偏差値70のイレギュラーな恋


◆さよなら


「かずくん、大丈夫? 元気ない?」
「あぁ、うん……ごめん、ちょっとぼーっとしてた」

 向かい側に座っていた朔は、手に持っていた参考書ごしに微笑みかけ、また視線をしを落とした。
 今日は前々から決まっていた、朔と一緒に自宅で勉強する日だ。
 正直この前の件もあって、会うべきなのかどうか迷った。

 だが、まだあの女の子が彼女だと決まったわけではない。一度、ちゃんと聞いてみなくちゃ、と思っている。
 でもどうやって?

(上手く話せる気がしない……)

「ねぇ、さっきから気になってたんだけど……あのちいまる、超かわいいよね」
「えっ……!」
「UFOキャッチャーのだよね! あれ僕も見て、ほしいなぁって思ってたんだぁ~」

 朔が指さしたのは、先日ゲーセンで偶然会った、若月にとってもらった『ちいまる』だった。
 もともと朔にあげるためにとったぬいぐるみだ。
 本人もほしい、と言っているのだし、今すぐそれを掴んで渡してやればいいのに。
 手が、動かない。
 脳裏には、なぜか若月の顔がちらついていた。

『これはお前のためにとってやったんだ』

 そう、あいつは言っていた。不思議と、その言葉が心に引っかかっている。

「……か、可愛いよな。でも結構金かかっちゃって。五千円近く……」
「うそ! そんなに……? でも、よかったね! そのままとれてなかったら死ぬじゃん」
「うん、まじそれ……」

 結局『ちいまるをあげる』とは言えず、そこから適当に会話を合わせていた。
 何を話したのか、正直覚えていない他愛のないこと。
 昔はどんな些細な会話も、一言一句忘れなかったのに、不思議なくらい頭に入ってこない。

「……かずくん?」

 突然会話を辞めた朔は、少し不安そうな表情で俺の腕をぎゅっと握ってきた。

「今日、様子おかしくない? どうしたの?」
 そういった朔は、珍しく自分から俺の懐に潜り込んできた。
 その瞬間、体が強張り、心臓の音が激しさを増す。

(どうして、こんなこと普通にできるんだ?)
 もしこの前見た女の子と付き合っているのなら、いくら男同士でもこうやって密着するのはよくないのでは――と朔に対し、不信感ともいえる感情が心をじわじわと蝕んでいく。

「うん。やっぱり、かずくんのここは落ち着くなぁ……」

 朔はそう言ってくれたけれど、一ミリも心が動かない。
 喜びよりも、不信感。
 今までどうやって笑っていたっけ。今までどうやって、朔と触れ合っていたっけ。
 全然、思い出せない。

「さ……朔……あのさ」
「うん?」

 くるっと笑顔で振り返った朔の顔を見て、決心した。
 今しか、言えない。

「この前、女の子と遊んでた?」
「えっ……」

 朔は目をまん丸くして、心底驚いている。
 まさか、俺に見られているなんて思いもよらなかったんだろう。

「最近、様子もなんか変だったし、その子と付き合ってるんじゃないかなって思ったんだけど、違う?」

 一息に、すべてを話した。
 その間、朔はじっと固まったまま、俺を見つめている。
 長い沈黙が落ちた。
 すると突然、朔はくしゃっと明るく笑って、俺の顔を覗き込んできた。

「なんだ。かずくん、知ってたんだ。そうそう! 三か月くらい前から、同じ学校の女の子と付き合ってるよ!」

 どくっと心臓が嫌な音を立てた。
 覚悟はしていたものの、こうして面と向かって言われると、どうやって反応したらいいのか分からない。

「なんで、言ってくれなかったんだ? 別に、隠すことじゃないのに……」

 そう、隠すことじゃない。だって俺たちは〝友達〟だから。
 すると朔は、少し唇を窄めてわざとらしく怒って見せた。

「だって、かずくん僕のこと大好きじゃん。傷つくんじゃないかと思ってさ」

朔の口からあっけらかんと放たれたその言葉に、俺の思考は完全に停止した。

(――あぁ、そうだったんだ)

胸の奥で、今まで大切に温めてきた何かが音を立てて冷たく砕け散った。
こいつは、最初から全部知っていたのだ。俺がどんな気持ちで隣にいたのかも、どんな目で自分を見ていたのかも。気づいていながら、『幼馴染』という都合のいい関係に甘え、俺の片想いを知った上でキープしていたのだ。
傷つけないため? 違う。自分が悪者になりたくなかっただけだ。

「……出てけよ」
「え?」
「出ていけって言ってんだよッ!」

俺の叫びに気押された朔は、不満そうに眉をひそめながら自室を出て行った。
バタンとドアが閉まった瞬間、俺はその場に膝から崩れ落ちた。
溢れ出す涙を止められず、床に突っ伏して声もなく泣きじゃくった。
長年の初恋が、こんなにも惨めで残酷な形で終わるなんて思わなかった。

その時だった。

コンコン、と部屋のドアが軽く叩かれた。だが今の俺には答える気力すらない。
返事がないのを心配したのか、ガチャリとドアが開き、作業着姿の男がヌッと入ってきた。

「失礼しまーす……って、おいおい、なんだ? 派手に落ち込んでんな」

若月だった。大工の現場仕事の最中のはずなのに、様子がおかしい俺を察して入ってきたらしい。
俺が床でボロボロになっているのを見ると、若月は呆れたように息を吐き、外にいた朔に向かって大きな声を張り上げた。

「おいチビ! 一樹に気安く触んじゃねぇ。とっとと女のところに戻ってろ!」

走って逃げるような朔の足音が聞こえ、やがて静寂が戻ってきた。
若月はズカズカと部屋に入ってくると、ベッドの上に転がっていた巨大な『ちいまる』のぬいぐるみを抱え上げ、隣にドカッと腰を下ろした。

「ほら、起きろ。このスイカ頭もお前が泣いてて困ってぞ」
「……勝手に入ってくんなよ……」
「ノックしたのに返事しねぇお前が悪い。ほら、テレビつけろよ。この前言ったろ? 俺の部屋はwi-fiもないし貧乏だからアマプラ見れねぇんだ。お前の部屋のやつで見せろ」

強引で図々しい言動に、俺は涙を拭いながら呆れ半分でテレビの電源を入れ、自分のアカウントで動画配信サービスを起動してやった。

「よし、ちいまる見ようぜ」

結局、若月はその後もしばらく部屋に居座り、ちいまるを連続で見ては一人で大笑いしていた。
あんなに苦しくて死にそうだったのに、若月の強引な態度と無骨な笑い声のおかげで、いつの間にか涙は引っ込んでいた。

「じゃ、俺はそろそろ帰るわ。ありがとな、ちいまる」
「ち⁉ 俺は一樹っていう名前が……」
「はいはい、ちいまる。またな」

 なんでちいまるなんだよ、と聞けば「なんとなく似てる。顔とか性格とか」らしい。
 ニッと不敵に笑って若月が部屋を出ていく。

「ちいまるじゃなくて、別に下の名前でも……」

 そう言うが、若月は聞こえてるか聞こえてないのか反応せずに扉を閉めた。

「はぁ、行ってくれた……」

再び一人きりになってほっとする半面、不思議と絶望的な冷たさはなかった。
若月の洋服からほんのりと滲む、柔軟剤のいい香りがまだそこにあって、少しだけ心が落ち着いていくような気がした。

「さよなら、朔」