偏差値70だけど、この恋むずすぎ。


 朔はそう言って、笑顔で俺の手を両手で包み込んだ。
 こいつの言っている意味が、全然分からなかった。
 ふたりの想いを独り占めして、都合がいい時だけほしい愛を受け取ろうとしているのか?
 じゃあ俺の気持ちはどうなる? その女の子の気持ちは?
 俺たちの朔への気持ちを利用して、優越感に浸っているとしか思えない。

「……出てけよ」
「え?」
「出ていけって言ってんだよ!」

 怒号とともに朔を振り払う。
 俺の叫びに気押された朔は「何、それ……」と呟いた後、眉をひそめながら自室を出て行った。
 バタンとドアが閉まった瞬間、俺はその場に膝から崩れ落ちた。

「マジかよ……もう、最悪だ……っ!」
  
 溢れ出す涙を止められず、床に突っ伏して声もなく泣きじゃくった。
 朔を愛していた。誰よりも。
 朔を信じていた。誰よりも。
 これから俺は、何を信じていきていけばいいんだ?
 長年の初恋が、こんなにも惨めで残酷な形で終わるなんて思わなかった。

 絶望に堕ちた――その時。
 突然、コンコンと部屋のドアが軽く叩かれた。
 だが今は立ち上がる気力すらない。返事がないのを心配したのか「大丈夫か?」という声の後に、ガチャリとドアが開き、作業着姿の男がヌッと入ってきた。

「失礼しまーす……って、おいおい、なんだ? 派手に落ち込んでんな」

 若月だった。仕事の最中のはずなのに、どうして?

「お前、結構デカい声でんのな」
「……っ」
 
 どうやら俺の怒号が、庭にまで響いていたらしい。
 床に突っ伏せボロボロになった俺の前まで来た若月は、呆れたように息を吐く。
 すると突然、すごい勢いで再びドアを開けた若月は、まだ庭の辺にいた朔に向かって大きな声を張り上げた。

「おいクソチビ! 一樹に気安く触んじゃねぇっ! とっとと女のところに戻ってろ!」


 走って逃げるような朔の足音が聞こえ、やがて静寂が戻ってきた。
 若月はズカズカと部屋に入ってくると、ベッドの上に転がっていた巨大な『ちいまる』のぬいぐるみを抱え上げ、隣にドカッと腰を下ろした。

「ほら、起きろ。このスイカ頭もお前が泣いてて困ってんぞ」
「……勝手に入ってくんなよ……」
「ノックしたのに返事しねぇお前が悪い。ほら、テレビつけろよ。この前言ったろ? 俺の部屋はwi-fiもないし貧乏だからアマプラ見れねぇんだ。お前の部屋のやつで見せろ」

 強引で図々しい言動に、俺は涙を拭いながら呆れ半分でテレビの電源を入れ、自分のアカウントで動画配信サービスを起動してやった。

「よし、ちいまる見ようぜ」

 結局、若月はその後もしばらく部屋に居座り、ちいまるを連続で見ては一人で大笑いしていた。
 あんなに苦しくて死にそうだったのに、若月の強引な態度と無骨な笑い声のおかげで、いつの間にか涙は引っ込んでいた。

「じゃ、俺はそろそろ帰るわ。ありがとな、ちいまる」
「ち⁉ 俺は一樹っていう名前が……」
「はいはい、ちいまる。またな」

 なんでちいまるなんだよ、と聞けば「なんとなく似てる。顔とか性格とか」らしい。
 ニッと不敵に笑って若月がドアに向かって歩き出す。

「ちいまるじゃなくて、別に下の名前でも……」

 
 ポツリと俺が呟くと、ドアノブに手をかけていた若月がピタリと動きを止めた。
 ゆっくりと振り返ったそいつが、低く静かな声で口を開く。

「一樹」

「っ」

 そのまっすぐな声に、息を呑んだ。
 普段の乱暴さの欠片もない、深く澄んだ響き。
 切れ長の大きな瞳が、まっすぐに俺だけを見据えている。

(なんで、そんなに俺を見てくるんだ? なんで、そんな声で名前を呼ぶんだ)

 固まる俺を見て、ふっと目を細めた若月は「やっぱ、やーめた」と意地悪く言うと、今度こそドアを閉めて部屋を出て行った。

「なんなんだよ、若月のやつ……」

 再び一人きりになってほっとする半面、急に静かになった部屋に、胸が苦しくなった。

(あぁ、全部終わったんだ)
 
 若月の洋服からほんのりと滲む柔軟剤のいい香りがまだそこにあって、少しだけ救われた。
 この香りがなかったら、もっともっと落ち込んでいたかもしれない。

「……ぐす。さよなら、朔……」
 ぽつりと独りごちると、自然と涙が溢れてきた。
 誰よりも大切に想っていた朔への気持ちが、こんなにもあっけなく散ってしまった。
 胸の痛みはまだまだ消えそうにない。
 だが不思議と、この別れを受け入れていたし、これ以上追いかけようという気も起きなかった。
 さっきの朔の表情を見て、彼と俺はまったく違う道を歩んでいるのだと痛感したからだ。

 あの夜から、数日が過ぎた。
 朔との長すぎた恋に終止符を打ち、胸の奥にはぽっかりと大きな穴が空いたままだ。
 けれど、受験生としての日常が俺の都合で止まってくれるわけもない。
 毎日のように『ちいまる』を見に部屋へ押し入ってくる若月の図々しさに毒気を抜かれながら、俺はなんとか気持ちを切り替え、いつも通り塾へと足を運んでいた。
 しかしいつもの騒がしい教室で、返却された一枚の紙切れを直視した瞬間、俺の思考は完全に停止した。