サヨナラの理由は選択の余白に詰めて

数か月後。
少しだけ暖かくなり、梅が小さく、力強く咲き誇る3月。
学校の授業で、先生が言った。
「今日の宿題は『命について考える』というテーマで作文を書いてもらいます。放課後残ってやってもいいですよ」
俺は机の上に原稿用紙を置いた。
なんとなくペンを持つけど、何を書けばいいのか、すぐには思いつかなかった。
『安楽死』
その言葉がふと頭に浮かぶ。
俺は以前、『本人が選べばいい。むしろやってあげるべきだ』と思っていた。
だが、今でも、その言葉が間違いだったとは簡単には言えない。
人には、自分の人生について考える権利がある。
苦しみから逃れたいと思うこともある。
だけど、家族にも、それぞれの願いがある。
医療にも、できることとできないことがある。
全部、分かっているわけではない。
だから俺は、作文の最初にこう書いた。
『僕には、安楽死が正しいのか、間違っているのか分かりません。』
その次に、『でも、分からないまま考え続けることは、大切だと思います。』と続けた。
そして、陽翔のことを書いた。

小学六年生だった。
バトルゲームが好きで、めっちゃ強かった。
お姉ちゃんをからかうのが好きだった。
将来のことも考えていた。
重い病気だった。
死ぬのが怖かった。
苦しいのも怖かった。
生きたいと思っていたかもしれない。
安楽死を選んだのかもしれない。
選ばなかったのかもしれない。

俺には分からない。
でも、この半年間の経験を通して、一つだけ分かったことがある。
人の命を、外側にいる人間が簡単に決めてはいけない。
『死んだほうがいい』と言うのも、『絶対に生きなければいけない』と言うのも、その人の人生を知らないままなら、同じくらい簡単な言葉なのかもしれない。
だから俺は、その人が何を考えているのか、何を怖がっているのか、何を望んでいるのかを、聞く人になりたい。答えを押しつける人ではありたくない。
俺はペンを置いた。
窓の外を見ると、あの日、病室から見たときと同じような空だった。
俺は思い出す。
「蓮兄ちゃん」
「ん?」
「僕、大人になったら何になればいいと思う?」
「何になりたい?」
「ゲーム作る人」
「じゃあ、それでいいじゃん」
あの会話を。
陽翔が何を選んだのか、俺には分からない。
でも、もう本人に聞くことはできない。
だから俺は、その答えを勝手に決めないことにした。
「陽翔」
天に向かって小さく名前を呼ぶ。返事はない。それでも俺は、もう一度言った。
「約束、守るから」
あの日、絡めた小指を思い出す。
陽菜を大切にする。
そしてもう二度と、命について簡単な言葉で語らない。
分からないことから逃げない。
それが、今の俺にできる精一杯のことだった。

俺はとうとう作文の最後の一行を書いた。
『答えは、今も分からない。』
それから、もう一行。
『だから僕は、これからも考え続けるんだ。』
ペンを置いたときには、教室には既に、俺一人しかいなかった。
静かな教室。
静かな夕方。
そして、誰にも分からない最後の答えだけが、胸の中に残っていた。

*

「作文か……」
私は今でも、あの日のことを考える。
あの子は、何を選んだのだろう。
生きることだったのか。
それとも、苦しみから解放されることだったのか。
私には、もう分からない。
ただ、命は、誰かが簡単に答えを出せるほど、単純なものじゃないということを、痛いほど知った。
病室の窓から見えていた空を、私は今でも覚えている。
あの空の向こうで、弟が何を選んだのか。
その答えだけは、最後まで私のところには届かなかった。

「蓮……」
一緒に帰ろうと誘おうとしたが、蓮は必死に作文を書いていた。
今日は一人で帰ろうと決めて、帰路に着いた。
一歩外に出たら、そこは一面、陽翔がもう見ることのできない空。
それでも、私は思う。
陽翔が生きていた時間は、最後の一瞬だけではない。
笑った時間も。
怒った時間も。
怖がった時間も。
生きたいと願った時間も。
全部が、陽翔の人生だった。自慢の弟の作った道だった。
そして最後に残された手紙。
私はその言葉を、何度も心の中で読み返した。
その『ありがとう』が何を意味していたのか。
……これだけ時間が経っても、私には分からなかった。
けれど、その分からなさを抱えたままでも、陽翔を大切に思うことはできる。
私はその空を見ながら、心の中で弟に話しかけた。
――陽翔。
――ありがとう。
そうして私は、ようやく前を向けた。弟がいなくなった世界で。
それでも続いていく、自分の人生の中で、私はこれからも、あの日の問いを抱えて生きていく。
『人は、自分の命を、どこまで自分で決めることができるのだろう。』
その答えが分からないからこそ、考え続ける。
誰かの命を思うとき。
誰かの苦しみを思うとき。
そして、自分自身が生きることに迷ったとき。
私はきっと、あの日の病室を思い出す。
笑っていた弟の顔を。
『お姉ちゃん』と呼ぶ声を。