新学期が始まって二週間が経過し、三週間目に差し掛かった月曜日。梅ヶ原高等学校三年一組の担任である神崎は約二ヶ月ぶりに顔を見せた。
久しぶりに見た神崎は凪の成長とは真逆でひどくやせ細っており、目の下には濃い紫色のクマが彼の疲弊度合いを数値化しているかのように目立っている。
そんな神崎の姿を見て、帰ったほうがいいんじゃないかと皆が口を揃えて言っている。生徒だけではなく、周りの教師陣までもが心配の声を上げていた。
神崎はそれに対し「ご心配、ご迷惑をおかけして申し訳ございません」と言うだけで帰ろうとはしない。教師陣は神崎が休んでいた理由や帰ろうとしない理由を知っているのか「回せる仕事があったらやりますからね」と神崎の負担を減らそうとしている。
「神崎先生、大丈夫か?」
「ちょっとっていうか、心配しない方が難しいくらいには顔色悪いよな」
昼休みに灯花と凪と辰之はテラス席に座り昼食を食べながら神崎先生の話をする。今やこの三人や三年一組だけでなく、学校内で神崎の名前を出さない者はいないほど神崎先生は話題になっている。
「どんなに声かけても帰ろうとしないんだろ?」
「もう有給休暇が無いんじゃないか?」
「僕もそうなんだと思う。でも体調不良なら休んだ方がいいと思うんだけど」
「ならお金が必要なんじゃないか? 色々とあるんだとは思うけど」
「まあ神崎先生は神崎先生にしか分からない何かがあるんだろ。俺たちが口出すことじゃないよな」
「そう、だな」
あの日以降灯花は、凪のことは好きではあるが警戒をし続けている。しかし急に態度を変えることはできないため、こうして辰之を三人で過ごすことで変に思われることを防いでいる。
新学期が始まってすぐ、凪の変化に多くの生徒が集まってきていたが、二週間も経つと徐々に落ち着きを取り戻し始め、昼食であれば三人で過ごせる日が多くなった。凪は今まで以上に多くの生徒と話せる機会を嬉しく思っているようで、灯花への近況報告と称した雑談はすべて最近誰とどんな話をしたかである。
凪としては楽しかったことを共有したいという感情の表れかもしれないが、灯花に取ってそれは浮気はしてませんよ。というアピールにも聞こえてくるのだから不思議だ。
最初こそ辰之の話を鵜呑みにして、本当にロボットなんじゃないかと考えたこともあったが、子どものような報告や食事をしているところを見るにロボットではなく大きな子どものように思えてきて仕方がない。
それにお母さんはどこで凪の名前を見たことがあるのかを思い出すことはなかったため、結局凪のことは分からずじまいのまま、今に至る。
「そう言えば灯花はあのガソリンスタンドに就職決まったんだっけ?」
昼食を食べ終えた辰之が話を振る。
辰之的にはこれ以上神崎先生の話をしたくはなかったのだろう。辰之は心優しい人間であるため、誰かがやつれていく姿を話のネタにすることはあまりしたくないのだ。
「そうなんだよ。ありがたいことに正社員として雇ってもらえることになりました」
「おめでとう」
凪も祝いの言葉を述べてから拍手を送る。
本来なら嬉しいはずの内定だが、灯花としてはそれほど気分は上がっていない。それどころか大きなため息を吐きながら、テラス席のテーブルに項垂れるようにしてへたりこむ。
「でも、これからが大変なんだよな……」
「資格取るんだっけ?」
「そうそう。一応整備士? の資格は入社してから取るみたいなんだけど、危険物取扱者は入社前に取っててほしいかもって言われて。最悪入社後から取るでもいいよとは言われたんだけど、どうせなら取っておきたいなって」
「それは大変だ。危険物取扱者はどれを取るんだ?」
「乙四を取ってほしいみたいだけど、できるか不安すぎる」
「灯花はもう免許証持ってるんだから割といけるだろ?」
「辰之も免許証持ってるなら分かるだろ。俺は結構ギリギリだったんだ」
「あ、灯花くんも免許証持ってるんだ」
「灯花は免許証持っていても何も乗らないけどな」
「俺は別にバイクとか車に乗りたくて撮ったわけじゃないからな。そういう辰之はバイクを乗り回してるんだぞ。まあ意外だよな」
「意外か?」
灯花は鼻で笑ったように返事をする。
「サッカー以外にも興味を持つものがあるんだなっていう意外だよ」
「バイクは割と男の夢みたいなところがあるだろ? サッカーと一緒だ」
「主語がデカすぎて話にならん」
「まあまあ。凪はバイクとか興味あるか? 免許証とか取らないのか?」
辰之は話を凪に振る。
凪の移動手段は以前散歩をしていると聞いたことがあるから徒歩だろうと灯花は推測していたが、免許証があればより遠くへ行けるのではないかと思った。それであれば徒歩で移動するよりも行動範囲が広がる。
灯花も辰之もそう言った返答を期待していたのだが、凪の返事は予想を裏切るものだった。
「ううん、免許証とかはいいかな。あんまり興味ないかも」
「そうなんだ、てっきり行動範囲が広がるから免許証とか取るもんだと思ってた」
「そうだね、運転とかできたら便利だなって思うけど、自分の足で歩きたいかも」
「何か、今まで自分の足で歩いてこなかった人みないな言い方、だな」
「え、あ、え、そ、そうかな?」
凪は恥ずかしかったのか、急に慌て始めた。
食べ終えた総菜パンの袋を急いで片付けると、凪は「もうすぐ休み時間終わっちゃうよ」とテラス席を後にしようする。
そんな凪の行動に違和感を覚える二人であったが、そのタイミングで校内放送が学校中に鳴り響いた。
《三年一組の宮崎灯花。三年一組の宮崎灯花は荷物を持って至急職員室まで来てください。繰り返す。三年一組の宮崎灯花は大至急職員室まで来てください》
その短い放送はあまり聞くことのない放送形態であり、放送を聞いた灯花だけではなく辰之も凪も不思議そうな顔をしていた。
「お前、何かやらかしたんか?」
「いや、何もやってないと思うけど……」
「でも荷物を持ってってところが呼び出し放送にしては珍しいよね」
「だよな。今すぐに帰されるみたいなさ」
「んん、でもまあ行ってくるわ。すまん、先に行く」
灯花はそう言ってテラス席を後にして、一人早く教室に戻ると、机の横にかけているスクールバッグを雑に取る。その時真横の席である凪の机に当たってしまい、音を立てながら倒してしまった。
急いでいるのに、というイラつきと、倒してしまってごめん、という思いやりと後悔の感情が同時に襲ってくる。灯花は倒してしまった机を立て直すと、引き出し部分から零れてしまった教科書やノートを拾い上げる。
普通であればクラスの一人か二人が「大丈夫か」と声を掛けてくれるものかもしれないが、クラスメイトと距離を取っている灯花に声を掛ける者はいない。
灯花はため息を吐きながら拾っていくと、一冊の見覚えのある本を手に取った。文庫本のサイズの本で表紙には『心音を届けたくて』と書かれているが背表紙には何も書かれていない。裏表紙には金額は書かれていないが、バーコードはちゃんと二種類ついている。
灯花は小説なんだっけ? と凪との会話を思い出しながら、それも引き出しの中にしまう。
机に向かってごめん、と言うとそのまま教室を出て、廊下をできるだけ早く歩いた。その速度は走っているのとほとんど変わらない。
職員室に向かう灯花は何をしでかしてしまったのだろうか、と不安でいっぱいだ。思い当たる節が一切ないため、怒られるのかどうなのかすら分からない。もし怒られるのであればせめて内定を取り消しにされるような内容ではないことを信じて、一歩一歩を重く踏みしめながら職員室の扉を開けた。
「三年一組の宮崎灯花です。えっと、放送を聞いて来たのですが」
そこまで言った瞬間に、職員室に居た教師陣が一斉に灯花の方を向いた。
ホラー映画や漫画でよくあるような演出に、灯花は不覚にも右足を一歩後ろへ下げてしまう。
やはり自分は何かまずいことをしでかしてしまったのかと思ったその瞬間、職員室の奥の方に座っていた神崎先生が立ち上がった。
「来たか宮崎! 下駄箱で靴に履き替えてこい。そのまま校舎裏にある教員用の駐車場に来てくれ。俺もすぐに向かう」
そう言うと神崎はバッグに次々と仕事で使うであろう書類やパソコンを詰め込んでいく。
それを見ていた周りの教師陣は「仕事はいいですから!」「神崎先生もそのまま直帰してくださいね」と優しく声を掛けてる。
神崎は「ほんとすみません」と頭を上下に動かしながら、灯花に近づいていく。
「宮崎、急いでくれ」
「えっと、本当どういうことなんですか? 何の説明のされてなくて」
「それは車の中で話す」
神崎はそれしか答えてくれず、灯花は混乱の中神崎の指示に従うしかなかった。
途中すれ違った副担任の志波に神崎は「すみません」と頭を下げていた。志波は「いえ一切気にしないでください。神崎先生は何も謝ることはありません。宮崎くんも気を付けて」と言い残して、次の時間神崎が授業をする予定であったであろう教室へと向かって歩く。
途中で神崎と灯花は分かれて進み、灯花は下駄箱で靴に履き替えると、校舎裏へと走って向かった。
校舎裏では神崎が自分の車であることが分かりやすいようにか、駐車場の真ん中まで車を移動させてくれており、フロントガラス越しに助手席に座るように指示を受け、素直に従う。
灯花を乗せた車は、目的地すら聞かされることなく進み始めた。
車を走らせてしばらくすると、神崎が口を開いた。
「…………宮崎のお母さんが倒れたと学校に連絡があった」
「……は?」
「今、搬送されたという病院に向かっている」
「た、倒れたって。は? ど、どういう状況なんですか?」
「すまない。詳しいことはわからないんだ。宮崎には母親以外に頼れる大人が居ないだろ? だから俺がこうして車を出してる」
「…………すみません。神崎先生も体調が悪い中」
「宮崎は優しい生徒だな。母親の心配をする前に俺の心配か」
神崎はハンドルを握りながら、やつれたように笑いをこぼす。
灯花はなぜ笑われたのかが分からなくて、咄嗟に「すみません」と口にした。
「何も謝ることはないよ。俺は宮崎をかなり買っているんだ。お前が一番梅ヶ原の中で優しい心の持ち主だってね。宮崎は他者が傷つくくらいなら自分が傷ついた方がましだって思うタイプだろ? 父親を亡くしたときも周りに気を使われるのが嫌で一人で居たほうがマシってなっていたもんな」
「……その節は、俺に声を掛けてくれてありがとう、ございました」
それを聞いた神崎は目を細めて、愁いを帯びた表情であるにもかかわらず、何かを思い出してはその過去に浸るように笑って見せた。
「俺がどうして宮崎に声を掛けたか、理由を知ってるか?」
「……教師だからですか?」
「それもある。でも宮崎が居たから俺は三年一組の担任に立候補したんだ」
「どういう、ことですか?」
灯花の頭の中は今まで考えたこともない感情で埋め尽くされていた。
今まで灯花は教師とはこうあるべきだという持論を掲げており、分け隔たりなく生徒に接するタイプの教師であるという印象で合ったため、一人の生徒を贔屓するようなタイプには見えなかったからだ。
「今からする話は誰にもするなよ」
神崎はそう前置きをしたうえで、病院までの長い道のりで身の上話を始めた。
「……俺、ゲイなんだよね。同性愛者で男を好きになるんだよ」
「そう、なんですか」
「急に意味わからないよな。こんな話をされて。あ、一応言っておくけど俺にはもうこの人っていう人がいるから宮崎は恋愛対象外だ」
「……それは、良かったです」
灯花はぎこちない笑みを浮かべる。
それを確認した神崎はそのくらいの軽い気持ちで聞いてくれ、と言った。
「俺の恋人は今、病院で寝てるんだ」
鈍器で殴られたような感覚が灯花を襲った。
軽い気持ちで聞いてくれと言った後にどんな話を始めるのかと少し気になってはいたが、出だしでこれは軽い気持ちで聞けるような話しではないと悟ったからだ。
「出会いは六年くらい前で、当時相手は高校生だったよ。そんな俺はあいつの担任をしてたんだ。あいつは孤児院の出で、身寄りの人間もいない。それでも毎日を楽しそうに生きてたんだよ。そんなあいつに俺はどんどん惹かれていった。でも分かってる。俺は教師であいつは生徒だ。教師が生徒相手にこういう感情を持ってしまった時点で教師失格なんだよ。だから俺は担任を降りたいと学校側に訴えたんだ。まあもちろん却下されたけどね。そのくらいからかな俺はずっと自分の中に教師とはこういう人間だ! っていうのを掲げて生きてきた。でも卒業式のとき、それが壊れたんだよ。あいつが俺に告白してきたんだ。『ずっと好きでした。だから振ってください』って。何だよその告白って思うよな。俺も思った。きっとあいつは俺が一人で葛藤していたことを見抜いてたんだろうな。あいつなりの優しさだったんだよ。あの告白は。でも俺は振らなかった。むしろ『付き合ってください』って頭を下げたね。そして俺たちは付き合い始めたんだ。それからは毎日が楽しかったし、あいつの毎日を、そして人生を、楽しいものにしてやろうって思ったよ。でも幸せって長く続かないんだよ。二年前に事故に遭ったんだ。轢かれそうになった園児を庇って宙を舞ったらしい。打ち所が悪かったんだよ。その日から目を覚まさない。事故に遭った日は俺の誕生日で、あいつは普段は遠くていかないケーキ屋まで行ってたみたいなんだ」
灯花は息をのむ。
車内にはエンジン音と鼻をすする音だけが聞こえていた。
「俺は自分を恨んだよ。俺と付き合ってなければ、あいつは今も元気に生きていたかもしれない。俺と付き合ったことで、俺の誕生日を祝おうとしたことで、あいつは事故に遭ったんだって。自暴自棄に陥ったよ。まだ二十もそこそこの命を俺が奪ってしまったんだって」
「そ、それは違います! 悪いのは全て車を運転していたヤツで」
「そうだね。でも俺と付き合ってなければって、今でも思ってしまうんだ。事故から一年後くらいにな、宮崎に会ったんだよ。外見とかあいつとは何もかもが違うけど、性格っていうのかな。似てたんだよねあいつと宮崎が。だから俺は宮崎を気にかけたんだ。当時の宮崎は腫れ物みたいな扱いされてただろ? 一人にさせてあげよう、みたいなさ。だから声を掛けたんだよ。自分の罪滅ぼしみたいな、そんな気持ちで」
「…………」
「失望したか? 結局のところ俺は自分勝手で私利私欲で動くようなダメな教師なんだ」
灯花は拳に力を込めて、さらに強く握りしめる。
神崎の話はまるで手を離した風船のように、予測不可能な軌道を描いた話で、結末は予想もしていないものであった。
神崎は灯花の返事も聞かないままに、話を続けた。
「夏休みに入ってすぐくらいに容体が急変したんだ。植物状態が一年以上続くと目覚める可能性は途端に低くなるって言われてるんだけど、それでも俺はもう一度あいつに笑ってほしくて延命治療を続けてるんだが、本当にもう目が覚めることはないのかもしれない」
「…………それが学校を休んでた理由ですか?」
「そうだ。毎日病院に行って、毎日泣いて、毎日声を掛けて。それでもあいつが目を覚ますことはなくて。触れると温かいんだ。生きてるってわかる。でもあいつはいくら声を掛けても返事をしてくれないし、いくら手を握っても握り返してくれることはない。それでも次の瞬間には、明日には目を覚ますんじゃないかって、希望を捨てきれないんだ」
神崎の声が震えている。
灯花は今神崎の方を向いてはいけないと思い、車窓から外の景色を見る。
神崎はひたすら「ごめんな」と呟き、車が病院にたどり着くまでの間それ以上の会話は生まれなかった。
病院に着くと、灯花は総合受付に行き、名前と目的を伝える。
看護師は三〇二号室です、と教えてくれたので、灯花と神崎はそのまま三階へとエレベータを使って向かう。
神崎も恋人もこの病院にいるようで、三階にあるナースステーションで看護師が神崎を見るなり「今日は天気がいいので、たくさん話しかけてあげてくださいね」と神崎に声を掛けていた。それに対して神崎は「ええ」と短い言葉を紡ぎ、「また後でな」と灯花の背中を見送ると再びエレベーターに乗り入院しているであろう階へと向かうボタンを押した。
灯花は天井にある病室案内を確認し、三〇二号室を探し出して病室の扉を開ける。実は灯花がこの病院を訪れるのは初めてではない。父親が入院をしていた病院がここだからだ。
病室前の札に目を向け、母親が窓際のベッドに居ることを確認すると「お母さん、入るよ」と伝えてからカーテンを開ける。
「と、灯花?」
「身体大丈夫? 倒れたって聞いたけど」
「どうして、ここに居るの?」
「学校に連絡があったんだよ。お母さんが倒れて搬送されたって。それで大丈夫なのかよ」
「心配かけて、ごめんなさい」
「何も謝ることはないよ」
「……この間の夏バテが完全に治ってなかったみたいなの。点滴打ち終わったらすぐに帰るから安心して」
その返事に灯花は少しの怒りを覚えた。
点滴を打ち終わったらすぐに帰る、ということは母親は入院する気がないということだ。灯花自身もそうだが、友枝も自分のせいで相手に迷惑を掛けてしまうことにひどく引け目を感じてしまうようで、今回の場合心配をしてくれた灯花と、お金の面で迷惑を掛けてしまうかもしれないという自責の念を感じられる。
その時灯花は、感じた怒りは母親に向けられたものではないことを知った。
その矛先は自分自身であると、そう感じた。
「お母さん、今日は入院しよう」
「……なに言ってるの? 家でゆっくりすればすぐに元気になるわよ」
「俺病院側に言ってくる」
友枝は灯花の手を掴んだ。
それは病院側に言わせないようにするため、そして灯花を落ち着かせるためだろう。
しかし灯花は母親の手にゆっくりと合わせると、上から包み込むように握り、そして椅子に座った。
「ごめん。俺のせいだよね」
「何が? 何を謝ってるの?」
「お母さんは俺が進学すると思ってるだろ?」
友枝は図星を突かれたように何度も瞬きをする。
「……俺、就職する」
「進学しなさい」
友枝は灯花の言葉を遮るようにしてそう言い放った。
体調不良で倒れてしまった人間が出せる声色には到底思えないそれは、病室の温度は三度は下げたことだろう。
「私は灯花にお金の心配はさせたくないわ」
「……俺は就職するよ」
「どうして!」
「もう就職先は決まってる」
「…………え」
「俺のアルバイト先。あそこで来年の四月から正社員としてやってもらえることになったんだ。迷惑かけてごめん。ずっと言い出せなくてごめん。お母さんがお父さんの入院費の支払いだけじゃなくて、俺の大学費用を貯めてたことは知ってた。だから言い出せなかった。お母さんの気持ちを無下にしてしまうんじゃないかって」
「…………」
「俺も家族なんだから、家のことは一緒に考えていきたい」
「私はあなたの母親なの。母親が息子のためにお金を貯めて、息子の未来を想像して何が悪いの。今からでも間に合うわ。大学に行きなさい」
芯を曲げない母親に灯花は包み込んでいた母親の手を、今にも崩れてしまいそうなものを扱うかのように優しく撫でる。
「俺のせいで、お母さんが倒れたら俺はずっと自分を責め続けるよ。でもお母さんも同じなんだよね。お金のせいで俺が大学に行けなかったって思いたくないし、俺に思わせたくないんだよね。やっぱり俺はお母さんの子だよ。俺たち似てるね」
そう微笑む灯花に友枝の熱は頬を伝う。
灯花はそれを見て、ポケットからハンカチを取り出し、母親に差し出す。
「今はゆっくり休んでほしい。俺をまだ一人にしないで」
「ごめん。ごめんね、ごめんね灯花」
「ううん。俺も早く言えなくてごめん。俺がずっと弱かったから言い出せなかった」
友枝はもう言葉を紡ぐことはできなかった。
感情の高ぶりは声を奪うのだと灯花は知った。
「俺、入院の手続きしてくるよ。お母さんはゆっくり休んでね」
灯花はスクールバッグを肩にかけると、涙を流す母親の肩にゆっくりと手を置いてから病室を後にする。
それから三階にあるナースステーションに顔を出して、入院の手続きをしたい旨伝えると、一階の総合受付での対応となりますと言われたため、仕方なく灯花は一階へと向かう。
一階の受付で話をすると、病院が混んでいるようで、入院すること自体はできるが手続きができるようになるまで少し待っていてほしいと言われた。
灯花はおとなしく病院の待合室で待つことにした。
「神崎先生にお礼言わなきゃ……。てか連絡先聞いておけばよかった」
そんな事をぼやきながらスマートフォンに目を向ける。そこには凪や辰之からの多くのメッセージが入っていた。灯花は一度病院を出て、二人に返事をした。
するとそのタイミングで電話が鳴った。凪からだ。
「もしもし」
『もしもし! お母さんが倒れたって大丈夫なの?』
「ああ、大丈夫だ。でも入院することになったから、明日はもしかしたら学校休むかも」
『そ、そうなんだ……。僕にできることがあったら言ってね。助けになるかはわからないけど』
「ありがとう。そう言ってくれるだけで嬉しいよ」
『一応付き合ってるわけだし、灯花くんの助けになることはしたいよ。そう言えば電話大丈夫だった? 急にかけちゃったから』
「大丈夫。丁度連絡しようかと思って病院の外に出てきたときだったから」
『良かったあ』
その凪の声はひどく安堵していた。それは不思議なくらいの安堵であった。
友枝が倒れたが、その安全を確認したとき以上の安堵が電話口から伝わってくる。
『そう言えばどこの病院なの?』
「県病院だよ。実は前に言った父親の件でお世話になってる病院だったから、むしろ良かったかも、なんて――」
そう告げた瞬間、電話越しの凪は動揺したような口ぶりへと変わった。
「そう、なん、だ。えっと、あ、ごめん。次の授業が始まるから切るね。何かあったら連絡して」
そう言われて電話を切られた灯花は何だったんだと、首を傾げ病院へ戻ろうと振り返った瞬間、あるものが目に入った。
「え、興大?」
全面ガラス張りになっている県病院は病院の外からでも待合室の状況を確認することができる。
そんなガラス越しに見た灯花の目には凪が映っていた。
しかしそれは凪ではない。
転校初日の骨が浮き出るほど細く、黒髪には天使の輪ができるほど艶のある昔の凪だ。
他人の空似にしては似すぎている彼に灯花は動揺を隠せないでいた。
灯花は急いで病院へ入る。エレベーター前で待っている彼を見て灯花は確認した。
あれは凪だ。しかし凪ではない。凪とはつい先ほどまで電話をしていたのだ。そんな彼がここにいるわけがない。そして何より、灯花の目に映っている凪は車いすに乗っている。
灯花は凪に似た人物に声を掛けようとするも、エレベーターは無情にも灯花の声を遮った。階を上がっていくエレベーターは六階で止まった。
「六階。お父さんが入院していた階だ」
そのタイミングで受付から名前を呼ばれた。
予想より早い呼び出しに、灯花は感謝しつつも、今はそれどころではなかったが、行かないわけにはいかなかった。
受付に行くと、医師との相談となるが一週間ほどの入院が必要だということになり、灯花はそれを承諾した。
母親にそれを伝えるために一度三階に戻り、院内にあった自動販売機で買った飲み物を手渡すと同時に入院のことを伝えた。
病室ではまだ母親は泣いており、相部屋の他の患者に一度頭を下げる。
「入院一週間だって。俺、一度家に帰って着替えとか取ってくるからさ。時間的に明日の午前中になるかもだけど、大丈夫?」
「ごめんね。迷惑掛けて」
「迷惑だなんて思ったことないよ。いつもありがとう。他に欲しいものとかある?」
「ううん、大丈夫よ」
その表情から、母親はまた無理をしていることを悟る。
「わかった。テキトーに何か持ってくるよ。お母さんは元気になることを優先してね」
「ありがとう」
灯花は病室を出た。
そこには神崎先生の姿もあり、送ってやると言うのでその言葉に甘えることにした灯花は、もう一つわがままを言ってみる。
一週間も入院するのだからと、母親が少しでも退屈を凌げるようなものを購入しようと本屋に寄ってほしいと頼んだのだ。
神崎もそんなことを言われて断れるわけがない、と近くの大きな書店へと車を走らせた。
「買う本は決まってるのか?」
「実はあんまり本には詳しくなくて…………。あ、でも興大がいつも読んでる本があるからそれが面白いんじゃないかな」
「お前ら仲いいもんな」
「おかげさまでね」
「それで、何てタイトルだ?」
「えっと、たしか『心音を届けたくて』ってタイトルだったかな」
神崎は灯花から本のタイトルを聞き出すと、スマートフォンで素早く検索をする。
神崎は言うには今は書店に行かずとも本の店舗別の在庫状況を確認できるらしく、その機能を使ってどこの棚にあるかまでを調べてくれるようだ。
「……タイトルは『心音を届けたくて』であってるのか?」
「うん、何度も見てたし」
「すまんが、その本は無いみたいだ」
「あちゃー、在庫切れか。そんなに面白いのかな」
「違うぞ宮崎」
「え」
「在庫切れじゃない。そんなタイトルの本は、存在しないんだ」
神崎が差し出すように見せてきた検索画面には「一致する書籍なし」の文字だけが無情にも並べられていた。
久しぶりに見た神崎は凪の成長とは真逆でひどくやせ細っており、目の下には濃い紫色のクマが彼の疲弊度合いを数値化しているかのように目立っている。
そんな神崎の姿を見て、帰ったほうがいいんじゃないかと皆が口を揃えて言っている。生徒だけではなく、周りの教師陣までもが心配の声を上げていた。
神崎はそれに対し「ご心配、ご迷惑をおかけして申し訳ございません」と言うだけで帰ろうとはしない。教師陣は神崎が休んでいた理由や帰ろうとしない理由を知っているのか「回せる仕事があったらやりますからね」と神崎の負担を減らそうとしている。
「神崎先生、大丈夫か?」
「ちょっとっていうか、心配しない方が難しいくらいには顔色悪いよな」
昼休みに灯花と凪と辰之はテラス席に座り昼食を食べながら神崎先生の話をする。今やこの三人や三年一組だけでなく、学校内で神崎の名前を出さない者はいないほど神崎先生は話題になっている。
「どんなに声かけても帰ろうとしないんだろ?」
「もう有給休暇が無いんじゃないか?」
「僕もそうなんだと思う。でも体調不良なら休んだ方がいいと思うんだけど」
「ならお金が必要なんじゃないか? 色々とあるんだとは思うけど」
「まあ神崎先生は神崎先生にしか分からない何かがあるんだろ。俺たちが口出すことじゃないよな」
「そう、だな」
あの日以降灯花は、凪のことは好きではあるが警戒をし続けている。しかし急に態度を変えることはできないため、こうして辰之を三人で過ごすことで変に思われることを防いでいる。
新学期が始まってすぐ、凪の変化に多くの生徒が集まってきていたが、二週間も経つと徐々に落ち着きを取り戻し始め、昼食であれば三人で過ごせる日が多くなった。凪は今まで以上に多くの生徒と話せる機会を嬉しく思っているようで、灯花への近況報告と称した雑談はすべて最近誰とどんな話をしたかである。
凪としては楽しかったことを共有したいという感情の表れかもしれないが、灯花に取ってそれは浮気はしてませんよ。というアピールにも聞こえてくるのだから不思議だ。
最初こそ辰之の話を鵜呑みにして、本当にロボットなんじゃないかと考えたこともあったが、子どものような報告や食事をしているところを見るにロボットではなく大きな子どものように思えてきて仕方がない。
それにお母さんはどこで凪の名前を見たことがあるのかを思い出すことはなかったため、結局凪のことは分からずじまいのまま、今に至る。
「そう言えば灯花はあのガソリンスタンドに就職決まったんだっけ?」
昼食を食べ終えた辰之が話を振る。
辰之的にはこれ以上神崎先生の話をしたくはなかったのだろう。辰之は心優しい人間であるため、誰かがやつれていく姿を話のネタにすることはあまりしたくないのだ。
「そうなんだよ。ありがたいことに正社員として雇ってもらえることになりました」
「おめでとう」
凪も祝いの言葉を述べてから拍手を送る。
本来なら嬉しいはずの内定だが、灯花としてはそれほど気分は上がっていない。それどころか大きなため息を吐きながら、テラス席のテーブルに項垂れるようにしてへたりこむ。
「でも、これからが大変なんだよな……」
「資格取るんだっけ?」
「そうそう。一応整備士? の資格は入社してから取るみたいなんだけど、危険物取扱者は入社前に取っててほしいかもって言われて。最悪入社後から取るでもいいよとは言われたんだけど、どうせなら取っておきたいなって」
「それは大変だ。危険物取扱者はどれを取るんだ?」
「乙四を取ってほしいみたいだけど、できるか不安すぎる」
「灯花はもう免許証持ってるんだから割といけるだろ?」
「辰之も免許証持ってるなら分かるだろ。俺は結構ギリギリだったんだ」
「あ、灯花くんも免許証持ってるんだ」
「灯花は免許証持っていても何も乗らないけどな」
「俺は別にバイクとか車に乗りたくて撮ったわけじゃないからな。そういう辰之はバイクを乗り回してるんだぞ。まあ意外だよな」
「意外か?」
灯花は鼻で笑ったように返事をする。
「サッカー以外にも興味を持つものがあるんだなっていう意外だよ」
「バイクは割と男の夢みたいなところがあるだろ? サッカーと一緒だ」
「主語がデカすぎて話にならん」
「まあまあ。凪はバイクとか興味あるか? 免許証とか取らないのか?」
辰之は話を凪に振る。
凪の移動手段は以前散歩をしていると聞いたことがあるから徒歩だろうと灯花は推測していたが、免許証があればより遠くへ行けるのではないかと思った。それであれば徒歩で移動するよりも行動範囲が広がる。
灯花も辰之もそう言った返答を期待していたのだが、凪の返事は予想を裏切るものだった。
「ううん、免許証とかはいいかな。あんまり興味ないかも」
「そうなんだ、てっきり行動範囲が広がるから免許証とか取るもんだと思ってた」
「そうだね、運転とかできたら便利だなって思うけど、自分の足で歩きたいかも」
「何か、今まで自分の足で歩いてこなかった人みないな言い方、だな」
「え、あ、え、そ、そうかな?」
凪は恥ずかしかったのか、急に慌て始めた。
食べ終えた総菜パンの袋を急いで片付けると、凪は「もうすぐ休み時間終わっちゃうよ」とテラス席を後にしようする。
そんな凪の行動に違和感を覚える二人であったが、そのタイミングで校内放送が学校中に鳴り響いた。
《三年一組の宮崎灯花。三年一組の宮崎灯花は荷物を持って至急職員室まで来てください。繰り返す。三年一組の宮崎灯花は大至急職員室まで来てください》
その短い放送はあまり聞くことのない放送形態であり、放送を聞いた灯花だけではなく辰之も凪も不思議そうな顔をしていた。
「お前、何かやらかしたんか?」
「いや、何もやってないと思うけど……」
「でも荷物を持ってってところが呼び出し放送にしては珍しいよね」
「だよな。今すぐに帰されるみたいなさ」
「んん、でもまあ行ってくるわ。すまん、先に行く」
灯花はそう言ってテラス席を後にして、一人早く教室に戻ると、机の横にかけているスクールバッグを雑に取る。その時真横の席である凪の机に当たってしまい、音を立てながら倒してしまった。
急いでいるのに、というイラつきと、倒してしまってごめん、という思いやりと後悔の感情が同時に襲ってくる。灯花は倒してしまった机を立て直すと、引き出し部分から零れてしまった教科書やノートを拾い上げる。
普通であればクラスの一人か二人が「大丈夫か」と声を掛けてくれるものかもしれないが、クラスメイトと距離を取っている灯花に声を掛ける者はいない。
灯花はため息を吐きながら拾っていくと、一冊の見覚えのある本を手に取った。文庫本のサイズの本で表紙には『心音を届けたくて』と書かれているが背表紙には何も書かれていない。裏表紙には金額は書かれていないが、バーコードはちゃんと二種類ついている。
灯花は小説なんだっけ? と凪との会話を思い出しながら、それも引き出しの中にしまう。
机に向かってごめん、と言うとそのまま教室を出て、廊下をできるだけ早く歩いた。その速度は走っているのとほとんど変わらない。
職員室に向かう灯花は何をしでかしてしまったのだろうか、と不安でいっぱいだ。思い当たる節が一切ないため、怒られるのかどうなのかすら分からない。もし怒られるのであればせめて内定を取り消しにされるような内容ではないことを信じて、一歩一歩を重く踏みしめながら職員室の扉を開けた。
「三年一組の宮崎灯花です。えっと、放送を聞いて来たのですが」
そこまで言った瞬間に、職員室に居た教師陣が一斉に灯花の方を向いた。
ホラー映画や漫画でよくあるような演出に、灯花は不覚にも右足を一歩後ろへ下げてしまう。
やはり自分は何かまずいことをしでかしてしまったのかと思ったその瞬間、職員室の奥の方に座っていた神崎先生が立ち上がった。
「来たか宮崎! 下駄箱で靴に履き替えてこい。そのまま校舎裏にある教員用の駐車場に来てくれ。俺もすぐに向かう」
そう言うと神崎はバッグに次々と仕事で使うであろう書類やパソコンを詰め込んでいく。
それを見ていた周りの教師陣は「仕事はいいですから!」「神崎先生もそのまま直帰してくださいね」と優しく声を掛けてる。
神崎は「ほんとすみません」と頭を上下に動かしながら、灯花に近づいていく。
「宮崎、急いでくれ」
「えっと、本当どういうことなんですか? 何の説明のされてなくて」
「それは車の中で話す」
神崎はそれしか答えてくれず、灯花は混乱の中神崎の指示に従うしかなかった。
途中すれ違った副担任の志波に神崎は「すみません」と頭を下げていた。志波は「いえ一切気にしないでください。神崎先生は何も謝ることはありません。宮崎くんも気を付けて」と言い残して、次の時間神崎が授業をする予定であったであろう教室へと向かって歩く。
途中で神崎と灯花は分かれて進み、灯花は下駄箱で靴に履き替えると、校舎裏へと走って向かった。
校舎裏では神崎が自分の車であることが分かりやすいようにか、駐車場の真ん中まで車を移動させてくれており、フロントガラス越しに助手席に座るように指示を受け、素直に従う。
灯花を乗せた車は、目的地すら聞かされることなく進み始めた。
車を走らせてしばらくすると、神崎が口を開いた。
「…………宮崎のお母さんが倒れたと学校に連絡があった」
「……は?」
「今、搬送されたという病院に向かっている」
「た、倒れたって。は? ど、どういう状況なんですか?」
「すまない。詳しいことはわからないんだ。宮崎には母親以外に頼れる大人が居ないだろ? だから俺がこうして車を出してる」
「…………すみません。神崎先生も体調が悪い中」
「宮崎は優しい生徒だな。母親の心配をする前に俺の心配か」
神崎はハンドルを握りながら、やつれたように笑いをこぼす。
灯花はなぜ笑われたのかが分からなくて、咄嗟に「すみません」と口にした。
「何も謝ることはないよ。俺は宮崎をかなり買っているんだ。お前が一番梅ヶ原の中で優しい心の持ち主だってね。宮崎は他者が傷つくくらいなら自分が傷ついた方がましだって思うタイプだろ? 父親を亡くしたときも周りに気を使われるのが嫌で一人で居たほうがマシってなっていたもんな」
「……その節は、俺に声を掛けてくれてありがとう、ございました」
それを聞いた神崎は目を細めて、愁いを帯びた表情であるにもかかわらず、何かを思い出してはその過去に浸るように笑って見せた。
「俺がどうして宮崎に声を掛けたか、理由を知ってるか?」
「……教師だからですか?」
「それもある。でも宮崎が居たから俺は三年一組の担任に立候補したんだ」
「どういう、ことですか?」
灯花の頭の中は今まで考えたこともない感情で埋め尽くされていた。
今まで灯花は教師とはこうあるべきだという持論を掲げており、分け隔たりなく生徒に接するタイプの教師であるという印象で合ったため、一人の生徒を贔屓するようなタイプには見えなかったからだ。
「今からする話は誰にもするなよ」
神崎はそう前置きをしたうえで、病院までの長い道のりで身の上話を始めた。
「……俺、ゲイなんだよね。同性愛者で男を好きになるんだよ」
「そう、なんですか」
「急に意味わからないよな。こんな話をされて。あ、一応言っておくけど俺にはもうこの人っていう人がいるから宮崎は恋愛対象外だ」
「……それは、良かったです」
灯花はぎこちない笑みを浮かべる。
それを確認した神崎はそのくらいの軽い気持ちで聞いてくれ、と言った。
「俺の恋人は今、病院で寝てるんだ」
鈍器で殴られたような感覚が灯花を襲った。
軽い気持ちで聞いてくれと言った後にどんな話を始めるのかと少し気になってはいたが、出だしでこれは軽い気持ちで聞けるような話しではないと悟ったからだ。
「出会いは六年くらい前で、当時相手は高校生だったよ。そんな俺はあいつの担任をしてたんだ。あいつは孤児院の出で、身寄りの人間もいない。それでも毎日を楽しそうに生きてたんだよ。そんなあいつに俺はどんどん惹かれていった。でも分かってる。俺は教師であいつは生徒だ。教師が生徒相手にこういう感情を持ってしまった時点で教師失格なんだよ。だから俺は担任を降りたいと学校側に訴えたんだ。まあもちろん却下されたけどね。そのくらいからかな俺はずっと自分の中に教師とはこういう人間だ! っていうのを掲げて生きてきた。でも卒業式のとき、それが壊れたんだよ。あいつが俺に告白してきたんだ。『ずっと好きでした。だから振ってください』って。何だよその告白って思うよな。俺も思った。きっとあいつは俺が一人で葛藤していたことを見抜いてたんだろうな。あいつなりの優しさだったんだよ。あの告白は。でも俺は振らなかった。むしろ『付き合ってください』って頭を下げたね。そして俺たちは付き合い始めたんだ。それからは毎日が楽しかったし、あいつの毎日を、そして人生を、楽しいものにしてやろうって思ったよ。でも幸せって長く続かないんだよ。二年前に事故に遭ったんだ。轢かれそうになった園児を庇って宙を舞ったらしい。打ち所が悪かったんだよ。その日から目を覚まさない。事故に遭った日は俺の誕生日で、あいつは普段は遠くていかないケーキ屋まで行ってたみたいなんだ」
灯花は息をのむ。
車内にはエンジン音と鼻をすする音だけが聞こえていた。
「俺は自分を恨んだよ。俺と付き合ってなければ、あいつは今も元気に生きていたかもしれない。俺と付き合ったことで、俺の誕生日を祝おうとしたことで、あいつは事故に遭ったんだって。自暴自棄に陥ったよ。まだ二十もそこそこの命を俺が奪ってしまったんだって」
「そ、それは違います! 悪いのは全て車を運転していたヤツで」
「そうだね。でも俺と付き合ってなければって、今でも思ってしまうんだ。事故から一年後くらいにな、宮崎に会ったんだよ。外見とかあいつとは何もかもが違うけど、性格っていうのかな。似てたんだよねあいつと宮崎が。だから俺は宮崎を気にかけたんだ。当時の宮崎は腫れ物みたいな扱いされてただろ? 一人にさせてあげよう、みたいなさ。だから声を掛けたんだよ。自分の罪滅ぼしみたいな、そんな気持ちで」
「…………」
「失望したか? 結局のところ俺は自分勝手で私利私欲で動くようなダメな教師なんだ」
灯花は拳に力を込めて、さらに強く握りしめる。
神崎の話はまるで手を離した風船のように、予測不可能な軌道を描いた話で、結末は予想もしていないものであった。
神崎は灯花の返事も聞かないままに、話を続けた。
「夏休みに入ってすぐくらいに容体が急変したんだ。植物状態が一年以上続くと目覚める可能性は途端に低くなるって言われてるんだけど、それでも俺はもう一度あいつに笑ってほしくて延命治療を続けてるんだが、本当にもう目が覚めることはないのかもしれない」
「…………それが学校を休んでた理由ですか?」
「そうだ。毎日病院に行って、毎日泣いて、毎日声を掛けて。それでもあいつが目を覚ますことはなくて。触れると温かいんだ。生きてるってわかる。でもあいつはいくら声を掛けても返事をしてくれないし、いくら手を握っても握り返してくれることはない。それでも次の瞬間には、明日には目を覚ますんじゃないかって、希望を捨てきれないんだ」
神崎の声が震えている。
灯花は今神崎の方を向いてはいけないと思い、車窓から外の景色を見る。
神崎はひたすら「ごめんな」と呟き、車が病院にたどり着くまでの間それ以上の会話は生まれなかった。
病院に着くと、灯花は総合受付に行き、名前と目的を伝える。
看護師は三〇二号室です、と教えてくれたので、灯花と神崎はそのまま三階へとエレベータを使って向かう。
神崎も恋人もこの病院にいるようで、三階にあるナースステーションで看護師が神崎を見るなり「今日は天気がいいので、たくさん話しかけてあげてくださいね」と神崎に声を掛けていた。それに対して神崎は「ええ」と短い言葉を紡ぎ、「また後でな」と灯花の背中を見送ると再びエレベーターに乗り入院しているであろう階へと向かうボタンを押した。
灯花は天井にある病室案内を確認し、三〇二号室を探し出して病室の扉を開ける。実は灯花がこの病院を訪れるのは初めてではない。父親が入院をしていた病院がここだからだ。
病室前の札に目を向け、母親が窓際のベッドに居ることを確認すると「お母さん、入るよ」と伝えてからカーテンを開ける。
「と、灯花?」
「身体大丈夫? 倒れたって聞いたけど」
「どうして、ここに居るの?」
「学校に連絡があったんだよ。お母さんが倒れて搬送されたって。それで大丈夫なのかよ」
「心配かけて、ごめんなさい」
「何も謝ることはないよ」
「……この間の夏バテが完全に治ってなかったみたいなの。点滴打ち終わったらすぐに帰るから安心して」
その返事に灯花は少しの怒りを覚えた。
点滴を打ち終わったらすぐに帰る、ということは母親は入院する気がないということだ。灯花自身もそうだが、友枝も自分のせいで相手に迷惑を掛けてしまうことにひどく引け目を感じてしまうようで、今回の場合心配をしてくれた灯花と、お金の面で迷惑を掛けてしまうかもしれないという自責の念を感じられる。
その時灯花は、感じた怒りは母親に向けられたものではないことを知った。
その矛先は自分自身であると、そう感じた。
「お母さん、今日は入院しよう」
「……なに言ってるの? 家でゆっくりすればすぐに元気になるわよ」
「俺病院側に言ってくる」
友枝は灯花の手を掴んだ。
それは病院側に言わせないようにするため、そして灯花を落ち着かせるためだろう。
しかし灯花は母親の手にゆっくりと合わせると、上から包み込むように握り、そして椅子に座った。
「ごめん。俺のせいだよね」
「何が? 何を謝ってるの?」
「お母さんは俺が進学すると思ってるだろ?」
友枝は図星を突かれたように何度も瞬きをする。
「……俺、就職する」
「進学しなさい」
友枝は灯花の言葉を遮るようにしてそう言い放った。
体調不良で倒れてしまった人間が出せる声色には到底思えないそれは、病室の温度は三度は下げたことだろう。
「私は灯花にお金の心配はさせたくないわ」
「……俺は就職するよ」
「どうして!」
「もう就職先は決まってる」
「…………え」
「俺のアルバイト先。あそこで来年の四月から正社員としてやってもらえることになったんだ。迷惑かけてごめん。ずっと言い出せなくてごめん。お母さんがお父さんの入院費の支払いだけじゃなくて、俺の大学費用を貯めてたことは知ってた。だから言い出せなかった。お母さんの気持ちを無下にしてしまうんじゃないかって」
「…………」
「俺も家族なんだから、家のことは一緒に考えていきたい」
「私はあなたの母親なの。母親が息子のためにお金を貯めて、息子の未来を想像して何が悪いの。今からでも間に合うわ。大学に行きなさい」
芯を曲げない母親に灯花は包み込んでいた母親の手を、今にも崩れてしまいそうなものを扱うかのように優しく撫でる。
「俺のせいで、お母さんが倒れたら俺はずっと自分を責め続けるよ。でもお母さんも同じなんだよね。お金のせいで俺が大学に行けなかったって思いたくないし、俺に思わせたくないんだよね。やっぱり俺はお母さんの子だよ。俺たち似てるね」
そう微笑む灯花に友枝の熱は頬を伝う。
灯花はそれを見て、ポケットからハンカチを取り出し、母親に差し出す。
「今はゆっくり休んでほしい。俺をまだ一人にしないで」
「ごめん。ごめんね、ごめんね灯花」
「ううん。俺も早く言えなくてごめん。俺がずっと弱かったから言い出せなかった」
友枝はもう言葉を紡ぐことはできなかった。
感情の高ぶりは声を奪うのだと灯花は知った。
「俺、入院の手続きしてくるよ。お母さんはゆっくり休んでね」
灯花はスクールバッグを肩にかけると、涙を流す母親の肩にゆっくりと手を置いてから病室を後にする。
それから三階にあるナースステーションに顔を出して、入院の手続きをしたい旨伝えると、一階の総合受付での対応となりますと言われたため、仕方なく灯花は一階へと向かう。
一階の受付で話をすると、病院が混んでいるようで、入院すること自体はできるが手続きができるようになるまで少し待っていてほしいと言われた。
灯花はおとなしく病院の待合室で待つことにした。
「神崎先生にお礼言わなきゃ……。てか連絡先聞いておけばよかった」
そんな事をぼやきながらスマートフォンに目を向ける。そこには凪や辰之からの多くのメッセージが入っていた。灯花は一度病院を出て、二人に返事をした。
するとそのタイミングで電話が鳴った。凪からだ。
「もしもし」
『もしもし! お母さんが倒れたって大丈夫なの?』
「ああ、大丈夫だ。でも入院することになったから、明日はもしかしたら学校休むかも」
『そ、そうなんだ……。僕にできることがあったら言ってね。助けになるかはわからないけど』
「ありがとう。そう言ってくれるだけで嬉しいよ」
『一応付き合ってるわけだし、灯花くんの助けになることはしたいよ。そう言えば電話大丈夫だった? 急にかけちゃったから』
「大丈夫。丁度連絡しようかと思って病院の外に出てきたときだったから」
『良かったあ』
その凪の声はひどく安堵していた。それは不思議なくらいの安堵であった。
友枝が倒れたが、その安全を確認したとき以上の安堵が電話口から伝わってくる。
『そう言えばどこの病院なの?』
「県病院だよ。実は前に言った父親の件でお世話になってる病院だったから、むしろ良かったかも、なんて――」
そう告げた瞬間、電話越しの凪は動揺したような口ぶりへと変わった。
「そう、なん、だ。えっと、あ、ごめん。次の授業が始まるから切るね。何かあったら連絡して」
そう言われて電話を切られた灯花は何だったんだと、首を傾げ病院へ戻ろうと振り返った瞬間、あるものが目に入った。
「え、興大?」
全面ガラス張りになっている県病院は病院の外からでも待合室の状況を確認することができる。
そんなガラス越しに見た灯花の目には凪が映っていた。
しかしそれは凪ではない。
転校初日の骨が浮き出るほど細く、黒髪には天使の輪ができるほど艶のある昔の凪だ。
他人の空似にしては似すぎている彼に灯花は動揺を隠せないでいた。
灯花は急いで病院へ入る。エレベーター前で待っている彼を見て灯花は確認した。
あれは凪だ。しかし凪ではない。凪とはつい先ほどまで電話をしていたのだ。そんな彼がここにいるわけがない。そして何より、灯花の目に映っている凪は車いすに乗っている。
灯花は凪に似た人物に声を掛けようとするも、エレベーターは無情にも灯花の声を遮った。階を上がっていくエレベーターは六階で止まった。
「六階。お父さんが入院していた階だ」
そのタイミングで受付から名前を呼ばれた。
予想より早い呼び出しに、灯花は感謝しつつも、今はそれどころではなかったが、行かないわけにはいかなかった。
受付に行くと、医師との相談となるが一週間ほどの入院が必要だということになり、灯花はそれを承諾した。
母親にそれを伝えるために一度三階に戻り、院内にあった自動販売機で買った飲み物を手渡すと同時に入院のことを伝えた。
病室ではまだ母親は泣いており、相部屋の他の患者に一度頭を下げる。
「入院一週間だって。俺、一度家に帰って着替えとか取ってくるからさ。時間的に明日の午前中になるかもだけど、大丈夫?」
「ごめんね。迷惑掛けて」
「迷惑だなんて思ったことないよ。いつもありがとう。他に欲しいものとかある?」
「ううん、大丈夫よ」
その表情から、母親はまた無理をしていることを悟る。
「わかった。テキトーに何か持ってくるよ。お母さんは元気になることを優先してね」
「ありがとう」
灯花は病室を出た。
そこには神崎先生の姿もあり、送ってやると言うのでその言葉に甘えることにした灯花は、もう一つわがままを言ってみる。
一週間も入院するのだからと、母親が少しでも退屈を凌げるようなものを購入しようと本屋に寄ってほしいと頼んだのだ。
神崎もそんなことを言われて断れるわけがない、と近くの大きな書店へと車を走らせた。
「買う本は決まってるのか?」
「実はあんまり本には詳しくなくて…………。あ、でも興大がいつも読んでる本があるからそれが面白いんじゃないかな」
「お前ら仲いいもんな」
「おかげさまでね」
「それで、何てタイトルだ?」
「えっと、たしか『心音を届けたくて』ってタイトルだったかな」
神崎は灯花から本のタイトルを聞き出すと、スマートフォンで素早く検索をする。
神崎は言うには今は書店に行かずとも本の店舗別の在庫状況を確認できるらしく、その機能を使ってどこの棚にあるかまでを調べてくれるようだ。
「……タイトルは『心音を届けたくて』であってるのか?」
「うん、何度も見てたし」
「すまんが、その本は無いみたいだ」
「あちゃー、在庫切れか。そんなに面白いのかな」
「違うぞ宮崎」
「え」
「在庫切れじゃない。そんなタイトルの本は、存在しないんだ」
神崎が差し出すように見せてきた検索画面には「一致する書籍なし」の文字だけが無情にも並べられていた。



