◆真夏の思い出
「あぁ、もう帰りたいい……」
弱々しい声が聞こえ、俺は目を覚ました。
「西本、俺も……」
「なぁ、今日抜け出さねぇ?」
掛け布団に潜ったまま、西本がぼそぼそと言っている。
俺もガバッと掛け布団を被って「だな」と小さく返事をした。
今日で夏季合宿は四日目になる。
俺は一瞬、朔との一件でT大合格に対するモチベーションが下がり、夏期合宿すら参加するか迷っていたのだが、若月がいなくなる 二日前に、奴と話してまた受験を頑張ってみよう、という気になり、参加を決めた。
人に勉強している姿がかっこいいなんて言われたことがなかったし、尊敬しているなんて言われたらやるしかない、と思った。
おかげで、また勉強の感覚が戻ってきた感じがする。
このまま夏期合宿も余裕で乗り切れると思ったのだが――やっぱり、そう簡単なものではなかった。
今現在四日目だが、すでにトータル四十時間以上強制的に勉強させられている。
朝六時に起き、まず一時間の実習。その後、三十分の朝食を挟み、すぐに小テストがある。
そこからは夕方まで授業があり、夕食と風呂を挟んで、夜からはまた実習の時間となる。基本的に自由時間なんてほぼ皆無で、夕食後のわずかな時間に少し散歩に出たり、買い物をしている者がたまにいるくらいだ。
みんな、合格するのに必死だ。
(けど、マジでもう無理かもしんない)
合宿所からは葉山の森戸海岸は目と鼻の先。窓からは穏やかな海と、運が良ければ富士山も見え、絶景だ。
こんなに最高のロケーションなのに、缶詰めで勉強なんて狂ってる。
「……なぁ、確かに勉強は大事だよ? だけど、このままだと逆に病む! ちょっと息抜きしようぜ」
がばっと布団から抜け出した西本は、かなり切羽詰まった様子で俺に訴えかけた。
西本と全く同意だった。このままだと、確実に病む。
「よし、今日の実習はバックレだ。なんとかなるだろ、一日くらい」
「しゃあッ!」
「海の家で美味いもん食おうぜ!」
西本とハイタッチをした後、重たい体を起こす。
(今日だけ……絶対に、合格はする)
西本と他愛ない会話をしながら、俺はそう強く心に誓っていた。
もう会うこともない、若月の姿が脳裏に浮かんでいた。
いつか、どこかで会うかもしれない。その時に、T大に合格したと、胸を張って言いたい。そしたらあいつはまた、俺を見直してくれるだろう。
(若月は、今日も仕事なのかな)
もうかれこれ、若月が家の工事に来なくなってから一か月が経つ。
日が経つにつれて、不思議とあいつの存在が自分の中で大きくなっていく。
もう会えないのに。
いや、もう会えないからなのだろうか。
連絡先、聞いておけばよかった――そう、何度も思ったけど、すぐに、自分から聞けるわけがなかっただろう、と思い直す。
そんな度胸、俺にはない。今だってない。
若月から聞いてくれたらよかったのにな、なんて、贅沢なことを考えてしまう。
不思議だな。初めこそ、本気で嫌いだったのに、こんなに恋しく思うなんて。
それは初めて自分を〝本気で理解してくれた〟ような気がしたからか。それとも〝受け止めてくれたような気がした〟からか。
朔に抱いた〝愛おしい〟感情とはまた、少し違うのは確かだった。
それからの昼間の講義は、ひたすら死んだ魚の目をして耐え抜いた。
朝から夕方十七時半まで、頭の半分で若月のことを考えながら、ただ機械的にペンを走らせる。すべては「夕方になれば脱走できる」という一心のためだ。
そして運命の十七時半――。
講義終了のチャイムが鳴った瞬間、俺と西本はこっそりと視線を交わした。
狙うは、十九時から始まる「地獄の夜間演習」のサボりだ。
正面から堂々と抜け出せば見張りのチューターに見つかるため、俺たちはあらかじめ示し合わせていた通り、青ざめた顔を作って教務室へと向かった。
「……すみません。朝からずっと頭痛と吐き気が酷くて……今夜の実習、休ませてください」
「俺もです……胃が痛くて、とても集中できそうになくて……」
額を押さえる俺と、胸を押さえて苦しそうに顔を顰める西本は名演技だった。
二人揃っての迫真の演技に、厳しい講師も苦虫を噛み潰したような顔で溜め息をつく。
「仕方ないな。今夜の夜間演習は免除してやる。ただし部屋でおとなしく休んでろよ。許可なく外出したら即刻親に連絡するからな」
「はい、ありがとうございます……」
教務室を出て自室のドアを閉めた瞬間、俺と西本は顔を見合わせて押し殺したガッツポーズを作った。
「ククッ……言われた通り部屋でおとなしく休んでるわけねぇだろっつの!」
「しっ、声が大きいって! 見つかったらマジで終わるぞ」
俺たちは音を立てないようにスニーカーを履き直すと、巡回の手薄な裏口へ向かい、非常階段の重い鉄の扉をそっと開けた。
階段を駆け下りて敷地を抜け出した瞬間、むっとした夏の熱気と、香ばしい潮の匂いが一気に鼻腔をくすぐった。


