目の前には、森下栞がいる。
女子三人もいる。
さっきまでの灰色の図書室はどこにもない。
高すぎる本棚も、読めない本も、裂けた口の影も、黒い杭もない。
あるのは、放課後の廊下。
窓の外から差し込む夕方の光。
蓮司は一瞬、自分が何をしていたのか分からなくなった。
内界では、あれほど大きな影が暴れていた。
扉を破り、腕を伸ばし、森下を飲み込もうとしていた。
なのに現実では、女子三人はただ困ったように森下を見ているだけだった。
時間もほとんど経っていないようだ。
内界での時間が消え去っているかのようだった。
「栞、本当に大丈夫?」
一人が言った。
責めているようには聞こえない。
「財布、図書室で見つかったって聞いたからさ。昨日、急に大ごとになったし」
「私たち、ちょっと話したかっただけだったんだけど」
「なんか、変な感じになったじゃん」
その言い方に、まったく棘がないわけではなかった。
少し責めている。
少し不満もある。
けれど、それだけだった。
少なくとも、森下が机の下で震えるほどのものには、蓮司には見えなかった。
森下は鞄を抱えたまま、三人を見た。
さっきまでなら、後ずさっていたはずだ。
顔を青くして、何も言えなくなっていたはずだ。
だが、今の森下は違った。
少しだけ息を吸って、口を開いた。
「ごめん」
その声は小さかった。
けれど、ちゃんと聞こえた。
女子三人は顔を見合わせる。
「いや、謝ってほしいとかじゃなくて」
「財布、ほんとに置き忘れだったの?」
「うん」
森下はうなずいた。
「図書室で使ったファイルケースに入ってた。たぶん、自分で入れたんだと思う」
蓮司は目を細める。
たぶん。
その言い方が引っかかった。
森下は嘘をついている。
自分で財布を入れた。
その理由も、騒ぎになった意味も、全部分かっているはずなのに。
今の森下は、そこから少し離れた場所に立っているように見えた。
「そっか」
女子の一人が息を吐いた。
「ならいいけど。昨日、先生に聞かれたりして、こっちもびっくりしたし」
「うん。ごめん」
「あとさ、昨日の話」
その言葉に、蓮司は少し身構えた。
森下も一瞬だけ肩を揺らした。
けれど、逃げなかった。
「別に、呼び出してどうこうするつもりじゃなかったから」
「ちょっと聞きたいことがあっただけ」
言い訳に聞こえた。
実際、言い訳なのだろう。
あの三人に、まったく悪意がなかったわけではない。
森下が大人しくて、言い返さないから。
本が好きで、成績が良くて、少し距離があるから。
いじりやすいから。
そういう軽さはあったはずだ。
けれど、今ここにあるのは、その程度だった。
内界で見た影の大きさとは、あまりに違う。
森下は三人を見た。
それから、少しだけ笑った。
「うん。分かった」
蓮司は眉をひそめた。
その笑い方が、妙に薄かった。
安心したようでもある。
吹っ切れたようでもある。
でも、どこか薄い。
女子三人は少し困ったように笑う。
「まあ、財布見つかったならよかったじゃん」
会話は、それで終わった。
拍子抜けするほど、あっさりと。
女子三人はまだ何か言いたそうではあったが、担任に注意されたこともあるのか、それ以上は踏み込まなかった。
「じゃね」
一人がそう言って、森下がうなずく。
「うん。また明日」
三人は廊下を歩いていく。
その背中は、ただの女子生徒の背中だった。
裂けた口もない。
長い腕もない。
扉を破る影でもない。
蓮司はその場に立ち尽くす。
何だよ。
本当に、これだけかよ。
あの内界で見たものは何だったんだよ。
森下は女子三人の背中を見送っていた。
鞄を胸に抱える手から、少しだけ力が抜けている。
しばらくして、森下が小さく息を吐いた。
「私、何がそんなに怖かったんだろう」
誰に向けた言葉でもなかった。
女子三人には、もう聞こえていない。
蓮司に聞かせるつもりでもなかったのだと思う。
ただ、自分の中に残ったものを確かめるような声だった。
森下が顔を上げる。
「あ、高城くん」
「あ?」
「昨日、聞き取りされてたよね。ごめんね」
「別に」
蓮司は短く答えた。
「財布、見つかってよかったな」
「ありがとう」
森下は曖昧に笑う。
前より明るい。
確かに明るい。
でも、蓮司の知っている森下の笑い方とは少し違った。
前の森下は、もっと周りの空気を読んで笑っていた。
遠慮して、言葉を選んで、相手がどう受け取るかを気にしていた。
それは弱さでもあった。
同時に、森下らしさでもあった。
今の笑い方には、その重さが少し抜けている。
蓮司は少し迷ってから言う。
「次は」
森下が顔を上げる。
「なくす前に、誰かに言えよ」
森下の表情が、わずかに止まった。
蓮司が何をどこまで分かっているのか、森下には分からなかったはずだ。
それでも、その一言が何かに触れたのは分かった。
森下は小さく唇を結ぶ。
「……うん」
森下はゆっくりとうなずいた。
それ以上は言わなかった。
蓮司も聞かなかった。
責めるつもりもなかった。
困る前に、誰かを頼れ。
一人で変な逃げ道をつくるな。
ただ、そう言いたかった。
けれど、そこまで言葉にするのは、蓮司には少し難しかった。
「じゃあね」
森下は小さく頭を下げて、廊下を歩いていく。
背中はまだ細い。
でも、さっきまでのように鞄を胸に抱え込んではいなかった。
蓮司はその背中を見送る。
助けた。
たぶん、助けた。
森下はあの三人と向き合えた。
財布の件も、一応終わった。
それなのに、胸の奥に何かが残っている。
小さな刺のようなもの。
取れそうで、取れない違和感。
蓮司は思う。
この事件は、終わったのか。
それとも、終わったことになっただけなのか。
「高城」
背後から声が刺さる。
振り向くと少し離れたところに葛城が立っていた。
いつからそこにいたのかは分からない。
なぜこの場にいたのかも。
「終わったのか」
「表向きはな」
「表向きって何だよ」
「財布は戻った。盗難ではなかった。森下はあの三人と話した。大きな問題にはならない」
「なら、終わりだろ」
「君はそう思うか」
蓮司は答えられなかった。
葛城は森下が歩いていった廊下の先を見る。
「君には力がある」
「またそれか」
「私のライフルでは届かない場所にも届く力だ」
蓮司は右手を見る。
ティルヴァはもうない。
だが、握っていた感覚は、まだ残っている。
「君は彼女を救った」
葛城は言った。
蓮司は顔を上げる。
「同時に、彼女が自分で向き合うはずだったものにまで触れた」
「……」
「その二つは、矛盾しない」
蓮司は唇を噛んだ。
救った。
触れすぎた。
その両方が同時に成り立つ。
それが、どうしようもなく気持ち悪かった。
「だったら、どうすればよかったんだよ」
「さっきも言った。観察する。判断する。必要なら動く」
「それでも間違えたら?」
「間違える」
葛城はあっさり言った。
蓮司は思わず葛城を見る。
「何だよ、それ」
「心を扱う以上、絶対に正しい選択は少ない。だから、見たものを疑え。自分の判断も疑え。だが、必要なときは動け」
「都合のいいこと言ってんな」
「現実とはそういうものだ」
葛城の声は静かだった。
「外界も、内界も、現実から切り離された夢ではない。現実と同じだ。判断を誤れば、誰かが傷つく。判断しなければ、誰かが沈む」
蓮司は何も言えなかった。
葛城は続ける。
「今回、森下は少し動けるようになった。それは事実だ」
「少し?」
「彼女は三人と向き合った。以前なら逃げたかもしれない」
「でも、何か欠けてる」
「その違和感を覚えておけ」
葛城は蓮司を見る。
「力を使った後に、何が残ったかを見る。それも潜心者に必要なことだ」
蓮司は廊下の先を見る。
森下の姿はもう見えない。
女子三人の姿もない。
ただ、夕方の校舎が静かに続いている。
何も起こっていないような廊下。
けれど蓮司には、そこに薄く灰色が重なっているように見えた。
「なあ」
「何だ」
「あの剣」
「ティルヴァか」
「あれは何なんだよ」
葛城はすぐには答えなかった。
その沈黙が、蓮司には気に入らなかった。
「あんた、さっきもティルヴァって呼んだよな。名前まで知ってる。だったら、他にも何か知ってんだろ」
「多くは知らない」
「嘘つけ」
蓮司は右手を握った。
もう黒い刃はない。
「あんなもん、普通じゃねえだろ。握ってるだけで、全部壊せって言われてるみたいだった」
葛城は蓮司の右手を見た。
いつものように、感情の読めない目だった。
「心象具は、その人間の心の像だ」
「じゃあ、俺の心があれだって言いたいのかよ」
「少なくとも、君の中にあの形を取らせる何かがある」
蓮司の喉が詰まった。
「俺は、何なんだよ」
問うつもりはなかった。
けれど、言葉は勝手に落ちた。
葛城は少しだけ間を置いてから答える。
「それを知りたいなら、潜心者として成長しろ」
「答えになってねえ」
「今の君に答えだけ渡しても、理解できない」
葛城は静かに続けた。
「なぜ君の心象具がティルヴァなのか。なぜ君が、あれほど深い場所を壊せるのか。潜心者として見えるものが増えれば、いずれ分かる時が来る」
「……それまで、あんたの授業を受けろってか」
「そうだ」
葛城は当然のように言った。
「明日以降、数学準備室に来なさい」
「説明してくれんのかよ」
「しばらくは基礎だ。それから外界の歩き方を教える」
蓮司は眉をひそめた。
「は?」
「君はまだ、入ることすら安定していない。内界であれだけ振るえる力を持っているなら、なおさら基礎が必要だ」
「それでまずは歩き方かよ」
「そうだ」
葛城は背を向ける。
「学校の勉強と同じだ。基礎を軽んじる者ほど、実戦で間違える」
「うるせえ数学教師」
「数学教師だから言っている」
葛城はそのまま歩き出した。
蓮司はその背中を睨む。
ムカつく。
心底ムカつく。
それでも、葛城の言葉は頭に残る。
君は彼女を救った。
同時に、彼女が自分で向き合うはずだったものにまで触れた。
その二つは、矛盾しない。
財布の件は解決した。
森下は笑った。
女子三人も、もう森下を追い詰めることはないだろう。
それでも、蓮司の中には終わらないものが残っていた。
森下栞の内界に残ったもの。
それが救いだったのか、傷口だったのか。
まだ分からない。
蓮司は廊下の窓を見る。
夕焼けが、校舎の壁を赤く染めている。
現実の影は、ちゃんと足元に伸びていた。
けれどその奥に、色のない世界の輪郭があることを、もう蓮司は知っている。
知らないふりはもうできない。
女子三人もいる。
さっきまでの灰色の図書室はどこにもない。
高すぎる本棚も、読めない本も、裂けた口の影も、黒い杭もない。
あるのは、放課後の廊下。
窓の外から差し込む夕方の光。
蓮司は一瞬、自分が何をしていたのか分からなくなった。
内界では、あれほど大きな影が暴れていた。
扉を破り、腕を伸ばし、森下を飲み込もうとしていた。
なのに現実では、女子三人はただ困ったように森下を見ているだけだった。
時間もほとんど経っていないようだ。
内界での時間が消え去っているかのようだった。
「栞、本当に大丈夫?」
一人が言った。
責めているようには聞こえない。
「財布、図書室で見つかったって聞いたからさ。昨日、急に大ごとになったし」
「私たち、ちょっと話したかっただけだったんだけど」
「なんか、変な感じになったじゃん」
その言い方に、まったく棘がないわけではなかった。
少し責めている。
少し不満もある。
けれど、それだけだった。
少なくとも、森下が机の下で震えるほどのものには、蓮司には見えなかった。
森下は鞄を抱えたまま、三人を見た。
さっきまでなら、後ずさっていたはずだ。
顔を青くして、何も言えなくなっていたはずだ。
だが、今の森下は違った。
少しだけ息を吸って、口を開いた。
「ごめん」
その声は小さかった。
けれど、ちゃんと聞こえた。
女子三人は顔を見合わせる。
「いや、謝ってほしいとかじゃなくて」
「財布、ほんとに置き忘れだったの?」
「うん」
森下はうなずいた。
「図書室で使ったファイルケースに入ってた。たぶん、自分で入れたんだと思う」
蓮司は目を細める。
たぶん。
その言い方が引っかかった。
森下は嘘をついている。
自分で財布を入れた。
その理由も、騒ぎになった意味も、全部分かっているはずなのに。
今の森下は、そこから少し離れた場所に立っているように見えた。
「そっか」
女子の一人が息を吐いた。
「ならいいけど。昨日、先生に聞かれたりして、こっちもびっくりしたし」
「うん。ごめん」
「あとさ、昨日の話」
その言葉に、蓮司は少し身構えた。
森下も一瞬だけ肩を揺らした。
けれど、逃げなかった。
「別に、呼び出してどうこうするつもりじゃなかったから」
「ちょっと聞きたいことがあっただけ」
言い訳に聞こえた。
実際、言い訳なのだろう。
あの三人に、まったく悪意がなかったわけではない。
森下が大人しくて、言い返さないから。
本が好きで、成績が良くて、少し距離があるから。
いじりやすいから。
そういう軽さはあったはずだ。
けれど、今ここにあるのは、その程度だった。
内界で見た影の大きさとは、あまりに違う。
森下は三人を見た。
それから、少しだけ笑った。
「うん。分かった」
蓮司は眉をひそめた。
その笑い方が、妙に薄かった。
安心したようでもある。
吹っ切れたようでもある。
でも、どこか薄い。
女子三人は少し困ったように笑う。
「まあ、財布見つかったならよかったじゃん」
会話は、それで終わった。
拍子抜けするほど、あっさりと。
女子三人はまだ何か言いたそうではあったが、担任に注意されたこともあるのか、それ以上は踏み込まなかった。
「じゃね」
一人がそう言って、森下がうなずく。
「うん。また明日」
三人は廊下を歩いていく。
その背中は、ただの女子生徒の背中だった。
裂けた口もない。
長い腕もない。
扉を破る影でもない。
蓮司はその場に立ち尽くす。
何だよ。
本当に、これだけかよ。
あの内界で見たものは何だったんだよ。
森下は女子三人の背中を見送っていた。
鞄を胸に抱える手から、少しだけ力が抜けている。
しばらくして、森下が小さく息を吐いた。
「私、何がそんなに怖かったんだろう」
誰に向けた言葉でもなかった。
女子三人には、もう聞こえていない。
蓮司に聞かせるつもりでもなかったのだと思う。
ただ、自分の中に残ったものを確かめるような声だった。
森下が顔を上げる。
「あ、高城くん」
「あ?」
「昨日、聞き取りされてたよね。ごめんね」
「別に」
蓮司は短く答えた。
「財布、見つかってよかったな」
「ありがとう」
森下は曖昧に笑う。
前より明るい。
確かに明るい。
でも、蓮司の知っている森下の笑い方とは少し違った。
前の森下は、もっと周りの空気を読んで笑っていた。
遠慮して、言葉を選んで、相手がどう受け取るかを気にしていた。
それは弱さでもあった。
同時に、森下らしさでもあった。
今の笑い方には、その重さが少し抜けている。
蓮司は少し迷ってから言う。
「次は」
森下が顔を上げる。
「なくす前に、誰かに言えよ」
森下の表情が、わずかに止まった。
蓮司が何をどこまで分かっているのか、森下には分からなかったはずだ。
それでも、その一言が何かに触れたのは分かった。
森下は小さく唇を結ぶ。
「……うん」
森下はゆっくりとうなずいた。
それ以上は言わなかった。
蓮司も聞かなかった。
責めるつもりもなかった。
困る前に、誰かを頼れ。
一人で変な逃げ道をつくるな。
ただ、そう言いたかった。
けれど、そこまで言葉にするのは、蓮司には少し難しかった。
「じゃあね」
森下は小さく頭を下げて、廊下を歩いていく。
背中はまだ細い。
でも、さっきまでのように鞄を胸に抱え込んではいなかった。
蓮司はその背中を見送る。
助けた。
たぶん、助けた。
森下はあの三人と向き合えた。
財布の件も、一応終わった。
それなのに、胸の奥に何かが残っている。
小さな刺のようなもの。
取れそうで、取れない違和感。
蓮司は思う。
この事件は、終わったのか。
それとも、終わったことになっただけなのか。
「高城」
背後から声が刺さる。
振り向くと少し離れたところに葛城が立っていた。
いつからそこにいたのかは分からない。
なぜこの場にいたのかも。
「終わったのか」
「表向きはな」
「表向きって何だよ」
「財布は戻った。盗難ではなかった。森下はあの三人と話した。大きな問題にはならない」
「なら、終わりだろ」
「君はそう思うか」
蓮司は答えられなかった。
葛城は森下が歩いていった廊下の先を見る。
「君には力がある」
「またそれか」
「私のライフルでは届かない場所にも届く力だ」
蓮司は右手を見る。
ティルヴァはもうない。
だが、握っていた感覚は、まだ残っている。
「君は彼女を救った」
葛城は言った。
蓮司は顔を上げる。
「同時に、彼女が自分で向き合うはずだったものにまで触れた」
「……」
「その二つは、矛盾しない」
蓮司は唇を噛んだ。
救った。
触れすぎた。
その両方が同時に成り立つ。
それが、どうしようもなく気持ち悪かった。
「だったら、どうすればよかったんだよ」
「さっきも言った。観察する。判断する。必要なら動く」
「それでも間違えたら?」
「間違える」
葛城はあっさり言った。
蓮司は思わず葛城を見る。
「何だよ、それ」
「心を扱う以上、絶対に正しい選択は少ない。だから、見たものを疑え。自分の判断も疑え。だが、必要なときは動け」
「都合のいいこと言ってんな」
「現実とはそういうものだ」
葛城の声は静かだった。
「外界も、内界も、現実から切り離された夢ではない。現実と同じだ。判断を誤れば、誰かが傷つく。判断しなければ、誰かが沈む」
蓮司は何も言えなかった。
葛城は続ける。
「今回、森下は少し動けるようになった。それは事実だ」
「少し?」
「彼女は三人と向き合った。以前なら逃げたかもしれない」
「でも、何か欠けてる」
「その違和感を覚えておけ」
葛城は蓮司を見る。
「力を使った後に、何が残ったかを見る。それも潜心者に必要なことだ」
蓮司は廊下の先を見る。
森下の姿はもう見えない。
女子三人の姿もない。
ただ、夕方の校舎が静かに続いている。
何も起こっていないような廊下。
けれど蓮司には、そこに薄く灰色が重なっているように見えた。
「なあ」
「何だ」
「あの剣」
「ティルヴァか」
「あれは何なんだよ」
葛城はすぐには答えなかった。
その沈黙が、蓮司には気に入らなかった。
「あんた、さっきもティルヴァって呼んだよな。名前まで知ってる。だったら、他にも何か知ってんだろ」
「多くは知らない」
「嘘つけ」
蓮司は右手を握った。
もう黒い刃はない。
「あんなもん、普通じゃねえだろ。握ってるだけで、全部壊せって言われてるみたいだった」
葛城は蓮司の右手を見た。
いつものように、感情の読めない目だった。
「心象具は、その人間の心の像だ」
「じゃあ、俺の心があれだって言いたいのかよ」
「少なくとも、君の中にあの形を取らせる何かがある」
蓮司の喉が詰まった。
「俺は、何なんだよ」
問うつもりはなかった。
けれど、言葉は勝手に落ちた。
葛城は少しだけ間を置いてから答える。
「それを知りたいなら、潜心者として成長しろ」
「答えになってねえ」
「今の君に答えだけ渡しても、理解できない」
葛城は静かに続けた。
「なぜ君の心象具がティルヴァなのか。なぜ君が、あれほど深い場所を壊せるのか。潜心者として見えるものが増えれば、いずれ分かる時が来る」
「……それまで、あんたの授業を受けろってか」
「そうだ」
葛城は当然のように言った。
「明日以降、数学準備室に来なさい」
「説明してくれんのかよ」
「しばらくは基礎だ。それから外界の歩き方を教える」
蓮司は眉をひそめた。
「は?」
「君はまだ、入ることすら安定していない。内界であれだけ振るえる力を持っているなら、なおさら基礎が必要だ」
「それでまずは歩き方かよ」
「そうだ」
葛城は背を向ける。
「学校の勉強と同じだ。基礎を軽んじる者ほど、実戦で間違える」
「うるせえ数学教師」
「数学教師だから言っている」
葛城はそのまま歩き出した。
蓮司はその背中を睨む。
ムカつく。
心底ムカつく。
それでも、葛城の言葉は頭に残る。
君は彼女を救った。
同時に、彼女が自分で向き合うはずだったものにまで触れた。
その二つは、矛盾しない。
財布の件は解決した。
森下は笑った。
女子三人も、もう森下を追い詰めることはないだろう。
それでも、蓮司の中には終わらないものが残っていた。
森下栞の内界に残ったもの。
それが救いだったのか、傷口だったのか。
まだ分からない。
蓮司は廊下の窓を見る。
夕焼けが、校舎の壁を赤く染めている。
現実の影は、ちゃんと足元に伸びていた。
けれどその奥に、色のない世界の輪郭があることを、もう蓮司は知っている。
知らないふりはもうできない。
