サヨナラの理由は選択の余白に詰めて

「え、病院⁈」
向かっている最中、まさか行き先が病院だとは思っていなかったから、つい電車内で叫んでしまった。
「そうだよ。ていうか、ちょっとは静かにしてよね。ここ電車内だし」
皮肉混じりに言われ、少し冷静になった。
そしてさっきから陽菜が、なんだかずっと怒っていることにようやく気がついた。
陽菜の弟さん…。
一体、どんな子なんだろうか。陽菜はなんで病院に行くのだろうか。
そういうことを考えると、少し緊張してきてしまった。

病院に着くと、妙な静けさを前にして急に足が重くなった。
学校とは全てが違った。
濃いアルコールの匂い。廊下を歩く看護師。遠くから規則正しく聞こえる機械音。
俺はさっきまで言っていた言葉を思い出した。今も同じことを思ってはいるけど、こんなにも近くに入院患者がいることを考えると、少しだけ言い張れる自信がなくなっていた。
「緊張してる?」
陽菜が聞いてきた。
「ちょっとだけ」
「大丈夫だよ」
「何が?」
「普通の子だから」
普通の子。
その言葉が妙に引っかかった。悶々と考え込んでいる間に、病室の前まで来ていた。ノックをした後、陽菜はドアを開けた。
「陽翔」
ベッドにいた少年が顔を上げた。
「姉ちゃん、遅い」
「ごめん」
「今日も学校?」
「そうだよ」
「宿題は?」
「してない」
「高校生なのに?そんなんで大丈夫?」
「うるさい。こう見えて忙しいの!」
陽翔が笑って、陽菜の目つきが少し和らいだ気がした。
俺は少し驚いた。
病院で入院しているみたいだから、もっと静かな子だと思っていた。でも、目の前にいるのは普通の小学六年生だった。
「で、そっちは?どちら様?」
陽翔がゆっくり視線を俺に移した。
「俺?」
「うん」
「……きみのお姉ちゃんの友達」
言った直後、陽菜が間も置かずに突っ込んできた。
「彼氏」
「ちょっと!」
陽翔が目を丸くする。
「えっ⁉︎姉ちゃんって、彼氏いたの?」
「いたよ」
「いつから?」
「1年の夏休みから」
「写真ある?」
「本人がいるでしょ」
「…そっか。本物だ」
その後も、陽翔は俺の答えを待つ前に次々と質問してきた。
その様子がいかにも面白くて、俺たち3人は腹を抱えた。
いつの間にか、病院に来る前の緊張が少しなくなっていた。

俺たちは三人で話した。
学校のことや、ゲームのことに、好きな食べ物など、話題は他にも色々。
陽翔は、俺が思っていたよりずっとよく喋った。
「高校って楽しい?」
「まあまあ」
「彼女いると?」
「楽しいよ」
「姉ちゃんのどこが好き?」
「陽翔!」
俺は思わず笑った。
「なんで俺に聞くんだよ」
「気になるから」
「普通じゃない?」
「じゃあ、どこ?」
「……優しいところ」
横では陽菜が少し照れていた。それをみて陽翔は満足そうに笑っていた。
その時間だけを見れば、ここが病院だということを忘れそうだった。
でも、俺はふと、机の上に置かれていた薬を見た。
もしかして、入院するほどの病気なのだろうか。
さっきまで普通に笑っていた少年と、その言葉がどうしても結びつかなかった。

しばらくして、陽菜が飲み物やお菓子の差し入れを買いに病室を出たから、俺と陽翔だけになった。
「ねえ、蓮兄ちゃん」
「ん?」
「姉ちゃんと付き合ってるんだよね?」
「うん」
「じゃあ、僕のことも知ってる?」
「いや、あんまり聞いたことはない」
「そっかー…」
陽翔は窓の外を見た。その横顔は、妙に大人びているように感じた。
「じゃあさ、蓮兄ちゃん、安楽死って知ってる?」
俺の心臓が一瞬止まったような気がした。
「……え?」
「先生から話されたんだ」
陽翔は静かに語り始めた。
「僕さ、中枢神経系がんを持ってるんだ。脳や脊髄にできる腫瘍や悪性リンパ腫なんだって。普通は高確率で治るんだけど、僕の場合、発見が遅れちゃって……。すでにグレード4まで進行してるんだ。それで、これからもっと病気が悪くなったら、どうしたいかって」
俺は何も言えなかった。
「僕、選べるんだって」
「……そうなんだ」
「うん」
陽翔は笑った。でも、その笑顔はさっきとは少し違った。
「蓮兄ちゃんはどう思う?」
俺は答えようとした。
『本人が決めればいい』と、昨日までならそう言っていただろう。
でも、今、目の前には陽翔がいる。
ゲームの話をして、お姉ちゃんをからかって、将来の話をしていた、まだ小学六年生だ。
「……分からない」
俺は初めてそう答えた。意外だったのか、陽翔は少し驚いた。
「分からないの?」
「……うん。昨日までなら、簡単に答えられたと思う」
「その時だったら何て言う?」
俺は少し黙ってから言った。
「苦しいなら、安楽死を選んでもいいんじゃないかって」
陽翔は黙った。
「でも、今は分からない」
「どうして?」
「お前に会ったから」
陽翔が真っ直ぐな目で俺を見る。
「会ったから?」
「うん」
俺は必死に言葉を探した。
「俺、お前が病気っていうことも知らなかったんだ」
「え、そうなの?!」
「そうだよ。でも、実際に会ったら普通に笑うし、ゲームの話するし、陽菜をからかうし」
「だって面白いもん」
「だから……」
言葉が続かなかくて、思わず俯いた。その時、視界の上で、陽翔が小さく笑った。
「兄ちゃん、変なの」
「そうかもな」
「でも、ありがとう」
「何が?」
「分からないって言ってくれて」
俺はその意味が分からなかった。でも、あえて聞き返さなかった。

病院を出ると、空はすでに漆黒のごとく暗かった。肌に触れる夜風がとても冷たい。
俺と陽菜は並んで歩いた。
「どうだった?」
小さな声で陽菜が聞いてきた。
「……分からなくなった」
「何が?」
「安楽死」
言いたい事がありそうな様子だが、陽菜は黙った。
「俺、今まで簡単に言ってた。本人が選べばいいって思ってた。でも、病状のこと聞いたら…」
「うん」
「…本人って言っても、そんな簡単じゃないんだな」
陽菜は前を向いたまま歩いている。
「陽翔はどうしたいんだろうな」
「私にも分かんない」
「聞いたことないの?」
「聞いたよ」
「何て?」
打ち明けたくもなかったんだろう。陽菜の瞳孔が潤んでいた。
「怖いって」
「……」
「死ぬのも怖い。苦しいのも怖いって」
俺は何も言えなかった。
「私は、陽翔に生きてほしい」
続けて、陽菜は声を張り上げて言った。
「でも、私が生きてほしいからって、陽翔に苦しんでほしいわけじゃない!」
「うん」
「だから、もう分からない。いつの間にか考えるのも怖くなっちゃって……逃げた」
その言葉を聞いて、俺は思った。
この問題には、簡単な答えなんてないのかもしれない。