偏差値70のイレギュラーな恋


(え……?)

 何か様子がおかしくて、思わず首を傾げる。すると若月は、急にはっとしてわざとらしく視線を外してきた。

「……意味分かんねぇ」
「え?」
「は?」

(お……俺も意味分かんねぇんですけど!)

眉を顰めると、若月はおもむろにその場から立ち上がる。

「とりあえずさ。今日はこの後親方たちと食堂に行こうって話になってる。お前も一緒に来るか?」
「え、ど、どういうこと?」

 話が飛躍して全然ついていけなかったが、どうやら若月たち職人は、工事の仕事が終わったら必ず立ち寄る定食屋があるらしい。
 今日もその定食屋で夕食を食べるという話になっているので、俺も一緒にどうか、と誘われたのだった。

「来るよな?」
「……っ」

 圧……とまではいえないが、鋭い眼光で見据えられたら拒否なんてできない。
 俺は小さく頷いて「行く」とだけ告げた。


 それから数時間後。
 十七時半に撤収作業を終えた職人たちに混ざり、俺は親方の運転する作業用トラックに乗せられていた。
 運転席にはコワモテの親方。助手席には体の大きな若月。そしてその二人に挟まれる形で、俺は真ん中の簡易的な席にちょこんと座っていた。

 (ま、真ん中に席って……これ、本当に座ってて大丈夫なのかな)
 
 世田谷の自宅で送迎用の高級外車に乗ることはあっても、工具や養生シートの匂いが充満した男臭いトラックに乗るなんて人生で初めての体験だった。
 
 両隣からの圧迫感がすごくて、ガチガチに身を縮める。

 しかも右隣の若月とは、肩と太ももが直に密着していて、作業着越しに熱い体温が伝わってくる。

 相変わらず体温が高いな、と思いつつ変に心臓が騒がしかった。
 すると隣に座っていた親方が、ハンドルの上の太い腕を動かしながらサイドミラー越しにガハハと豪快に笑った。

「いやぁ、なんだか不思議な感じだな! まさかお世話になってるお屋敷のぼっちゃん乗せて、このメンツで飯食いに行くことになるとは思わねぇかったぞ」

「俺が無理やり引っ張ってきたんすよ」

 助手席の若月が、窓枠に肘を預けたままニヤリと笑う。

「こいつ、いつも青白い顔して難しそうな顔してんすよ。たまには白飯お腹いっぱい食わせねぇと、倒れちゃいそうで見てらんねぇ~」
「なっ……! べ、別に倒れたりしないし!」
「おおっと、確かに声が小さいなァ。やっぱり腹減ってんだろ! よし一樹くん、今日は親方が奢ってやるから、何でも好きなもん食え!」
「えっ、あ、ありがとうございます……!」

 気前よく笑う親方の豪快さと、隣で不敵にニッと笑う若月。
 自然に俺を受け入れてくれている気がして、ちょっとくすぐったい。
 エンジン音の激しい音を身体に感じながら、少しずつ緊張が紛れていくのを感じていた。
 
 トラックが停まったのは、いかにもガテン系といった風情の小さな定食屋だった。
 ガラガラと引き戸を開けた瞬間、香ばしい油と醤油の匂いが一気に鼻腔をくすぐる。

「いらっしゃい! おやっさん、今日も暑かったねぇ!」
「おう、おばちゃん! カラアゲ定食三つ! 飯は大盛りでな!」

 店内は仕事終わりの職人たちで賑わい、威勢のいい声と笑い声が飛び交っていた。いつも見ている上品な世界とは違う。
 熱気と活気あふれる空間に呑まれた瞬間――俺の腹が、ぐううぅっ、と情けない大きな音を立てた。

「ぶはっ! お前、最高にいい音鳴らすじゃねぇか!」
「お、おい若月、笑うなッ……!」
「ガハハ! ほら見ろ、やっぱり腹ペコじゃねぇか!」

 親方と若月に散々茶化されているうちに、湯気を立てた山盛りのカラアゲ定食が運ばれてきた。
 こぶし大はありそうな唐揚げにガブリと噛みつくと、肉汁が一気に溢れ出す。

「うまっ!」
「だろ? ここの唐揚げは絶品なんだよ」

おばちゃんが「ぼっちゃん、足りなかったらご飯お代わりしなね」と優しく微笑みかけてくれる。店の中にあふれる笑顔と、揚げ物の温かい湯気。

(なんだよ、これ)

胸の奥がキュッと締め付けられ、急に視界が滲んできた。
あわてて下を向き、唐揚げをご飯と一緒に口へ押し込む。
けれど、一度溢れかけた涙は止まりそうにない。

「……おい。どうした?」

隣で黙々と飯を食っていた若月が、ふと箸を止めて覗き込んできた。

「……なんでもない」
「嘘つけ。泣いてんじゃねぇか。なんだ、まだあの失恋引きずってんのか?」
「違うっ……! そうじゃなくて……なんか、すごく優しくて」

 止めどなく溢れ落ちる涙を袖でゴシゴシと拭う。
 若月はからかうこともせず、ただ静かに俺の言葉を待っていた。

「朔もさ。俺のために、色んな料理作ってくれてたなぁって」
「……へぇ、そうなのか」

 若月は少しの沈黙の後、ぶっきらぼうな返事をする。

「うん……だからすごく嬉しかった。……うちの両親、ずっと放任だから。三人で食卓を囲んだことなんて、片手で数えるくらいしかない。父親も母親も、肩書ばかり立派だけど、実際何をしてるのかもよく分からないんだ」

 あぁ、こんなことなんてこいつに話してるんだろう、って情けなくなった。
 でも、すぐ真横から伝わってくるじんわりとした体温が。なんだか、落ち着かせてくれて。すべて受け止めてくれそうな、気配がしたから。

「昔から……『お前は一人で勝手に生きていけ』って言われてる気がしてた……」

今まで誰にも言えなかった惨めな本音が、ポロポロと口からこぼれ落ちていく。
若月は何も言わなかった。
ただ黙って話を聞き、俺の肩をぽんと力強く叩いてくれた。
分厚い掌だ。そして温かくて、がさつ。
以外と、俺はこいつのそういう体の一部が好きだ。
嘘をつかなそうじゃないか。

「……俺が思ってた『ちいまる』とは違ったわ」

若月がボソリと呟く。

「え?」
「お前みたいな金持ちの坊ちゃんはさ、何不自由なく、恵まれて生きてんだと思ってた。……でも違ったな」

若月は残りの唐揚げを口に放り込むと、腕を組んで照れくさそうに視線を泳がせた。

「お前が部屋でさ、倒れそうになりながら必死に勉強してる姿……すげぇカッコいいよ」

 どきり、と心臓が大きく跳ねた。
 そんな風に、思われてるなんて夢にも思ってなかった。

「正直、俺もマジでちゃんと勉強してみたくなったわ。いつか……俺を捨てた親を見返してやるためにな」
「……若月」
「お互い、負けねぇように頑張ろうぜ」

 若月はふっ、といつもの不敵な笑みを浮かべて、残り僅かになった水をグイッと呷った。
 若月は、なんとなく気づいていたけど訳アリなんだ。
 あいつ自身の詳しい生い立ち、正直めちゃくちゃ気になった。
 だが、結局聞けなかった。
 言葉数は少なかったけれど、距離はだいぶ近くなった。

――そう、若月も感じてくれているといいな、と思いながら……俺も水を飲みほした。