「はい、おばさん。誕生日おめでとう!」
教室で小さな包みを渡された。
「あーあ。将太の余計な一言は、高校生になっても相変わらずだね。園児の頃から成長しない」
「あ、そう。じゃ、プレゼントいらねえんだな」
将太が伸ばした手を払い、「それとこれとは別だから」と舌を出す。包みを開けると青色のニャニャ蔵のキーホルダーが現れた。目つきの悪い小太りの猫。小さな頃からわたしのお気に入りのキャラだった。
「通学の自転車用な。晶、水泳続けるんなら朝練あるだろ」
「将太はバスケやらないの?」
「チームプレーはこりごりだ。高校では陸上部に入ろうと思っている」
「へえ、大転換だね」
「ひたすら走る。勝っても負けても俺一人の責任だから、すがすがしい」
将太は薄く笑って頭を掻いた。ここはトラウマだから茶化せない。
「陸上なら将太も朝練あるでしょう。一緒に自転車通学だね」
「いや、早起きして学校まで走ろうと思ってる」
「マジで? ストイックだなあ。高校生だよ? アオハルだよ?」
「だからなんだよ」
「部活動もいいけど、ほら、いろいろあるでしょ。友情とか、恋愛とか」
「友だちならお前がいるし。恋愛は……まあ、そのうち見つけるよ」
「へえ。当てがあるんだ」
「まだ入学二日目だろ。これから探すよ。晶こそ、中学でもまったく浮いた噂がなかったじゃねえか」
「将太が知らないだけで、わたしは案外モテるんだ」
「おばさんなのに?」
「あのね、何度も言うけど、将太も五月が誕生日でしょ。一歳差っていうか、一か月しか違わないじゃない」
「それでも年上は年上だ」
「あ、そう。いいよ、そうやって、いつまでも憎まれ口を叩いていれば。そのうちイケメンに告られて、あんたはきっと青ざめる」
「幼なじみに彼氏ができて、どうして俺が青ざめるんだよ。物好きもいるもんだ、と生ぬるく見守ってやるぜ」
「——えっ、二人、つきあっているんじゃないの!?」
後ろから不意に声がした。わたしと将太はそろって振り向く。
しまった、という表情で、セミロングの同級生がうつむいた。知らない女子だ。別の中学出身だろう。華奢だけど、ブレザー越しに肩のあたりが盛り上がっている。
「……ごめんなさい。盗み聞きするつもりはなかったの。わたしも月末、誕生日だし、部活どうしようかな、って考えていて、つい……」
椅子に腰を下ろしたまま、すまなそうに首をすくめた。のっぽなわたしより、十センチは背が低い。一五〇センチちょっとだろう。いいな、小柄な女の子って。こういう仕草が本当に可愛い。
「全然オッケー」
将太がくしゃっと顔をほころばす。「念のために言っておくけど、晶とは保育園から高校まで同じなだけの、幼なじみにすぎないから。――あ、俺、神崎将太。三中出身」
「……橋本香代。五中です」
「前沢晶。わたしからも念押しさせてね。将太とは本当にただの腐れ縁。まさか高校でも同級生になるとは思わなかった」
「そうなんだ……。わたし、そういう存在いないから、よくわからなくって……」
「それで思わず心の声が口から漏れた、と」
将太がおかしそうに笑っている。
こいつはずいぶん背が伸びた。目標にしていた一七五センチはもうすぐだろう。
香代は「ごめんなさい」と上目遣いにわたしと将太を交互に見つめた。ぽってりとした唇に、通った鼻筋、大きな瞳。幼さを宿しつつ、整った顔立ちだ。
隣の将太はだらしなく鼻の下を伸ばしている。
なんだよ、あんたが言ってた「純愛」ってのは、その程度のものだったのか。
「幼なじみって、こんな感じなんですね」
「あのさ、香代……ちゃん」
「呼び捨てでいいですよ」
「じゃあ、香代。中学の時、水泳やっていなかった?」
「三年間水泳部だった。よくわかったね、晶……ちゃん」
「呼び捨てにして。あのね、わたしもやってたんだよ、水泳」
笑いながら両手で自分の肩を叩く。
「言われてみれば、確かに水泳体型だ。晶、すらっとしていて気づかなかった」
「こいつ、胸のあたりもすらっとだろ?」
将太が横から茶々を入れた。本当に一言余計だ。
「羨ましいな、晶の体形」
「あはは、香代。知り合ったばかりなのに喧嘩売ってる?」
「だって、こんなの邪魔だもん。わたし、中三の初めごろから急に大きくなっちゃって、全然タイムが伸びなくなった」
香代は真顔でつぶやいた。控えめに見て、わたしの二倍はふくよかだ。小柄で可愛く、スタイル良しの天然ちゃん。きっと男子が放っておかない。実際、将太は息を呑み、じっと香代を見つめている。わたしはちょっと苛立った。
「で、どうする? 香代は水泳続けるの?」
「そのつもりでプールのある七瀬高校を志望した。でも、迷っている」
「どうして?」
「だから……タイムが伸びなくて」
「やろうよ。わたしは入部する」
「晶、速そうだね」
「ちっとも。去年の夏の市民大会、中学の部で七位どまり」
「わたしも出た。会場ですれ違ってたかもしれないね。種目は?」
「平泳ぎ。香代は?」
「わたしは背泳。市民大会、二位だった」
「なんだ、十分すごいじゃん。背泳ならそんなに胸の影響ないでしょ?」
「スタートと、ターンでね、抵抗あるんだ」
「大丈夫だよ。やろうやろう」
「晶がそう言ってくれるなら……」
そこで将太がしゃしゃり出る。「俺も陸上辞めて、水泳部にしようかな」
馬鹿だなあ。いきなり高校から始めてどうにかなるほど、水泳は甘くない。知っているでしょ、わたしが小一からスイミングに通っていたこと。
「将太くんも泳げるの?」
「こいつは無理。美少女の競泳水着が見たいだけ」
「なっ……! 晶、お前さっき、恋愛勧めていたじゃねえか」
「ひえ、初対面の同級生に告るんだ!?」
「違うって! ただ……まあ、男と女、なにがあるかわからねえだろ」
迂闊な自分の一言に、ようやく気づき、将太は耳まで真っ赤にしている。
「聞き流してね、香代」
「うん、なにを? 水泳部に胸の大きな子でもいるの?」
さすが天然。将太の失言を華麗にスルーしている。
「香代のことだよ」
「いやだ、晶。確かに邪魔だと感じているけど、わたし、そこまで大きくないもん」手を振りながら苦笑している。「だって、ただのEだよ?」
……わたしはBだ。
香代、やっぱり喧嘩を売っている?
結局、わたしと香代は水泳部、将太は陸上部に入部した。
七瀬高校のプールは屋外だ。泳げるのは六月からになる。それまでは校庭で、筋トレやストレッチ、持久走をして体をつくる。
水泳部は二年生が四人、三年生が三人の小所帯だった。新入部員もわたしたち二人だけ。そもそもあまり気合が入っていない。
拍子抜けしたが、強豪校でもない限り、高校の水泳部ならどこも大差はないだろう。
基本的にタイムがすべての個人技だ。本当に速く、上を目指すスイマーは、スイミングクラブで鍛えている。大会には高校枠でしか出られないから、便宜的に水泳部に籍を置いているだけだ。
わたしも香代も、そこまでの選手じゃない。
桜の散ったグラウンドを、黙々と走る将太が見える。長距離を選んだと言っていた。
ジャージ姿で前後に大きく腕を振り、前へ前へと進んでいく。遠目にも、荒い息が感じられた。それでも足を緩めずに、走り続ける。
「将太くん、頑張っているね」
ストレッチを一休みし、香代が言った。
「努力馬鹿なのよ、昔から」
「努力馬鹿?」
「『俺にはたいした才能がない。だから、ただがむしゃらに頑張るだけだ』って。小さい頃からずっとそんなふうに生きてきた。不器用なのよ、将太」
「そうなんだ。……なんか、格好いいね」
「幼なじみとしては、もう少し器用になってほしいと思う。たぶん、ああいう生き方、ちょっとしんどい。普段はあんなにチャラいくせに、運動も、勉強も、ひたむきすぎる」
「恋愛は?」
「……どうだろう。中学時代、何人かに告られてたけど、断ってた。これまで、つきあった相手はいないと思う」
「晶とはどうなの?」
「だから、わたしは本当に単なる幼なじみだよ」
「ふうん……」
ジャージの土ぼこりを払いながら、香代は小さくはにかんだ。
中学時代、あいつが常に見つめていたのは、わたしじゃなくて、別の子だ。
再び将太に視線を向ける。フィールドで立ち止まり、ぼんやりと体育館の出入り口を眺めていた。その視線を追いかける。
練習を終えた女子バスケ部員の一群が、部室に向かって歩いていた。高校でも、やっぱり彼女はひときわ目立つ。
バスケットウェアから長い手足が伸びている。白い肌、豊かなバスト、ポニーテールの黒い髪。背丈があと五センチ高ければ、モデルと言っても誰も疑わないだろう。
有坂葉月。
我が三中の元女子バスケ部長。
付け加えれば、男子バスケ部長だった将太を、二年半も片想いさせていた美少女だ。
わたしと香代、それに将太は、週に三日は一緒に帰るようになっていた。水泳部も陸上部も体育会で、部活の終わり時間がほぼ重なる。
四月末の香代の誕生日には、駅前のカフェでお祝いした。
「晶とおそろいだけど、香代も好きだと聞いたから、はいこれ」
将太は少し照れながら、ニャニャ蔵のキーホルダーを手渡した。香代も自転車通学だ。
「ありがとう。嬉しい!」
香代はキーホルダーのチェーンをつまみ、くるくる回る猫のキャラに目を細めた。「そういえば、晶がもらっていたのは、青のニャニャ蔵だったよね?」
「そだね。――ねえ、将太、わたしは青で、香代は赤なんだ」
「なんとなく、俺のイメージ。男勝りでサバサバしているお前は青。女の子らしい香代は赤」
「今どきそんなことを言ってると、時代遅れって叱られるよ」
「そうなのか? 晶、昔からお気に入りは青だっただろ。ランドセルもブルーだったし」
「……まあ、そうだけど」
そのやり取りを眺めながら、香代が「いいな……」とつぶやいた。
「え、なにが?」
「晶と将太くんの関係性。お互いのことをなんでもわかりあっている。恋人以上って感じがして、羨ましい」
「香代、それは大きな誤解だぞ。異性と意識していないからこそ、晶とはざっくばらんに話せるんだ。あと、きょうだいみたいに十六年も一緒にいれば、お互い嫌でも大抵のことは知れちまう。なあ?」
フラペチーノのカップを握り、将太がわたしの顔を見る。
それぞれの自宅までは歩いて五分。同じ産院で生を受けた。産前産後の健診で、母親同士が仲良くなり、そのうち家族ぐるみでつきあい始めた。
二人とも一人っ子だから、将太は兄や弟みたいな存在だった。あいつにとっても、わたしは姉か妹だろう。
「面と向かって『異性と意識していない』と言われると、女子としてちょっと癪な思いはあるけれど、まあ実際、そんな感じだよ。それに、将太、身の程知らずで、わたしみたいなボーイッシュよりフェミニンな子がタイプなんだ」
ふうん、と言って、香代が唇をすぼめてみせる。そういう仕草はわたしにできない。
将太が無言で目配せした。「それ以上、俺の色恋沙汰を口にするな」のサインだ。
わかってるって。葉月のことは黙っているから。
わたしは小さくうなずいた。
将太の誕生祝いを兼ねて、五月の連休には電車で海まで足を延ばした。
海岸を散歩して、岩塩のソフトクリームをみんなで舐めた。香代の白いワンピースが、春の風にひらひら揺れる。オーバーオールのポケットに両手を突っ込みながら、綺麗だな、とわたしは感じた。将太はTシャツにジーンズ姿だ。穏やかな笑みを浮かべ、黙って香代を見つめている。
地元まで引き返し、一時間だけカラオケボックスに立ち寄った。
躊躇いつつ、香代は手づくりのクッキーを将太に渡した。頬を染め、「美味しくなかったら、捨てていいから……」と言葉を添えた。どう見ても、マズいとは思えない。
わたしが贈ったバスケ漫画の最新刊をソファーに放り、「マジ? めちゃめちゃ嬉しい!」と将太が喜ぶ。
「大事に食うよ。ありがとう」
そう言って、香代の頭をぽんぽん叩いた。
二人の姿を眺めながら、わたしは胸に小さな痛みを感じていた。
将太、この前も校庭で葉月のことを見てたでしょう。
ちゃんと諦めきれていないのなら、香代に粉をかけちゃ駄目じゃない。
六月からはプールでの練習が始まった。
競泳水着の香代の肢体は、想像以上に成熟していた。胸元はふっくらと盛り上がり、お尻にも過不足なく肉がついている。だから、なおさら腰のくびれが強調される。葉月にまったく引けを取らない。
「いやだ、晶。そんなにまじまじ見られたら、恥ずかしい」
「香代、小柄なのに本当にスタイル抜群だよね」
「何言ってるのー。長身でやせ型の、晶の体こそ羨ましいよ」
「それ、口にすると、嫌味に聞こえる」
「胸のこと? 言ったじゃない、ただのEだって」
「あのさ、わたしはBなんだけど」
「競泳にはそれぐらいが一番だよ。それに……」
そこで香代は言葉を濁し、視線をそらして囁いた。
「……将太くん、晶のそんなの、まったく気にしてないでしょ?」
夏は水泳部の「かきいれどき」だ。一学期の六、七月、わたしはひたすら泳いでいた。
総体予選の標準記録には届かない。大会はどうでもよかった。
水に潜り、かきわけている時だけ、無心でいられる。
夏休みに入ってからも、毎日プールで泳ぎ続けた。陸上部の練習で、将太も登校している。葉月もだ。
時間が合えば、将太も交え、香代と帰った。喫茶店でかき氷を食べ、他愛のない馬鹿話をして「また明日」と手を振り別れる。表面上は何一つとして変わらない。
将太が葉月を見つめる時間が増えたこと。
将太に向いた香代の瞳が潤んでいること。
二つの静かな変化を除いては――。
秋の文化祭が迫って来た。わたしたちのクラスは「焼きそばメイド喫茶」をやることになっている。夏休み直後のホームルームで、文化祭委員が選ばれた。
「自薦、誰かいないか?」
担任の呼びかけに、将太が真っすぐ手を挙げた。
どういう風の吹き回しよ、と一瞬驚き、翌日には謎が解けた。夏休み前、葉月のクラスはすでに委員を決めていた。あいつはそれを知っていたのだ。もちろん、委員は葉月。そして、我が組の将太のパートナーには、香代が名乗りを上げていた。
生徒会が主催して、何度かクラス委員の会議があった。衛生上の注意点、金券の取り扱い、当日のスケジュール……。そんなことが議題になったらしい。
文化祭が終わった後も、出納の報告でクラス委員が招集された。
香代はそのたび、部活を休んだ。グラウンドには将太もいない。見つめる先の葉月も同じだ。
秋口のプールは冷たい。それでもわたしは無心に泳いだ。
「晶、お前このあと、時間あるか?」
クリスマスにカラオケを二時間楽しんで、香代と別れた帰り道、将太に言われた。
右手に包みを抱えている。香代からもらったTシャツだ。わたしは何も贈らなかった。
「いいよ。寒いから近所のマックに行こう。お母さんに一本電話しておく。将太もおばさんに連絡しておきなよ。わたしとならば、多少遅くても、平気でしょう?」
「ああ、そうする」
互いにスマホを取り出して、わたしは通話で、将太はLINEで事情を伝えた。
コーヒー二つとポテトのLを注文した。「誘ったから」と将太が払ってくれた。
二階のテーブル席で向き合った。高校受験の勉強でよく来た店だ。将太と二人、飲み物とポテトだけでずいぶん粘った。迷惑な客だった、といまさら思う。あれはまだ、一年前のことなんだ。
「気づいていると思うけど……」
コーヒーを一口すすり、沈黙していた将太が口を開く。
「俺、やっぱり葉月を好きだ」
そっちの子の話なんだ。そう感じたけれど、口には出さない。
「なんでわたしに言うのよ? 葉月とはあまり接点ないから取り持てないよ」
「わかっている。俺なりのけじめだ。ごめん」
「なによそれ」
わたしは薄く笑ってみせた。将太らしい。
謝る理由もわかっている。
将太はわたしに「借り」があるのだ。それを返せないことを申し訳ないと感じている。
去年の夏、中学最後の市民大会。三中の男子バスケ部は準決勝で敗退した。翌週に同じ運動公園内の屋内プールで、水泳の大会が控えていた。下見ついでに体育館へ立ち寄った。スタンド席に腰掛ける。
試合はすでに終盤だった。部長の将太は「背番号四」を着けている。司令塔のポイントガードだ。
一進一退の攻防だが、わずかに三中が押されていた。
残り一分。スリーポイントエリアの将太に奇跡のようなパスが通った。これを決めれば三点入って逆転だ。隙を突かれた相手チームのディフェンスが、慌てて将太に駆けていく。
狙いを定め、将太が両手でボールを放った。
ゆるやかな放物線を描いた球は、けれど、わずかにゴールに嫌われて、コートに落ちた。
ホイッスルが響き渡る。
わたしはそっと席を立った。
葉月が率いる女子バスケ部は、同じ日に、決勝まで勝ち上がり、強豪校に競り負けた。
その日の夜、将太がうちにやって来た。風呂上りのパーカー姿で、近所の公園に連れ出される。
「……負けたよ。俺の責任だ。もうチームプレーはやりたくない」
並んでベンチに座ったまま、将太は声を殺して泣いていた。
黙ってペットボトルのポカリを手渡す。出がけに二本、家の冷蔵庫から持ち出した。
体育館で見ていたことは、伝えなかった。
うだるような暑い夏の夜だった。
「まあ飲め、将太。あんたはよく頑張った」
軽く背中を二回叩き、ペットボトルのキャップをひねる。将太は黙ってわたしにならった。
喉が渇いていたのだろう。一気に半分近くを飲み干して、将太は、ふう、と息を吐いた。
「……もう一つ、負けちゃった」
「うん、なにに?」
「葉月に振られた」
絶句する。
将太が葉月に惹かれているのは気づいていた。中二の終わり、軽い気持ちで茶化したら、「俺の純愛を馬鹿にするな」と珍しく気色ばまれた。「純愛」とはずいぶん大きく出たもんね――。そう言いかけて、言葉を呑んだ。
将太は本気のようだった。本気だけれど、打ち明けない。高嶺の花だとわかっているから。それで無理やり「純愛」だと自分自身に言い聞かせていたのだろう。たとえ思いが通じなくても、好きな気持ちは変わらない。そんな思いを「純愛」という言葉に押し込めた。
「……あんた、ついに告っちゃったんだ」
「試合後で、気持ちが昂っていた。これで全部おしまいだ。コートで葉月を見られなくなる――。そんなふうに感じていた。葉月も負けて泣いていた。慰めながら、『ずっと葉月が好きだった』って、打ち明けた」
「答えは?」
「『そんなふうに将太を見たこと、一度もない』だって」
葉月らしい物言いだ。自覚した美少女だけの特権だ。何だか無性に腹が立った。
ねえ、葉月。
こいつはちょっとヘタレだけれど、それでもわたしの大事な大事な幼なじみなんだ。
「……晶」
「うん」
「葉月のことは諦める」
「うん」
「なあ、晶」
「うん」
「……お前にしか頼めないことがある」
「うん」
「……キスしていいか?」
「うん」
ぎこちなく、わたしたちの唇は重なった。お互いに、ファーストキスだった。
自分にできる精一杯の慰めがキスならば、それでいいやと感じていた。
そしてその時、わたしは大事なことに気づかされる。
「やっぱり返して」
マックで将太に右手を差し出す。
「返せって、なにをだよ?」
「決まってるでしょ、ファーストキス」
「おい、声でかい!」
焦った将太がわたしの口に手を伸ばす。
ブレザーの胸のリボンの辺りでその手をひねり、将太に顔を近づけた。
「わたしはね、あんたが『葉月を諦める』って言ったから、ファーストキスをあげたんだ。それがなに? まだ一年半もたってないのに『やっぱり好きだ』? 純愛が聞いて呆れるわ」
「……すまん。ファーストキスは返しようがない」
「まあいいよ。そういう一直線なところも、馬鹿馬鹿しくて将太らしい。飽きるまで、ずっと葉月を好きでいなさい。でもね、わたしの慰め、二度目はないよ」
「なんだよ。玉砕前提かよ」
「当たり前でしょ。大会後に振られてから、なにか好材料があったかしら?」
「……一つもねえ」
「アホらしいからもう帰る。クリスマスの楽しいカラオケが台無しだ。いい、わたしはちゃんと警告したよ? それから、この話、絶対、香代にしちゃ駄目だからね」
「なんでそこで香代が出てくるんだよ」
「香代がくれたそのTシャツを拝みながら、独りでよく考えなさい」
「もったいつけるな」
「香代を傷つけたら、たとえあんたであっても、許さない」
わたしはコートを握り締め、出口に向かって歩き始める。
「晶、ちょっと待て。一緒に帰ろうぜ」
そこで一度立ち止まり、将太に振り向く。
「わたしも前言撤回する。『借り』はもう返さなくても構わない。わたしも十分、将太に『借り』た。おあいこだ」
「え? 意味わからん。俺、なにかお前に貸したっけ?」
「そっちは考えなくていい。――じゃあね」
今度こそ、振り返らず、店を出た。
真冬の寒い帰り道、自転車を押しながら、悔しさのあまり泣けてきた。
そう、わたしは将太に「借り」がある。
わたしたち三人は、いつまでもこのままではいられない。
しばらく前から、気づいていた。
さっきは呆れてみせたけど、将太のがむしゃらな愛情には、ある意味、敬服せざるを得ない。
自分もそろそろ、腹をくくれていいはずだ――。
年が明けた。冬休みも重なって、将太とはしばらく口をきいていない。オフシーズンの水泳部も開店休業状態だ。将太とも香代とも、なんだか微妙な距離ができている。
「なあ、将太と香代ちゃんって、つきあってるの?」
一月半ば、クラスの男子にこっそり聞かれた。大晦日、連れ添う二人が七瀬神社で目撃されたらしい。
「噂では、香代ちゃんが将太を誘ったことになっている。あの子、天然ゆるふわ美少女だから、結構人気があるんだよ。でもさ、相手があの憎めない将太だろ? 何人もの男子たちが真偽をめぐり、悶々としている」
「『俺たちのアイドルが奪われた』って、ヘタレな嘆きをわたしも聞いた。初詣で見られたんだ、あの二人」
「晶ちゃんも知っているのか。そうだよな。幼なじみだし、香代ちゃんとは同じ部活だし。――で、真相はどうなんだよ?」
「知らない。興味もない」
「え、そうなの? ……ひょっとして、晶ちゃん、『寝取られた本妻』の役回り?」
「悪いけど、わたしまだ、誰とも結婚していない」
睨みつけると、男子はきまり悪そうな笑みを浮かべ、立ち去った。
二月、久しぶりに屋内プールで部活があった。部室に一度集合し、顧問と部員で運動公園行きのバスに乗る。
高校のプールは晩秋から初夏まで使えない。だからこの間、休みを除き、月に数回、水泳部員は屋内プールに「遠征」するのだ。
その日は一時間で三キロ泳いで解散した。運動公園には三系統のバス路線が通じている。「川田駅行き」に乗り込んだのは、わたしと香代の二人だった。
平日の遅い時間のバスは空いていた。最後列に並んで座る。
目的地までの三十分、わたしたちは喋らなかった。泳いだせいか、体が気怠い。シートにもたれ、窓からずっと冬の景色を眺めていた。
「晶、お茶していこうよ」
終点の川田駅で降りる直前、香代がようやく口を開いた。うん、と答える。
駅前にあるチェーンのカフェで、わたしは香代と向き合った。
「――将太くんにバレンタインのチョコを渡そうと思っている」
ニャニャ蔵の赤いキーホルダーを大切そうに握り締め、アイスティーを一口含み、香代は静かに切り出した。自転車ではなく、お財布にニャニャ蔵をつけている。
「将太くん、葉月ちゃんを好きなんだよね」
「本人から聞いたんだ」
そこで香代はクスっとはにかむ。「聞いてないけど、バレバレだよ。あの人、面白いほどわかりやすい」
なんだか胸が苦しくなる。「あの人」か。いつの間にか、そこまで距離が縮んでいたんだ。
「それでも香代はチョコを渡すの?」
「うん。決めた。もう黙っているの、しんどいや。それに、将太くんの一途さに、感動している。あの人、中学の時、一度葉月ちゃんに振られてるんだよね」
「それも知っているんだ」
「バスケ部の友だちから聞いた。葉月ちゃん、部の女子会で恋愛遍歴尋ねられ、うっかり喋っちゃったみたい」
「怖いね、女子は。同性だけど」
「本当だよね。――わたしも告って失敗したら、みんなの噂になるのかな」
小さく笑ってそうつぶやき、けれども香代はいつになく、凛としていた。
もう決心は揺らがない。そう見えた。
「天然ゆるふわ美少女」だけど、一本筋が通っている。将太、あんたは幸せ者だ。滅多にいないぞ、こんな子は。
「ねえ、香代。どうしてわたしに、打ち明けるって話をしたの?」
「晶は大事な友だちだから。大好きな男の子の幼なじみだから」
「出会った日、わたしたちがつきあってると、誤解したよね? 今はそんなふうに思わないの?」
「うん。恋人以上の関係だって、妬いたこともあったけど、『以上』であって、『恋人』じゃないんだな、と理解することにした。悔しいけれど、仕方ないよ。二人が十六年かかって紡ぎあげたものだもん。この先、誰にも割り込めない。わたしにも、もちろん、葉月ちゃんにも」
香代は健気だ。なにより強い。
あのキスに覚えた強烈な違和感で、将太はわたしにわたしのことを教えてくれた。
大きな「借り」を、いつになったら返せるのだろう。
もう一度、香代が微笑む。
そのすべてが愛おしい。
「あのさ、晶にも、好きな相手ができるといいね」
ずっといるよ、目の前に。
(了)
教室で小さな包みを渡された。
「あーあ。将太の余計な一言は、高校生になっても相変わらずだね。園児の頃から成長しない」
「あ、そう。じゃ、プレゼントいらねえんだな」
将太が伸ばした手を払い、「それとこれとは別だから」と舌を出す。包みを開けると青色のニャニャ蔵のキーホルダーが現れた。目つきの悪い小太りの猫。小さな頃からわたしのお気に入りのキャラだった。
「通学の自転車用な。晶、水泳続けるんなら朝練あるだろ」
「将太はバスケやらないの?」
「チームプレーはこりごりだ。高校では陸上部に入ろうと思っている」
「へえ、大転換だね」
「ひたすら走る。勝っても負けても俺一人の責任だから、すがすがしい」
将太は薄く笑って頭を掻いた。ここはトラウマだから茶化せない。
「陸上なら将太も朝練あるでしょう。一緒に自転車通学だね」
「いや、早起きして学校まで走ろうと思ってる」
「マジで? ストイックだなあ。高校生だよ? アオハルだよ?」
「だからなんだよ」
「部活動もいいけど、ほら、いろいろあるでしょ。友情とか、恋愛とか」
「友だちならお前がいるし。恋愛は……まあ、そのうち見つけるよ」
「へえ。当てがあるんだ」
「まだ入学二日目だろ。これから探すよ。晶こそ、中学でもまったく浮いた噂がなかったじゃねえか」
「将太が知らないだけで、わたしは案外モテるんだ」
「おばさんなのに?」
「あのね、何度も言うけど、将太も五月が誕生日でしょ。一歳差っていうか、一か月しか違わないじゃない」
「それでも年上は年上だ」
「あ、そう。いいよ、そうやって、いつまでも憎まれ口を叩いていれば。そのうちイケメンに告られて、あんたはきっと青ざめる」
「幼なじみに彼氏ができて、どうして俺が青ざめるんだよ。物好きもいるもんだ、と生ぬるく見守ってやるぜ」
「——えっ、二人、つきあっているんじゃないの!?」
後ろから不意に声がした。わたしと将太はそろって振り向く。
しまった、という表情で、セミロングの同級生がうつむいた。知らない女子だ。別の中学出身だろう。華奢だけど、ブレザー越しに肩のあたりが盛り上がっている。
「……ごめんなさい。盗み聞きするつもりはなかったの。わたしも月末、誕生日だし、部活どうしようかな、って考えていて、つい……」
椅子に腰を下ろしたまま、すまなそうに首をすくめた。のっぽなわたしより、十センチは背が低い。一五〇センチちょっとだろう。いいな、小柄な女の子って。こういう仕草が本当に可愛い。
「全然オッケー」
将太がくしゃっと顔をほころばす。「念のために言っておくけど、晶とは保育園から高校まで同じなだけの、幼なじみにすぎないから。――あ、俺、神崎将太。三中出身」
「……橋本香代。五中です」
「前沢晶。わたしからも念押しさせてね。将太とは本当にただの腐れ縁。まさか高校でも同級生になるとは思わなかった」
「そうなんだ……。わたし、そういう存在いないから、よくわからなくって……」
「それで思わず心の声が口から漏れた、と」
将太がおかしそうに笑っている。
こいつはずいぶん背が伸びた。目標にしていた一七五センチはもうすぐだろう。
香代は「ごめんなさい」と上目遣いにわたしと将太を交互に見つめた。ぽってりとした唇に、通った鼻筋、大きな瞳。幼さを宿しつつ、整った顔立ちだ。
隣の将太はだらしなく鼻の下を伸ばしている。
なんだよ、あんたが言ってた「純愛」ってのは、その程度のものだったのか。
「幼なじみって、こんな感じなんですね」
「あのさ、香代……ちゃん」
「呼び捨てでいいですよ」
「じゃあ、香代。中学の時、水泳やっていなかった?」
「三年間水泳部だった。よくわかったね、晶……ちゃん」
「呼び捨てにして。あのね、わたしもやってたんだよ、水泳」
笑いながら両手で自分の肩を叩く。
「言われてみれば、確かに水泳体型だ。晶、すらっとしていて気づかなかった」
「こいつ、胸のあたりもすらっとだろ?」
将太が横から茶々を入れた。本当に一言余計だ。
「羨ましいな、晶の体形」
「あはは、香代。知り合ったばかりなのに喧嘩売ってる?」
「だって、こんなの邪魔だもん。わたし、中三の初めごろから急に大きくなっちゃって、全然タイムが伸びなくなった」
香代は真顔でつぶやいた。控えめに見て、わたしの二倍はふくよかだ。小柄で可愛く、スタイル良しの天然ちゃん。きっと男子が放っておかない。実際、将太は息を呑み、じっと香代を見つめている。わたしはちょっと苛立った。
「で、どうする? 香代は水泳続けるの?」
「そのつもりでプールのある七瀬高校を志望した。でも、迷っている」
「どうして?」
「だから……タイムが伸びなくて」
「やろうよ。わたしは入部する」
「晶、速そうだね」
「ちっとも。去年の夏の市民大会、中学の部で七位どまり」
「わたしも出た。会場ですれ違ってたかもしれないね。種目は?」
「平泳ぎ。香代は?」
「わたしは背泳。市民大会、二位だった」
「なんだ、十分すごいじゃん。背泳ならそんなに胸の影響ないでしょ?」
「スタートと、ターンでね、抵抗あるんだ」
「大丈夫だよ。やろうやろう」
「晶がそう言ってくれるなら……」
そこで将太がしゃしゃり出る。「俺も陸上辞めて、水泳部にしようかな」
馬鹿だなあ。いきなり高校から始めてどうにかなるほど、水泳は甘くない。知っているでしょ、わたしが小一からスイミングに通っていたこと。
「将太くんも泳げるの?」
「こいつは無理。美少女の競泳水着が見たいだけ」
「なっ……! 晶、お前さっき、恋愛勧めていたじゃねえか」
「ひえ、初対面の同級生に告るんだ!?」
「違うって! ただ……まあ、男と女、なにがあるかわからねえだろ」
迂闊な自分の一言に、ようやく気づき、将太は耳まで真っ赤にしている。
「聞き流してね、香代」
「うん、なにを? 水泳部に胸の大きな子でもいるの?」
さすが天然。将太の失言を華麗にスルーしている。
「香代のことだよ」
「いやだ、晶。確かに邪魔だと感じているけど、わたし、そこまで大きくないもん」手を振りながら苦笑している。「だって、ただのEだよ?」
……わたしはBだ。
香代、やっぱり喧嘩を売っている?
結局、わたしと香代は水泳部、将太は陸上部に入部した。
七瀬高校のプールは屋外だ。泳げるのは六月からになる。それまでは校庭で、筋トレやストレッチ、持久走をして体をつくる。
水泳部は二年生が四人、三年生が三人の小所帯だった。新入部員もわたしたち二人だけ。そもそもあまり気合が入っていない。
拍子抜けしたが、強豪校でもない限り、高校の水泳部ならどこも大差はないだろう。
基本的にタイムがすべての個人技だ。本当に速く、上を目指すスイマーは、スイミングクラブで鍛えている。大会には高校枠でしか出られないから、便宜的に水泳部に籍を置いているだけだ。
わたしも香代も、そこまでの選手じゃない。
桜の散ったグラウンドを、黙々と走る将太が見える。長距離を選んだと言っていた。
ジャージ姿で前後に大きく腕を振り、前へ前へと進んでいく。遠目にも、荒い息が感じられた。それでも足を緩めずに、走り続ける。
「将太くん、頑張っているね」
ストレッチを一休みし、香代が言った。
「努力馬鹿なのよ、昔から」
「努力馬鹿?」
「『俺にはたいした才能がない。だから、ただがむしゃらに頑張るだけだ』って。小さい頃からずっとそんなふうに生きてきた。不器用なのよ、将太」
「そうなんだ。……なんか、格好いいね」
「幼なじみとしては、もう少し器用になってほしいと思う。たぶん、ああいう生き方、ちょっとしんどい。普段はあんなにチャラいくせに、運動も、勉強も、ひたむきすぎる」
「恋愛は?」
「……どうだろう。中学時代、何人かに告られてたけど、断ってた。これまで、つきあった相手はいないと思う」
「晶とはどうなの?」
「だから、わたしは本当に単なる幼なじみだよ」
「ふうん……」
ジャージの土ぼこりを払いながら、香代は小さくはにかんだ。
中学時代、あいつが常に見つめていたのは、わたしじゃなくて、別の子だ。
再び将太に視線を向ける。フィールドで立ち止まり、ぼんやりと体育館の出入り口を眺めていた。その視線を追いかける。
練習を終えた女子バスケ部員の一群が、部室に向かって歩いていた。高校でも、やっぱり彼女はひときわ目立つ。
バスケットウェアから長い手足が伸びている。白い肌、豊かなバスト、ポニーテールの黒い髪。背丈があと五センチ高ければ、モデルと言っても誰も疑わないだろう。
有坂葉月。
我が三中の元女子バスケ部長。
付け加えれば、男子バスケ部長だった将太を、二年半も片想いさせていた美少女だ。
わたしと香代、それに将太は、週に三日は一緒に帰るようになっていた。水泳部も陸上部も体育会で、部活の終わり時間がほぼ重なる。
四月末の香代の誕生日には、駅前のカフェでお祝いした。
「晶とおそろいだけど、香代も好きだと聞いたから、はいこれ」
将太は少し照れながら、ニャニャ蔵のキーホルダーを手渡した。香代も自転車通学だ。
「ありがとう。嬉しい!」
香代はキーホルダーのチェーンをつまみ、くるくる回る猫のキャラに目を細めた。「そういえば、晶がもらっていたのは、青のニャニャ蔵だったよね?」
「そだね。――ねえ、将太、わたしは青で、香代は赤なんだ」
「なんとなく、俺のイメージ。男勝りでサバサバしているお前は青。女の子らしい香代は赤」
「今どきそんなことを言ってると、時代遅れって叱られるよ」
「そうなのか? 晶、昔からお気に入りは青だっただろ。ランドセルもブルーだったし」
「……まあ、そうだけど」
そのやり取りを眺めながら、香代が「いいな……」とつぶやいた。
「え、なにが?」
「晶と将太くんの関係性。お互いのことをなんでもわかりあっている。恋人以上って感じがして、羨ましい」
「香代、それは大きな誤解だぞ。異性と意識していないからこそ、晶とはざっくばらんに話せるんだ。あと、きょうだいみたいに十六年も一緒にいれば、お互い嫌でも大抵のことは知れちまう。なあ?」
フラペチーノのカップを握り、将太がわたしの顔を見る。
それぞれの自宅までは歩いて五分。同じ産院で生を受けた。産前産後の健診で、母親同士が仲良くなり、そのうち家族ぐるみでつきあい始めた。
二人とも一人っ子だから、将太は兄や弟みたいな存在だった。あいつにとっても、わたしは姉か妹だろう。
「面と向かって『異性と意識していない』と言われると、女子としてちょっと癪な思いはあるけれど、まあ実際、そんな感じだよ。それに、将太、身の程知らずで、わたしみたいなボーイッシュよりフェミニンな子がタイプなんだ」
ふうん、と言って、香代が唇をすぼめてみせる。そういう仕草はわたしにできない。
将太が無言で目配せした。「それ以上、俺の色恋沙汰を口にするな」のサインだ。
わかってるって。葉月のことは黙っているから。
わたしは小さくうなずいた。
将太の誕生祝いを兼ねて、五月の連休には電車で海まで足を延ばした。
海岸を散歩して、岩塩のソフトクリームをみんなで舐めた。香代の白いワンピースが、春の風にひらひら揺れる。オーバーオールのポケットに両手を突っ込みながら、綺麗だな、とわたしは感じた。将太はTシャツにジーンズ姿だ。穏やかな笑みを浮かべ、黙って香代を見つめている。
地元まで引き返し、一時間だけカラオケボックスに立ち寄った。
躊躇いつつ、香代は手づくりのクッキーを将太に渡した。頬を染め、「美味しくなかったら、捨てていいから……」と言葉を添えた。どう見ても、マズいとは思えない。
わたしが贈ったバスケ漫画の最新刊をソファーに放り、「マジ? めちゃめちゃ嬉しい!」と将太が喜ぶ。
「大事に食うよ。ありがとう」
そう言って、香代の頭をぽんぽん叩いた。
二人の姿を眺めながら、わたしは胸に小さな痛みを感じていた。
将太、この前も校庭で葉月のことを見てたでしょう。
ちゃんと諦めきれていないのなら、香代に粉をかけちゃ駄目じゃない。
六月からはプールでの練習が始まった。
競泳水着の香代の肢体は、想像以上に成熟していた。胸元はふっくらと盛り上がり、お尻にも過不足なく肉がついている。だから、なおさら腰のくびれが強調される。葉月にまったく引けを取らない。
「いやだ、晶。そんなにまじまじ見られたら、恥ずかしい」
「香代、小柄なのに本当にスタイル抜群だよね」
「何言ってるのー。長身でやせ型の、晶の体こそ羨ましいよ」
「それ、口にすると、嫌味に聞こえる」
「胸のこと? 言ったじゃない、ただのEだって」
「あのさ、わたしはBなんだけど」
「競泳にはそれぐらいが一番だよ。それに……」
そこで香代は言葉を濁し、視線をそらして囁いた。
「……将太くん、晶のそんなの、まったく気にしてないでしょ?」
夏は水泳部の「かきいれどき」だ。一学期の六、七月、わたしはひたすら泳いでいた。
総体予選の標準記録には届かない。大会はどうでもよかった。
水に潜り、かきわけている時だけ、無心でいられる。
夏休みに入ってからも、毎日プールで泳ぎ続けた。陸上部の練習で、将太も登校している。葉月もだ。
時間が合えば、将太も交え、香代と帰った。喫茶店でかき氷を食べ、他愛のない馬鹿話をして「また明日」と手を振り別れる。表面上は何一つとして変わらない。
将太が葉月を見つめる時間が増えたこと。
将太に向いた香代の瞳が潤んでいること。
二つの静かな変化を除いては――。
秋の文化祭が迫って来た。わたしたちのクラスは「焼きそばメイド喫茶」をやることになっている。夏休み直後のホームルームで、文化祭委員が選ばれた。
「自薦、誰かいないか?」
担任の呼びかけに、将太が真っすぐ手を挙げた。
どういう風の吹き回しよ、と一瞬驚き、翌日には謎が解けた。夏休み前、葉月のクラスはすでに委員を決めていた。あいつはそれを知っていたのだ。もちろん、委員は葉月。そして、我が組の将太のパートナーには、香代が名乗りを上げていた。
生徒会が主催して、何度かクラス委員の会議があった。衛生上の注意点、金券の取り扱い、当日のスケジュール……。そんなことが議題になったらしい。
文化祭が終わった後も、出納の報告でクラス委員が招集された。
香代はそのたび、部活を休んだ。グラウンドには将太もいない。見つめる先の葉月も同じだ。
秋口のプールは冷たい。それでもわたしは無心に泳いだ。
「晶、お前このあと、時間あるか?」
クリスマスにカラオケを二時間楽しんで、香代と別れた帰り道、将太に言われた。
右手に包みを抱えている。香代からもらったTシャツだ。わたしは何も贈らなかった。
「いいよ。寒いから近所のマックに行こう。お母さんに一本電話しておく。将太もおばさんに連絡しておきなよ。わたしとならば、多少遅くても、平気でしょう?」
「ああ、そうする」
互いにスマホを取り出して、わたしは通話で、将太はLINEで事情を伝えた。
コーヒー二つとポテトのLを注文した。「誘ったから」と将太が払ってくれた。
二階のテーブル席で向き合った。高校受験の勉強でよく来た店だ。将太と二人、飲み物とポテトだけでずいぶん粘った。迷惑な客だった、といまさら思う。あれはまだ、一年前のことなんだ。
「気づいていると思うけど……」
コーヒーを一口すすり、沈黙していた将太が口を開く。
「俺、やっぱり葉月を好きだ」
そっちの子の話なんだ。そう感じたけれど、口には出さない。
「なんでわたしに言うのよ? 葉月とはあまり接点ないから取り持てないよ」
「わかっている。俺なりのけじめだ。ごめん」
「なによそれ」
わたしは薄く笑ってみせた。将太らしい。
謝る理由もわかっている。
将太はわたしに「借り」があるのだ。それを返せないことを申し訳ないと感じている。
去年の夏、中学最後の市民大会。三中の男子バスケ部は準決勝で敗退した。翌週に同じ運動公園内の屋内プールで、水泳の大会が控えていた。下見ついでに体育館へ立ち寄った。スタンド席に腰掛ける。
試合はすでに終盤だった。部長の将太は「背番号四」を着けている。司令塔のポイントガードだ。
一進一退の攻防だが、わずかに三中が押されていた。
残り一分。スリーポイントエリアの将太に奇跡のようなパスが通った。これを決めれば三点入って逆転だ。隙を突かれた相手チームのディフェンスが、慌てて将太に駆けていく。
狙いを定め、将太が両手でボールを放った。
ゆるやかな放物線を描いた球は、けれど、わずかにゴールに嫌われて、コートに落ちた。
ホイッスルが響き渡る。
わたしはそっと席を立った。
葉月が率いる女子バスケ部は、同じ日に、決勝まで勝ち上がり、強豪校に競り負けた。
その日の夜、将太がうちにやって来た。風呂上りのパーカー姿で、近所の公園に連れ出される。
「……負けたよ。俺の責任だ。もうチームプレーはやりたくない」
並んでベンチに座ったまま、将太は声を殺して泣いていた。
黙ってペットボトルのポカリを手渡す。出がけに二本、家の冷蔵庫から持ち出した。
体育館で見ていたことは、伝えなかった。
うだるような暑い夏の夜だった。
「まあ飲め、将太。あんたはよく頑張った」
軽く背中を二回叩き、ペットボトルのキャップをひねる。将太は黙ってわたしにならった。
喉が渇いていたのだろう。一気に半分近くを飲み干して、将太は、ふう、と息を吐いた。
「……もう一つ、負けちゃった」
「うん、なにに?」
「葉月に振られた」
絶句する。
将太が葉月に惹かれているのは気づいていた。中二の終わり、軽い気持ちで茶化したら、「俺の純愛を馬鹿にするな」と珍しく気色ばまれた。「純愛」とはずいぶん大きく出たもんね――。そう言いかけて、言葉を呑んだ。
将太は本気のようだった。本気だけれど、打ち明けない。高嶺の花だとわかっているから。それで無理やり「純愛」だと自分自身に言い聞かせていたのだろう。たとえ思いが通じなくても、好きな気持ちは変わらない。そんな思いを「純愛」という言葉に押し込めた。
「……あんた、ついに告っちゃったんだ」
「試合後で、気持ちが昂っていた。これで全部おしまいだ。コートで葉月を見られなくなる――。そんなふうに感じていた。葉月も負けて泣いていた。慰めながら、『ずっと葉月が好きだった』って、打ち明けた」
「答えは?」
「『そんなふうに将太を見たこと、一度もない』だって」
葉月らしい物言いだ。自覚した美少女だけの特権だ。何だか無性に腹が立った。
ねえ、葉月。
こいつはちょっとヘタレだけれど、それでもわたしの大事な大事な幼なじみなんだ。
「……晶」
「うん」
「葉月のことは諦める」
「うん」
「なあ、晶」
「うん」
「……お前にしか頼めないことがある」
「うん」
「……キスしていいか?」
「うん」
ぎこちなく、わたしたちの唇は重なった。お互いに、ファーストキスだった。
自分にできる精一杯の慰めがキスならば、それでいいやと感じていた。
そしてその時、わたしは大事なことに気づかされる。
「やっぱり返して」
マックで将太に右手を差し出す。
「返せって、なにをだよ?」
「決まってるでしょ、ファーストキス」
「おい、声でかい!」
焦った将太がわたしの口に手を伸ばす。
ブレザーの胸のリボンの辺りでその手をひねり、将太に顔を近づけた。
「わたしはね、あんたが『葉月を諦める』って言ったから、ファーストキスをあげたんだ。それがなに? まだ一年半もたってないのに『やっぱり好きだ』? 純愛が聞いて呆れるわ」
「……すまん。ファーストキスは返しようがない」
「まあいいよ。そういう一直線なところも、馬鹿馬鹿しくて将太らしい。飽きるまで、ずっと葉月を好きでいなさい。でもね、わたしの慰め、二度目はないよ」
「なんだよ。玉砕前提かよ」
「当たり前でしょ。大会後に振られてから、なにか好材料があったかしら?」
「……一つもねえ」
「アホらしいからもう帰る。クリスマスの楽しいカラオケが台無しだ。いい、わたしはちゃんと警告したよ? それから、この話、絶対、香代にしちゃ駄目だからね」
「なんでそこで香代が出てくるんだよ」
「香代がくれたそのTシャツを拝みながら、独りでよく考えなさい」
「もったいつけるな」
「香代を傷つけたら、たとえあんたであっても、許さない」
わたしはコートを握り締め、出口に向かって歩き始める。
「晶、ちょっと待て。一緒に帰ろうぜ」
そこで一度立ち止まり、将太に振り向く。
「わたしも前言撤回する。『借り』はもう返さなくても構わない。わたしも十分、将太に『借り』た。おあいこだ」
「え? 意味わからん。俺、なにかお前に貸したっけ?」
「そっちは考えなくていい。――じゃあね」
今度こそ、振り返らず、店を出た。
真冬の寒い帰り道、自転車を押しながら、悔しさのあまり泣けてきた。
そう、わたしは将太に「借り」がある。
わたしたち三人は、いつまでもこのままではいられない。
しばらく前から、気づいていた。
さっきは呆れてみせたけど、将太のがむしゃらな愛情には、ある意味、敬服せざるを得ない。
自分もそろそろ、腹をくくれていいはずだ――。
年が明けた。冬休みも重なって、将太とはしばらく口をきいていない。オフシーズンの水泳部も開店休業状態だ。将太とも香代とも、なんだか微妙な距離ができている。
「なあ、将太と香代ちゃんって、つきあってるの?」
一月半ば、クラスの男子にこっそり聞かれた。大晦日、連れ添う二人が七瀬神社で目撃されたらしい。
「噂では、香代ちゃんが将太を誘ったことになっている。あの子、天然ゆるふわ美少女だから、結構人気があるんだよ。でもさ、相手があの憎めない将太だろ? 何人もの男子たちが真偽をめぐり、悶々としている」
「『俺たちのアイドルが奪われた』って、ヘタレな嘆きをわたしも聞いた。初詣で見られたんだ、あの二人」
「晶ちゃんも知っているのか。そうだよな。幼なじみだし、香代ちゃんとは同じ部活だし。――で、真相はどうなんだよ?」
「知らない。興味もない」
「え、そうなの? ……ひょっとして、晶ちゃん、『寝取られた本妻』の役回り?」
「悪いけど、わたしまだ、誰とも結婚していない」
睨みつけると、男子はきまり悪そうな笑みを浮かべ、立ち去った。
二月、久しぶりに屋内プールで部活があった。部室に一度集合し、顧問と部員で運動公園行きのバスに乗る。
高校のプールは晩秋から初夏まで使えない。だからこの間、休みを除き、月に数回、水泳部員は屋内プールに「遠征」するのだ。
その日は一時間で三キロ泳いで解散した。運動公園には三系統のバス路線が通じている。「川田駅行き」に乗り込んだのは、わたしと香代の二人だった。
平日の遅い時間のバスは空いていた。最後列に並んで座る。
目的地までの三十分、わたしたちは喋らなかった。泳いだせいか、体が気怠い。シートにもたれ、窓からずっと冬の景色を眺めていた。
「晶、お茶していこうよ」
終点の川田駅で降りる直前、香代がようやく口を開いた。うん、と答える。
駅前にあるチェーンのカフェで、わたしは香代と向き合った。
「――将太くんにバレンタインのチョコを渡そうと思っている」
ニャニャ蔵の赤いキーホルダーを大切そうに握り締め、アイスティーを一口含み、香代は静かに切り出した。自転車ではなく、お財布にニャニャ蔵をつけている。
「将太くん、葉月ちゃんを好きなんだよね」
「本人から聞いたんだ」
そこで香代はクスっとはにかむ。「聞いてないけど、バレバレだよ。あの人、面白いほどわかりやすい」
なんだか胸が苦しくなる。「あの人」か。いつの間にか、そこまで距離が縮んでいたんだ。
「それでも香代はチョコを渡すの?」
「うん。決めた。もう黙っているの、しんどいや。それに、将太くんの一途さに、感動している。あの人、中学の時、一度葉月ちゃんに振られてるんだよね」
「それも知っているんだ」
「バスケ部の友だちから聞いた。葉月ちゃん、部の女子会で恋愛遍歴尋ねられ、うっかり喋っちゃったみたい」
「怖いね、女子は。同性だけど」
「本当だよね。――わたしも告って失敗したら、みんなの噂になるのかな」
小さく笑ってそうつぶやき、けれども香代はいつになく、凛としていた。
もう決心は揺らがない。そう見えた。
「天然ゆるふわ美少女」だけど、一本筋が通っている。将太、あんたは幸せ者だ。滅多にいないぞ、こんな子は。
「ねえ、香代。どうしてわたしに、打ち明けるって話をしたの?」
「晶は大事な友だちだから。大好きな男の子の幼なじみだから」
「出会った日、わたしたちがつきあってると、誤解したよね? 今はそんなふうに思わないの?」
「うん。恋人以上の関係だって、妬いたこともあったけど、『以上』であって、『恋人』じゃないんだな、と理解することにした。悔しいけれど、仕方ないよ。二人が十六年かかって紡ぎあげたものだもん。この先、誰にも割り込めない。わたしにも、もちろん、葉月ちゃんにも」
香代は健気だ。なにより強い。
あのキスに覚えた強烈な違和感で、将太はわたしにわたしのことを教えてくれた。
大きな「借り」を、いつになったら返せるのだろう。
もう一度、香代が微笑む。
そのすべてが愛おしい。
「あのさ、晶にも、好きな相手ができるといいね」
ずっといるよ、目の前に。
(了)


