偏差値70のイレギュラーな恋

 ぽつりと独りごちると、自然と涙が溢れてきた。
 大切に暖め続けた想いが、こんなにもあっけなく散ってしまった。
 胸の痛みはまだまだ消えそうにない。
 だが不思議と、この別れを受け入れていたし、これ以上追いかけようという気も起きなかった。
 さっきの朔の表情を見て、彼と俺はまったく違う道を歩んでいるのだと痛感したからだ。

 あの夜から、数日が過ぎた。
 朔との長すぎた恋に終止符を打ち、胸の奥にはぽっかりと大きな穴が空いたままだ。
 けれど、受験生としての日常が俺の都合で止まってくれるわけもない。
 毎日のように『ちいまる』を見に部屋へ押し入ってくる若月の図々しさに毒気を抜かれながら、俺はなんとか気持ちを切り替え、いつも通り塾へと足を運んでいた。
 しかしいつもの騒がしい教室で、返却された一枚の紙切れを直視した瞬間、俺の思考は完全に停止した。

(あぁ……どうしよう)

 俺はそれを見て、固まった。
 今まで国内最難関大学――T大の模試はA判定以外とったことがなかった。
 だが、受験を半年前に控えた今。B判定よりも下のC判定が出てしまった。

「一樹、結果どうだったー?」

 無邪気に、塾仲間である西本が尋ねてくる。

「あ、あぁ」
「結構難しかったけど、なんとかA。一樹も?」
「ん……まぁ……」

 ぐしゃっ、と思わず拳の中でプリントを握りつぶした。
 ここまで成績を落としてしまった原因として、思い当る節はただひとつ。

 朔のことだ。

 あの日以来、顔を合わせていなければ、連絡一通すら交わしていない。
 あんなに長らく友人をしていたのに、こんなに呆気なく壊れてしまうのかと、時折無性に寂しさを感じる。
 同時に、あれだけ大きかった朔への気持ちはすっかり落ち着いてしまった。
 その要因として、若月の存在があるのは否めない。
 
 奴はあれから毎日のように、ちいまるを見に、俺の部屋に来るようになった。
 正直勉強の邪魔になるなと思うこともあったが、それ以上に、あいつが元気づけようとふざけてきたり、笑かせてくれる時間に、助けられたのがでかい。
 
 朔は今、俺のことどう思ってるんだろうなんて、毎日思う。
 特に、だいぶ前から、俺の存在は邪魔じゃなかっただろうか。同情や気を遣わせていたんじゃないかと考え込んだりもする。
 
 ゆえに、朔と一緒に目指していたT大受験へのモチベーションも、どう保てばいいのか分からなくなった。
 だがだからといって、今更志望校のレベルを落とすことも、俺の親は許してくれないだろう。

(とにかく、今は言えない)

 こんな模試結果を見られたら、いくら放任主義の親といえど黙っちゃいないはずだ。
 憂鬱な気持ちでいると、模試結果を配り終えた講師が、再び教壇に立つ。

「――はい、静かに! じゃあ次に。毎年恒例の夏期講習合宿について説明していくから――」

 ざわついた教室に、講師の甲高い声が響き渡る。
 俺はついにきたか、と思った。

 俺が通う駿成研という塾は、都内でも有名な難関大学卒業生を多数輩出している超進学塾だ。
 特に夏期講習、冬期講習は、全国でも類を見ないほど過酷なカリキュラムで知られている。
 わざわざ塾から抜け出し、完全に都内を離れて〝合宿〟という形で行われる。
 場所は葉山にある 葉山研修センターで行われ、日数は七泊八日。ほとんど休憩時間もなく、授業と実習の時間で終わるらしい。

「今回いい結果だった人は、さらに応用ができるように。今回成績が悪かった人は、しっかり点を落とさないように地を固める。自由参加だが、毎年ほとんどの生徒が参加していて――……」

 講師の声が聞こえないくらい、気だるさが体を蝕んでいった。
 T大に行くモチベーションがない状態なのに、そんな過酷な合宿で真摯に勉強へ取り組めるのだろうか。
 授業が終わってから、ほとんどの学生が合宿の申し込みをしに事務室に立ち寄っていたが、俺はその様子を横目に、教室から出て行った。

 すっかり夜が深まった時間に家に帰ってくると、あたりは当然の如く静まり返っていた。
 塾がある日は、夕方の十八時には撤収する若月と会うことはない。
 そういえば以前、驚くことにあいつも高校生だというのを聞いた。

(制服とかもあるのかな、あいつが通ってる学校……)

 通信制に通っているらしいので、仕事が終わってから学校の宿題に取り組むのだという。
 やっぱり体力お化けだな、と感心するとともに、どうしてそこまでして高校卒業資格を取りたいのだろう、と純粋な疑問を抱く。
 だが、聞くタイミングを見失った。

『なぁ、ちいまるは頭いいんだろ? 俺の先生になれよ』
『断る! 俺は暇じゃないから』

 そんな冗談とも本気とも取れるような会話を交わした。
 くだらない話をした時を思い出し、少しだけ口元が緩んだ。
 実家の本宅の扉を開けると、偶然、玄関で母親と鉢合わせた。
 いつもは仕事で疲れているのか化粧っ気のない母親も、今日はなんだかやけに着飾っている。こんな夜に、誰かと会うのだろうか。

「おかえりなさい、一樹。なんだか久しぶりに顔を合わせるわね」
「……ん。そうだね」
「食事は冷蔵庫に用意してあるから。あと……最近成績はどうかしら?」

 その言葉に、ドキリ、と心臓が嫌な音を立てた。
 C判定を受けたばかり。
 さすがに自分でもこの現実を受け入れられていないのに、母親には言えない。

「まぁ、特に変わらずだよ」
「ふふ、さすが一樹ね」

 母親は躊躇いもなく、ぎゅうっと俺を抱きしめた。

(あぁ、暑苦しい。俺をいくつだと思ってんだよ)

 全然顔を合わせないからか俺の成長スピードに、母親の方がついていけないようだった。
 距離感がバグっている。

「実はねぇ、お母さんずううっと……一樹の受験のことももうちょっと配慮してあげればよかったって、後悔していたのよ」
「後悔?」

 聞き捨てならない言葉に、俺は思わず反応した。

「そう。いくら急ぎとはいえ勝手に家の工事始めちゃったでしょう。騒音も結構あっただろうし……一樹の受験勉強の妨げになってたんじゃないかって」

(あぁ。そういうことか……)

 確かに俺の成績が落ちた理由に、家の騒音がなかったとは言えない。
 それに工事現場にいた〝若月〟にも、多少心を乱された。
 ――だが、同時に助けられてもいる。

「別に、大丈夫だよ」
 俺は短く言うと、体にへばりついていた母親を無理やり引き離した。
 俺が部屋から出て行こうとすると「待って!」と母親に呼び止められる。

「でも、工事ももうすぐ終わるから」
「え……?」

 思わず動きを止めた。

(今、なんて?)

 振り返ると、母さんは満面の笑みで言った。

「あと二日か三日だって! これからさらに勉強に集中できるからね。安心してね!」
 
 俺は母さんの返事をそこそこに、別宅に逃げた。
 バタンとドアを閉め、電気をつけないまま勢いよくベッドへと倒れ込む。