サヨナラの理由は選択の余白に詰めて

その言葉を聞いたのは、放課後の教室だった。
「もしさ、絶体に治らない病気になったら、安楽死って選んでもいいと思う?」
放課後の教室で、蓮(れん)がそう言った。
窓の外では、九月の夕日が校舎を赤く染めていた。
教室には部活動に向かう生徒たちの声が聞こえていた。校庭からは運動部の掛け声が響き、廊下を走っていく足音がする。
いつもと変わらない放課後だった。
六時間目の授業が終わってから、もう三十分以上経っている。教室に残っている生徒は、私たちを含めて三人だけだった。
私は机の上に広げて書いていたクラス日誌を閉じた。
「急にどうしたの?」
「いや、今日ニュースで見たから。ほら、あの芸能人が末期癌でとうとうっていうやつ」
蓮はスマートフォンを机の上に置いた。画面には、それに関するニュースの記事が表示されていた。私はちらりと見ただけで、すぐに目を逸らした。
「安楽死?」
「そう」
蓮は軽く頷いた。
「俺は、ありだと思うけどな」
その言葉に、私は顔を上げた。
「どうして?」
「だって、治らないんだろ?」
「うん」
「ずっと苦しい思いをするくらいなら、苦しむ時間を短くしてあげるのも、優しさなんじゃない?」
その瞬間、胸の奥に、冷たいものが落ちた。
それは怒りだったのかもしれないし、悲しみだったのかもしれない。あるいは、怖さだったのかもしれない。
あまりにも簡単な言い方だった。まるで、明日の昼ご飯を何にするか決めるみたいに。
私はしばらく何も言わなかった。蓮は私の顔を覗き込んできて、少し首を傾げる。
「……なんか変なこと言った?」
「ううん」
「じゃあ、なんで黙ってるの?」
私は机の上に置いた自分の手を見つめた。蓮は少し考えていた。
「家族もつらいだろうけど、最終的には本人じゃない?」
私はまた黙った。もう、心の奥底では怒りが湧いてきていた。
「……そういうこと、簡単に言わないで」
自分でも驚くほど低い声が出た。
「え?」
「ごめん。でも……」
私は拳を強く握りしめた。若干長い爪が食い込んで痛い。
「命は、ものじゃないから」
蓮の表情が止まった。
「……分かってるよ」
「本当に?」
「分かってるって」
「じゃあ、どうしてそんな簡単に決められるの?」
「決めるって……」
「他人が生きるか死ぬかを、会ったこともない人が『そのほうがいい』って言えるの?」
「…さっきからどうしたんだよ」
蓮に悪意がないということは分かっていた。誰かに死んでほしいと思っているわけでもなく、苦しんでいる人を楽にしてあげたい。
たぶん、それだけだ。
…でも、その『誰か』には、私の弟も当てはまる。
「陽菜(ひな)?」
私は鞄に教科書をしまった。
さっきから、頭の中には、病室で笑う弟の顔が浮かんでいた。
そして、ふと思った。
――蓮は、弟に会ったことがない。
だったら。
「……じゃあ」
「ん?」
「会ってみる?」
「誰に?」
「私の弟」
蓮の表情が止まった。やけに瞬きをしている。
「弟さん?」
「うん」
「……いいの?」
「別に、いいよ」
「でも、いきなり俺が行っても大丈夫かな」
「私の弟人見知りじゃないから大丈夫」
「そっか」
私は立ち上がって、目も合わせず言った。
「じゃ、行こう」
自分で言うのもなんだが、私の声には、いつもの柔らかさがなかった。教室の時計は、午後五時を少し過ぎていた。

電車の中で、蓮はほとんど話さなかった。
いつもなら、学校のことや部活のことを話すし、くだらない話もしてくれる。
昨日見た動画の話。先生の愚痴。テストの点数。次の休みにどこへ行くか。
でも今日は違った。電車の窓に流れていく街を見ながら、蓮はずっと黙っていた。

私には、小学六年生の弟がいる。
名前は陽翔(はると)。
重い病気を患っていて、長い間、病院で過ごしている。治療を続けているけれど、病気が良くなる可能性は低くて、残された時間も、そう長くはない。
彼はまだ、この事を知らない。

友達と一緒にお見舞いに行くとき、よく『陽菜は慣れてるから緊張しないかもだけど』と言われる。
その言葉に対しては、私はいつも何も返さなかった。
慣れている。
確かにそうなのかもしれない。
病室の匂いにも、点滴の音にも、看護師の声にも。
……毎日少しずつ変わっていく陽翔の顔にも。
でも、本当は慣れてなんかいなかった。
ただ、慣れたふりをしていただけだった。