は息を止める。
ティルヴァが、手の中で重く沈んだ。
刃を振る。
一本目の腕を、どうにか斬った。
黒い腕が、煤のように散る。
手応えはあった。
残りの二本が交差しながら蓮司を襲う。
ティルヴァを構えて、迫る腕を何とか受け止める。
「ぐっ!」
「受けるな!」
「この!」
蓮司は体をひねりながら腕を受け流す。
伸び切った腕を二本まとめて切り払う。
「相手に合わせるな。対応しているだけでは状況は変わらない」
「簡単に言うな!」
「簡単ではない。だから見ろ」
蓮司は舌打ちしながら、黒い塊を見た。
腕ではない。
外側の揺れでもない。
中心。
黒が濃くなっている場所。
そこに、固まりきらない核のようなものがある。
森下の内界で見た黒い杭ほど、はっきりした形ではない。
もっと曖昧で、まだ名前も輪郭も持っていない。
だからこそ、気持ちが悪かった。
何に怒っているのか分からない怒り。
誰に向ければいいのか分からない苛立ち。
意味を持てないまま残った感情。
黒いものが大きく膨れ上がった。
影のない外界に、そこだけ濃い闇が立ち上がる。
蓮司は思わず呟いた。
「……何だよ、これ」
黒いものの裂け目が、口のように開いた。
声はない。
だが、怒りとも悲しみともつかない感情が、廊下いっぱいに広がった。
葛城の声が、背後から落ちる。
「来るぞ」
次の瞬間、黒い塊が蓮司へ向かって跳んだ。
蓮司は反射的にティルヴァを横へ振った。
刃が黒い塊の端を削る。
だが、中心には届かない。
黒い塊は形を変え、蓮司の足元へ絡みつこうとした。
「足元!」
「分かってる!」
蓮司は床を蹴った。
現実ではありえない高さまで体が浮く。
外界の廊下が一瞬だけ遠ざかる。
その違和感に気を取られた瞬間、黒い腕が横から伸びた。
「っ!」
避けきれない。
黒い腕が蓮司の左腕をかすめた。
痛みはない。
だが、ぞっとするような感情が流れ込んできた。
うるさい。
面倒くさい。
どうせ誰も聞かない。
言っても無駄だ。
言葉ではない。
けれど、そういう意味だけが胸の中へ押し込まれる。
「……っざけんな!」
蓮司は着地と同時にティルヴァを振り下ろした。
黒い腕が断ち切られる。
だが、勢い余って刃が床に触れた。
外界の廊下に、細い亀裂が走る。
「高城」
葛城の声が低くなる。
「深く入れるな」
「分かってる!」
「分かっていない。刃の勢いで斬るな。狙う場所を決めろ」
蓮司は息を荒くしながら、黒い塊を見る。
重い。
ティルヴァを出しているだけで、胸の奥が削られていくようだった。
長く持たない。
それは自分でも分かる。
黒い塊が再び膨れる。
周囲のシンボルたちが、さらに輪郭を乱した。
このままでは、巻き込まれる。
蓮司は一歩踏み込んだ。
狙うのは腕ではない。
外側でもない。
中心。
まだ形を持ちきれていない、黒の濃い場所。
蓮司はティルヴァを握り直した。
壊す。
だが、全部ではない。
今、周囲に広がろうとしている部分だけ。
そう自分に言い聞かせる。
できるかどうかは分からない。
けれど、何も考えずに振れば、また余計なものまで壊す。
それだけは分かっていた。
「高城、今だ」
葛城の声。
蓮司は床を蹴った。
黒い腕が左右から伸びる。
その一本をかわし、もう一本を刃の腹で弾く。
衝撃が腕に来る。
ティルヴァの輪郭が一瞬だけぶれた。
それでも、蓮司は前へ出た。
「はっ!」
声と同時に、ティルヴァを振り下ろす。
刃が黒い塊の中心に食い込んだ。
硬い。
いや、硬いというより、粘る。
怒りとも不満ともつかないものが、刃にまとわりつく。
壊されたくない。
消えたくない。
聞け。
見ろ。
そんな感覚が、蓮司の腕を通って流れ込んでくる。
「……っ!」
蓮司は歯を食いしばった。
感情は、そこにあった。
意味も、持ち主も、もう分からない。
けれど、確かにそこに残っていた。
それをただ消すことに、一瞬だけ迷いが生まれる。
その迷いの分だけ、ティルヴァが鈍くなる。
黒い塊が、逆に蓮司へまとわりつこうとした。
「迷うな」
葛城の声が響く。
「今それは、周囲を巻き込む敵性だ」
「……分かってる!」
蓮司は刃を押し込んだ。
黒い塊の中心に、ひびが入る。
次の瞬間、黒が弾けた。
音はなかった。
煤のようなものが外界の廊下に散り、すぐに薄れていく。
廊下を覆っていた重さが、少しずつ引いていった。
周囲のシンボルの輪郭も、元に戻っていく。
蓮司は肩で息をしていた。
右手のティルヴァは、まだかろうじて形を保っている。
だが、刃の輪郭はもう崩れかけていた。
「……やったのか」
「ひとまずはな」
葛城は廊下を見回した。
「完全に消えたわけではない。だが、外界で人を巻き込むほどの形は失った」
「それ、倒したって言わねえのかよ」
「精神世界では、言葉を雑に使うな」
「面倒くせえ」
「だが、前回よりはましだった」
蓮司は顔を上げる。
「褒めてんのか、それ」
「検証だ」
「ムカつく言い方すんな」
ティルヴァが、蓮司の手の中でほどける。
黒い輪郭が空気に溶けるように消えた。
消えた瞬間、膝に力が抜けそうになる。
蓮司は壁に手をついた。
「……きっつ」
「まだ消耗は激しそうだな」
「言われなくても分かってる」
「ならいい」
葛城は平然としている。
ライフルは一度も出していない。
蓮司はそれが少し腹立たしかった。
「先生、手ぇ貸す気なかっただろ」
「必要なら出した」
「必要って、俺が吹っ飛ばされてからか?」
「君が取り返しのつかない傷を負う前には動いた」
「信用できねえ基準だな……」
蓮司は息を整えながら、さっき黒い塊がいた場所を見る。
そこにはもう、濃い闇はない。
ただ、床に薄い灰色の染みのようなものが残っている。
完全には消えていない。
でも、先ほどのように周囲へ絡みつく気配はなかった。
「今のも、誰かの感情だったんだよな」
「おそらくはな」
「それを壊した」
「周囲を巻き込む形を壊した」
「言い方の違いじゃねえの」
「違う」
葛城は即答した。
「感情そのものを否定するな。だが、害を持った形になったなら、対処が必要だ」
「……感情って、処理するもんなのかよ」
蓮司は小さく呟いた。
葛城はすぐには答えなかった。
少しだけ間を置いてから、静かに言う。
「処理すべきものもある。残すべきものもある。向き合うべきものもある」
「区別が面倒すぎるだろ」
「だから観察する」
「結局それかよ」
「結局それだ」
蓮司はため息をついた。
反論したい。
だが、今の戦いで分かったこともある。
何も見ずに振れば、ティルヴァは余計なものまで削る。
狙う場所を決めれば、少なくとも前よりはましになる。
力があることと、正しく使えることは違う。
葛城の言葉が、また頭の奥に残った。
「戻るぞ」
葛城が言った。
「今日はここまでだ」
「もうかよ」
「君の消耗が大きい」
「まだ歩ける」
「外界では歩けても、現実に戻ってから反動が出ることがある」
「過保護かよ」
「管理だ」
「言い方」
蓮司が文句を言いかけた、そのときだった。
廊下の向こうから、別のシンボルが歩いてきていた。
瀬川(せがわ)遥(はるか)だった。
現実の本人も、この廊下を通っているのだろう。
外界の遥のシンボルは、他の生徒と同じように色が薄い。
表情もほとんどない。
声もない。
外界の中では、時間の流れが遅い。
だから、遥のシンボルもほとんど止まっているように見えた。
それでも、ほんの少しだけこちらへ向いている気がした。
蓮司は何気なくそちらを見た。
そして、息を止めた。
遥のシンボルが、蓮司の右手を見ていた。
もうティルヴァはない。
黒い刃は消えている。
それなのに、遥のシンボルは、蓮司の右手から目を離さなかった。
無表情のまま。
声もなく。
ゆっくりと、足を止めた。
「……瀬川?」
蓮司が呟いた瞬間、遥のシンボルの口元がわずかに動いた。
声は聞こえない。
けれど、蓮司には分かった気がした。
やめて。
背筋が冷えた。
財布事件の最初に見た、あの灰色の遥と同じだった。
声のない口元。
見えない訴え。
蓮司は一歩踏み出そうとした。
「どうした?」
葛城がこちらを見ている。
「いや、別に……」
葛城に動揺していることを見られたくない。
蓮司はとっさに視線を外した。
「……瀬川か。何か見えたか?」
「何もない」
「ならいい。戻るぞ」
葛城の声は静かだった。
「分かってる」
葛城は外界の廊下を戻り始めていた。
蓮司もその後に続く。
途中で蓮司は少しだけ振り返った。
遥のシンボルは、すでに背を向けていた。
「遅れるな」
葛城の声が、蓮司をこちら側に引き戻す。
動揺していることを悟られたくない、蓮司にはそういう思いもあった。
あえて何もなかったかのように葛城に続く。
だが、動揺を隠すことに必死で、葛城の違和感には意識が向いていなかった。
普段なら小さな変化も見逃さない葛城が、瀬川遥の変化に反応していない。
そのことに蓮司は気づいていなかった。
