(学校って何で行くのかねぇ……)
四限目の終了も近い。もうすぐ昼休みだ。
教室のあちこちで、それまでだるそうだったクラスメイトたちが、そわそわし始めている。
教卓前では、数学教師の葛城が数学のベクトルの説明をしている。
静かな口調ではあるが、威厳のある語り口なので、私語をはさむ生徒たちはいない。
ただし、真剣に聞いているかどうかは別問題だった。
寝ている生徒が注意されているわけでもない。
雑談もない。
楽しさもない。
まともに授業を聞いている生徒は果たして何人いるのだろうか。
高城蓮司も学校は好きではない。
もともと、人と関わるのが得意ではないし、勉強が好きなわけでもない。
理路整然とした説明を聞き流しながら、蓮司は葛城を眺める。
葛城は静かな口調で話す教師だった。
声を荒げるわけではないのに、教室は妙に静かになる。
やや冷たい雰囲気があるので、少し近寄りがたい。
表情もあまり変わらないので、何を考えているかよく分からない。
ただ、冷たいだけの教師ではないらしい。
生徒に頼られているところも、蓮司は何度か見たことがある。
とはいえ、授業となれば話は別だ。
聞いていない生徒の方が圧倒的に多い。
(このベクトルも何の役に立つのか分かんねぇしなぁ……)
授業内容よりも、そういった別のところばかり観察している蓮司もまた、授業を聞いていない生徒の一人である。
(……?)
その葛城の輪郭が一瞬ブレた……ような気がした。
黒板の前に立つ教師の姿が、黒い外套をまとった別人に重なったように見えた。
だが、瞬きすると、そこにいたのはいつも通りスーツ姿の数学教師だった。
(何だ? 今の……)
何度か瞬きしてみるが、もう葛城がブレることはなかった。
(気のせいか?)
昨日は確かに少し寝るのが遅かったから、寝不足なのかもしれない。
そんなとりとめもないことを考えるうちに、チャイムが鳴った。
教室の空気も動き出す。
廊下から声が漏れ聞こえだす。
「では、ここまで」
葛城の短い号令とともに、一気に教室が騒がしくなる。
すぐさま友人のところに駆けよる女子生徒。
教室を出て隣のクラスに行く男子生徒。
みな、誰かしらと関わりに動いている。
だが、蓮司は自分の机に座ったまま、一人でふぅと息を吐いていた。
そのまま、机に突っ伏して軽く目を閉じる。
別に授業に疲れたわけではない。
蓮司は、昼休みがあまり好きではなかった。
騒がしいから、ではない。
友人が少ないから、でもない。
人よりも少し、気づいてしまうことが多いから。
聞き耳を立てたりじっくり観察しているわけではないが、何となく分かってしまう。
前の席の男子のカバンについているキーホルダーが、今日はいつもと違う。
キーホルダーをジャラジャラとつけるタイプではないので、思い入れのある1つをつけていたはず。
それが変わるということは、何か心境に変化があったのだろうか。
隣の席の女子は、いつもよりも口数が少ない。
普段から大人しい方ではあるが、今日は更に少ない。
体調が悪いわけではなさそうなので、何か心配事でもあるのか。
例えば、そんな感じである。
人によっては長所になるはずの性質ではある。
しかし、人付き合いが得意ではない蓮司としては、そんな自分があまり好きではなかった。
だから蓮司は、人の流れから半歩ずれた場所を選ぶことが多い。
教室の隅。
廊下の端。
そこにいれば、余計なものを見なくて済む。
少なくとも、見えたものに関わらずに済む。
しかし、そんな蓮司に声をかけてくる、もの知らずも中にはいる。
「高城、購買行かね?」
黒沢悠斗が、机に突っ伏した蓮司の横から声をかけてきた。
お調子者でクラスのムードメーカーでもある。
個でいることが多い蓮司にも物怖じせずに話しかけてくる。
「行かね」
蓮司は片目だけ開けて答える。
「即答かよ。パン売り切れるぞ」
「昼飯持ってきてる」
「弁当あんのかよ。うちはほとんど作ってくれねぇからなぁ……」
「自分で作れば?」
「お前は作ってんのかよ」
「米を詰めれば終わりだろ」
「ただのおにぎり弁当かよ」
「胃に入れば一緒だろ」
黒沢が笑う。
蓮司も、少しだけ口の端を上げる。
「じゃあ、あいつらと購買行ってくるわ」
「おう」
こういう会話は嫌いではない。
軽くて、後に残らない。
踏み込まれないし、踏み込まなくていい。
無理に友達面しなくてもよい。
蓮司は起き上がると、一人で弁当箱を開けた。
弁当には昨晩の残りと、自分で焼いた卵焼きが詰まっている。
母親は基本的に弁当をつくらない。
作れない、の方が近い。
仕事で朝が早い日もあれば、夜が遅い日もある。
家事は基本的に蓮司が放課後にやることが多い。
今日も夜が遅くなると聞いているので、夕食係は蓮司である。
もう慣れているので、特に不満はない。
(今日の夕食は何にすっかな)
昼食の時間に夕食のことを考えるとか、どこの主婦だよ。
心の中で突っ込みながら、蓮司は箸を取る。
いや、取ろうとして盛大に落とした。
「あ、くそ……」
この高校は上履き制ではあるものの、上履きのまま移動できるエリアが広い。
そのせいで、教室の床まで土が上がりやすい。
そのまま気にせず使うには、蓮司の感性が許さなかった。
(洗ってくるか……)
蓮司はだるそうに立ち上がると、廊下に出た。
向こうから女子の固まりが、一見楽しそうに会話しながら歩いてくる。
聞き覚えのある声だ。
蓮司は箸を持ったまま、足を止めた。
女子の集団の中に瀬川遥はいた。
同じ学年の女子。
クラスは確か隣だったはず。
蓮司とは特別仲がいいわけではない。
ただ、家が隣なので幼い頃から顔見知りではある。
幼馴染といえばそうだが、そう呼べるような仲でもない。
他人よりは近いか、くらい。
そんな距離感である。
遥は女子三人に囲まれるように歩いていた。
珍しい組み合わせではある。
遥は隣のクラスだが、残りの女子三人は蓮司と同じクラスである。
ぱっと見れば、仲のいい女子グループが、クラスを越えて昼休みに談笑しているだけだ。
声も明るい。
笑い声もある。
遥も笑っている。
けれど、蓮司には少し引っかかった。
遥の歩幅だけが小さい。
笑っているのに、視線は相手の顔ではなく、床の少し手前に落ちている。
(なんか、緊張してるっぽいな)
でも、それだけだ。
関わるつもりはない。
蓮司は、進路が重ならないように廊下の端によりながら歩く。
「だから、遥が呼んでよ」
「栞も遥なら聞いてくれるしさ」
蓮司の耳に、そんな声が届いた。
何の話かまでは分からない。
遥は曖昧に笑っていた。
「でも……」
「じゃなくてさ……」
蓮司は内心、顔をしかめる。
面倒な空気だ。
笑っているのに、誰も逃げ道を用意していない。
かといって、ここで声をかけるほど遥と仲がいいわけでもない。
事情も知らない。
何より、蓮司が口を出したところで、状況がよくなる訳でもない。
蓮司は視線を別方向にそらしながら、足を少し速める。
洗い場に行くだけだ。
箸を洗って、飯を食う。
それで終わり。
女子たちの固まりとすれ違う。あと数歩。
そのときだった。
視界が、ぐにゃりと歪んだ。
「……っ!?」
蓮司は思わず足を止めた。
目まいではない。
廊下が揺れたわけでもない。
世界の方が、一枚ずれた。
見慣れた学校の廊下。
昼休みの騒がしい廊下。
その裏側に、もう一つの廊下が重なった。
(これは……!?)
とっさに目を凝らす。
いや、目で見ているのかどうかも分からない。
ただ、何かを探るように意識が奥へ伸びた。
よく見ると、色がない。
白黒というほど単純でもない。
全体が薄い灰色に沈んでいた。
蛍光灯の光はある。
だが、影はない。
人はいる。
だが、気配が薄い。
動きもひどく緩慢。
現実の生徒たちとほぼ同じ場所に、人の形をした薄いものが揺れている。
輪郭はある。
半分ほど重なっているため、はっきりとは分からないが、表情がない。
声もない。
蓮司は呼吸を忘れた。
何だよ、これ……
そう思った瞬間、灰色の廊下に色彩に乏しい遥が見えた。
現実の遥と少し場所がずれている。
本人の位置よりも蓮司に近い。
現実の遥は笑っていた。
灰色の遥は、無表情だった。
遥にだけ影がある。
いや、影ではない。黒いしみのようだ。
水たまりのようで、水ではない。
影のようで、影ではない。
影がない世界に、そこだけ黒く沈んでいる。
黒い染みから、細い糸のようなものが伸びていた。
糸は遥の足首に絡んでいる。
手首にも。
首元にも。
遥は抵抗していない。
そもそも糸を何も感知していない様子だ。
ただ、口元だけがかすかに動いていた。
声は聞こえない。
動いた口元も読唇できるような動きではない。
しかし、何を言っているのかは理解できた。
やめて……
四限目の終了も近い。もうすぐ昼休みだ。
教室のあちこちで、それまでだるそうだったクラスメイトたちが、そわそわし始めている。
教卓前では、数学教師の葛城が数学のベクトルの説明をしている。
静かな口調ではあるが、威厳のある語り口なので、私語をはさむ生徒たちはいない。
ただし、真剣に聞いているかどうかは別問題だった。
寝ている生徒が注意されているわけでもない。
雑談もない。
楽しさもない。
まともに授業を聞いている生徒は果たして何人いるのだろうか。
高城蓮司も学校は好きではない。
もともと、人と関わるのが得意ではないし、勉強が好きなわけでもない。
理路整然とした説明を聞き流しながら、蓮司は葛城を眺める。
葛城は静かな口調で話す教師だった。
声を荒げるわけではないのに、教室は妙に静かになる。
やや冷たい雰囲気があるので、少し近寄りがたい。
表情もあまり変わらないので、何を考えているかよく分からない。
ただ、冷たいだけの教師ではないらしい。
生徒に頼られているところも、蓮司は何度か見たことがある。
とはいえ、授業となれば話は別だ。
聞いていない生徒の方が圧倒的に多い。
(このベクトルも何の役に立つのか分かんねぇしなぁ……)
授業内容よりも、そういった別のところばかり観察している蓮司もまた、授業を聞いていない生徒の一人である。
(……?)
その葛城の輪郭が一瞬ブレた……ような気がした。
黒板の前に立つ教師の姿が、黒い外套をまとった別人に重なったように見えた。
だが、瞬きすると、そこにいたのはいつも通りスーツ姿の数学教師だった。
(何だ? 今の……)
何度か瞬きしてみるが、もう葛城がブレることはなかった。
(気のせいか?)
昨日は確かに少し寝るのが遅かったから、寝不足なのかもしれない。
そんなとりとめもないことを考えるうちに、チャイムが鳴った。
教室の空気も動き出す。
廊下から声が漏れ聞こえだす。
「では、ここまで」
葛城の短い号令とともに、一気に教室が騒がしくなる。
すぐさま友人のところに駆けよる女子生徒。
教室を出て隣のクラスに行く男子生徒。
みな、誰かしらと関わりに動いている。
だが、蓮司は自分の机に座ったまま、一人でふぅと息を吐いていた。
そのまま、机に突っ伏して軽く目を閉じる。
別に授業に疲れたわけではない。
蓮司は、昼休みがあまり好きではなかった。
騒がしいから、ではない。
友人が少ないから、でもない。
人よりも少し、気づいてしまうことが多いから。
聞き耳を立てたりじっくり観察しているわけではないが、何となく分かってしまう。
前の席の男子のカバンについているキーホルダーが、今日はいつもと違う。
キーホルダーをジャラジャラとつけるタイプではないので、思い入れのある1つをつけていたはず。
それが変わるということは、何か心境に変化があったのだろうか。
隣の席の女子は、いつもよりも口数が少ない。
普段から大人しい方ではあるが、今日は更に少ない。
体調が悪いわけではなさそうなので、何か心配事でもあるのか。
例えば、そんな感じである。
人によっては長所になるはずの性質ではある。
しかし、人付き合いが得意ではない蓮司としては、そんな自分があまり好きではなかった。
だから蓮司は、人の流れから半歩ずれた場所を選ぶことが多い。
教室の隅。
廊下の端。
そこにいれば、余計なものを見なくて済む。
少なくとも、見えたものに関わらずに済む。
しかし、そんな蓮司に声をかけてくる、もの知らずも中にはいる。
「高城、購買行かね?」
黒沢悠斗が、机に突っ伏した蓮司の横から声をかけてきた。
お調子者でクラスのムードメーカーでもある。
個でいることが多い蓮司にも物怖じせずに話しかけてくる。
「行かね」
蓮司は片目だけ開けて答える。
「即答かよ。パン売り切れるぞ」
「昼飯持ってきてる」
「弁当あんのかよ。うちはほとんど作ってくれねぇからなぁ……」
「自分で作れば?」
「お前は作ってんのかよ」
「米を詰めれば終わりだろ」
「ただのおにぎり弁当かよ」
「胃に入れば一緒だろ」
黒沢が笑う。
蓮司も、少しだけ口の端を上げる。
「じゃあ、あいつらと購買行ってくるわ」
「おう」
こういう会話は嫌いではない。
軽くて、後に残らない。
踏み込まれないし、踏み込まなくていい。
無理に友達面しなくてもよい。
蓮司は起き上がると、一人で弁当箱を開けた。
弁当には昨晩の残りと、自分で焼いた卵焼きが詰まっている。
母親は基本的に弁当をつくらない。
作れない、の方が近い。
仕事で朝が早い日もあれば、夜が遅い日もある。
家事は基本的に蓮司が放課後にやることが多い。
今日も夜が遅くなると聞いているので、夕食係は蓮司である。
もう慣れているので、特に不満はない。
(今日の夕食は何にすっかな)
昼食の時間に夕食のことを考えるとか、どこの主婦だよ。
心の中で突っ込みながら、蓮司は箸を取る。
いや、取ろうとして盛大に落とした。
「あ、くそ……」
この高校は上履き制ではあるものの、上履きのまま移動できるエリアが広い。
そのせいで、教室の床まで土が上がりやすい。
そのまま気にせず使うには、蓮司の感性が許さなかった。
(洗ってくるか……)
蓮司はだるそうに立ち上がると、廊下に出た。
向こうから女子の固まりが、一見楽しそうに会話しながら歩いてくる。
聞き覚えのある声だ。
蓮司は箸を持ったまま、足を止めた。
女子の集団の中に瀬川遥はいた。
同じ学年の女子。
クラスは確か隣だったはず。
蓮司とは特別仲がいいわけではない。
ただ、家が隣なので幼い頃から顔見知りではある。
幼馴染といえばそうだが、そう呼べるような仲でもない。
他人よりは近いか、くらい。
そんな距離感である。
遥は女子三人に囲まれるように歩いていた。
珍しい組み合わせではある。
遥は隣のクラスだが、残りの女子三人は蓮司と同じクラスである。
ぱっと見れば、仲のいい女子グループが、クラスを越えて昼休みに談笑しているだけだ。
声も明るい。
笑い声もある。
遥も笑っている。
けれど、蓮司には少し引っかかった。
遥の歩幅だけが小さい。
笑っているのに、視線は相手の顔ではなく、床の少し手前に落ちている。
(なんか、緊張してるっぽいな)
でも、それだけだ。
関わるつもりはない。
蓮司は、進路が重ならないように廊下の端によりながら歩く。
「だから、遥が呼んでよ」
「栞も遥なら聞いてくれるしさ」
蓮司の耳に、そんな声が届いた。
何の話かまでは分からない。
遥は曖昧に笑っていた。
「でも……」
「じゃなくてさ……」
蓮司は内心、顔をしかめる。
面倒な空気だ。
笑っているのに、誰も逃げ道を用意していない。
かといって、ここで声をかけるほど遥と仲がいいわけでもない。
事情も知らない。
何より、蓮司が口を出したところで、状況がよくなる訳でもない。
蓮司は視線を別方向にそらしながら、足を少し速める。
洗い場に行くだけだ。
箸を洗って、飯を食う。
それで終わり。
女子たちの固まりとすれ違う。あと数歩。
そのときだった。
視界が、ぐにゃりと歪んだ。
「……っ!?」
蓮司は思わず足を止めた。
目まいではない。
廊下が揺れたわけでもない。
世界の方が、一枚ずれた。
見慣れた学校の廊下。
昼休みの騒がしい廊下。
その裏側に、もう一つの廊下が重なった。
(これは……!?)
とっさに目を凝らす。
いや、目で見ているのかどうかも分からない。
ただ、何かを探るように意識が奥へ伸びた。
よく見ると、色がない。
白黒というほど単純でもない。
全体が薄い灰色に沈んでいた。
蛍光灯の光はある。
だが、影はない。
人はいる。
だが、気配が薄い。
動きもひどく緩慢。
現実の生徒たちとほぼ同じ場所に、人の形をした薄いものが揺れている。
輪郭はある。
半分ほど重なっているため、はっきりとは分からないが、表情がない。
声もない。
蓮司は呼吸を忘れた。
何だよ、これ……
そう思った瞬間、灰色の廊下に色彩に乏しい遥が見えた。
現実の遥と少し場所がずれている。
本人の位置よりも蓮司に近い。
現実の遥は笑っていた。
灰色の遥は、無表情だった。
遥にだけ影がある。
いや、影ではない。黒いしみのようだ。
水たまりのようで、水ではない。
影のようで、影ではない。
影がない世界に、そこだけ黒く沈んでいる。
黒い染みから、細い糸のようなものが伸びていた。
糸は遥の足首に絡んでいる。
手首にも。
首元にも。
遥は抵抗していない。
そもそも糸を何も感知していない様子だ。
ただ、口元だけがかすかに動いていた。
声は聞こえない。
動いた口元も読唇できるような動きではない。
しかし、何を言っているのかは理解できた。
やめて……
