熊本に行く前に、やることがある。
もちろんそれは――体調を万全にしておくこと。
行く前に熱が40℃とかになってしまったら絶対に行けなくなってしまう。お腹が痛いとか、頭が痛いくらいなら……我慢できることなのであれば、絶対にバレないようにしないといけなくなる。
本音を言えばそんな心配なんてすることなく、楓くんと一緒に行きたい。
あの場所に。
8月6日
14:09
『美咲ちゃん、体調大丈夫?』
『明日、駅に8時で良かったよね? 一応確認と思って』
『気付いた時に、返信してくれれば良いから』
17:27
『ごめん! 気付かなかった』
『そうだよ、8時に駅集合!』
寝ていた。エアコンを入れておいたから、汗だくで起きたわけじゃ無いけれど……少し熱があるような感じ。ふわふわと宙を漂う感覚がある。体調が悪いからなのか。緊張しているからなのか……分からない。できるだけ大人しくして、体調を戻しておかないとなと思う。頭痛は、今のところない。
17時40分頃に「了解!」とスタンプだけが送られてきた。
「美咲、ご飯。食べれるか?」
台所の方から、お父さんの声が部屋に届いた。声に反応するようにスマホを見ると、18時を少し回っている。
……ちょっと熱っぽいけど、お父さんにはバレないようにしようと思う。体温計で測る必要は無いくらいだから。
「あー……いよいよ明日か。緊張するよ」
椅子を引きながら、できるだけいつも通りを装う。お父さんがチラリと私を見た気がしたけど、気付いていないふりをした。
「体調は? 大丈夫そうなのか?」
「うん。不思議なもんだよね。今のとこ大丈夫」
熱っぽいからなのか、おでこの辺りから汗が滲む。手の震えを抑えながら、自然な感じで箸を手に取った。
「でもさ、本当にありがとう」
「……あぁ」
「ホテル、予約したの?」
「一応な。下通の近くにあるホテルにしといたから」
「うん。その方が便利だもんね」
熊本は車がないと、あちこち移動するのが大変。磯子や横浜とは全然違う。ホテルも中心街に集まっていて、交通手段はバスか電車になるけど……ここと比べると、本数や規模は圧倒的に少ない。皆、何をするにも中心街に集まってくる。それが私が育った街。熊本だ。
「ほら、これ持って行って」
「……何? これ」
お父さんが横に置いてあった1枚の紙を、私の目の前に出してきた。茶碗を下ろして、紙を手に取る。
「……未成年同意書」
「あぁ。明日、これ忘れるなよ」
「何これ。どうするの?」
「ホテルに泊まる時に必要なんだよ。お父さん達がその場にいないから」
「……そっか。うん、分かった」
「楓くんも、自分の分を持ってくると思うから。一緒にホテルで出したら良い」
「あっ……うん。こんなの要るんだね」
「そりゃそうだろう。こんな時代だからな」
すでにファックスでホテルには送ってあるらしい。明日は念のために持って行くように言われた。「楓くんとお父さんが電話したのって、こういう話をしてたのかな」と、同意書を見つめながらぼんやりと考えた。
「すごいね。……ありがとう」
2泊分のホテル、そして往復の航空券はお父さんが購入してくれている。
「ありがと。……帰ったら大きい病院、ちゃんと行くから」
「そうだな。それが条件だしな。忘れてないみたいで良かったよ」
「忘れるわけ無いじゃん」と私達は笑った。熱のせいなのか、頭を動かすと一瞬くらっとした。熱もなく、頭痛もなく、心の底から笑うことができる日はくるのかなと思った。
「本当はね、お父さんとも行きたいんだよ?」
「……ついでみたいな言い方するなよ」
「そんなこと無いって」
「美咲がちゃんと治ったらな。一緒に行こう」
「うん。今回は楓くんと行ってくる」
「……あぁ。彼なら大丈夫だろ。ちゃんとしてる」
「……どういう意味?」
「ん? 電話の口調。話した感じ、何となく」
「ふぅん。でも、ちゃんとしているよ?」
見たことも、会ったこともないくせに……一体何を言ってるんだろうと私は思った。
「あの家、どうなってるんだろうね」
「うん? 前に住んでいた家のことか?」
「そう。ここに来る前に住んでたトコ」
「……さあなぁ。賃貸だったけど……厳しいんじゃないのかな」
「そうだよね……色々あったなあ」
テレビから出てくる笑い声とは対照的に、私とお父さんはお互いの想いに浸る。「うるさいな」と思った私はリモコンを探してテレビを消した。
「お父さんはさ、行きたいなーとか思わないの?」
「うーん……あまり思わないかな」
「そうなんだ」
「毎日忙しいってのもあるけど……お父さんはあまり、場所がどうのこうのっていうのはないな」
「……ふーん」
「今、お父さんとか美咲が幸せなら、それで良いって思ってるくらいだな」
「そっか……私が過去に縛られ過ぎなのかな」
「それは一人ひとり違って良いんじゃないか。合ってる、間違ってるじゃないと思うよ」
「うん……私はあの場所に行きたいなって思うから」
「あぁ。今の自分の気持ちに正直になれば、それで良いと思う」
「うん」
お父さんと茜と3人で暮らした家。日曜日に歩いた場所。毎日通った学校。上手く言えないけど……供養したいとか、そういうことじゃない。ただ、もう一度見たい。感じたい。
……それで、次に進めるような気がしたから。
今、もう一度見ないといけないような気がしたから。
栄ケ丘高校で生活して、楓くんと出会って、それに気付けたのかも知れない。
ただ、そう思っただけ。
ちょっと遠いけど。
――ああ、明日は、元気いっぱいでありますように。
もちろんそれは――体調を万全にしておくこと。
行く前に熱が40℃とかになってしまったら絶対に行けなくなってしまう。お腹が痛いとか、頭が痛いくらいなら……我慢できることなのであれば、絶対にバレないようにしないといけなくなる。
本音を言えばそんな心配なんてすることなく、楓くんと一緒に行きたい。
あの場所に。
8月6日
14:09
『美咲ちゃん、体調大丈夫?』
『明日、駅に8時で良かったよね? 一応確認と思って』
『気付いた時に、返信してくれれば良いから』
17:27
『ごめん! 気付かなかった』
『そうだよ、8時に駅集合!』
寝ていた。エアコンを入れておいたから、汗だくで起きたわけじゃ無いけれど……少し熱があるような感じ。ふわふわと宙を漂う感覚がある。体調が悪いからなのか。緊張しているからなのか……分からない。できるだけ大人しくして、体調を戻しておかないとなと思う。頭痛は、今のところない。
17時40分頃に「了解!」とスタンプだけが送られてきた。
「美咲、ご飯。食べれるか?」
台所の方から、お父さんの声が部屋に届いた。声に反応するようにスマホを見ると、18時を少し回っている。
……ちょっと熱っぽいけど、お父さんにはバレないようにしようと思う。体温計で測る必要は無いくらいだから。
「あー……いよいよ明日か。緊張するよ」
椅子を引きながら、できるだけいつも通りを装う。お父さんがチラリと私を見た気がしたけど、気付いていないふりをした。
「体調は? 大丈夫そうなのか?」
「うん。不思議なもんだよね。今のとこ大丈夫」
熱っぽいからなのか、おでこの辺りから汗が滲む。手の震えを抑えながら、自然な感じで箸を手に取った。
「でもさ、本当にありがとう」
「……あぁ」
「ホテル、予約したの?」
「一応な。下通の近くにあるホテルにしといたから」
「うん。その方が便利だもんね」
熊本は車がないと、あちこち移動するのが大変。磯子や横浜とは全然違う。ホテルも中心街に集まっていて、交通手段はバスか電車になるけど……ここと比べると、本数や規模は圧倒的に少ない。皆、何をするにも中心街に集まってくる。それが私が育った街。熊本だ。
「ほら、これ持って行って」
「……何? これ」
お父さんが横に置いてあった1枚の紙を、私の目の前に出してきた。茶碗を下ろして、紙を手に取る。
「……未成年同意書」
「あぁ。明日、これ忘れるなよ」
「何これ。どうするの?」
「ホテルに泊まる時に必要なんだよ。お父さん達がその場にいないから」
「……そっか。うん、分かった」
「楓くんも、自分の分を持ってくると思うから。一緒にホテルで出したら良い」
「あっ……うん。こんなの要るんだね」
「そりゃそうだろう。こんな時代だからな」
すでにファックスでホテルには送ってあるらしい。明日は念のために持って行くように言われた。「楓くんとお父さんが電話したのって、こういう話をしてたのかな」と、同意書を見つめながらぼんやりと考えた。
「すごいね。……ありがとう」
2泊分のホテル、そして往復の航空券はお父さんが購入してくれている。
「ありがと。……帰ったら大きい病院、ちゃんと行くから」
「そうだな。それが条件だしな。忘れてないみたいで良かったよ」
「忘れるわけ無いじゃん」と私達は笑った。熱のせいなのか、頭を動かすと一瞬くらっとした。熱もなく、頭痛もなく、心の底から笑うことができる日はくるのかなと思った。
「本当はね、お父さんとも行きたいんだよ?」
「……ついでみたいな言い方するなよ」
「そんなこと無いって」
「美咲がちゃんと治ったらな。一緒に行こう」
「うん。今回は楓くんと行ってくる」
「……あぁ。彼なら大丈夫だろ。ちゃんとしてる」
「……どういう意味?」
「ん? 電話の口調。話した感じ、何となく」
「ふぅん。でも、ちゃんとしているよ?」
見たことも、会ったこともないくせに……一体何を言ってるんだろうと私は思った。
「あの家、どうなってるんだろうね」
「うん? 前に住んでいた家のことか?」
「そう。ここに来る前に住んでたトコ」
「……さあなぁ。賃貸だったけど……厳しいんじゃないのかな」
「そうだよね……色々あったなあ」
テレビから出てくる笑い声とは対照的に、私とお父さんはお互いの想いに浸る。「うるさいな」と思った私はリモコンを探してテレビを消した。
「お父さんはさ、行きたいなーとか思わないの?」
「うーん……あまり思わないかな」
「そうなんだ」
「毎日忙しいってのもあるけど……お父さんはあまり、場所がどうのこうのっていうのはないな」
「……ふーん」
「今、お父さんとか美咲が幸せなら、それで良いって思ってるくらいだな」
「そっか……私が過去に縛られ過ぎなのかな」
「それは一人ひとり違って良いんじゃないか。合ってる、間違ってるじゃないと思うよ」
「うん……私はあの場所に行きたいなって思うから」
「あぁ。今の自分の気持ちに正直になれば、それで良いと思う」
「うん」
お父さんと茜と3人で暮らした家。日曜日に歩いた場所。毎日通った学校。上手く言えないけど……供養したいとか、そういうことじゃない。ただ、もう一度見たい。感じたい。
……それで、次に進めるような気がしたから。
今、もう一度見ないといけないような気がしたから。
栄ケ丘高校で生活して、楓くんと出会って、それに気付けたのかも知れない。
ただ、そう思っただけ。
ちょっと遠いけど。
――ああ、明日は、元気いっぱいでありますように。


