長い夏休みが終わった。
それと同時に八月も終わり、九月一日からは学校が始まった。
灯花はいつもの様に朝を迎え、学校へと向かう。
てっきり付き合い始めたのだから登校は凪と一緒に行くもんだと思っていたが、今日も今日とて吊り革に捕まる灯花の隣に居るのは辰之だ。辰之が部活で使っていたエナメルバッグを肩にかけていないため二人の距離はいつもよりも近い。
「凪は一緒じゃないのか?」
「俺もそう思う」
「一緒に行こうって言わなかったのか?」
「なんとなく興大に朝弱いイメージがあるから……。まあ言わなかっただけです」
「素直なことは良いことだ」
顔色変えずに告げる辰之に頬袋を膨らましそうになる灯花であったが、辰之は別に灯花を責めているわけではないことを理解しているため「へいへい」と雑な返事をして、変に拗ねるのを辞める。
「でも別に、興大って朝が弱いわけじゃないんだよな」
そう呟いた灯花を見て、辰之は険しい表情をしながら、口をあんぐりと開けた状態で止まった。放心状態とはまた違う状態の辰之はどこか焦りが見えた。
「えっと……、もう寝たのか?」
「は、はあ? 違うから! そういう意味じゃねーよ!」
電車の中であることを考慮はしていたが、それでも周りにいる学生や社会人が灯花の声のデカさに不機嫌な表情を寄越してくる。灯花は肩の位置を上に上げ、首を下に引っ張る動作を行い、簡易的な謝罪を意の示す。
「朝が弱くないってそういう意味じゃないから。俺より早く登校してんだよ」
「あー、そういうことね。びっくりしたわ。もうやることやってるもんだと」
「比較的健全なお付き合いをしております」
「したい、とは思わないのか?」
「……そりゃまあ、ね」
そう言った瞬間、灯花は以前凪の生活音を電話越しに聞いていたことを思い出す。
凪から発せられる音の全てが魅力的に感じていたことは誰にも打ち明けるわけにはいかないと思いながらも、辰之の質問に真剣に向き合おうとする。
「朝からする話じゃないかもな」
「確かに。でも俺としては少し気になるな」
「……何が、だよ」
「男同士のやり方に」
「……揶揄うなよ、流石に怒るぞ」
「いや揶揄ってるつもりはなくて、凪ってこの夏休みの間に偉く成長しただろ? 最初は灯花の方が力がありそうだなって思ったけど、今じゃ逆じゃん。だから力関係も変わってそうだなって」
「俺は、凪が俺を好きになってくれただけで十分だよ」
「……興味があるって言ったじゃないか」
黙り込む灯花に辰之は素直に謝る。
だが灯花も辰之が嫌がらせでそんなことを聞いているわけではないことを理解しているため、笑って許す。
実際問題、灯花は多感な年ごろの男子高校生だ。凪と体を重ねることを考えないわけではない。
しかし異性同士ならまだしも男性同士であればどちらかが挿れる方、もう片方が挿れられる方であることを決めなくてはならない。これは調べてわかったことだが、挿れられる方はかなりの負担がかかるようで、行為に及ぶ数日前から準備をする必要があるのだと知った。
灯花の性格的に誰かに負担をかけるくらいなら、自分がその負担を代わってやるタイプの人間である。そう考えると灯花が挿れられる側になるのだろうが、如何せん男性女性ともにそういった経験をしたことのない灯花は何から始めればいいかがわからないでいた。
更に言えば凪がそういう行為をしたいと思っているかどうかを灯花は知らない。
付き合い始めてすぐに、そういうことをやりたいかどうかを聞くのは、そういう行為が前提でお付き合いを始めたと思われるかもしれないと考え、聞くに聞けない状態になっている。
灯花は車両内で深くため息を吐いた。
学校に着くと凪はすでに登校しており、いつもの様に読書を楽しんでいた。
読んでいる本はいつか見たときと同じで背表紙には「心音を届けたくて」と書かれている。その本はかなり擦れが見られ、かなり読み込んでいることが伺える。
すでに読み終わってるが、何度も繰り返し読んでいるのだと考えて、灯花は凪に挨拶をするついでに読んでいる本について尋ねてみる。
「おはよう興大」
「あ、おはよう灯花くん、山内くん」
「いつもその本読んでるよな、面白いのか?」
「ああ、うん。面白くはない、かも?」
「な、なんだそりゃ?」
「でもずっと心に残ってる、みたいな?」
あまり本を読む習慣の無い灯花はその意味が分かるようで分からない。
少し考えた後に「ドラマとかでいう、昔のあのドラマのあのシーンをもう一度見たい、みたいな?」と凪に問いかける。
凪は少し考えてから、「うん、そういう感じ」と読んでいた本を閉じながらそう答えた。
それからしばらく話を続けていると、程なくして学校中に鐘の音が鳴り響いた。
そしてそれと同時に志波が教室に入ってきた。教室が少し騒がしくなる。
副担任である志波先生がホームルームを担当するということは、担任である神崎先生はお休みであるということだ。登校日である八月一日は夏休みの中間ということもあり、実家への帰省であったり、長期旅行に行っているとかで不在にすることは理解できるのだが、新学期がスタートする夏休み明けの九月一日に担任が休むというのは一般的に考えても珍しいことではないだろうか。
きっと灯花以外のクラスメイト全員がそんなことを考えたはずだ。
そんなクラスの空気感を察してか、志波が声を発するよりも先に辰之が質問をする。
「神崎先生は今日もお休みですか?」
「ああそうだ。もしかしたら今週は全てお休みになるかもしれないから、そのつもりでいるように」
そう淡々と告げられる言葉に違和感を覚える。
お休みになるかもしれない、というのは休むかどうかが確定していないということだ。それを聞いた辰之は追撃を仕掛ける。
「体調不良とかですか?」
「……僕はそういう風に聞いている」
体調不良で欠勤するには一週間はかなり長い。
インフルエンザなどの一週間ほど安静が必要なものに罹患してしまったのかと考えたが、それであれば先に今週は神崎先生はお休みです、と伝えればいいだけの話だ。
そうしなかったのは体調不良であるということ自体が嘘だからだ。
しかし、それ以上誰も志波先生に追撃をしようとする者は現れなかった。理由は明白で私立梅ヶ原高等学校三年一組には神崎先生のことよりも気になることがあるからである。
ホームルームが終わると多くの女子生徒に加え、今まで会話をしたところを見たことのない男子生徒までもが凪の席の周辺に集まってきていた。
皆凪の変化が気になってしょうがない様子だ。
それもそうだろう。まだ変化の少なかったころにあった灯花ですら駅で見つけることはできず、大きく変わった後に会った辰之もそのあまりの変わり様に一緒にサッカーをしないかと誘ってしまうほどだ。
そんな凪の変化にクラスメイトが放っておくはずもなく、こうして灯花の隣で凪は質問攻めを受けている。
「めちゃくちゃ変わったな」
「すごくカッコよくなったね」
「筋肉もすごーい。筋トレとかしてるの?」
「髪も焼けちゃってるね。ちゃんとトリートメントしてる? 教えてあげようか」
「血管浮き出てるのってカッコよく思っちゃうよね」
要は凪に皆、好意を寄せているのだ。
好意と言ってもラブという感情を皆が持ち合わせているわけではない。高校生のような思春期の頃に寄せる好意というのは、憧れや自分には無い何かを感じた相手に抱くことが多く、要は相手のことが気になって仕方のない状態に身を置くことを指す。
灯花も高校生の好意がそういうことであることは理解しているため、いちいちこのようなことで嫉妬などしない。
だが、聞いていて面白いものではない。
凪の魅力にいち早く気づいていたのは俺なんだぞ、と声を大にして言いふらしたくなるのを必死に押さえる。これは凪が辰之以外には付き合っていることを知られたくないと以前言っていたからだ。
そのため灯花は少し自慢気な表情を浮かべながら、凪と凪を取り巻くクラスメイトの話を聞くだけで、それ以上のことは何もしなかった。
昼休みになり灯花は凪と辰之と一緒に昼食を摂ろうかと考えていたが、灯花が声を掛ける前に凪は多くの周りには多くの生徒が集まっており、凪自身も楽しそうにしていたため、仕方なく辰之だけに声を掛ける。
教室を出るタイミングで灯花はちらっと凪に目を向けると、凪も灯花のことを見ていたようで、凪は口パクで「ごめん」と告げる。それを確認して灯花は手を振りながら「また放課後」とこちらも口パクをして、中庭にあるテラス席へと向かう。
テラス席はまだまだ暑い日差しが降り注いでいるからか、かなり空いており三年生ということを抜きにしてもすんなりと席に座ることができた。
「くっそ、興大と三人で飯食うつもりだったのに」
「まあ仕方ないよな。仮に俺が久しぶりに凪に会ったとして、あんなにも変わってたら声かけたくなるって」
「それは、そうかもしれないけどさ」
「付き合ってることは、他には言わないんだっけ?」
「うん、興大がそうしてほしいって」
「まあでも丁度良かったわ」
「丁度、良かった?」
部活が無くなったからか、いつもよりも少ない量のお弁当箱に収められている卵焼きを頬張りながら「丁度良かったわ」などと意味の分からないことをいう辰之に、八本入って百円以下という破格のチョコスティックパンを一本食べている灯花は頭上にはてなマークを浮かべながら、神崎先生に貰った扇子で風邪を仰いでいた。
辰之は辺りを警戒するかのように見渡し、安全を確認すると小声で話し始めた。
「凪のことで話がしたい」
「……もしかして付き合うことに反対、とか?」
「そういう話じゃない、こともないか……」
「え?」
「いや、そうじゃなくて。凪って少し不思議というか、おかしなところがないか?」
灯花は凪を侮辱された気がして、眉間にしわを寄せる。
それを見た辰之は「お前の考えてるようなことじゃない」とまだ何も言っていない灯花の思考を否定する。
「凪が灯花のことを好きなのは本当だと思う」
「あ、当たり前だろ!」
「まあ聞け! まずはじめに、今からする話は俺の勝手な思い込みかもしれないし、間違っていることもあると思う。だがこれは灯花と凪の関係を否定するものでもない。二人に幸せになってほしいからこそ確認しておきたいことなんだ」
真剣なまなざしで辰之は訴えるように灯花の瞳を除く。
その勢いに灯花は息を飲む。何も悪いことなどしていないのに、悪事を暴かれたかのような緊張感が走る。
「凪と手をつないだことはあるか?」
「…………は?」
「あるのか?」
「そりゃまあ、あるけど」
「どう思った?」
「どうって、これが本当に確認しておきたいことなのか?」
「…………ひどく冷えてなかったか?」
灯花の眉間に寄せられていたシワが無くなった。
それと同時に瞳孔が開いていく。
「冷え、てた、気がする」
「だよな。俺もそう感じた。最初は緊張してるのかなって思ったけど、それにしては冷えすぎだ。昔飼っていたペットが死んだときと同じ冷たさだよ」
「い、言い過ぎじゃないか?」
「体育には全部不参加だろ? だから最初は病気とか身体が弱いとかだと思ってたんだ。でもそうじゃない。現に凪は夏休み期間中にあんなにも変わった。体育ができない理由は他になったんだと思う」
「…………日光アレルギーかって聞いたけど、そうじゃないって言われたことがある」
「だろ? それに凪は初対面であるはずの灯花のことを、まるで以前から知っていたような口ぶりで挨拶をしただろ? だからあの時も灯花が忘れてるだけで前にあったことがあるんだと思ってた。でも今考えるとおかしいんだよ」
「おかしいって何が?」
辰之は水筒の水を飲んで一息つく。
「凪は神崎先生から灯花の席の横に行くように説明を受けたときに『そうか、彼が』って言ったんだ。どう考えてもおかしいだろ? 灯花のことを前から知っていたなら、神崎先生から説明を受ける前に宮崎が灯花であることくらいは分かっていたはずだ」
「確かにあの時そんなこと言ってたような気がするけど、声が小さくて何て言ってるかまでは……」
「俺は覚えてる。でも俺の聞き間違いかもしれない」
「…………つまりどういうこと、だよ?」
灯花は食事をする手を止めて、辰之の話を聞く態度を変えた。
食べかけのチョコスティックパンを袋に仕舞いこみ、水筒の水でのどを潤す。
自身を落ち着かせると、灯花は辰之の顔を正面に見た。
「……俺が思うに、凪は灯花に接触するために転校をしてきたが、灯花がどんな人間かまでは知らなかったんじゃないかと、思ってる」
「俺と接触するため?」
辰之は頷く。
「でもそれは好きだからだと思う。でも顔も知らない人間をどうして好きになったのかは分からん」
「ちょっと待てよ。なら最初の興大の身体が冷たいって話は何だったんだよ」
「……灯花。俺は今から意味の分からないことを言うぞ」
「お、おう」
「凪はロボットじゃないかと睨んでる」
二人の間に沈黙が流れる。
数秒ほどして灯花はお腹を抱える動作を行いながら、大声で笑い始めた。
その灯花の笑い声は先ほどまで小声で話をしていた二人からは考えられないほどのボリュームで、校舎に跳ね返ってまるでやまびこのように聞こえる。
「辰之、お前。ドラマとかアニメの見過ぎなんじゃないか?」
「笑いたきゃ笑え。でも俺は本当にそう思ってる」
「ロボットって、そんなことあるわけないだろ?」
「……本当に言い切れるか? 今まで凪の行動を見て不思議に感じたことはないのか?」
そう問われすぐに「ない」と言おうとしたが、灯花はふとあることを思い出した。
それは凪に自分の家庭の事情を説明した日のことだ。
「な、なあ。辰之は俺のお母さんの名前って知ってるか?」
「なんだ急に」
「いいから! 知ってるか?」
「なら灯花は俺の母親の名前を知ってるのか?」
「……知らない」
「俺も同じだ。何度も会ったことはあるが、俺は毎回おばさんと呼んでるし、本人からの自己紹介も名乗られた記憶はない。灯花の母親の名前なんて知らないよ。それがどうしたんだ?」
灯花は目を伏せ両手を祈るように交差させてから、ゆっくりと口を開いた。
「興大は、俺のお母さんを名前で呼んだんだよ」
「は? 灯花が言ったとかじゃなくて?」
「自分の母親を名前で呼ぶ機会なんて、名前で呼び合うような家庭じゃない限り、そうそうないだろ」
「いつ言ったんだ?」
「俺が興大に家の事情を話したとき。宮崎くんと友枝さんは大変な思いをしてきたんだね、って」
辰之はずっこけ座りへと姿勢を変えて、天を仰ぎながら大きくため息を吐く。
途端に灯花は凪のことが少しだけ怖くなった。
「もう確定じゃねえか? おかしいだろ? 親友の俺ですら知らない灯花の母親の名前を知ってるのは異常だ」
「…………で、でも」
「そうだよな、わかる。お前たちは付き合いたてだ。悪い。俺の考えすぎかもしれねえ。もしかしたら灯花が漏らしてしまった言葉を覚えていただけかもしれないし、灯花の母親か父親の知り合いか、その知り合いの子だっていう可能性もある。でも俺がこの間言った『凪に裏切られるようなことがあれば一番に俺に連絡しろ』って言うのは割と本心だし、そういう意味だから」
辰之はセリフはそれ以上何も言うな、という意味が込められている。その意味を察した灯花はもう口を開かない。
今灯花の額を流れている汗は暑さによるものか、それとも冷や汗なのか。これは本人にすらわからない。
炎天下が原因でチョコチップが溶けてしまい、ベタベタになったチョコスティックパンを喋らないように口へとそれを運び入れる。
美味しいとか、まずいとか。食に対する感情は今は消え去っていた。
放課後になった。
灯花は突然態度を変えては変に思われると思い、普段通りに凪に声を掛ける。
ありふれたセリフであるはずの「一緒に帰らないか」が、昼間のことが頭をよぎり少しだけ言いづらく感じてしまう。
少し声がどもってしまった灯花であったが、辰之が「俺も部活無いから一緒に帰ろうぜ」とフォローを入れてくれたため、変に思われることはなかった。
三人で並んで帰る道はいつもよりも長く感じた。
通常付き合いたてのカップルの帰り道は、恐ろしく早く感じてしまうものではないだろうかと思うが、今日という日は気持ちの持ちようが違う。
分かれ道が近づいていくにつれて、もう少し一緒にいたい。なんなら遠回りでもしてしまおうという気持ちには今日はならず、凪との会話でいかにボロを出さないかを気を付け続けていたせいか、何なら早く分かれ道である駅につかないかと思うほどだ。
しかし灯花は凪のことが嫌いになったわけではない。
今でも好きだ。また手をつなぎたいし、キスもしたい。そして今朝辰之が言っていたように、それ以上のことだって興味があるし、凪とだったらしたいと思っている。
好きだ。愛してる。
その言葉に嘘偽りはないが、凪のことをもっと知ってからでもいいのかな、と曖昧な感情もある。
辰之のおかげか、凪に灯花が変な考え事をしているとは悟られることなく駅に着いた。
「そういえば、凪って駅の近くに住んでんの?」
駅に着いた途端仕掛けたのは辰之だ。
灯花もすぐ駅の近くに住んでいること自体は知っているが、具体的な場所までは聞いたことはなかった。
「そう、だね。このあたりだよ」
「あ、そうなんだ! 今度タイミングが合えば遊びに行ってもいいか? もちろん灯花もいるけど」
その瞬間、凪の顔が歪んだ。
正確に言えば何か予期せぬイベントが発生したが、それ自体を悟られぬように表情を作り直したというべきだろうか。
次の瞬間には、少し困った顔をした凪に変っていた。
「ああ、夏前くらいに引っ越してきたけど、まだ整理とかできてなくて……。それに家に人を上げたことがないから大丈夫か聞いてみるよ」
「そうだよな、急にごめんな。俺の家はいつでも大丈夫だから、凪も灯花を連れて遊びに来いよ」
「ありがとう。今度お邪魔させてもらうよ」
灯花と辰之は電車の時間だからと、駅の中に入っていく。
凪は二人の姿が見えなくなるまで、手を振り続けていた。灯花も凪に笑顔で手を振る。
今朝と同じ位置の車両に乗り、二駅ほど電車に揺られる。車両内では灯花と辰之の間に会話はなかった。
二人も分かれ道となり、軽く「また明日」と手を上げながら挨拶をする。
辰之は「考えすぎんなよ」と最後に言っていたが、灯花はどうしても気になって仕方がなかった。
灯花はアパートに帰り着くと、家の鍵を差し込んだ。
「あれ? 空いてる?」
不思議そうに首をかしげながら、灯花は扉を開いた。
「ただいまー」
「ああ、うん。おかえり」
「やっぱりお母さんだ。どうしたの、帰るの早くない?」
「ちょっと体調が悪くて、早めに上がらせてもらったの」
「え、大丈夫なの?」
「大丈夫、軽い夏バテみたいなもんだと思うわ」
布団に横になり、扇風機の風を全身に浴びている光景を目にして灯花は途端に心配になる。
灯花は何も迷うことなく、クーラーの電源を入れた。
「夏バテを甘く見ちゃだめだよ。今日くらいはクーラー入れよう。俺、後で飲み物買ってくるから。何かほかに欲しいものある? しんどいだろうけど、何か胃に入れないと」
「ごめんね。冷たいお茶漬けなら食べられるかも」
「いいね。梅干しとか入れちゃって、塩分をもっと取ろうか」
「ありがとね」
「ううん、お母さんはゆっくりしてて。ご飯も俺が作るから」
起き上がりそうな動作をする母親を見て、それを制止するかのように灯花はそう言い放つ。
それでも起き上がろうとする母親は自分のバッグを手繰り寄せると、財布を取り出しお金を灯花に差し出す。
「いやいいよ。俺もバイトしてるから少しはあるって」
「生活費は私が出すからいいの」
「……じゃあこれで買ってくるから、お母さんは寝てて」
このままでは引き下がってくれなさそうなため、灯花は仕方なく差し出された千円札二枚を受け取る。
軽くため息を吐きながら自身の財布に入れていく最中にあることを思い出したため、それを母親に尋ねてみる。
「体調悪い時にごめん。凪興大って名前に聞き覚えある?」
「え? なぎこうだい?」
「そう、凪興大。知ってる? お母さんかお父さんの知り合いか、知り合いの子の名前だと思うんだけど」
母親はクーラーを入れたことで徐々に顔色が良くなりつつあるが、それでも暑さでしんどそうな雰囲気を醸し出しつつ、考え込むような動作を見せる。
「ああ、ごめん。そんなに考え込まなくてもいいよ」
「いいのよ。なぎこうだいでしょ。聞いたことあるような気はするんだけどね。知り合いって言われると違うような気がするわ。でもどこで聞いたのかしら……。それでどうしたの? なぎこうだいって人が何かあったの?」
「いいや、なんでもないよ。もし思い出したら教えて」
灯花はそう言ってスクールバッグを玄関に置くと、財布とスマートフォン。それから何かの付録で付いてきたであろう折り畳み式エコバッグを持ってアパートを出た。
それと同時に八月も終わり、九月一日からは学校が始まった。
灯花はいつもの様に朝を迎え、学校へと向かう。
てっきり付き合い始めたのだから登校は凪と一緒に行くもんだと思っていたが、今日も今日とて吊り革に捕まる灯花の隣に居るのは辰之だ。辰之が部活で使っていたエナメルバッグを肩にかけていないため二人の距離はいつもよりも近い。
「凪は一緒じゃないのか?」
「俺もそう思う」
「一緒に行こうって言わなかったのか?」
「なんとなく興大に朝弱いイメージがあるから……。まあ言わなかっただけです」
「素直なことは良いことだ」
顔色変えずに告げる辰之に頬袋を膨らましそうになる灯花であったが、辰之は別に灯花を責めているわけではないことを理解しているため「へいへい」と雑な返事をして、変に拗ねるのを辞める。
「でも別に、興大って朝が弱いわけじゃないんだよな」
そう呟いた灯花を見て、辰之は険しい表情をしながら、口をあんぐりと開けた状態で止まった。放心状態とはまた違う状態の辰之はどこか焦りが見えた。
「えっと……、もう寝たのか?」
「は、はあ? 違うから! そういう意味じゃねーよ!」
電車の中であることを考慮はしていたが、それでも周りにいる学生や社会人が灯花の声のデカさに不機嫌な表情を寄越してくる。灯花は肩の位置を上に上げ、首を下に引っ張る動作を行い、簡易的な謝罪を意の示す。
「朝が弱くないってそういう意味じゃないから。俺より早く登校してんだよ」
「あー、そういうことね。びっくりしたわ。もうやることやってるもんだと」
「比較的健全なお付き合いをしております」
「したい、とは思わないのか?」
「……そりゃまあ、ね」
そう言った瞬間、灯花は以前凪の生活音を電話越しに聞いていたことを思い出す。
凪から発せられる音の全てが魅力的に感じていたことは誰にも打ち明けるわけにはいかないと思いながらも、辰之の質問に真剣に向き合おうとする。
「朝からする話じゃないかもな」
「確かに。でも俺としては少し気になるな」
「……何が、だよ」
「男同士のやり方に」
「……揶揄うなよ、流石に怒るぞ」
「いや揶揄ってるつもりはなくて、凪ってこの夏休みの間に偉く成長しただろ? 最初は灯花の方が力がありそうだなって思ったけど、今じゃ逆じゃん。だから力関係も変わってそうだなって」
「俺は、凪が俺を好きになってくれただけで十分だよ」
「……興味があるって言ったじゃないか」
黙り込む灯花に辰之は素直に謝る。
だが灯花も辰之が嫌がらせでそんなことを聞いているわけではないことを理解しているため、笑って許す。
実際問題、灯花は多感な年ごろの男子高校生だ。凪と体を重ねることを考えないわけではない。
しかし異性同士ならまだしも男性同士であればどちらかが挿れる方、もう片方が挿れられる方であることを決めなくてはならない。これは調べてわかったことだが、挿れられる方はかなりの負担がかかるようで、行為に及ぶ数日前から準備をする必要があるのだと知った。
灯花の性格的に誰かに負担をかけるくらいなら、自分がその負担を代わってやるタイプの人間である。そう考えると灯花が挿れられる側になるのだろうが、如何せん男性女性ともにそういった経験をしたことのない灯花は何から始めればいいかがわからないでいた。
更に言えば凪がそういう行為をしたいと思っているかどうかを灯花は知らない。
付き合い始めてすぐに、そういうことをやりたいかどうかを聞くのは、そういう行為が前提でお付き合いを始めたと思われるかもしれないと考え、聞くに聞けない状態になっている。
灯花は車両内で深くため息を吐いた。
学校に着くと凪はすでに登校しており、いつもの様に読書を楽しんでいた。
読んでいる本はいつか見たときと同じで背表紙には「心音を届けたくて」と書かれている。その本はかなり擦れが見られ、かなり読み込んでいることが伺える。
すでに読み終わってるが、何度も繰り返し読んでいるのだと考えて、灯花は凪に挨拶をするついでに読んでいる本について尋ねてみる。
「おはよう興大」
「あ、おはよう灯花くん、山内くん」
「いつもその本読んでるよな、面白いのか?」
「ああ、うん。面白くはない、かも?」
「な、なんだそりゃ?」
「でもずっと心に残ってる、みたいな?」
あまり本を読む習慣の無い灯花はその意味が分かるようで分からない。
少し考えた後に「ドラマとかでいう、昔のあのドラマのあのシーンをもう一度見たい、みたいな?」と凪に問いかける。
凪は少し考えてから、「うん、そういう感じ」と読んでいた本を閉じながらそう答えた。
それからしばらく話を続けていると、程なくして学校中に鐘の音が鳴り響いた。
そしてそれと同時に志波が教室に入ってきた。教室が少し騒がしくなる。
副担任である志波先生がホームルームを担当するということは、担任である神崎先生はお休みであるということだ。登校日である八月一日は夏休みの中間ということもあり、実家への帰省であったり、長期旅行に行っているとかで不在にすることは理解できるのだが、新学期がスタートする夏休み明けの九月一日に担任が休むというのは一般的に考えても珍しいことではないだろうか。
きっと灯花以外のクラスメイト全員がそんなことを考えたはずだ。
そんなクラスの空気感を察してか、志波が声を発するよりも先に辰之が質問をする。
「神崎先生は今日もお休みですか?」
「ああそうだ。もしかしたら今週は全てお休みになるかもしれないから、そのつもりでいるように」
そう淡々と告げられる言葉に違和感を覚える。
お休みになるかもしれない、というのは休むかどうかが確定していないということだ。それを聞いた辰之は追撃を仕掛ける。
「体調不良とかですか?」
「……僕はそういう風に聞いている」
体調不良で欠勤するには一週間はかなり長い。
インフルエンザなどの一週間ほど安静が必要なものに罹患してしまったのかと考えたが、それであれば先に今週は神崎先生はお休みです、と伝えればいいだけの話だ。
そうしなかったのは体調不良であるということ自体が嘘だからだ。
しかし、それ以上誰も志波先生に追撃をしようとする者は現れなかった。理由は明白で私立梅ヶ原高等学校三年一組には神崎先生のことよりも気になることがあるからである。
ホームルームが終わると多くの女子生徒に加え、今まで会話をしたところを見たことのない男子生徒までもが凪の席の周辺に集まってきていた。
皆凪の変化が気になってしょうがない様子だ。
それもそうだろう。まだ変化の少なかったころにあった灯花ですら駅で見つけることはできず、大きく変わった後に会った辰之もそのあまりの変わり様に一緒にサッカーをしないかと誘ってしまうほどだ。
そんな凪の変化にクラスメイトが放っておくはずもなく、こうして灯花の隣で凪は質問攻めを受けている。
「めちゃくちゃ変わったな」
「すごくカッコよくなったね」
「筋肉もすごーい。筋トレとかしてるの?」
「髪も焼けちゃってるね。ちゃんとトリートメントしてる? 教えてあげようか」
「血管浮き出てるのってカッコよく思っちゃうよね」
要は凪に皆、好意を寄せているのだ。
好意と言ってもラブという感情を皆が持ち合わせているわけではない。高校生のような思春期の頃に寄せる好意というのは、憧れや自分には無い何かを感じた相手に抱くことが多く、要は相手のことが気になって仕方のない状態に身を置くことを指す。
灯花も高校生の好意がそういうことであることは理解しているため、いちいちこのようなことで嫉妬などしない。
だが、聞いていて面白いものではない。
凪の魅力にいち早く気づいていたのは俺なんだぞ、と声を大にして言いふらしたくなるのを必死に押さえる。これは凪が辰之以外には付き合っていることを知られたくないと以前言っていたからだ。
そのため灯花は少し自慢気な表情を浮かべながら、凪と凪を取り巻くクラスメイトの話を聞くだけで、それ以上のことは何もしなかった。
昼休みになり灯花は凪と辰之と一緒に昼食を摂ろうかと考えていたが、灯花が声を掛ける前に凪は多くの周りには多くの生徒が集まっており、凪自身も楽しそうにしていたため、仕方なく辰之だけに声を掛ける。
教室を出るタイミングで灯花はちらっと凪に目を向けると、凪も灯花のことを見ていたようで、凪は口パクで「ごめん」と告げる。それを確認して灯花は手を振りながら「また放課後」とこちらも口パクをして、中庭にあるテラス席へと向かう。
テラス席はまだまだ暑い日差しが降り注いでいるからか、かなり空いており三年生ということを抜きにしてもすんなりと席に座ることができた。
「くっそ、興大と三人で飯食うつもりだったのに」
「まあ仕方ないよな。仮に俺が久しぶりに凪に会ったとして、あんなにも変わってたら声かけたくなるって」
「それは、そうかもしれないけどさ」
「付き合ってることは、他には言わないんだっけ?」
「うん、興大がそうしてほしいって」
「まあでも丁度良かったわ」
「丁度、良かった?」
部活が無くなったからか、いつもよりも少ない量のお弁当箱に収められている卵焼きを頬張りながら「丁度良かったわ」などと意味の分からないことをいう辰之に、八本入って百円以下という破格のチョコスティックパンを一本食べている灯花は頭上にはてなマークを浮かべながら、神崎先生に貰った扇子で風邪を仰いでいた。
辰之は辺りを警戒するかのように見渡し、安全を確認すると小声で話し始めた。
「凪のことで話がしたい」
「……もしかして付き合うことに反対、とか?」
「そういう話じゃない、こともないか……」
「え?」
「いや、そうじゃなくて。凪って少し不思議というか、おかしなところがないか?」
灯花は凪を侮辱された気がして、眉間にしわを寄せる。
それを見た辰之は「お前の考えてるようなことじゃない」とまだ何も言っていない灯花の思考を否定する。
「凪が灯花のことを好きなのは本当だと思う」
「あ、当たり前だろ!」
「まあ聞け! まずはじめに、今からする話は俺の勝手な思い込みかもしれないし、間違っていることもあると思う。だがこれは灯花と凪の関係を否定するものでもない。二人に幸せになってほしいからこそ確認しておきたいことなんだ」
真剣なまなざしで辰之は訴えるように灯花の瞳を除く。
その勢いに灯花は息を飲む。何も悪いことなどしていないのに、悪事を暴かれたかのような緊張感が走る。
「凪と手をつないだことはあるか?」
「…………は?」
「あるのか?」
「そりゃまあ、あるけど」
「どう思った?」
「どうって、これが本当に確認しておきたいことなのか?」
「…………ひどく冷えてなかったか?」
灯花の眉間に寄せられていたシワが無くなった。
それと同時に瞳孔が開いていく。
「冷え、てた、気がする」
「だよな。俺もそう感じた。最初は緊張してるのかなって思ったけど、それにしては冷えすぎだ。昔飼っていたペットが死んだときと同じ冷たさだよ」
「い、言い過ぎじゃないか?」
「体育には全部不参加だろ? だから最初は病気とか身体が弱いとかだと思ってたんだ。でもそうじゃない。現に凪は夏休み期間中にあんなにも変わった。体育ができない理由は他になったんだと思う」
「…………日光アレルギーかって聞いたけど、そうじゃないって言われたことがある」
「だろ? それに凪は初対面であるはずの灯花のことを、まるで以前から知っていたような口ぶりで挨拶をしただろ? だからあの時も灯花が忘れてるだけで前にあったことがあるんだと思ってた。でも今考えるとおかしいんだよ」
「おかしいって何が?」
辰之は水筒の水を飲んで一息つく。
「凪は神崎先生から灯花の席の横に行くように説明を受けたときに『そうか、彼が』って言ったんだ。どう考えてもおかしいだろ? 灯花のことを前から知っていたなら、神崎先生から説明を受ける前に宮崎が灯花であることくらいは分かっていたはずだ」
「確かにあの時そんなこと言ってたような気がするけど、声が小さくて何て言ってるかまでは……」
「俺は覚えてる。でも俺の聞き間違いかもしれない」
「…………つまりどういうこと、だよ?」
灯花は食事をする手を止めて、辰之の話を聞く態度を変えた。
食べかけのチョコスティックパンを袋に仕舞いこみ、水筒の水でのどを潤す。
自身を落ち着かせると、灯花は辰之の顔を正面に見た。
「……俺が思うに、凪は灯花に接触するために転校をしてきたが、灯花がどんな人間かまでは知らなかったんじゃないかと、思ってる」
「俺と接触するため?」
辰之は頷く。
「でもそれは好きだからだと思う。でも顔も知らない人間をどうして好きになったのかは分からん」
「ちょっと待てよ。なら最初の興大の身体が冷たいって話は何だったんだよ」
「……灯花。俺は今から意味の分からないことを言うぞ」
「お、おう」
「凪はロボットじゃないかと睨んでる」
二人の間に沈黙が流れる。
数秒ほどして灯花はお腹を抱える動作を行いながら、大声で笑い始めた。
その灯花の笑い声は先ほどまで小声で話をしていた二人からは考えられないほどのボリュームで、校舎に跳ね返ってまるでやまびこのように聞こえる。
「辰之、お前。ドラマとかアニメの見過ぎなんじゃないか?」
「笑いたきゃ笑え。でも俺は本当にそう思ってる」
「ロボットって、そんなことあるわけないだろ?」
「……本当に言い切れるか? 今まで凪の行動を見て不思議に感じたことはないのか?」
そう問われすぐに「ない」と言おうとしたが、灯花はふとあることを思い出した。
それは凪に自分の家庭の事情を説明した日のことだ。
「な、なあ。辰之は俺のお母さんの名前って知ってるか?」
「なんだ急に」
「いいから! 知ってるか?」
「なら灯花は俺の母親の名前を知ってるのか?」
「……知らない」
「俺も同じだ。何度も会ったことはあるが、俺は毎回おばさんと呼んでるし、本人からの自己紹介も名乗られた記憶はない。灯花の母親の名前なんて知らないよ。それがどうしたんだ?」
灯花は目を伏せ両手を祈るように交差させてから、ゆっくりと口を開いた。
「興大は、俺のお母さんを名前で呼んだんだよ」
「は? 灯花が言ったとかじゃなくて?」
「自分の母親を名前で呼ぶ機会なんて、名前で呼び合うような家庭じゃない限り、そうそうないだろ」
「いつ言ったんだ?」
「俺が興大に家の事情を話したとき。宮崎くんと友枝さんは大変な思いをしてきたんだね、って」
辰之はずっこけ座りへと姿勢を変えて、天を仰ぎながら大きくため息を吐く。
途端に灯花は凪のことが少しだけ怖くなった。
「もう確定じゃねえか? おかしいだろ? 親友の俺ですら知らない灯花の母親の名前を知ってるのは異常だ」
「…………で、でも」
「そうだよな、わかる。お前たちは付き合いたてだ。悪い。俺の考えすぎかもしれねえ。もしかしたら灯花が漏らしてしまった言葉を覚えていただけかもしれないし、灯花の母親か父親の知り合いか、その知り合いの子だっていう可能性もある。でも俺がこの間言った『凪に裏切られるようなことがあれば一番に俺に連絡しろ』って言うのは割と本心だし、そういう意味だから」
辰之はセリフはそれ以上何も言うな、という意味が込められている。その意味を察した灯花はもう口を開かない。
今灯花の額を流れている汗は暑さによるものか、それとも冷や汗なのか。これは本人にすらわからない。
炎天下が原因でチョコチップが溶けてしまい、ベタベタになったチョコスティックパンを喋らないように口へとそれを運び入れる。
美味しいとか、まずいとか。食に対する感情は今は消え去っていた。
放課後になった。
灯花は突然態度を変えては変に思われると思い、普段通りに凪に声を掛ける。
ありふれたセリフであるはずの「一緒に帰らないか」が、昼間のことが頭をよぎり少しだけ言いづらく感じてしまう。
少し声がどもってしまった灯花であったが、辰之が「俺も部活無いから一緒に帰ろうぜ」とフォローを入れてくれたため、変に思われることはなかった。
三人で並んで帰る道はいつもよりも長く感じた。
通常付き合いたてのカップルの帰り道は、恐ろしく早く感じてしまうものではないだろうかと思うが、今日という日は気持ちの持ちようが違う。
分かれ道が近づいていくにつれて、もう少し一緒にいたい。なんなら遠回りでもしてしまおうという気持ちには今日はならず、凪との会話でいかにボロを出さないかを気を付け続けていたせいか、何なら早く分かれ道である駅につかないかと思うほどだ。
しかし灯花は凪のことが嫌いになったわけではない。
今でも好きだ。また手をつなぎたいし、キスもしたい。そして今朝辰之が言っていたように、それ以上のことだって興味があるし、凪とだったらしたいと思っている。
好きだ。愛してる。
その言葉に嘘偽りはないが、凪のことをもっと知ってからでもいいのかな、と曖昧な感情もある。
辰之のおかげか、凪に灯花が変な考え事をしているとは悟られることなく駅に着いた。
「そういえば、凪って駅の近くに住んでんの?」
駅に着いた途端仕掛けたのは辰之だ。
灯花もすぐ駅の近くに住んでいること自体は知っているが、具体的な場所までは聞いたことはなかった。
「そう、だね。このあたりだよ」
「あ、そうなんだ! 今度タイミングが合えば遊びに行ってもいいか? もちろん灯花もいるけど」
その瞬間、凪の顔が歪んだ。
正確に言えば何か予期せぬイベントが発生したが、それ自体を悟られぬように表情を作り直したというべきだろうか。
次の瞬間には、少し困った顔をした凪に変っていた。
「ああ、夏前くらいに引っ越してきたけど、まだ整理とかできてなくて……。それに家に人を上げたことがないから大丈夫か聞いてみるよ」
「そうだよな、急にごめんな。俺の家はいつでも大丈夫だから、凪も灯花を連れて遊びに来いよ」
「ありがとう。今度お邪魔させてもらうよ」
灯花と辰之は電車の時間だからと、駅の中に入っていく。
凪は二人の姿が見えなくなるまで、手を振り続けていた。灯花も凪に笑顔で手を振る。
今朝と同じ位置の車両に乗り、二駅ほど電車に揺られる。車両内では灯花と辰之の間に会話はなかった。
二人も分かれ道となり、軽く「また明日」と手を上げながら挨拶をする。
辰之は「考えすぎんなよ」と最後に言っていたが、灯花はどうしても気になって仕方がなかった。
灯花はアパートに帰り着くと、家の鍵を差し込んだ。
「あれ? 空いてる?」
不思議そうに首をかしげながら、灯花は扉を開いた。
「ただいまー」
「ああ、うん。おかえり」
「やっぱりお母さんだ。どうしたの、帰るの早くない?」
「ちょっと体調が悪くて、早めに上がらせてもらったの」
「え、大丈夫なの?」
「大丈夫、軽い夏バテみたいなもんだと思うわ」
布団に横になり、扇風機の風を全身に浴びている光景を目にして灯花は途端に心配になる。
灯花は何も迷うことなく、クーラーの電源を入れた。
「夏バテを甘く見ちゃだめだよ。今日くらいはクーラー入れよう。俺、後で飲み物買ってくるから。何かほかに欲しいものある? しんどいだろうけど、何か胃に入れないと」
「ごめんね。冷たいお茶漬けなら食べられるかも」
「いいね。梅干しとか入れちゃって、塩分をもっと取ろうか」
「ありがとね」
「ううん、お母さんはゆっくりしてて。ご飯も俺が作るから」
起き上がりそうな動作をする母親を見て、それを制止するかのように灯花はそう言い放つ。
それでも起き上がろうとする母親は自分のバッグを手繰り寄せると、財布を取り出しお金を灯花に差し出す。
「いやいいよ。俺もバイトしてるから少しはあるって」
「生活費は私が出すからいいの」
「……じゃあこれで買ってくるから、お母さんは寝てて」
このままでは引き下がってくれなさそうなため、灯花は仕方なく差し出された千円札二枚を受け取る。
軽くため息を吐きながら自身の財布に入れていく最中にあることを思い出したため、それを母親に尋ねてみる。
「体調悪い時にごめん。凪興大って名前に聞き覚えある?」
「え? なぎこうだい?」
「そう、凪興大。知ってる? お母さんかお父さんの知り合いか、知り合いの子の名前だと思うんだけど」
母親はクーラーを入れたことで徐々に顔色が良くなりつつあるが、それでも暑さでしんどそうな雰囲気を醸し出しつつ、考え込むような動作を見せる。
「ああ、ごめん。そんなに考え込まなくてもいいよ」
「いいのよ。なぎこうだいでしょ。聞いたことあるような気はするんだけどね。知り合いって言われると違うような気がするわ。でもどこで聞いたのかしら……。それでどうしたの? なぎこうだいって人が何かあったの?」
「いいや、なんでもないよ。もし思い出したら教えて」
灯花はそう言ってスクールバッグを玄関に置くと、財布とスマートフォン。それから何かの付録で付いてきたであろう折り畳み式エコバッグを持ってアパートを出た。



