【完結】心音を届けたくて

 八月も後半に差し掛かり、学生においては学校から出された課題に一切手を付けていないことを思い出し、恐怖に打ちひしがれる頃合いだろう。
 今までの夏休みであれば灯花自身も他の学生と同じ気持ちになっていただろうが、今年の夏は凪という強力な助っ人のおかげで余裕のある気持ちでいる。これは本当に珍しいことでつい先日辰之が助ける電話を寄こしてきた際に、辰之としてはお前も同じだろ? と共感を求めていたに違いないが、すでに課題を終わらせていることを伝えるとひどく動揺をしていた。

『うそ、だろ?』
「ホントだって。今回は助っ人が居たからな!」
『……凪か?』
「正解です」
『おまっ! 全部答え見せてもらっただろ!』
「んなことしてないって! ある程度は自分で解いて、分かんないところを教えてもらった感じ。後は課題が終わるまで見張られてた」
『なんだそれ……。ずりーだろ。てか、俺呼ばれてないけど?』
「あ、そうそう。ちょっと伝えたいことがあって、今度興大含めた三人で会わないか?」
『なんだよ藪から棒に。この電話じゃ言えないことか?』
「言えなくはないけど、直接会って言いたいかも」
『……どっか場所の当てはあるのか?』
「興大にも聞いてみるけど、この前一緒に勉強をしたカフェがあるから、そこならと思ってる」
『わかった。俺がそのカフェの代金払うから、俺に勉強教えろよ』

 辰之と遊ぶときはこうして事前に辰之がお金を払うことを宣言する。それも灯花の負担にならないように別の何かを要望する。今回で言うと灯花が辰之の勉強を見る代わりに、辰之が灯花のカフェ代金も支払うということだ。
 こういう相手の状況に合わせて気配りのできるセリフを息をするように吐けるところが、辰之が外見のカッコよさやサッカー部の陽キャ度合だけで女子生徒からの人気を博しているわけではないことが伺える。
 灯花は「ありがとう、また連絡する」とだけ言ってスマートフォンを耳から離す。
 八月の中旬ごろに凪とは、辰之に関係を明かすことを承諾を得てはいたのだが、お互いに日程の調整がうまくいかず、ズルズルと夏が終わりを迎えようとしていたタイミングの電話だったため、灯花としては少し助かった気持ちになる。
 灯花はそのままスマートフォンを操作すると、凪に電話を掛ける。数コールと待たないうちに凪は電話に出た。

「ごめん、今大丈夫だった?」
『うん、大丈夫だよ。どうしたの?』
「さっきまで辰之と電話してて、今度前に興大と勉強したカフェに行こうって話になったんだよね。興大との件も話したいんだけど、いつが空いてる?」
『ああ、そういうことか。僕はいつでも大丈夫だよ。合わせられる』
「おっけい。多分明日とかになりそうだけど、三人のグループ作っていい? そこで話した方が早そう」
『大丈夫だよ』
「ありがと。それからさ、また今度二人でどっか出かけね?」
『うん、行きたい』
「じゃあ行き先考えとく。興大も行きたいところあったら言えよ」
『うん、灯花くんもね』

 灯花はおう、と返事をして電話を切る。
 伸びをしてから、ベランダに出てみる。午前中だと言うのにまだまだ暑い日差しが灯花の顔に差し込む。灯花は小さくため息を吐きながら、掌で日光を遮る動作を取る。
 ベランダにある物干し竿はすでに熱くなっており、手すりのように置こうとする手を拒んでいるかのようだ。行き場のなくなった手を腰に当てて、パンツのポケットにスマートフォンをしまう。
 一度大きく深呼吸をして、ベランダの塀越しに見える道路を眺める。
 部活へ行くため制服を着ている生徒や、すでに運動着を着ている生徒が見え、偉いなと感心するとともに、もうそんな時間かとも感じた。眺めていた学生の一人が自転車に乗ろうとした瞬間に、家からその学生の母親らしき人が出てきて「忘れ物!」として水筒を渡しているのが見えた。学生は「ありがとう」と水筒を受け取っており、その姿にいいな、と感じた。

「お母さんにいつ言おうかな」

 進学ではなく、就職を希望していることをいつ母親に打ち明けようかと悩んでいる灯花は少し寂しい表情をした。
 このことを伝えてしまえばどっちに転んでも母親を泣かしてしまうことは明白だ。そのためタイミングを考えなければ、母が自暴自棄になりかねない。

「さて、どうしたもんかね」

 そう呟きながら灯花はパンツにしまったばかりのスマートフォンを取り出すと、凪と辰之の三人のグループを作り、カフェに集まる日を決めていく。
 ふとスマートフォンの画面右上にある時刻を確認すると、昼前であった。
 灯花はアルバイトの時間が迫っていることを思い出し、ベランダを後にする。

▽▽▽

 数日後、駅の近くにある例のカフェに集合した三人は昼食も兼ねてそれぞれがパスタを注文する。灯花はホタテとレモンのクリームパスタ、凪はボロネーゼの粉チーズ和え。辰之はさすがは少し前までサッカー部で活躍していただけあって、バジルが散らされているジェノベーゼに加え、ワンプレートランチも追加注文していた。ワンプレートの内容は十六黒米に成人男性の拳より一回りほど大きいハンバーグ。綺麗な目玉焼きに、オリーブオイルのかかったサラダといったボリューム満点のものだ。
 「食べきれるのか?」と灯花の当然のような質問に対し、「サッカー部の食欲舐めんなよ」と辰之も当然のような返事をする。しかし辰之は目の前の料理には目もくれず、気になっていることを口にした。

「それにしても凪、だよな? 一か月でここまで人って変わるのか?」

 灯花も直近で凪にあったのは一週間ほど前でそれ以降はずっと電話をしていたが、そんな灯花から見ても凪の外見はまた変化があった。よりカッコよくなったのだ。
 先日まで日焼けをした直後のように赤茶色の肌の色をしていたと記憶しているが、今ではすっかりと焼けきっており、褐色の肌が定着している。血管が浮き出始めた腕も今ではくっきりと血管の位置が分かるほどになっており、力こぶを作るまでもなく筋肉が浮き出ているのがわかる。
 一体どんな筋トレをしているのか非常に気になるところであるが、灯花以上に凪に興味を持っているのは辰之の方だったようで、サッカー部一筋で運動ばかりしてきた辰之は凪がこの一か月でどんな訓練を積んできたのかが気になってしょうがない様子だ。

「久しぶりだね、山内くん」
「何があったんだ?」
「いやね、筋トレをするようになったんだよ。身体を動かすのって気持ちがいいね」
「いいね! サッカーとか興味あるか?」
「チームでやるスポーツはまだやったことがないんだよね。やってみたい気持ちはあるけど、タイミングとかが無いというか……」
「なら一緒にやろうぜ? 俺もサッカー部引退してからは身体動かしてなさ過ぎて、うずいてんだよね」

 二人は灯花の存在を忘れて楽しく話を弾ませているようで、ふうと息を吐いて今度は前回とは違いストローでオレンジジュースを飲む。ときよりストローをグラスの中で回転させながら、中の氷を回していく。
 二人は話が進んでいき、残り二日しかない夏休みを使って屋内運動施設に遊びに行こうという約束まで取り付けていた。
 凪は灯花に目をやると「灯花くんも行くよね?」と目を輝かせていた。
 正直行きたい気持ちはあるものの、それは辰之を含めた三人ではなく二人だけで行きたい気持ちの方が強かったが、凪が楽しいのならと「行きたい」と答える。

「…………灯花くん? そんな呼び方だったっけ?」

 やはり辰之は頭が良いのかもしれない。
 夏休み序盤に灯花のアルバイト先であるガソリンスタンドを訪れた辰之は凪の行動からプロファイリングでもするかのように、この時期に転校してきた理由を辰之なりに考えていたことを思い出す。
 灯花はちょうどいいタイミングなのかもしれないと思い、凪の顔を見てアイコンタクトを送る。凪から頷く形で返事を貰ったため、辰之に打ち明けることにした。

「辰之。実は少し前から俺と興大、付き合ってるんだ」
「あー、そうなんだ。それで呼び方が変わったのね。とりあえずおめでとう」

 辰之のリアクションは想像していたよりも薄いものであった。
 もっと衝撃を受けて「うわマジか」とか「え、付き合い、え?」など狼狽えるように声を張り上げるものだと思っていたがために、拍子抜けする。
 もちろん辰之のことだからと否定的な言葉が出てくるとは思ってはいなかったが、ここまで受け止めたうえでありがとうと祝福の言葉を言ってもらえるとは想像していなかった。

「えっと、それだけ? なんかもっとこう、ないの?」
「え? 急に言われてもお祝いの品とかは用意できないぞ」
「そうじゃなくて……」
「なに、俺が灯花と凪が付き合い始めたくらいで、友達を辞めるとか、男同士は気持ちが悪いとか言うと思った?」
「そういうわけじゃないけど、もっと大きなリアクションを取られると思ってたからさ……」
 と灯花は言う。

 それに対し辰之は笑って見せた。
「辰之が間違った道に進もうとしたなら止めてたかもしれないし、俺が認めないヤツと付き合うって言うなら殴ってたかもしれないけど。凪ならいいだろって思っちゃうわ」

 そう言って「な!」と凪に向かってコンタクトを送る辰之に、凪はそっと微笑んで「認めてくれてありがとう」と言った。
 それを見聞きしていた灯花は「いや、結婚報告かよ」とツッコミを入れる。

「まあ何にせよ。灯花と凪はそうなるんじゃないかって思ってたよ」
「は? え、なんで?」
「灯花って人と距離を取ってるだろ? 物理的な距離じゃなくて心理的距離のことな。自分が傷つくことよりも、自分のせいで誰かに気を使わせるのをひどく嫌ってる。気を使われるくらいならその人とはコミュニケーションを取らないみたいな」
「そ、そうかな?」
「……お前、学校で誰と喋ってるよ? 俺と凪。それから神崎先生くらいだろ? 凪が転校してくる前までは俺と神崎先生だけだった」
「…………」
「それが悪いって言ってるわけじゃなくて、灯花は本当に心優しい人間なんだよ。だから凪みたいな人間が必要だと思ってた。灯花の家庭事情を知ってても知らなくてもいい。灯花の閉ざした心を無理やり開くような、そんな人間が必要だと思ってたんだ。だから俺は凪に結構感謝してるんだぜ? 俺は灯花の親友だ。俺がしてやれるのは灯花が一人になりたいときに一人にさせてやることくらい。でも恋人は違う。一人になりたいときに一人になりたい理由を察して、その痛みを分け合うことができるのが恋人だ。俺はそれにはなれない」
「……辰之お前、そんなこと考えてくれてたのか?」

 辰之は恥ずかしそうに頬を人差し指の腹で掻く。
 しかし表情は清々しいほどの笑顔であった。

「ずっと不安だったんだ。高校までは同じだったけど、卒業後は進学と就職で分かれるだろ? 一度は俺も進学をやめて就職しようかって考えたこともあったんだけど、俺が灯花のために進学するのを辞めたと知ってしまったら、灯花は自分を責め続けるんじゃないかって思ってね。だから進学することにしたけど、そうすると灯花がなにか困ったことがあったときに俺はすぐに駆けつけることはできない。それがずっと不安だった」
「灯花くんのことが好きなんだね」
 と凪は言った。

 灯花は驚いた表情で音を立てる勢いで凪の顔と辰之の顔を交互に見る。
 凪も辰之もそんな灯花の行動が面白くて、自然と笑みが零れる。そしてだんだんおかしくなって声を出して笑い始めた。
 カフェ側も言い争いではなく、笑い声のため注意をすることはないが、その笑い声は店内に響き渡るほどだ。
 ひとしきり笑った後、口を開いたのは辰之であった。

「凪、いいのか? 灯花はすごい勘違いしてるぞ?」
「そうみたいだね。でもそういうところも僕は可愛く思えて好きだよ」
「いいねー。惚気だ」

 灯花は二人の会話についていけず、一人置いてけぼりにされている状態に陥る。
 徐々に不安な表情になっていく灯花を見て、流石にまずいと感じたのか辰之は謝罪と弁明を行う。

「灯花、俺の好きは凪が灯花に抱いているそれとは違うぞ」
「ど、どういうこと?」
「俺は確かに灯花のことが好きだけど、それは親友としての好きだ。いやそれ以上かもな。家族のように好きという意味だな。だから俺の好きに恋愛感情は無いから安心しろ。でも、凪に裏切られるようなことがあれば一番に俺に連絡しろ! その時は俺がどうにかしてやる」

 そう言って辰之は握りこぶしほどはあったハンバーグをフォークで雑に半分に切り分けると、その大きさのまま口いっぱいに頬張る。
 ハンバーグがあまりに美味しいのか、辰之は今日一番の笑みを浮かべた。
 おめでとうの祝いの言葉を述べたときよりも笑顔が輝いているのは、どういうことなのかと言いたくなるが、灯花と凪は顔を見合わせクスっと肩を揺らすと、冷めてしまう前に食べてしまおうとパスタに手を伸ばした。