偏差値70だけど、この恋むずすぎ。

 
「あぁ、もう帰りたいい……」

 潮の匂いが漂う殺風景な部屋で、弱々しい声が聞こえ、俺は目を覚ました。
 六月に自宅の工事が終わってから、一か月余り。
 季節は本格的な真夏を迎え、俺は今、神奈川県の葉山にある塾のスパルタ夏期合宿所にいた。
 そしてついに四日目の朝を迎えた。

「俺も帰りてぇーよ。でも午前を乗り切れば……」
「そうだ! フリータイムだぁ!」

 掛け布団に潜ったまま、同じ東大を目指す西本がガッツポーズしている。
 俺もガバッと掛け布団を被って「さっさと、勉強終わらせようぜ」と声を振り絞った。
 普段は朝から晩まで十時間以上の勉強を強いられるのだが、さすがに気が狂うということで、四日目の今日は、午後から自由時間が与えられていた。
 合宿所からは葉山の森戸海岸は目と鼻の先。窓からは穏やかな海と、運が良ければ富士山も見え、絶景だ。
 目の前の海水浴で楽しむのもよし。雑貨屋で買い物をしてもよし。
 カフェに行ってもよし。
 みんな、この半日のために残りわずかな気力を振り絞っている。
 俺ももちろん例外ではない。
(正直休んでる暇はねーけど、気狂ったら終わりだからな!)
 
俺は一時的に、朔との一件で東大合格に対するモチベーションが下がり、夏期合宿すら参加するか迷っていたのだが、若月に励ましてもらったおかげでまた受験勉強を頑張ってみよう、という気になり、この合宿に参加を決めたのだった。

 人に勉強している姿がかっこいいなんて言われたことがなかったし、尊敬しているなんて言われたらやるしかない。
 おかげで、やる気が漲って勉強の〝楽しい〟という感覚が戻ってきた感じがする。
 このまま夏期合宿も余裕で乗り切れると思ったのだが――やっぱり、そう簡単なも
んじゃなかった。
 もう会うこともない、若月の姿が脳裏に浮かんでいた。
 いつか、どこかであの男と会うかもしれない。
 その時に、東大に合格したと、胸を張って言いたい。そしたらあいつはまた、俺を褒めてくれるかもしれない。

(若月は、今日も仕事なのかな)

 もうかれこれ、若月が家の工事に来なくなってから一か月が経つ。
 日が経つにつれて、不思議とあいつの存在が自分の中で大きくなっていく。もう会えないのに。
 ――いや、もう会えないからなのだろうか。
 連絡先、聞いておけばよかった……そう、何度も思ったけれど、すぐに、自分から聞けるわけがなかっただろう、と思い直す。
 そんな度胸、俺にはない。今だってない。

 若月から聞いてくれたらよかったのにな、なんて、贅沢なことを考えてしまう。
 不思議だな。初めこそ、本気で嫌いだったのに、こんなに恋しく思うなんて。
 それは俺を本気で理解してくれたような気がしたからか。それとも受け止めてくれたような気がしたからか。
 朔に抱いた〝愛おしい〟感情とはまた、少し違うのは確かだった。
 
 それからの午前中の講義は、ただ機械的にペンを走らせる。
 やはり開放が目の前に迫っているからだろうか、いつもより調子がよかった。

 そして運命の十三時――講義終了のチャイムが鳴った瞬間、俺と西本はばち!っと視線を交わした。
 正面口から一斉に生徒たちが飛び出す。
 階段を大急ぎで駆け下り敷地を抜け出した瞬間――むっとした夏の熱気に混じった潮の匂いが一気に鼻に入ってきた。
「しゃあ……抜けた! 自由だー!」
「葉山、来いヤァ!」

目の前に広がっていたのは、穏やかな森戸海岸だ。
今日は雲がほとんどなく、青空に、富士山の影がはっきりと浮かんでいた。
規則的な波音が心地よく鼓膜を揺らす。
この数日間、暗い教室に閉じ込められていた身体に、温かい潮風が気持ちいい。

「はぁ〜! 最高! 泳ぐべ!」
「ああ。……でもその前に、昼飯どうする?」
「決まってんだろ。あっちの海の家で、なんか美味いもん食おうぜ!」
波打ち際に沿って歩いていくと、賑やかな海の家がいくつも見えてきた。
浜焼きなのか、磯の香ばしい香りと、陽気な音楽が風に乗って漂ってくる。

(あれ……なんか思ってたのと違う?)

 海の家に近づきにつれ、不安が襲ってきた。
 てっきり海の家では家族連れや、カップルがのんびり屋台飯を食べているのだろうと思っていたが、全然違った。
 海岸に響き渡るほどのイケイケな洋楽が流れ、見るからに派手な水着の男女が沢山集まっている。
 完全に俺らは場違いだった。

「もしかして、貸し切り中とか……?」
「あ、なるほど」

 こそっと耳打ちをしてきた西本に、俺は妙に納得した。
 みんな打ち解けたように談笑しており、知り合いのような雰囲気だ。
 どこかの大学のサークルで団体で海に来て、そのまま海の家でも貸し切って夕飯でも食べているのだろう。

「……違う店行く?」

 西本に提案してみる。
 周りを見渡してみても、どこの海の家も騒がしいような気がしたからだ。
 そういうところが好きな人はいいが、俺らはただのがり勉陰キャのガキだから。

「そうしよ、そうしよ、ちょっと高そうだけど、あっちにうどん屋あったし」

(さすが西本、リサーチ力が凄まじい!)

 感心しながら揃って踵を返したその時だった。
 背後から突然、「ちいまる!」と大きな声が聞こえてきた。

(ん……? ち、ちいまる……?)

 この声、聞き覚えがある。
 いや、まさか、そんな。
 遅れてドクドクと激しく心臓が動きだす。俺は震える体をゆっくりと後ろに向けた。

「はわわわ、えええ? わ……若月?」
「やっぱ、ちいまるだったか! すっげー偶然だなぁ」

 その大きな図体を見た瞬間、時間が止まった。
 間違いない。