【完結】心音を届けたくて

 カフェに着いたが、まだ凪の姿は見えなかった。
 店員にオレンジジュースを一杯注文すると、そのまま席に着いた。
 凪が来るまでの間、これまでのことを考える。
 凪が転校してきた日のこと。プールに入れない凪を足だけでもと浸からせたこと。このカフェで勉強を教えてもらったこと。夏祭りに行って凪の瞳に映る花火にほれ込んだこと。そして凪にキスをしたこと。
 すべて嘘じゃない。
 凪のことは本当に好きだし、心から愛している。
 だが、そう思うと同時に、凪は本当に自分のことを好きだったのだろうかと不安になる。
 もし病院に入院をし続けている凪が本物の凪だとして、灯花が好きになった凪は一体誰なのか。全てがそっくりなだけの赤の他人なのか。
 だがそれではこの世に一冊しかないと言われたあの本が、なぜ二冊も存在しているのかという答えにたどり着けない。
 何が正解で、何が間違っているのか。
 灯花は決意を固める。
 その時、カランカランとカフェの扉が開く音がした。

 凪は入店と同時にアイスコーヒーを注文すると、テーブル席に座っている灯花の向かい側に腰を下ろす。

「友枝さんは、大丈夫なの?」
「ああ、おかげさまで。一週間は入院することになったけど、特に問題はない」
「そっか」

 それ以上の会話は生まれない。
 凪の注文したアイスコーヒーがテーブルに運ばれてくると、凪はストローを使って喉に流し込む。その喉仏を上下させる仕草ですら灯花は綺麗だと思ってしまった。

「……興大、聞きたいことがある」
「うん」
「お前は本当に、凪興大なのか?」
「そうだよ」
「嘘じゃないな」
「そうだね。何をもって嘘になるかの基準が定まっていないから答えようがないけど、あえて言わせてもらうよ。嘘じゃない」
「……興大は俺のこと、好きか?」
「好きだよ。灯花くんが僕のことを知るずっと前から」
「…………」

 沈黙が流れる。
 灯花は凪の言っていることがいまいち理解できずにいた。
 それでも灯花は凪のことを信じて、言葉を紡ぐ。

「俺のお父さんの書いた小説は、面白かったか?」
「……そっか。もうそこまで知ってるんだね」

 凪が寂しそうに微笑む。
 ストローを使ってアイスコーヒーの中の氷をかき混ぜた後、凪は灯花の手を握手をするように取る。
 凪の手はいつものように冷たかった。

「僕と手をつないで、何か感じることはある?」
「……」
「じゃあこれは?」

 そう言って凪は灯花の腕を引っ張って自分の胸に押し当てる。
 なんとなくそんな気はしていたが、あまりに現実離れしすぎているその考えに、灯花は無意識のうちにその考えを除外していたのかもしれない。
 しかしこうして凪に触れていると、嫌でもその考えが合っているのではないかと思ってしまう。
 そしてその考えが正解であることを、凪はゆっくりと口を開いた。

「僕、まるで死んでるみたいに冷たいでしょ。そして心音を感じないでしょ? 僕もねここに来た時に驚いたんだよ。でもそれはすごく当然のことなのにね。……ねえ、僕が未来から来た人間だって言ったら、灯花くんは信じてくれる?」
「……信じると思うか?」
「そうだね。でも灯花くんはこの時代の僕に会ったんでしょ?」
「あれは、他人の空似で」
「本当にそう言い切れる?」

 灯花の言葉に被せるようにして遮る凪の言葉はかなり重かった。
 灯花は黙るしかなかった。
 凪は肩を落とすようなため息を吐くと、これから僕の話をさせてね。と前置きをする。それに灯花は返事も頷きもしなかった。

「まずはじめに。宮崎灯花。君は十月三十一日に事故に遭ってそのまま命を落とす」
「…………は?」

 それは灯花も予想していないことであった。
 灯花の反応は当然のことだが、それを気に留めることなく凪は話を続ける。

「搬送された病院で灯花くんの持ち物から免許証が出てくるんだ。そこにはね、臓器提供の意思表示があったんだよ。そして灯花くんの心臓は僕に移植されたんだ。僕にとってはひどく幸運だったよ。ずっとあの白しかない病院で一生を過ごすと思ってたんだ。それにね、あのときの僕に残された寿命はほとんど残ってなくて、あと数日生きられるかどうかって感じだったんだ。僕はね、移植手術が成功してから一年後に退院ができるんだ。いろいろと制限はあったけど、生まれて初めて自由を手に入れられたような気がしたよ」

 凪はスクールバッグから『心音を届けたくて』と表紙に書かれた文庫本を取り出すと、その表紙が見えるようにテーブルの中央に置く。
 その表紙を愛おしいものでも撫でるようになぞりながら、凪は微笑む。

「この小説は灯花くんのお父さんが生前僕だけに作ってくれた小説なんだ。ってもう知ってるんだっけ? でもこの小説がここにあるってことが僕が未来から来た証明になると思うんだよね」
「……さっき興大は自分は死んでるみたいに冷たいって。心音を感じないって言ったよな? でもそれは当然のことって。それって凪に移植されるはずの俺の心臓が、まだ俺の中にあるからってことだろ? つまりこの世に一つしかないものは未来からも持ってこれないんじゃないか?」
「鋭いね。山内くんの推理を聞いて灯花くんも推理に目覚めたんじゃないかな。でもそれは観測者次第だと思うよ。シュレーディンガーの猫って聞いたことある? あれと一緒だよ。僕はもともと灯花くんの心臓が僕に移植されることを知っていたから、この時代に来た時にすでに心臓は無かったんだけど、この小説のことは僕しか知らない。少し難しい話かもしれないけど、僕しかこの本がこの世に一冊しかないことを知っているのだから、それを知らない人間からしたら量産されている本だと思うよね。それに僕は入院中この本をずっと鍵付きの引き出しにしまっていた。実は入院中はほとんどこの本を読むことはなかったんだよ。希望はときに人を絶望に引きずりながら地獄を見せてくるからね」
「嘘だ! 病院で見たこの本は何度も読み返されたようにボロボロだったんだぞ!」
「朝陽さんの書いたこの小説はね。もしドナーが見つかって心臓の移植手術に成功したら、こんなにも楽しいことが待っている。だから希望を持って生きようって内容なんだ。でもこの本を書いてくれた朝陽さんは最終的にドナーが見つかることは無かった。絶望したよね。希望を持って生きろって言われたのに、そう言ってた人がその希望を掴み取ることはなかったんだ。だからねこの本は足のない子にサッカーボールをプレゼントするみたいなものだったんだよ。どうせなら足の不自由な子にサッカーボールをプレゼントすればよかったのに。そっちの方がまだ希望があったよ。だからね、僕は入院中に何度もこの本を投げつけたんだ。それでボロボロなんだよ」
「でも病院にいた興大は、この本を宝物だと言っていた。今まで読んだ本の中で一番元気をもらったって!」

 灯花は本をなぞる凪の手に自身の手を重ねる。
 やはり凪の手は冷たい。灯花はギュっと凪の手を握る。
 凪はそれを振り解くことも、握り返すこともせずただ本の上に手を置いていた。

「そうだよ。この本は宝物だ。だから僕は心臓の移植手術が成功したら改めて読み直そうと思って鍵付きの引き出しにしまっておいたんだ。もちろん元気も貰ったよ。だから僕は希望じゃなくて期待を込めることにしたんだ。もし移植手術が成功したらって期待に。手術が成功してその本を改めて読んで、一個ずつ試していこうと思ったんだ。でもね、知ってるかな。この本には五十個のやりたいリストが書かれてあって、その一個目は全速力で外を走り回るって書かれてあるんだよ。でも書き出しは『心臓移植が成功したとしても全速力で走ることはしない方がいいらしい』って書かれてあるんだ。どういうことだよってなるよね。だからね僕はここに書かれているほとんどのことをすることはできなかったんだ。できたのは勉強することだったり、美味しいごはんを食べることだったり。そして最後のページ、五十個目のやりたいことリストに書かれていた『人に恋をして、その人を愛すること』だけだったよ。そしてその相手が宮崎灯花。君だよ」
「……え」

 凪は笑う。
 それはおかしなことがあって笑うのではなく、自分の胸に手を当てて最愛の人を思い出すかのように、思い出に浸りながらの笑みだ。
 灯花はそんな凪に目を奪われる。

「手術が成功してから年に数回、友枝さんが僕のもとを訪れるんだ。それは僕に会いに来ているわけじゃなくて、僕の心音を聞きに来ていたんだよ。だって僕の心臓の音は灯花くんのものだったからね。僕の胸に耳を当てて心音を聞くんだ。その度にありがとうって言いながら涙を流すんだよ。それを聞いて思い出すんだ。朝陽さんが息子の自慢話をよくしていたことを。文句ひとつ言わないで育ってくれた心優しい子だって。こんなにも苦労掛けてるのにって。僕はね、朝陽さんが病室で一人で泣いているところを見たことがあるんだよ。成人式の晴れ姿を見たいって。一緒にお酒を酌み交わすんだって。それまでは死ねないって。いつもは気丈に振る舞ってる人がそんな姿になっているところを見ていられなくて僕はすぐに病室を離れたけど、それと同時にすごく興味がわいたんだ。宮崎灯花という人物に。こんなにも両親から愛されていた人は一体どんな人なんだろうってね。それに僕のもとに一度だけ山内くんが来てくれたことがあったんだ。何て言ったと思う? 『親友を生きさせてくれてありがとう』って言ったんだよ。僕はそんな感情抱かせる灯花くんのことをいつしか好きになってたんだ。名前以外は声色も身長も顔も肌の色も何もかもを知らないけど。そんな灯花くんのことを好きになったんだよ」

 灯花は目の前がにじんで見えて、はっきりと凪の顔を見ることはできなくなっていた。
 溢れ出た涙はテーブルに落ちて、小さな水たまりを作っている。
 凪は手を伸ばして、灯花の頬を撫でる。親指の腹で涙を拭いながら言葉をつづけた。

「知ってる? 心臓移植手術に成功しても長生きできるわけじゃないんだ。十年から十五年くらいで天から迎えが来ることもある。長い人だと二十年、三十年経っても元気に過ごしている人もいるみたいだけど、幸せな時間はいつまで続くかわからない。それにね思ったんだよ。僕は僕じゃなくて、好きな人に生きててほしかったなって」
「それって……」
「僕はすごく勉強したんだよ。自慢みたいに聞こえるかもしれないけど、未来の世界で僕はかなりの有名人だったんだ。勉強を始めて十年そこらでタイムマシンなんてものを発明しちゃうんだから。でもタイムマシンは過去に戻れるだけで、過去に戻った人が元の時代には戻れない仕組みなんだけどね」

 凪は笑っていない。
 真剣そのものの表情に、灯花もそんな信じがたい話を信じ始める。
 オレンジジュースはすでに氷がすべて溶けきってしまって、上の方は薄まったオレンジジュースになっていた。
 そのくらい時間が経過していたことに、灯花は気づいていなかった。

「でもそれでよかったんだよ。僕は元の時代に戻りたいわけじゃない。この時代の灯花くんに会って、君が事故に遭うのを防げればそれでいいんだ。そうすれば灯花くんは長生きできる」
「……俺が生き続ける世界に興大はいるのか?」
「どうだろう。いないんじゃないかな」
「ふざけんな!」

 灯花は声を荒げた。
 店内に響き渡るその声に、以前であれば店員が飛んできて注意をしたかもしれないが、その凄まじい気迫に店員すらも近寄れない雰囲気があった。
 怒号と共に立ち上がった灯花であったが、上がった息を整えることもせずに目を伏せながら浮かばない表情をしながら席に着く。

「俺は、興大が好きだよ」
「僕も、灯花くんが好きだよ」
「興大が居てくれなきゃ意味がないだろ」
「そんなことはないよ。灯花くんは僕なんかより素敵な人に出会うよ」
「興大より素敵な人がいるわけないだろ」
「そんなことないよ」
「じゃあ誰だよ」
「……今はまだ分からないよ」
「なら、いないのと一緒だろ!」
「……灯花くん。真実を打ち明けても僕のことを好きだと言ってくれてありがとう」
「……」

 安心した表情を見せる凪に灯花は何も言えなくなっていた。
 再度アイスコーヒーに口を付けて、乾いた喉を潤す。

「実はね、この本に書かれていることはもう全部達成したんだ」
「え」

 凪はテーブルの中央に置かれた本を手に取ってパラパラとページをめくっていく。

「この時代に来てからね、僕の心臓は灯花くんが担ってくれてたんだよ。だから僕の身体は冷たいし、心音もない。これがどういうことか分かる? 全速力で外を走れるんだよ。今までできなかった運動がこの時代に来てから全部出来るようになったんだ。そしてこの時代にきて二か月で今までできなかったことを全部やったんだ。だからもう僕に未練はない。あとは事故から灯花くんを救って、それで終わりだ」
「ふざけんなよ! なら今から未練を残してやる! 来年も花火大会に行こうぜ。冬にだって祭りはあるんだ。一緒に桜も見に行こう。紅葉狩りなんてどうだ。一緒に旅行にも行こう。成人式で一緒に並んで写真を撮ろう。一緒に天体観測もしよう。もっとキスもしたいし、キス以上のことだってしていいんだぞ! 俺は、俺は! 興大に抱かれたいよ……。なあまだ間に合うんだろ? 俺も生きて、興大も助かる道を探せばいいじゃないか」
「この時代の僕は異分子でありアウトサイダーだ。同じ時代に凪興大という人物は二人存在してはならないよ。この時代にタイムスリップしてきた時点で僕の覚悟は出来ている。どっちに転んでも僕という存在は消えるんだ」
「俺の気持ちはどうなるんだよ! ずっと興大を好きで、ずっと興大のことを思い続けながら生きていくのに、興大が隣にいなきゃ意味がないだろ」
「灯花くんはきっといつか僕のことを忘れるよ」
「忘れるわけないだろ」
「いいや忘れる。今は覚えているかもしれないけど、ご飯を食べているとき、誰かと話をしているときにふと僕という存在を忘れる瞬間が来る。その忘れる瞬間が日常的になっていって、最後には忘れてしまっていたことすら忘れるんだ。人間とはそういう生き物だよ」
「俺は、俺は……」

 凪は立ち上がり、千円札を数枚机の上に置く。
 灯花は何度も立ち上がろうとした。でもどうしても足に力が入らない。声を出して呼び止めるだけでいい。それなのにまるで声の出し方を忘れてしまったかのような感覚に襲われる。

「宮崎灯花。僕は君をずっと。今までも。これからも。愛し続けるよ」

 そう言って凪はカフェを後にした。
 その日を境に、凪とは連絡が取れなくなり、学校にも来なくなった。