心の奥に刃は眠る

 森下(もりした)栞(しおり)の内界に入ってから、気づけば一週間近くが過ぎていた。

 教室ではもう、あの財布の騒ぎを口にする者は誰もいない。
 少なくとも、表向きは終わっていた。

 森下も、普通に授業を受けている。
 以前より少し明るくなったようにも見える。

 これでよかったのかもしれない。

 だが、高城(たかしろ)蓮司(れんじ)の中では、何も終わっていなかった。

 灰色の廊下。高すぎる本棚。手の中に現れた黒い刃。
 ふとした瞬間に思い出しては、右手の奥にあの重さが蘇る。

この一週間、蓮司は数回ほど葛城(かつらぎ)に呼ばれた。
 外界に入ることはなかったが、自分が見たもの、そしてしたことを確認された。
 自分が何を残したのか、それを見極めるためだ。

 本当に授業みたいだった。
 いや、葛城本人は授業のつもりなのだろう。
 蓮司にとっては、気分の悪い復習でしかなかった。

 だが、何もしない時間が続くほど、あの灰色の世界のことが頭から離れなくなっていった。

 見えているわけではない。

 けれど、もうそこにあると知っている。
 もっと、知っておかなければならない。

 ◇◇◇

 そして、事件から一週間目の放課後。

 蓮司はいつものように数学準備室の前に立っていた。

 昼休みではない。
 放課後。

 窓の外では、夕方の光が校舎の壁を赤く染めている。
 その壁から伸びる影を見て、蓮司は少しだけ安心する。

 この世界は、まだ現実だ。

 蓮司は小さく息を吐き、扉をたたいた。

「入れ」

 中から、いつもの声が返ってくる。

 扉を開けると、葛城(かつらぎ)修一(しゅういち)は机の前に立っていた。

 今日は書類を読んでいない。
 蓮司が来るのを待っていたように見えた。

「体調は」

「悪くねえよ。頭痛もない。変な夢も見てない。右手も普通」

「ならいい。少なくともコントロールはできている」

 葛城は短く言った。
 蓮司は眉をひそめる。

「今日は、復習だけじゃねえのか」

「今日は外界を歩く」

 その言葉に、蓮司の背筋が少し伸びた。

「やっとかよ」

 葛城は机の上に置いていた鍵をポケットにしまった。

「前回、君は内界でティルヴァを振るった。だが、外界での歩き方も、見方も、まだ身についていない」

「ムカつく言い方だが、まあ、そこはそうだろうな」

「基礎を軽んじる者ほど、実戦で間違える」

「さすが教師様」

 葛城は皮肉を意に介することなく、蓮司の前に立つ。

「今日は私の補助なしで、まず外界に入れ」

 蓮司は少しうろたえる。

「いきなりかよ」

「数日間、復習したはずだ」

「あれで入れるようになるのか?」

「ならない者もいる」

「嫌な言い方すんな」

「入れなければ、今日はそこで終わりだ」

 蓮司は顔をしかめた。

 終わり。

 それはそれで困る。
 ここまで来て、何もできずに帰る方が気持ち悪い。

 蓮司は息を吸った。
 数学準備室を見る。

 現実に目を凝らすのではない。
 現実の奥を見る。

 蓮司は自分に言い聞かせる。
 何度も、葛城に言われた。

 外界は現実と切り離された別の場所ではない。
 現実と重なっている。

 そこに意識を合わせる。

 部活の声が遠くなる。
 窓から差し込む夕方の赤が、少しずつ薄れていく。
 机の脚から影が消える。
 壁の色が抜ける。

 呼吸が浅くなる。

 次の瞬間、蓮司は色のない数学準備室に立っていた。

 影のない部屋。
 色の薄い机。
 灰色に沈んだ窓。

 現実とほぼ同じ形をしているのに、決定的に違う世界。

 蓮司は小さく息を吐いた。

「……入れた」

「悪くない」

 葛城の声がした。
 蓮司が外界に入ったことを確認して、自身もこちら側に来たようだ。

 黒いコート姿の葛城は、現実よりも輪郭が濃かった。
 灰色の世界の中で、そこだけ沈まずに立っている。
 異質な存在というのが、すぐに分かる。

「でも、ちょっと気持ち悪いな」

「その感覚は忘れるな」

「慣れたらダメなんだっけか」

「感覚には慣れるな。知識には慣れろ」

「相変わらず面倒なことを」

「必要なことだ」

 葛城は扉へ向かった。

「行くぞ。今日は廊下を歩く」

「本当に歩き方からか」

「そうだ」

 葛城が扉を開ける。
 蓮司はその後に続いた。

 外界の廊下は、現実の校舎とほぼ同じ構造だった。

 同じ壁。
 同じ窓。

 けれど、どれも色が薄い。

 放課後の夕焼けも、ここではほとんど赤くなかった。
 灰色に近い薄い光が、窓から差し込んでいる。

 廊下には、生徒の象徴(シンボル)がいくつも見えた。
 現実の本人とほぼ同じ場所を歩いている。

 部活へ向かう者。
 友人と話している者。
 教室に戻る者。

 だが、それは本人そのものではない。

 人の形をした薄いもの。

 輪郭はある。
 制服の形も分かる。

 けれど、表情はほとんどない。
 声もない。
 そして、ひどく緩慢。

 現実の生徒たちが明るく話しているはずの場所で、灰色のシンボルたちは無音で動いている。
 その落差が、やはり気持ち悪かった。

「基本的に、シンボルは現実の本人とほぼ同じように動く」

 葛城は歩きながら言った。

「だが、完全に一致するわけではない」

「本人の心が出るから、だろ」

「そうだ」

 葛城は続ける。

「また、この世界は時の流れが、現実と一致しない」

「シンボルの動きがゆっくりに見えるのはそのせいか?」

「そういうことだ。感覚だけに頼ると狂わされる」

 葛城が廊下の先を示す。

 一人の男子生徒のシンボルが、友人たちと並んで歩いていた。
 現実では笑いながら話しているのだろう。
 シンボルの口元もわずかに動いている。

 だが、その足だけが少し遅れていた。
 友人たちに合わせて歩いているのに、体の奥だけが別方向へ残っているように見える。

「あれは……帰りたがってんのか?」

「かもしれない」

「かもしれない?」

「外界で見えるものは、断定材料ではない。今、どちらへ心が傾いているかを示すだけだ」

「面倒くせえな」

「だから、現実と照合する必要がある」

 さらに進むと、別の女子生徒のシンボルが見えた。
 友人と向かい合っている。
 だが、その手には小さな箱のようなものがあった。

 箱は胸元に抱えられている。
 ふたは固く閉じられていて、誰にも見せまいとしているようだった。

「あれは?」

「秘密か、言えない感情か、守りたいものか。見ただけでは分からない」

「分からないものばっかりじゃねえか」

「この世界は万能ではない。分かったつもりになるよりはましだ」

 葛城の声は淡々としていた。
 蓮司は顔をしかめる。

 見える。
 なのに、分からない。

 それが思った以上に、厄介だった。

 その後もいくつかのシンボルを見たが、見えるものの意味は一つではなさそうだった。
 秘密なのか、警戒なのか。
 好意なのか罪悪感なのか。
 外界だけで決めつけず、現実と照合する必要がある――葛城が繰り返す理由が、蓮司にも少し分かってきた。

 どうとらえるかで、意味が真逆になる場合がある。
 その線引きが、思ったよりも重い。

「違和感を見ろ」

 葛城は言った。

「精神世界では、深刻な異常ほど形をもちやすい」

「異常って、どこからが異常なんだよ。今までのも十分違和感だぞ」

「表層の関心が向いているだけなら、よくある。問題は、その形が本人の行動を極端に縛っている場合だ」

「例えば、糸とか」

「そうだ」

 蓮司は黙った。

 遥に絡みついていた黒い糸。
 森下の内界で見た黒い線。

 どちらも、ただの関心とは違った。

「異常は、本人の中で処理しきれないものが形を持った状態だ」

 葛城は続ける。

「恐怖、罪悪感、怒り、執着。形はさまざまだ。だが、異常には周囲とのズレが出る」

「ズレ……」

「現実の行動と合わない。外界の構造に不自然な影響を与える。他のシンボルを巻き込む。そういうものを見ろ」

 蓮司は廊下を見渡した。

 色のない世界。
 影のない床。
 無表情のシンボル。

 すべてが異常に見える。
 その中で、さらに異常を探す。
 思った以上に神経を使う。

 視界の端が少し揺れた。
 床がほんのわずかに遠くなる。
 蓮司は思わず壁に手をついた。

「……外界ってのは、歩くだけでもこんなに疲れんのかよ」

「慣れないうちはな。自分の心が乱れれば、見えるものも乱れる」

「俺の心が乱れてるって?」

「乱れていないと思うのか」

「まあ、思わねえけど」

 蓮司は息を吐いた。
 自分の手を見る。
 指先が少し震えている。

 恐怖ではない。
 いや、恐怖もある。

 それだけではない。

 見えてはいけないものを見ている感覚。
 踏み込んではいけない場所の前に立っている感覚。

 それらが、胸の奥で混ざっていた。

「精神世界では、自分の状態も強調される」

 葛城は言った。

「焦れば、必要のないものまで危険に見える。不安になれば、視界はぼやける。怒れば、壊すべきではないものまで壊したくなる」

 蓮司は右手を握った。

 ティルヴァの重さを思い出す。
 あの黒い刃は、確かに影を斬った。

 だが、図書室の本棚も、ファイルケースも傷つけた。

「俺のこと言ってるだろ」

「君のことも含む」

「含むどころか、ほぼ俺だろ」

「自覚があるならいい」

「よくねえよ」

 蓮司は顔をしかめた。

 そのとき、廊下の向こうから聞き覚えのある声がした気がした。

 外界では声はほとんど届かない。
 だが、現実の音が薄く重なることはある。

 大きめの声。
 軽い調子。
 誰かに冗談を言うような空気。

 蓮司はそちらを見る。

 黒沢(くろさわ)悠斗(ゆうと)のシンボルがいた。

 同じクラスの男子。
 気さくで、誰とでも話せる。
 蓮司に声をかけてくる数少ないクラスメイトの一人だ。

 現実では、今も数人と笑いながら話しているのだろう。
 外界の黒沢のシンボルも、周囲の生徒たちの中心にいた。

 だが、妙だった。

 黒沢のシンボルは笑っているように見える。

 輪郭が軽く揺れている。
 周囲に合わせて、うまく動いている。
 けれど、足元だけが止まっていた。

 そして、妙な足跡が足元から浮かび上がっていた。
 その足跡がいくつもの方向へ伸びているが、すべて途中で消えている。

 右へ行く足跡。
 左へ行く足跡。
 前へ出る足跡。
 後ろへ下がる足跡。

 そのどれもが、三歩目の前で薄れていた。

「……黒沢?」

 蓮司は呟いた。

「知り合いか」

「クラスメイト。黒沢悠斗」

「どう見える」

「周りに合わせてる。笑ってる。けど……どこにも行けてない」

 蓮司は目を細める。

「何か、変だな」

「違和感か」

「ああ。でも、森下のときみたいに黒くはない」

「なら、今は覚えておけ」

「入らないのか」

「入らない」

 葛城は即答した。

「外界で違和感を見つけるたびに内界へ入っていたら、きりがない。本人の現実での様子、周囲との関係、変化の有無。それらを見てから判断する」

「現実と照合か」

「そうだ」

 黒沢の現実の声が、かすかに聞こえた。

(うわ、めんどくせぇ)

 周囲が笑う。
 黒沢も笑っているのだろう。

 外界の黒沢のシンボルも、軽く揺れた。
 けれど、足元の足跡は、やはりどこにも続いていなかった。
 蓮司はその光景をしばらく見ていた。

 気さく。
 明るい。
 誰とでも仲良くできる。

 それは悪いことではない。

 むしろ、蓮司にはないものだ。

 だが、外界の黒沢は、誰かに合わせるたびに自分の足跡を消しているように見えた。

「……覚えとく」

 蓮司は小さく言った。

 黒沢のシンボルは、まだ笑っているように揺れていた。
 けれど、その足跡は、どこにも続いていない。

 色のない廊下の中で、その違和感だけが、妙に濃く残っていた。