【完結】心音を届けたくて

 灯花が身体に感じた衝撃は強いものではなく、まるで人の手に押しのけされるようなそんな衝撃だった。車に轢かれることを想定していた灯花にとってそれは拍子抜けするようなものだった。
「大丈夫か!」
 先輩が血相を変えて店内から飛び出してきた。
「怪我してないか?」
 そう何度も確認してくる先輩に灯花の表情は徐々に崩れていく。
 車に轢かれる直前に、凪は灯花の身体を押し出したのだ。

「ああ、あああ、ああああああ」

 声にならない叫び声で灯花は叫んだ。
 両手で顔面を覆い、体を丸めながら全てを吐き出すように声を出す。
 先輩は作業着のポケットからスマートフォンを取り出すと、救急車と警察を呼ぶ。それから塀にぶつかって動かなくなっている車のドアをこじ開けて、中にいる人を引っ張り出そうとしている。
 しかし灯花は何もできない。
 泣き崩れるだけで、今の灯花には右も左も分からない。
 襲ってくるのは愛しき人に裏切られたかのような喪失感に押しつぶされそうになりながら、灯花は愛する者の未来を守れなかったのだと落胆する。

「聞こえますか? お名前言えますか?」
 先輩は車から運転手を引っ張り出すと地面に転がして何度もそう問いかける。しかし返事はない。
「聞こえますか? 大丈夫ですか? お名前言えますか? 今日がいつか分かりますか?」
 その質問に灯花の身体はぴくッと反応をした。
 灯花は凪との会話を思い出す。

――あのときの僕に残された寿命はほとんど残ってなくて、あと数日生きられるかどうかって感じだったんだ。

「興大はまだ死んでない。この時代の興大はまだ、生きている!」
 灯花は立ち上がるとがむしゃらに走り出した。後ろから先輩の声が聞こえるが、そんな声を気にしている暇は灯花には残されていない。
 無我夢中で病院へと足を進める。
 ガソリンスタンドから病院まではかなりの距離があるが、今の灯花には距離など意味をなさない。死ぬ覚悟のできた人間に怖いものはないのだ。
 涙で前が見えなくなり、何度も転んだ。
 その度に灯花は起き上がり、涙を拭くことをせずにまた一歩足を踏み出す。
 どれだけ走り続けただろうか。病院まであとどのくらい走り続けなければならないのだろうか。灯花には分からない。それでも着実に病院に近づいていることだけはわかる。
 灯花が走り続けていると、人にぶつかった。その拍子に灯花はまたも転ぶ。

「す、すみません」
「宮崎か?」
「か、神崎先生……?」
「どうした? 何があった?」
「すみません、俺急いでるので」

 そう言ってまた走り出そうとする灯花と神崎が腕を掴み止める。
 振り解こうとするが泣きながら暴れる高校生など、大人は簡単に制圧する。

「どこに行くんだ?」
「病院です。じゃないと興大が、このままだと興大が死んじゃうんです! だから離してください」
「俺の車に乗って行け。俺も病院に行く」
「へ」
「乗れ」

 そう言って神崎は路駐していた車に灯花を投げ入れるように無理やり押し込んだ。
 はたから見れば男子高校生を誘拐しようとしている人に見えなくはないが、そんなことを気にする余裕は両者ともにない。
 灯花を車に乗せると、神崎はアクセルペダルを踏み込む。車内にはエンジン音と風を切る音だけが鳴り響いていた。
「何があった」
 ある程度車を走らせた後、神崎は灯花に問いかける。
 灯花は何度も躊躇をしながら、ゆっくりと口を開いた。

「興大が、死んじゃうんです」
「凪のことか?」
「……はい」
「連絡が取れたのか?」
「…………いえ、そういうわけじゃ、ありません」
「二つ質問させてくれ」

 灯花は頷く。
 運転中の神崎が灯花の頷きを確認できたかどうかは分からないが、神崎は口を開いた。

「宮崎と凪は、付き合っているのか?」
「…………なんと答えていいかがわかりません。告白して両想いになって、キスもして。付き合えたと思います。でも、その興大はもういません」

 灯花は葛藤する。
 ここで凪が灯花を事故から救うために未来から来た人間だと説明しても、何を言っているんだ、と頭のおかしい人認定をされるに決まっている。
 しかし本当のことを言わなければ、今から助けに行こうとしている凪が灯花と付き合っていた凪とは別人ではあるが、同一人物であるという説明をすることができない。
 今の灯花はこの時代を生きる凪を助けることだけで頭がいっぱいになっているため、上手に思考を巡らせることができないでいた。

「そうか。じゃあもう一つ。梅ヶ原高等学校三年一組に在籍している凪興大は、県病院の六階に入院している凪興大と同一人物か?」

 助手席に座っていた灯花は音を立てるようにして運転している神崎の方を向いた。
 どうして神崎がそのことを知っているのか、車内の音が一瞬消え去ったような感覚に陥る。
 不思議と心拍数が跳ね上がる。
 回答次第では、どんな事を聞かれるのか、不安で仕方がない。
 しかしそんな恐怖の顔を浮かべる灯花に神崎は優しく声を掛ける。

「お前の反応。やっぱりそうなのか」
「や、やっぱり?」
「……以前話をしただろ? 俺の恋人は病院で寝てるって。それが六階なんだ。長いこと病院に通っているからな。同じ階の患者の名前は大体覚えてるよ。その中に凪興大の名前があることも。俺は見舞いに行くことが多いだけで、他の患者とほとんど会うことはないから、向こうは気づかなかったかもしれないが、俺はもしかしてそうかもなんて思ってたよ」
「神崎先生は、俺と付き合ってた興大が未来から来たって言ったら笑いますか?」

 それを聞いた神崎は笑い始めた。
 灯花は言ってしまったことをすぐに後悔したが、神崎が笑った理由を聞いてすぐにそんな感情は消え去った。

「ああ、そうか。そうなんだな」
「信じて、くれるんですか?」
「生徒を信じるのが教師の仕事だ。それにな、そうなんじゃないかって思ったことが何回かあるんだよ。凪はテストの点数が高いだろ? でも満点じゃない。特に数学のテストなんかは明らかに簡単な問題を間違えたりするんだよ。間違えてる理由は見たこともない公式を使ってるからなんだ。だから答えはあってるのに部分点が引かれていたりするんだよ。いくら凪の使ってる公式を調べても出てこないから、おかしいなとは思ってたんだ」

 合点がいったよと言ってさらに神崎は笑い始める。
 そんな神崎の姿をただただ眺めることしか灯花は出来なかった。

「……神崎先生はどうしてあの場にいたんですか?」
「俺も病院に行こうとしてたからな。でも宮崎に会えてよかったよ」
「……どうしてですか?」
「一人じゃ、耐えきれないかもしれなかったからだ」

 灯花は神崎の言っている言葉の意味を理解することが出来なかった。
 神崎は鼻息だけでため息を吐くと、肩を落として、寂しそうに口角を上げた。

「俺の恋人がもうダメらしい」
「え」
「さっき病院から連絡があった。呼吸が浅いそうだ。あいつは頑張ったよ。だから最後を見届けに行くんだ。ずるいよな。向こうから告白してきたのに、あいつは俺から離れていくんだ。本当に勝手な奴だったよ」
「……俺もそう、思います。あ、す、すみません」
「いいや、本当のことだ。でも宮崎も同じ想いなんだろ?」
 灯花はその質問に答えることができなかった。

 病院に着いた。
 正面入り口は空いていないため、夜間診察用の入口から病院に入り、灯花と神崎は六階へと向かう。
 六階一番奥の病室はすでに何人かの人だかりができていた。
 おそらく凪のご家族だろう。しっかりしろ、と声を掛け続ける低い男性の声に、頑張って、と泣きじゃくる女性の声が聞こえてくる。
 灯花は廊下を走り出した。

「興大!」

 病院の廊下に響き渡る灯花の声は、医師や看護師だけでなく、凪の家族をも振り向かせた。
 病室に着き、灯花はそのまま膝をついて頭を下げる。

「お願いします。俺の心臓を使ってください。俺は興大のドナー適合者です。お願いします」
「あなた一体なんなの! この状況みてそんなデタラメを言うなんて、どんな神経をしてるの!」
「お願いします。お願いします。興大を助けたいんです。俺の心臓を使ってください」

 母親を思われる女性に怒鳴られるが、灯花はめげない。
 頭を下げ続け、必死に自分の命と引き換えに凪を救ってくれと懇願する。

「もしかして、宮崎さんのところの息子さんですか?」

 次は父親と思われる声の低い男性が、優しく声を掛けてきた。

「はい、そうです」
「そうですか。君が。少し前にね、宮崎さんの息子さんが訪ねてきたと息子が言っていたんだ。久々に同年代の子と話すことができたと言ってとても喜んでいたよ」
「……お願いします。俺の心臓を使ってください」
「……それはできないよ。君はまだ生きている。心臓の移植をするには亡くなった人間でなくてはならない」

 灯花は頭を上げて、医師や看護師に目を向ける。
 皆が首を振っている。その光景だけが灯花の目に飛び込んできた。

「俺が、俺が今ここで死ねば、興大は生き続けられますか? そうすれば興大は移植手術を受けられますか?」
「……宮崎くん。お名前はなんて言うのかな?」
「宮崎、灯花と、いいます」
「そうですか……。灯花くん、バカなことを言っちゃいけないよ。灯花くんがそうまでして息子のことを大事に、大切に思ってくれることは私たちにとっても本当に嬉しいことだ。でも息子はね、誰かに死んでまで自分が生きていたいと願ったりはしない。灯花くん。息子に会いに来てくれてありがとう」

 父親は灯花に視線を合わせるように床に膝をつく。
 そしてそのまま深く頭を下げた。
 母親も続くように、膝をつき頭を下げた。

「息子の最後に会いに来てくれて、ありがとうございます」

 灯花は床に額をこすりつける。

「俺は、おれは、助けられないんですか……。興大を助けられないんですか」

 もう灯花の声は涙で濡れてほとんど聞き取れるようなものではなかった。
 愛する人を助けられるかもしれないと思ってここまで来たというのに。何もできない自分自身に苛立ちを覚える。
 そんなタイミングで病室にもう一人入ってきた。

「初めまして。六〇八号室の神崎誠の父の神崎志信と申します」

 そこには目を腫らした神崎先生が立っていた。
 神崎はゆっくりと頭を下げながら、医師と看護師、そして凪の家族に伝える。

「私のこいび……。いえ。私の息子は長年植物状態でしたが、先ほど天寿を全うしました。もしよろしければドナー検査を行っていただき、適合者であれば凪興大さんの中で生き続けさせてはいただけないでしょうか? よろしくお願いします」
「せ、先生……」

 灯花がそう声をあげた。
 突然の申し出に戸惑っていた凪の父親は床に手をついて、頭を下げた。

「皆さま、息子のためにありがとう、ございます。ありがとうございます。先生。どうか適合の確認をお願いできないでしょうか? どうぞ、どうぞお願いいたします」

 先生と呼ばれた医師は看護師にアイコンタクトを送る。
 看護師は慌ただしく、それでいて迅速に行動を始めた。

▽▽▽

「親御さんには連絡を入れたのか?」
「はい、今。入れてきました。ちょっと怒られちゃいましたけど」
「それもそうだろ。お前のバイト先で事故があったんだってな。そりゃ心配するぞ」
「はい、すみません」

 現在神崎誠のドナー検査が完了し、無事適合者認定を受けたことで、そのまま緊急で心臓移植手術を行うことになった。
 その間灯花と神崎は暗い病院の待合室で祈るようにして手術の成功を願っていた。

 凪が生きれるかもしれないという希望から落ち着きを取り戻した灯花は、ふと見たスマートフォンに母親からと、アルバイト先であるガソリンスタンドの店長から信じられないほどの着信が入っており、折り返し作業に追われることとなった。
 母親からは過去に類を見ないほどに怒られ、そして泣かれた。元々死ぬ予定だったので、もう母親の声を聞くことは無いと思っていた灯花は、母親の声がスマートフォン越しに聞こえてくると自然と涙を流してしまった。
 灯花は謝り続け、今は病院にいることを告げると、本当は事故に遭ったのではないのかとさらに大変な事になったが、説明をし続けることで数十分経過して説得に成功した。
 ガソリンスタンドの店長からは逆でかなり謝られた。こちらも病院にいることを告げると「労災出るからね!」とやはり灯花が事故でケガを負ってしまったと勘違いをしているようで、説明にかなり時間がかかった。
 電話を終えると待ってくれていた神崎に声を掛ける。

「あの、少し聞いてもいいですか?」
「答えられる範囲ならな」
「先生はさっき、恋人のことを。その息子って、言ってましたよね?」
「ああ、そうか言ってなかったな。恋人だけど息子なんだよ」
「……それって大丈夫なんですか?」
「変な勘違いするなよ。結婚することにしたんだよ」
「結婚、ですか?」
「ああ。でも今の日本じゃ同性婚はできないんだ。だからあいつを養子に迎え入れたんだよ。そうすれば同じ苗字を名乗ることができる。これは俺なりの覚悟のつもりだったんだけどな。俺の覚悟はまだ足りてなかったみたいだ」
「え?」
「宮崎お前、自分の命と引き換えに凪を生き長らえさせてほしいって言ってただろ? あれに俺は動かされたんだよ。お前はすごいよ」
「……先生、俺、興大に何もしてあげられなくて」
「そんなことはない。手術は成功するよ。そしたらお前が凪にいろんなことをしてあげたらいい。もしかしたら未来から来た凪のように恋人関係にはなれないかもしれない。それでもお前にしかできないことが今後あるはずだ」

 灯花にはもう、流せるほどの涙は残っていない。
 神崎もずっと植物状態だった恋人が亡くなったのだ。かなり精神的にはきついだろう。
 それでも神崎は教師という生き物だ。
 そんな精神状態でも灯花に優しい声を掛け続ける。

「何か飲み物でも買うか。何がいい?」
「……なっちゃんでお願いします」
「そうだったな」

 そう言って神崎は待合室の椅子から立ち上がる。
 それに合わせるように灯花も立ち上がった。

「……お前は休んでなさい」
「神崎先生は買う買う詐欺するので」
「今日はちゃんと買ってくるよ」
「それに。今一人にしないでください」
「……そうだな。悪かった」

 自動販売機へ向かう二人。
 ガコンと自動販売機からなっちゃんが出てくる音と共に手術中と書かれたプレートのランプが消えた。
 ありがとうございます、と涙ながらに伝える凪の両親の声が廊下の先で聞こえてくる。
 灯花と神崎は顔を見合わせて、病院にきて初めて笑みをこぼした。

▽▽▽

 次に目が覚めたときは、見慣れた景色ではなく、明るくて温かくて、ふわふわしたような場所で目覚めると思っていたが、実際にはそんなことはないのだと凪は知る。
 なんとなく身体の感覚が鈍いような気がすると思ったが、以前受けたことのある麻酔の感覚によく似ていることを思い出し、そこで手術を受けたことを凪は悟った。
 麻酔が切れかかっているのか身体は、悲鳴を上げてしまいそうになるほど痛い。それでも起き上がりたくて。今なら窓から見える景色がいつもとは違うものに見える気がして、凪はうまく動かせない身体を無理やり動かしながら上半身を起こした。
 その瞬間、病室のドアが開き、凪と同年代と思われる男性が入ってきた。
 その男性に見覚えがある凪はその名を呼ぼうとするが、彼の方が先に口を開いた。

「目が覚めたんだな。改めまして宮崎灯花って言います。俺と友達になってくれませんか?」

 そう告げる彼に特別心が脈打ったりするわけではないが、不思議とその笑顔を近くで見たことがある感覚に陥る。彼とははじめましてではない。以前病室に来てくれたことを覚えている。
 だが、なぜだかそれだけではないような気がしてならない。
 凪は鍵の付いた引き出しにしまっている小説に書かれた最後のページを思い出していた。

「灯花、くん」

 凪が名前を呼ぶと、彼は涙を流しながら微笑んだ。