神社ってね、感謝をするところなんだよ

夕方の5時。ベッドになだれ込む。横浜に引越をしてきて、ここまで自分の中が空っぽになったのは初めてかも知れないなと思った。体力も気力も使い果たした。

(……もう駄目だ)
(絶対、熱出てるよね……これ)

最後の力を何とか振り絞って長袖のパジャマに着替える。台所でようやく私は熱を測ってみることにした。「熱があるかも」で熱があるより、「熱があるよね」で測った方が、いいに決まっている。

(38.6℃……か)

不思議だった。「それくらいはあるよね」と安堵する自分。「40℃じゃなくて良かった」と安堵する自分……。寒い。とにかく磯子駅で降りて家に着く直前から、急に寒気が酷くなっていた。首にタオルを巻いて、毛布に包まるように寝る。頭痛がないだけ、まだマシだった。

息苦しさで目が覚める。深い呼吸を何度も繰り返しながらスマホに目をやると、夜の9時になっていた。
「起きたか」
「あ……お父さん」
「向こうで、着替えて来なさい。汗拭いて」
そう言うと、お父さんはタオルを2枚手渡してくれる。何とも言えない表情を浮かべながら。

「熱。どれくらいあるんだ?」
「……夕方測ったら、38.6℃だった」

「ふぅ」と鼻から息を出しながら、お父さんが体温計を私に差し出す。
「もう一回、測って」

ピピピッ……ピピピッ……
「あー……」
「……何度?」
「……37.8℃。寝たら少し下がった」
「何言ってるんだ。十分高いだろう。ちゃんと寝ておきなさい」
「……うん」
「何か食べるか?」
「うーん……いや、お水飲みたい。ご飯はいいや」

熱が下がり始めた時の水は……何でこんなに美味しいんだろう。私はペットボトルの水を一気に半分、飲み干した。

「あー……だいぶ良いかも。熱も下がってきたしね」
「……薬飲んで、ちゃんと寝て」
「うん」

心の中が揺らぐ。「言いなよ」という私。「明日にしたら」という私。……どうしたら良いのか、とりあえずぎこちない笑顔を作ってみせる。

「……どうした? どっか痛いのか?」
「ううん。それは無い」
「じゃ、どうしたんだ? 何か言いたげな顔してるぞ」
「えっ? わたし、どんな顔してた?」
「何か考え事でもあるような顔だけど」
「……うーん」
「どうした? 何かあったのか?」

ずっと熊本では言えなかった私の想い。楓くんには伝えられるようになっていた。……考えてみれば、お父さんに全然伝えていないなと思った。

「ねえ、お父さん?」
「ん? ……どうした」
「あのね」
「うん」
「何て言うか……」
「どうしたんだ」

何故だろう。楓くんに色々と想いを伝える時よりも……緊張する。不思議な感じがした。心の準備すらできていない。さっき起きたばかりで熱だってある。

「私ね、彼氏ができた」
「……えっ?」
私の言葉を聞いた時の、お父さんの表情。きっと一生忘れることは無いなと思った。

「良いでしょ! 彼氏できたよ」
「彼氏?」
「そう。同じクラスなんだよ」
「……」
「えへへ……驚いたでしょー」

正面から正直に言ってみた。言葉を頭の中でぐるぐると巡らせるより、よっぽど良いかなと思って。

「そりゃ……いきなり言われたら、誰だって驚くに決まってるだろう」
「すんごく、良い人なんだよ」
「……そうか」
「うん。すっごく、良い人。私には勿体ないくらいね」
「そうか」
「何よ。せっかく言ったのにさ」
「ん?」
「お父さん、『そうか』しか言わないじゃん」
「……いきなりだからな。頭の中を整理してるんだよ」
「ふーん……嫉妬してる?」
「バカなこと言ってるんじゃないよ」

お父さんの笑い声が、部屋の中に響く。否定されなくて良かったなと、私は一人安堵していた。

「お父さんは、嬉しいんだよ」
「……えっ? そうなの?」
「ああ」
「テレビとかだと『何だと? 許さん!』みたいな感じでやってるけど」
「まあそれはそれで、気持ち分かるけどな」
「……ん?」

お父さんはベッドの隣から立ち上がって、私の勉強机に移動する。椅子にゆっくり腰を下ろした。

「何て言うかな……この前、神社でも言ったけど」
「うん」
「今年は色々あったからね」
「……うん。そうだね」
「その……さっき美咲が、彼氏の話をしてた時……久し振りに笑顔だったから」
「……えっ? そんなに?」

そうだったんだ。顔が熱くなってきた。私は勢いに任せて思ったことを言っただけのつもりだったのに。

「あぁ。『きっと優しくて、良い彼氏なんだろうな』と思ったよ」
「……恥ずかしいな」
「ははは。良かったじゃないか」
「本当?」
「うん」
「良かったー……」
「お父さんだって仕事があるから……ずっと美咲の側にいられるわけでも無いから」
「うん」
「支えてくれる人がいるって……大切なことだからな」
「……止めてよ。……泣かせないでよ」
「おいおい……」
「……」
「よっぽど嬉しかったんだね。……良かったよ」
「うん……」

お父さんに認めてもらえたという気持ち。お父さんに言うことができたという気持ち。もちろん否定されるかも知れないという想いは、多少はあった。一気に安心して、堰き止めていたものが一気に溢れ出してくる。

「楓くんって言うんだよ」
「……そうか、そうか」

私、楓くんのお陰で……そんなに変わったように見えるんだ。
体はきついけれど、確かに心の中は春先までと全然違うもんな……。