ホットココアを手に、階段を下る。いつもお店の外から見ていたから分からなかったけれど、狭くて急な階段。ココアがこぼれないように、慎重に。1人でこんなお店に来るなんて熊本にいた時じゃ考えられない。背伸びをしているかのような気分になる。
春までは、学校と家をただ往復するだけの毎日だったから。
予想以上に店内は狭かった。待ち合わせの時間までまだ30分近くもある。教室の机と机の間くらいの通路をゆっくりと進み窓側の席に腰を下ろした。視界が開けて、圧迫感がほんの少しだけ減った気がする。
昨日は疲れた。みんなの視線を浴びて緊張感の中、演奏したわけじゃない。私はただ、入口でお客さんたちに資料を配布しただけ。何もしていない。……でも疲れた。
ぼんやりと外を眺めていると、視界にココアから立ち上る湯気が入り込んでくる。
(はぁー……)
両手でカップを持ち上げて、一口。周囲に座っている人達に聞かれることのないように、音を立てずに静かに飲んだ。
(……あったかい)
私には店内のエアコンはちょっと寒い。
「……あれ? 美咲ちゃん?」
聞き覚えのある声に、思わず後ろを振り向くと楓くんが立っていた。
「やっぱり。おはよう。美咲ちゃん」
「あっ……お、おはよう。早いね」
何も考えることができないまま、私は急いで隣の椅子に置いていたカバンに手を伸ばした。
「いや……ちょっと早く行こうと思って……」
優しく表情を崩しながら、楓くんが私の隣に座る。
――やっぱり楓くんの声は穏やかに感じた。
狭い店内。椅子と椅子の距離も近い。
(……こんな近いんだ)
さっきまではカバンを置いていただけの席。楓くんが座るとお互いの服がカサリと重なってしまうほど。私は急にドキドキしてきた。
「……私もだよ。ちょっと早く行っておこうかなあって」
「美咲ちゃんもかあ」
楓くんはアイスコーヒーにガムシロップを入れながら笑った。その表情は穏やかで、目尻に小さなシワができている。初めての距離。こんなに間近に楓くんの顔を見たのは。
「まさか、同じこと考えてたなんてね」
はっと我に返り、口をついて出た言葉。会話として合っているのか分からない。
「ね。家にいたら落ち着かなくてさ」
「そうそう。分かる」
ちょっと間が空いた。正面に開けた磯子の街並みをじっと見続ける。急に意識してしまって、楓くんの表情を見ることができない。
「あ、昨日はお疲れ様。大変だったでしょ?」
思い出したかのように楓くんが言う。きっと私の方を向いているに違いない。
「いや……私、何もしてないよ」
昨日の演奏会を思い出すように、ぼそりと呟くだけにした。あまり思い出したくないから。
「ちゃんと仕事してたじゃん。演奏はして無かったけどさ」
「……」
「あまり学校行けてなかったからでしょ?」
「うん。練習全然してなかったし」
「学校行けてないから……それは仕方ないんじゃないの」
「本当はちゃんと練習して、聴いて欲しかったんだけどね」
「……それはまた、いずれだね。その時はまた呼んでよ」
「うん。恵ちゃんと勇太くんも来てるって思ってなかったから……驚いちゃった。『ありがとう』って言っておいて」
「うん。めっちゃテンション上がってたよ。あの2人」
「あはははっ! そうなんだ」
「そう。ほら、普段美咲ちゃん、クラスで寝てることが多いからさ」
「まあね……」
「『また今度行こう』って言ってたよ。あの2人」
「本当に? あっ……あと、お花ありがとう」
「いや、あれは花屋さんに選んでもらっただけだから……」
少し照れを隠すかのように、楓くんはアイスコーヒーに口をつけた。一瞬ちらりと楓くんの横顔を見る。朝、家を出る時の緊張は、とっくになくなっていた。
「そういえばさ」
「……何?」
「体調、今日は大丈夫なの?」
「うん。今日は大丈夫。ありがと」
「それなら良いけどね」
「今日、どこに連れていってくれるの?」
『散歩に行こうよ』って、一体どこに行くんだろう。昨日の夜中からずっと気になっていたことを聞いてみた。
「そろそろ行こうか」
「え? だから、どこ行くの?」
「ま、良いじゃん。そろそろ外出ようか?」
「うん」
食器を返却口に置き、外に出る準備をする。店内は狭い。
2人並んで、階段を上ることはできなかった。
春までは、学校と家をただ往復するだけの毎日だったから。
予想以上に店内は狭かった。待ち合わせの時間までまだ30分近くもある。教室の机と机の間くらいの通路をゆっくりと進み窓側の席に腰を下ろした。視界が開けて、圧迫感がほんの少しだけ減った気がする。
昨日は疲れた。みんなの視線を浴びて緊張感の中、演奏したわけじゃない。私はただ、入口でお客さんたちに資料を配布しただけ。何もしていない。……でも疲れた。
ぼんやりと外を眺めていると、視界にココアから立ち上る湯気が入り込んでくる。
(はぁー……)
両手でカップを持ち上げて、一口。周囲に座っている人達に聞かれることのないように、音を立てずに静かに飲んだ。
(……あったかい)
私には店内のエアコンはちょっと寒い。
「……あれ? 美咲ちゃん?」
聞き覚えのある声に、思わず後ろを振り向くと楓くんが立っていた。
「やっぱり。おはよう。美咲ちゃん」
「あっ……お、おはよう。早いね」
何も考えることができないまま、私は急いで隣の椅子に置いていたカバンに手を伸ばした。
「いや……ちょっと早く行こうと思って……」
優しく表情を崩しながら、楓くんが私の隣に座る。
――やっぱり楓くんの声は穏やかに感じた。
狭い店内。椅子と椅子の距離も近い。
(……こんな近いんだ)
さっきまではカバンを置いていただけの席。楓くんが座るとお互いの服がカサリと重なってしまうほど。私は急にドキドキしてきた。
「……私もだよ。ちょっと早く行っておこうかなあって」
「美咲ちゃんもかあ」
楓くんはアイスコーヒーにガムシロップを入れながら笑った。その表情は穏やかで、目尻に小さなシワができている。初めての距離。こんなに間近に楓くんの顔を見たのは。
「まさか、同じこと考えてたなんてね」
はっと我に返り、口をついて出た言葉。会話として合っているのか分からない。
「ね。家にいたら落ち着かなくてさ」
「そうそう。分かる」
ちょっと間が空いた。正面に開けた磯子の街並みをじっと見続ける。急に意識してしまって、楓くんの表情を見ることができない。
「あ、昨日はお疲れ様。大変だったでしょ?」
思い出したかのように楓くんが言う。きっと私の方を向いているに違いない。
「いや……私、何もしてないよ」
昨日の演奏会を思い出すように、ぼそりと呟くだけにした。あまり思い出したくないから。
「ちゃんと仕事してたじゃん。演奏はして無かったけどさ」
「……」
「あまり学校行けてなかったからでしょ?」
「うん。練習全然してなかったし」
「学校行けてないから……それは仕方ないんじゃないの」
「本当はちゃんと練習して、聴いて欲しかったんだけどね」
「……それはまた、いずれだね。その時はまた呼んでよ」
「うん。恵ちゃんと勇太くんも来てるって思ってなかったから……驚いちゃった。『ありがとう』って言っておいて」
「うん。めっちゃテンション上がってたよ。あの2人」
「あはははっ! そうなんだ」
「そう。ほら、普段美咲ちゃん、クラスで寝てることが多いからさ」
「まあね……」
「『また今度行こう』って言ってたよ。あの2人」
「本当に? あっ……あと、お花ありがとう」
「いや、あれは花屋さんに選んでもらっただけだから……」
少し照れを隠すかのように、楓くんはアイスコーヒーに口をつけた。一瞬ちらりと楓くんの横顔を見る。朝、家を出る時の緊張は、とっくになくなっていた。
「そういえばさ」
「……何?」
「体調、今日は大丈夫なの?」
「うん。今日は大丈夫。ありがと」
「それなら良いけどね」
「今日、どこに連れていってくれるの?」
『散歩に行こうよ』って、一体どこに行くんだろう。昨日の夜中からずっと気になっていたことを聞いてみた。
「そろそろ行こうか」
「え? だから、どこ行くの?」
「ま、良いじゃん。そろそろ外出ようか?」
「うん」
食器を返却口に置き、外に出る準備をする。店内は狭い。
2人並んで、階段を上ることはできなかった。


