まるで世界に色が付いたかのような感覚で清々しい朝に気分で目覚めたかったが、実際のところは身体に染みついた習慣が勝手に起き上がり、まだ眠い目をこすりながら洗面所へと向かって鏡を見たところでようやく目が覚めたという感覚を味わった。
鏡に映る自身の唇をなぞっては、昨夜の行動を反省するとともに凪とお付き合いをすることとなったことに対する気持ちの高鳴りを頬の緩みを鏡越しで確認する。
まさか自分が男性を好きになる日が来るなんて思ってもみなかった。今まで恋愛とは無関係な生活を送り続けてきた灯花にとって、自身の性の対象など考えたこともなかったが、寝ぼけた頭で今になって考えても、好きなのは凪であり、男という性別は飾りに過ぎないのだと思えた。
灯花はそのまま洗面所で顔を洗い、その流れで歯磨きをすませる。
今日は夕方から夜にかけてアルバイトが入っていたことを思い出しながら、痒くもない背中に手を伸ばし、ボリボリと爪を立てる。
「何か良いことでもあったの?」
洗濯物を出しに来たであろう母親がパジャマのように着ていた部屋着を両手に抱えながら洗面所に顔を出す。
親という存在は自分の子のことなら何でもお見通しなようで、朝の挨拶すら交わしていない状態でも息子になにか良いことがあったのだと当てにくる。灯花は反抗期ではないものの高校三年生という思春期真っ只中のため、母親に好きな人と付き合うことになった、などとは言うことはできなかった。
「別に。なんでも無いよ。俺今日は夜にバイトだからご飯要らないかも」
「あら、そう? ならもう少し寝てても良かったんじゃない?」
「んー、習慣づいてるからもう目が覚めちゃって」
「昨日はドタバタしながら帰ってきたから疲れてるもんだと思ってたけど」
そう言いながらシュートでも決めるかのように部屋着を洗濯機に投げる。
灯花はその動きに合わせるようにして洗面台に顔を伏せて歯磨きを終わらせる。
「もしかしてうるさかった? ごめん」
「全然そんなことないわよ。昨日は花火大会に行ってきたんでしょ? どうだった?」
「……綺麗だったよ。花火」
「……珍しいこともあるのね、灯花が綺麗だなんて言葉を使うなんて」
「いや、俺だってそれくらい使うけど!」
灯花が思い浮かべていた花火は夜空に浮かぶ花火ではなく、凪の瞳の中で輝く花火だ。もしかしたら自分が思い浮かべている花火のことも見透かされているのではないかと思い、変に否定する声が大きくなる。
母親は少し驚いた表情を見せるも、はいはいと洗面所から出ていく。キッチンから朝ごはん、と単語だけが聞こえてきたため灯花は咄嗟にいる、とだけ返事をした。
灯花は改めて鏡に映る自分の顔を見る。
とりあえず頬を抓ってみては、昨日のあれが夢ではなかったことを再度認識した。
準備された朝食は艶のある白米に、醤油のかかった目玉焼きが一つと、斜めに切られ焼き目が丸くなったソーセージが二本。具がたまねぎだけの味噌汁だ。
母親は父と結婚するまで目玉焼きには塩コショウのみを掛けた食べ方しかしてこなかったそうだが、一度父と目玉焼きには何を掛けて食べるかで喧嘩をしたことがあるそうで、それ以来ずっと目玉焼きには醤油がかかった状態で出しているのだと、灯花が小学生に上がる頃に話をしていたこと思い出す。
「なんか、豪華じゃない?」
「そう?」
「たまごとか今高いんだから、いいのに」
「たまごには栄養が詰まってるんだから、冷えて美味しくなくなる前に食べちゃいなさい」
灯花の投げかけを華麗に躱すと「お母さんはもう仕事に行ってくるけど、夕飯必要になったら連絡入れてね」と言い残し、朝ごはんを作るのに使ったフライパンなどをシンクに運び入れる。
そのまま洗面所へ向かうと、軽く化粧をする。
化粧は本当に薄く、百円均一で購入した二百円のファンデーションを塗った後、これまた三百円ほどで購入したアイブロウで眉を書いていく。最後に色つきリップを塗って終わりだ。
時間にして五分もかかっていない。
デパコスとまではいかなくとも、プチプラを使って化粧をしたいだろうが、母親は自分にほとんどお金を使わない。母親の給料のほとんどが父の入院費に充てているがために、自分が使うお金が無い。
以前灯花は母親に対してもっと良い化粧品を買ってもいいんじゃないか、と問いかけたことがあるのだが、本当は化粧なんてしたくないのよと笑ってごまかされた。今している化粧も出社をするためには女性は化粧をしないといけないの。めんどうくさいのよ、続けざまに言われた。そこまで言われてしまっては灯花はもう何も言えない。
灯花はそんなこともあったなと思い出しながら、父の仏壇に行ってきます、と報告する母親を眺めていた。
「じゃあ戸締りだけよろしくね」
「ん。わかった」
「行ってきます」
「うん、いってらっしゃい」
簡素な挨拶を済ませ、母親は家を出て仕事へと向かう。
灯花は朝食を食べ終えると、食器をシンクへと運び、フライパンなどと一緒に洗い物をすませる。それから水が跳ねてしまった服を脱いで、着替えを済ませると、洗濯機を回し始める。洗濯機が回っている間に掃除機をかけるなど部屋の掃除を行い、洗濯が終わるとハンガーにかけベランダにある物干し竿に干していく。
灯花は自分が出来る全ての家事を終えると、湯を沸かす。コーヒーを淹れるためだ。
これは灯花のルーティンのようなもので、生前父親が好き好んで飲んでいたインスタントコーヒーを飲むようにしている。とはいったもののブラックコーヒーはまだ慣れない。
家事を済ませ、すでに汗が滲むほど暑い中、灯花はブラックコーヒーに息を吹きかけると、唇の先だけを浸すようにちびちびと飲んでいく。
シンクに凭れ掛かりながら、スマートフォンを取り出すと連絡先に入っている凪の連絡先を眺める。
「付き合い、始めたんだ、よな」
実をいうと灯花は昨日のことをあまり覚えていない。
凪にキスをして、告白をして、凪から告白の返事をもらったところまでは覚えているのだが、その後どのように帰路に着いたのかは記憶が曖昧である。
感覚としては花火が全て打ち上げ終わると、気が付いた頃にはすでにアパートの扉の前に立っていたという認識である。実際には緊張をしながらも実感が湧かないまま凪の冷たい手をつなぎ帰路についていた。凪を駅まで送るとそこで解散し、灯花は電車に揺られ最寄り駅に到着すると、浮足立つ様子でアパートへと向かったのだが、感情が高ぶり過ぎて一瞬の出来事であったと記憶してしまっている。
本当は凪が灯花の家まで送り届けたいと申し出たのだが、灯花的にはボロいアパートの外観を見られることに若干の引け目を感じてしまったことと、灯花自身も凪を家まで送り届けたいと思っていたため、昨日は妥協案として駅前で解散をすることにした。
解散の際には「また明日」と手を振る灯花に合わせて、「うん、また明日」と凪も小さく手を振っていた。
徐々に昨日のことを思い出していくと、恥ずかしさがぶり返してくると同時に、今すぐに凪の声を聞きたいと思い始めてしまう。
もう起きているだろうか、と思いながら灯花は眺めていたスマートフォンの連絡先をタップして耳に当てる。
数コールほど鳴らし続けたが凪は電話に出ない。まだ寝ているのかと思い、耳から離した瞬間に「え、あ、お、おはよう」と緊張が伝わってくる声が聞こえてきた。
「お、起きてた?」
『この電話で起きました。おはようございます』
「わりい、起こしたか?」
『ううん、大丈夫。もうすぐ起きようと思ってたから』
それを聞いて灯花は部屋にある壁掛け時計を見る。張りが指し示している時間は七時四十五分だ。灯花が普段六時半頃に起きていると考えると、凪の睡眠時間は割と長いようだ。
「そっか、おはよう」
『うん、おはよう』
「昨日はあの後大丈夫だったか?」
『なんともなかったよ。……あっ!』
「え、どうした? 大丈夫か?」
『いや、食べきれずに持って帰った屋台飯が今テーブルの上にあることに気が付いて……。冷蔵庫に入れるの忘れてた……』
「なんだ、そんなことか……。なんともなくてよかったよ。屋台飯はレンジを使えば大丈夫だと思うから、冷蔵庫に入れてきな」
『ありがとう。ちょっと待っててね』
そう言って凪の声が遠くなる。
灯花の指示に従うがごとく、冷蔵庫に屋台飯を入れに行っているのだろう。スマートフォン越しに凪の生活音が聞こえてくる。屋台飯が入っているであろうビニール袋が擦れる音。冷蔵庫を開ける少し鈍いめりめりとした音。裸足で床を擦って歩く音。
凪を好きだと自覚してから、そんな彼から発せられる音全てが魅力的に感じる。
「俺は変態か」
灯花は自分にツッコミを入れる。
その声は凪に聞こえていたようで、『え、何想像してるの?』と徐々にスマートフォンに近づいてきながら言葉を発する。
「いや、何でもない」
『本当に?』
「ほ、本当に!」
恥ずかしさからか、自然と大きな声を出してしまう。
電話越しに凪の笑い声が聞こえてくる。
その瞬間、灯花は凪に揶揄われたのだと悟る。
「笑うなよ」
『ごめんごめん、あまりにも宮崎くんがかわいくて』
「かわいいって……。あんまり嬉しくねーぞ」
『そう? でも宮崎くんはかわいいよ』
「……なあ。宮崎くんじゃなくて、名前で呼んでくれねーの?」
『…………いいの?』
「いいっていうか、呼んでほしいかも。つ、付き合い始めたんだし」
『と、灯花、くん』
名前を呼ばれた灯花は天井を見上げる。
苗字から名前に呼び方が変わっただけで、ここまで感じ方に変化があるとは思っていなかった。スマートフォンを持っていない左手で拳を作り、眉間に押し当てる。涙を流すわけでもなく、高ぶった感情を抑え込むような動作だ。
凪の声を脳に刻み込むように、何度もリピートさせる。
『――てる? 聞こえてる?』
「ああ、ごめん。聞こえてる。興大の声を噛みしめてた」
『何それ。名前くらいいくらでも呼ぶけど?』
「待って、超浮かれてるかも」
『僕もだいぶ浮かれてる』
お互いに恥ずかしいことを言い合っている自覚はあるものの、誰にも止められないこの瞬間は自分の感情にしたがって口が自然と動く。
灯花は落ち着きを取り戻すために一旦深呼吸をする。
深くはない浅い深呼吸であったが、その深呼吸で感じたのはやはり凪が好きということだ。
「えっとさ、辰之には付き合ってることを報告したいんだけど、いい?」
『う、うん、大丈夫だけど……』
一応と思って承諾を取るも、凪からはダメではないが伝えないという選択肢はないのか、と捉えられるようにも聞こえる返答が返ってきた。
灯花は「ダメだなら言わないよ」と優しく伝えるも『嫌なわけではない』とまた曖昧な返事がスマートフォンから聞こえてくる。
数秒の沈黙のあと、凪は諦めたかのように小さく呟き始めた。
『……なんか今の、この高校三年生の夏って大事な時期っていう認識はあって』
「うん」
『灯花くんの親友だし、報告すること自体はいいんだけど、山内くん以外には言いたくなくて。さらに言えば誰かの妨げになるようなことはしたくない、かな』
あまりパッとしない言葉に灯花は悩む。
凪の言葉には辰之に言ってもいいが、辰之の今後の妨げになるようなことだけは避けたいと言っているようにも聞こえる。なぜそんな言い方をするのか。
灯花はしばらく考え込んだ後、一つの推測にたどり着く。
「……もしかしてだけどさ。辰之が俺のことを好きだと思ってる?」
『…………』
無言は肯定を意味するだろう。
灯花は図星で声が出ないであろう凪が可愛く思えて、息を漏らすように笑う。一度笑ってしまうとそれをゼロに戻すことは難しく、肩を揺らし始め次第には凪に笑っていることがバレてしまうほどに声として笑いを届ける。
ひとしきり笑った後で灯花は自然とこぼれ出た涙を親指の腹で拭いながら弁明をする。
「辰之は俺のことは好きだろうけど、それはラブじゃないよ。ライクだよ、ライク。だから安心して」
『……でもダーリンハニーって呼びあってるし、距離も近いじゃん』
「まあ親友だし」
『実は山内くんにはお付き合いされてる人がいるとか?』
「いや、いないよ。あいつはずっとサッカー一筋で、今まで何人かに告白されてきてはいるみたいだけど、全部断ってるし」
『……それは灯花くんのことが好きだから、断ってるんじゃない、の?』
「あー…………いや、ないな」
『ホントに?』
「うん。辰之は案外その辺は下手というか。仮に俺のことが本当に好きなら絶対にボロが出てるはずだし、それに俺がそういう目で見れないから安心してほしい。何なら付き合った報告は三人で集まったときにするか?」
『え?』
「俺としてはそのままデートできるし、興大に会える口実になるならそれでいいよ」
『僕たち、浮かれてるね』
「だいぶな。じゃあ日程とか決まったらまた連絡すっから」
『わかった』
「あと、用がなくても連絡、していいか?」
『それは、連絡待ってます』
「……好きだよ」
『僕も』
スマートフォンを耳から離しながら、通話終了のボタンを押す。
息を一気に吸い込むと長めに息を吐き出し、ぬるくなったコーヒーを一気に飲み干す。
普段であれば苦いと感じながら飲んでいるコーヒーも、今日は不思議と甘く感じた。
▽▽▽
八月も中旬に差し掛かっていた。
お盆の時期ということもあり、灯花のアルバイト先であるガソリンスタンドは異様な忙しさを見せていた。帰省ラッシュで多くの車が行き来するからだ。
普段灯花のシフトは学校終わりに来れるようにと夕方以降になることが多いのだが、この時期は社員や他のアルバイターが実家に帰省をするということで昼間からシフトを入れられている。土日であれば日中にシフトを入れられることも珍しいことではないのだが、それが連日発生すると体力的にもきついものを感じ始めているようで、灯花は常に「興大に会いたい」という感情で心が埋め尽くされるようになっていた。
「それにしても多くないですか?」
「フルサービスのガソスタでアルバイト二人だけってのは本当にきついよな」
「俺なんてさっき、自分の汗拭き用のタオルで車体拭こうとしちゃいましたからね」
灯花は一瞬の空き時間を狙ってアルバイト先の先輩に声をかける。「いらっしゃいませ」から「ありがとうございました」まで基本的に変化することのない言葉の連鎖に飽き飽きしてきたタイミングであったためか、先輩も笑いながら返事をする。
「そう言えば宮崎くんは、このガソリンスタンドに就職希望なんだっけ?」
「そうなんですよ。一応店長から会社の方には話しを通してくれているみたいで、その返事次第ってところにはなりますけど」
「偉いね、宮崎くんは。俺なんて将来のこととか一切考えてないよ」
「まあ俺の場合は、事情がありますから」
「ああ、ごめん。そういうつもりじゃなかったんだけど」
「いえ、わかってます。急に暗くしてすみません」
先輩は申し訳なさそうな表情をする灯花の肩を小突く。痛くもないのにイテッと口を開いて微笑む灯花に先輩は、小突いた手をそのまま灯花の頭の上に移動させる。
「でも宮崎くんは偉いよ。俺が同じ境遇だったら、耐えきれなかったかもしれない」
「……そんなこと無いと思いますよ」
「そんなことあるよ。現に宮崎くんは俺なんかよりずっと大人だ。将来のことを考えて、親御さんに迷惑をかけない道を選んでる。それだけで十分すごいし偉いよ」
「でもまだ母親には伝えてないんですよ」
それを聞いた先輩はひどく驚いた表情に変わり、灯花の頭の上に乗せていた手を思わず離す。
「何か、理由があるの?」
「母は俺が進学すると思ってると思うんですけど、だからこそ言い出せないと言うか。もし伝えてしまったら泣いちゃうと思うんですよね。家庭環境のせいで進学させられなかったとか、そんな言葉を言わせたくなくてですね。いつかは言わないといけないんですけど、タイミングを掴めずにいる感じなんですよね」
「宮崎くんは優しいね」
「そう言ってくれただけで、救われます」
下手くそに笑う灯花に先輩は少しだけ困った顔をした。笑うこともせず、眉間にシワを寄せることもせず。肩の力を抜いて、一息ついたような面持ちだ。
それを察した灯花であったが、タイミングよくガソリンスタンドに車が入ってきたため、接客に移ることでこの妙な空気感からの脱出をすることができた。
いらっしゃいませと限りなく崩した、らっしゃーせーと声を出しながら笑顔を作る。
まだまだ日は高く、影が伸びるまではかなりの時間がかかりそうだと感じながら灯花は凪のことを考えていた。
鏡に映る自身の唇をなぞっては、昨夜の行動を反省するとともに凪とお付き合いをすることとなったことに対する気持ちの高鳴りを頬の緩みを鏡越しで確認する。
まさか自分が男性を好きになる日が来るなんて思ってもみなかった。今まで恋愛とは無関係な生活を送り続けてきた灯花にとって、自身の性の対象など考えたこともなかったが、寝ぼけた頭で今になって考えても、好きなのは凪であり、男という性別は飾りに過ぎないのだと思えた。
灯花はそのまま洗面所で顔を洗い、その流れで歯磨きをすませる。
今日は夕方から夜にかけてアルバイトが入っていたことを思い出しながら、痒くもない背中に手を伸ばし、ボリボリと爪を立てる。
「何か良いことでもあったの?」
洗濯物を出しに来たであろう母親がパジャマのように着ていた部屋着を両手に抱えながら洗面所に顔を出す。
親という存在は自分の子のことなら何でもお見通しなようで、朝の挨拶すら交わしていない状態でも息子になにか良いことがあったのだと当てにくる。灯花は反抗期ではないものの高校三年生という思春期真っ只中のため、母親に好きな人と付き合うことになった、などとは言うことはできなかった。
「別に。なんでも無いよ。俺今日は夜にバイトだからご飯要らないかも」
「あら、そう? ならもう少し寝てても良かったんじゃない?」
「んー、習慣づいてるからもう目が覚めちゃって」
「昨日はドタバタしながら帰ってきたから疲れてるもんだと思ってたけど」
そう言いながらシュートでも決めるかのように部屋着を洗濯機に投げる。
灯花はその動きに合わせるようにして洗面台に顔を伏せて歯磨きを終わらせる。
「もしかしてうるさかった? ごめん」
「全然そんなことないわよ。昨日は花火大会に行ってきたんでしょ? どうだった?」
「……綺麗だったよ。花火」
「……珍しいこともあるのね、灯花が綺麗だなんて言葉を使うなんて」
「いや、俺だってそれくらい使うけど!」
灯花が思い浮かべていた花火は夜空に浮かぶ花火ではなく、凪の瞳の中で輝く花火だ。もしかしたら自分が思い浮かべている花火のことも見透かされているのではないかと思い、変に否定する声が大きくなる。
母親は少し驚いた表情を見せるも、はいはいと洗面所から出ていく。キッチンから朝ごはん、と単語だけが聞こえてきたため灯花は咄嗟にいる、とだけ返事をした。
灯花は改めて鏡に映る自分の顔を見る。
とりあえず頬を抓ってみては、昨日のあれが夢ではなかったことを再度認識した。
準備された朝食は艶のある白米に、醤油のかかった目玉焼きが一つと、斜めに切られ焼き目が丸くなったソーセージが二本。具がたまねぎだけの味噌汁だ。
母親は父と結婚するまで目玉焼きには塩コショウのみを掛けた食べ方しかしてこなかったそうだが、一度父と目玉焼きには何を掛けて食べるかで喧嘩をしたことがあるそうで、それ以来ずっと目玉焼きには醤油がかかった状態で出しているのだと、灯花が小学生に上がる頃に話をしていたこと思い出す。
「なんか、豪華じゃない?」
「そう?」
「たまごとか今高いんだから、いいのに」
「たまごには栄養が詰まってるんだから、冷えて美味しくなくなる前に食べちゃいなさい」
灯花の投げかけを華麗に躱すと「お母さんはもう仕事に行ってくるけど、夕飯必要になったら連絡入れてね」と言い残し、朝ごはんを作るのに使ったフライパンなどをシンクに運び入れる。
そのまま洗面所へ向かうと、軽く化粧をする。
化粧は本当に薄く、百円均一で購入した二百円のファンデーションを塗った後、これまた三百円ほどで購入したアイブロウで眉を書いていく。最後に色つきリップを塗って終わりだ。
時間にして五分もかかっていない。
デパコスとまではいかなくとも、プチプラを使って化粧をしたいだろうが、母親は自分にほとんどお金を使わない。母親の給料のほとんどが父の入院費に充てているがために、自分が使うお金が無い。
以前灯花は母親に対してもっと良い化粧品を買ってもいいんじゃないか、と問いかけたことがあるのだが、本当は化粧なんてしたくないのよと笑ってごまかされた。今している化粧も出社をするためには女性は化粧をしないといけないの。めんどうくさいのよ、続けざまに言われた。そこまで言われてしまっては灯花はもう何も言えない。
灯花はそんなこともあったなと思い出しながら、父の仏壇に行ってきます、と報告する母親を眺めていた。
「じゃあ戸締りだけよろしくね」
「ん。わかった」
「行ってきます」
「うん、いってらっしゃい」
簡素な挨拶を済ませ、母親は家を出て仕事へと向かう。
灯花は朝食を食べ終えると、食器をシンクへと運び、フライパンなどと一緒に洗い物をすませる。それから水が跳ねてしまった服を脱いで、着替えを済ませると、洗濯機を回し始める。洗濯機が回っている間に掃除機をかけるなど部屋の掃除を行い、洗濯が終わるとハンガーにかけベランダにある物干し竿に干していく。
灯花は自分が出来る全ての家事を終えると、湯を沸かす。コーヒーを淹れるためだ。
これは灯花のルーティンのようなもので、生前父親が好き好んで飲んでいたインスタントコーヒーを飲むようにしている。とはいったもののブラックコーヒーはまだ慣れない。
家事を済ませ、すでに汗が滲むほど暑い中、灯花はブラックコーヒーに息を吹きかけると、唇の先だけを浸すようにちびちびと飲んでいく。
シンクに凭れ掛かりながら、スマートフォンを取り出すと連絡先に入っている凪の連絡先を眺める。
「付き合い、始めたんだ、よな」
実をいうと灯花は昨日のことをあまり覚えていない。
凪にキスをして、告白をして、凪から告白の返事をもらったところまでは覚えているのだが、その後どのように帰路に着いたのかは記憶が曖昧である。
感覚としては花火が全て打ち上げ終わると、気が付いた頃にはすでにアパートの扉の前に立っていたという認識である。実際には緊張をしながらも実感が湧かないまま凪の冷たい手をつなぎ帰路についていた。凪を駅まで送るとそこで解散し、灯花は電車に揺られ最寄り駅に到着すると、浮足立つ様子でアパートへと向かったのだが、感情が高ぶり過ぎて一瞬の出来事であったと記憶してしまっている。
本当は凪が灯花の家まで送り届けたいと申し出たのだが、灯花的にはボロいアパートの外観を見られることに若干の引け目を感じてしまったことと、灯花自身も凪を家まで送り届けたいと思っていたため、昨日は妥協案として駅前で解散をすることにした。
解散の際には「また明日」と手を振る灯花に合わせて、「うん、また明日」と凪も小さく手を振っていた。
徐々に昨日のことを思い出していくと、恥ずかしさがぶり返してくると同時に、今すぐに凪の声を聞きたいと思い始めてしまう。
もう起きているだろうか、と思いながら灯花は眺めていたスマートフォンの連絡先をタップして耳に当てる。
数コールほど鳴らし続けたが凪は電話に出ない。まだ寝ているのかと思い、耳から離した瞬間に「え、あ、お、おはよう」と緊張が伝わってくる声が聞こえてきた。
「お、起きてた?」
『この電話で起きました。おはようございます』
「わりい、起こしたか?」
『ううん、大丈夫。もうすぐ起きようと思ってたから』
それを聞いて灯花は部屋にある壁掛け時計を見る。張りが指し示している時間は七時四十五分だ。灯花が普段六時半頃に起きていると考えると、凪の睡眠時間は割と長いようだ。
「そっか、おはよう」
『うん、おはよう』
「昨日はあの後大丈夫だったか?」
『なんともなかったよ。……あっ!』
「え、どうした? 大丈夫か?」
『いや、食べきれずに持って帰った屋台飯が今テーブルの上にあることに気が付いて……。冷蔵庫に入れるの忘れてた……』
「なんだ、そんなことか……。なんともなくてよかったよ。屋台飯はレンジを使えば大丈夫だと思うから、冷蔵庫に入れてきな」
『ありがとう。ちょっと待っててね』
そう言って凪の声が遠くなる。
灯花の指示に従うがごとく、冷蔵庫に屋台飯を入れに行っているのだろう。スマートフォン越しに凪の生活音が聞こえてくる。屋台飯が入っているであろうビニール袋が擦れる音。冷蔵庫を開ける少し鈍いめりめりとした音。裸足で床を擦って歩く音。
凪を好きだと自覚してから、そんな彼から発せられる音全てが魅力的に感じる。
「俺は変態か」
灯花は自分にツッコミを入れる。
その声は凪に聞こえていたようで、『え、何想像してるの?』と徐々にスマートフォンに近づいてきながら言葉を発する。
「いや、何でもない」
『本当に?』
「ほ、本当に!」
恥ずかしさからか、自然と大きな声を出してしまう。
電話越しに凪の笑い声が聞こえてくる。
その瞬間、灯花は凪に揶揄われたのだと悟る。
「笑うなよ」
『ごめんごめん、あまりにも宮崎くんがかわいくて』
「かわいいって……。あんまり嬉しくねーぞ」
『そう? でも宮崎くんはかわいいよ』
「……なあ。宮崎くんじゃなくて、名前で呼んでくれねーの?」
『…………いいの?』
「いいっていうか、呼んでほしいかも。つ、付き合い始めたんだし」
『と、灯花、くん』
名前を呼ばれた灯花は天井を見上げる。
苗字から名前に呼び方が変わっただけで、ここまで感じ方に変化があるとは思っていなかった。スマートフォンを持っていない左手で拳を作り、眉間に押し当てる。涙を流すわけでもなく、高ぶった感情を抑え込むような動作だ。
凪の声を脳に刻み込むように、何度もリピートさせる。
『――てる? 聞こえてる?』
「ああ、ごめん。聞こえてる。興大の声を噛みしめてた」
『何それ。名前くらいいくらでも呼ぶけど?』
「待って、超浮かれてるかも」
『僕もだいぶ浮かれてる』
お互いに恥ずかしいことを言い合っている自覚はあるものの、誰にも止められないこの瞬間は自分の感情にしたがって口が自然と動く。
灯花は落ち着きを取り戻すために一旦深呼吸をする。
深くはない浅い深呼吸であったが、その深呼吸で感じたのはやはり凪が好きということだ。
「えっとさ、辰之には付き合ってることを報告したいんだけど、いい?」
『う、うん、大丈夫だけど……』
一応と思って承諾を取るも、凪からはダメではないが伝えないという選択肢はないのか、と捉えられるようにも聞こえる返答が返ってきた。
灯花は「ダメだなら言わないよ」と優しく伝えるも『嫌なわけではない』とまた曖昧な返事がスマートフォンから聞こえてくる。
数秒の沈黙のあと、凪は諦めたかのように小さく呟き始めた。
『……なんか今の、この高校三年生の夏って大事な時期っていう認識はあって』
「うん」
『灯花くんの親友だし、報告すること自体はいいんだけど、山内くん以外には言いたくなくて。さらに言えば誰かの妨げになるようなことはしたくない、かな』
あまりパッとしない言葉に灯花は悩む。
凪の言葉には辰之に言ってもいいが、辰之の今後の妨げになるようなことだけは避けたいと言っているようにも聞こえる。なぜそんな言い方をするのか。
灯花はしばらく考え込んだ後、一つの推測にたどり着く。
「……もしかしてだけどさ。辰之が俺のことを好きだと思ってる?」
『…………』
無言は肯定を意味するだろう。
灯花は図星で声が出ないであろう凪が可愛く思えて、息を漏らすように笑う。一度笑ってしまうとそれをゼロに戻すことは難しく、肩を揺らし始め次第には凪に笑っていることがバレてしまうほどに声として笑いを届ける。
ひとしきり笑った後で灯花は自然とこぼれ出た涙を親指の腹で拭いながら弁明をする。
「辰之は俺のことは好きだろうけど、それはラブじゃないよ。ライクだよ、ライク。だから安心して」
『……でもダーリンハニーって呼びあってるし、距離も近いじゃん』
「まあ親友だし」
『実は山内くんにはお付き合いされてる人がいるとか?』
「いや、いないよ。あいつはずっとサッカー一筋で、今まで何人かに告白されてきてはいるみたいだけど、全部断ってるし」
『……それは灯花くんのことが好きだから、断ってるんじゃない、の?』
「あー…………いや、ないな」
『ホントに?』
「うん。辰之は案外その辺は下手というか。仮に俺のことが本当に好きなら絶対にボロが出てるはずだし、それに俺がそういう目で見れないから安心してほしい。何なら付き合った報告は三人で集まったときにするか?」
『え?』
「俺としてはそのままデートできるし、興大に会える口実になるならそれでいいよ」
『僕たち、浮かれてるね』
「だいぶな。じゃあ日程とか決まったらまた連絡すっから」
『わかった』
「あと、用がなくても連絡、していいか?」
『それは、連絡待ってます』
「……好きだよ」
『僕も』
スマートフォンを耳から離しながら、通話終了のボタンを押す。
息を一気に吸い込むと長めに息を吐き出し、ぬるくなったコーヒーを一気に飲み干す。
普段であれば苦いと感じながら飲んでいるコーヒーも、今日は不思議と甘く感じた。
▽▽▽
八月も中旬に差し掛かっていた。
お盆の時期ということもあり、灯花のアルバイト先であるガソリンスタンドは異様な忙しさを見せていた。帰省ラッシュで多くの車が行き来するからだ。
普段灯花のシフトは学校終わりに来れるようにと夕方以降になることが多いのだが、この時期は社員や他のアルバイターが実家に帰省をするということで昼間からシフトを入れられている。土日であれば日中にシフトを入れられることも珍しいことではないのだが、それが連日発生すると体力的にもきついものを感じ始めているようで、灯花は常に「興大に会いたい」という感情で心が埋め尽くされるようになっていた。
「それにしても多くないですか?」
「フルサービスのガソスタでアルバイト二人だけってのは本当にきついよな」
「俺なんてさっき、自分の汗拭き用のタオルで車体拭こうとしちゃいましたからね」
灯花は一瞬の空き時間を狙ってアルバイト先の先輩に声をかける。「いらっしゃいませ」から「ありがとうございました」まで基本的に変化することのない言葉の連鎖に飽き飽きしてきたタイミングであったためか、先輩も笑いながら返事をする。
「そう言えば宮崎くんは、このガソリンスタンドに就職希望なんだっけ?」
「そうなんですよ。一応店長から会社の方には話しを通してくれているみたいで、その返事次第ってところにはなりますけど」
「偉いね、宮崎くんは。俺なんて将来のこととか一切考えてないよ」
「まあ俺の場合は、事情がありますから」
「ああ、ごめん。そういうつもりじゃなかったんだけど」
「いえ、わかってます。急に暗くしてすみません」
先輩は申し訳なさそうな表情をする灯花の肩を小突く。痛くもないのにイテッと口を開いて微笑む灯花に先輩は、小突いた手をそのまま灯花の頭の上に移動させる。
「でも宮崎くんは偉いよ。俺が同じ境遇だったら、耐えきれなかったかもしれない」
「……そんなこと無いと思いますよ」
「そんなことあるよ。現に宮崎くんは俺なんかよりずっと大人だ。将来のことを考えて、親御さんに迷惑をかけない道を選んでる。それだけで十分すごいし偉いよ」
「でもまだ母親には伝えてないんですよ」
それを聞いた先輩はひどく驚いた表情に変わり、灯花の頭の上に乗せていた手を思わず離す。
「何か、理由があるの?」
「母は俺が進学すると思ってると思うんですけど、だからこそ言い出せないと言うか。もし伝えてしまったら泣いちゃうと思うんですよね。家庭環境のせいで進学させられなかったとか、そんな言葉を言わせたくなくてですね。いつかは言わないといけないんですけど、タイミングを掴めずにいる感じなんですよね」
「宮崎くんは優しいね」
「そう言ってくれただけで、救われます」
下手くそに笑う灯花に先輩は少しだけ困った顔をした。笑うこともせず、眉間にシワを寄せることもせず。肩の力を抜いて、一息ついたような面持ちだ。
それを察した灯花であったが、タイミングよくガソリンスタンドに車が入ってきたため、接客に移ることでこの妙な空気感からの脱出をすることができた。
いらっしゃいませと限りなく崩した、らっしゃーせーと声を出しながら笑顔を作る。
まだまだ日は高く、影が伸びるまではかなりの時間がかかりそうだと感じながら灯花は凪のことを考えていた。



