ウニ女、と密かに呼ばれるようになって数日。
その日は体育館の照明の調子が悪いとかで、部活は校内周辺のジョギングと軽いストレッチでおしまい。
有沙たちからはせっかく早く終わったのだからと、駅前のモールへ行こうと誘われた。だけどまたこの前みたいな話を聞き続けるのは勘弁願いたくて、丁重にお断りした。
なるべくトゲのないように伝えたつもりだったけれど、今日の彼女たちはどう思っただろうか。気にならないわけではないけれど、考えたところで答えなんて出ない。
図書館にでも寄って帰ろうかな――。
部室から裏門へと向かっていたときだった。
「あ、海未ちゃん。久し振り!」
大きなイチョウの木の下で、澪がぶんぶん手を振っている。
相変わらず膝下長めのスカート。いつもより髪が跳ねていないと感じるのは、赤いチェックのマフラーがぐるぐる巻き付いているからだった。
「澪、久し振り。どうしたの? ひとり?」
先日良くない噂を聞いたから、顔を見られたことに安堵した……と同時に、何となく嫌な予感がした。
「えっと、相川さんたちが当番代わってほしいって。クラス花壇の水やりと落ち葉掃き」
ふにゃっと笑った澪だけど、質問の答えになっていない。
「『笹田さんはやさしいし何でも丁寧にこなせるもんね』って、褒めてもらっちゃった。だからひとりでもできるよねって」
――やっぱり、この子は。
「あのね、訊いてもいい?」
「へ?」
澪は、ぱちくりと瞬きをした。
「澪、普段から割とそういうこと多かったりしない?」
「お手伝い? よく頼まれてるよ。でもわたし、文芸部だから決まった活動日はないの。みんなみたいに毎日頑張って練習! って感じじゃないから」
予感は的中した。
噂話に大きな尾ひれが付いただけであってほしい。そう思っていたけれど、澪は本当に四組の「使い勝手のいい」存在となっているらしい。
思わず長いため息をついた私に、澪は「どうしたの?」と不思議そうに笑う。
「文芸部だから余裕があるとか、それは関係ない。あなたは都合良く利用されてるだけ。気付かないの?」
澪は初めて、顔を強張らせた。
「そ、そうなのかな。でも」
「でも?」
「わたし、役に立てるのってうれしいよ。友達、ひとりもいないから」
「ひとりも……」
「うん。だから声を掛けてもらえたら、わたしもクラスの一員だと思われてるんだ、いてもいいんだって思えるの」
それは、澪の本心だと思った。心の底からの、純粋な思い。――そして、願い。
おそらくだけど仲の良かった友人たちは、もう何らかのきっかけで彼女の元を去って行ったのだろう。
誰にも助けてもらえない、みんなの言われるがままになることで、やっとクラスを居場所だと感じられる。ひとりぼっちの、小さな存在。
でもこのままだと、澪は気付かないうちに、苦しさに溺れてしまいかねない。
「気持ちはわかるけど……次からは断ろう? そうやって何でも引き受けてたら、どんどんエスカレートするに決まってる」
「そう、なの……?」
「そうなの。気をつけて。澪、このままじゃ疲れ果てちゃうよ」
「わかった……わたし、なるべく断れるように、頑張ってみる。ごめんなさい、海未ちゃん」
マフラーに顔をうずめる澪は、叱られた小さな子どものように眉尻が下がり、頬を赤くした。
しまった。澪はちっとも悪くないのに。私はまた余計なトゲを――。
「謝らないで。怒ってるわけじゃないから」
「うん……」
思わず取った澪の両手は白くほっそりしていて、ずっと外にいたせいかひんやりと冷たい。
そのとき。目の前に蝶のようにひらりと一枚のイチョウの葉が舞い降りて――引き寄せられるように、私たちは同時に木を仰ぎ見た。
「わぁ……」
澪が感嘆の声を漏らす。私たちはまるで、黄色いレースでできた天蓋の下にいるようだった。時折ひらりひらりと葉が落ちてくるけれど、本格的に散り始めるのは、もう少し先だろう。
「きれいだね、海未ちゃん」
「うん」
澪の言葉に、短く返す。それ以上言葉を飾り立てる必要なんてないくらい、きれい。
「手伝うよ」
「えっ、いいよ」
澪は遠慮がちに首を横に振ったけれど、私は箒の立てかけてある倉庫に向かう。
「いいから。私は落ち葉掃くから、澪は水やり終わらせて」
「あ、ありがとう、海未ちゃん」
澪も、ジョウロを取りにこちらに駆けてくる。その顔は微笑みながらも、少し泣きそうだった。
そこから私たちは、黙々と各々の作業に集中した。
澪は花壇に植えられたビオラやパンジーの花苗に水をやり、私はできる範囲で花壇周辺の落ち葉を掃いて集めた。
「頑張って冬を越して、春になったらいっぱい咲いてね」
澪はそっと声を掛けて回っている。ジョウロから落ちるシャワーを浴びた花苗たちは、まだ小さいけれどその葉にしっかりと、真珠のような水の粒をたたえていた。つやつやの真珠で小さな花苗たちを飾る澪は、何だかかわいい。ダサいなんて二度と言わせない。
「ちょっとじっとしてて。……これ、付いてた」
澪の頭に、落ち葉のかけらがくっついていたのを取ってあげる。澪は私を見上げてはにかんだ。
「ありがとう。全然気付かなかった」
この子はいつだってそうだ。自分のことなんて後回しで、手を抜くことを決してしない。ただひたすらに、やさし過ぎるんだ。
「終わったー!」
澪は空っぽになったジョウロを手に、ばんざいをして見せた。落ち葉は掃いたそばからまた舞い降りるけれど、それでも十分きれいになったし、多少落ちている方が風情があると思うことにした。
「海未ちゃん、本当にありがとう。わたしひとりだったら、きっとまだ全然終わってなかったよ」
「だと思う。やっぱりこれ、ひとりでする量じゃなかったよ」
「えへへ。海未ちゃんの仰る通りでしたー」
澪はまたふにゃっと笑ったけれど、さっきとは違って、どこか自嘲気味でもあった。いかに自分が無理難題を押し付けられていたか、実感したのかもしれない。
「帰ろ。肌寒くなってきた」
倉庫に箒をしまってから、私は澪にそう自然に提案していた。
「えっ、一緒に?」
「嫌なら、いいけど」
「ううん、うれしい! だって海未ちゃんがいたら、わたし、ひとりじゃないもん」
そんな澪の笑顔は、私の好きな秋の空に似ていた。どこか物憂げで儚さを含んでいて、ちょっぴり胸がきゅっとなった。
その日は体育館の照明の調子が悪いとかで、部活は校内周辺のジョギングと軽いストレッチでおしまい。
有沙たちからはせっかく早く終わったのだからと、駅前のモールへ行こうと誘われた。だけどまたこの前みたいな話を聞き続けるのは勘弁願いたくて、丁重にお断りした。
なるべくトゲのないように伝えたつもりだったけれど、今日の彼女たちはどう思っただろうか。気にならないわけではないけれど、考えたところで答えなんて出ない。
図書館にでも寄って帰ろうかな――。
部室から裏門へと向かっていたときだった。
「あ、海未ちゃん。久し振り!」
大きなイチョウの木の下で、澪がぶんぶん手を振っている。
相変わらず膝下長めのスカート。いつもより髪が跳ねていないと感じるのは、赤いチェックのマフラーがぐるぐる巻き付いているからだった。
「澪、久し振り。どうしたの? ひとり?」
先日良くない噂を聞いたから、顔を見られたことに安堵した……と同時に、何となく嫌な予感がした。
「えっと、相川さんたちが当番代わってほしいって。クラス花壇の水やりと落ち葉掃き」
ふにゃっと笑った澪だけど、質問の答えになっていない。
「『笹田さんはやさしいし何でも丁寧にこなせるもんね』って、褒めてもらっちゃった。だからひとりでもできるよねって」
――やっぱり、この子は。
「あのね、訊いてもいい?」
「へ?」
澪は、ぱちくりと瞬きをした。
「澪、普段から割とそういうこと多かったりしない?」
「お手伝い? よく頼まれてるよ。でもわたし、文芸部だから決まった活動日はないの。みんなみたいに毎日頑張って練習! って感じじゃないから」
予感は的中した。
噂話に大きな尾ひれが付いただけであってほしい。そう思っていたけれど、澪は本当に四組の「使い勝手のいい」存在となっているらしい。
思わず長いため息をついた私に、澪は「どうしたの?」と不思議そうに笑う。
「文芸部だから余裕があるとか、それは関係ない。あなたは都合良く利用されてるだけ。気付かないの?」
澪は初めて、顔を強張らせた。
「そ、そうなのかな。でも」
「でも?」
「わたし、役に立てるのってうれしいよ。友達、ひとりもいないから」
「ひとりも……」
「うん。だから声を掛けてもらえたら、わたしもクラスの一員だと思われてるんだ、いてもいいんだって思えるの」
それは、澪の本心だと思った。心の底からの、純粋な思い。――そして、願い。
おそらくだけど仲の良かった友人たちは、もう何らかのきっかけで彼女の元を去って行ったのだろう。
誰にも助けてもらえない、みんなの言われるがままになることで、やっとクラスを居場所だと感じられる。ひとりぼっちの、小さな存在。
でもこのままだと、澪は気付かないうちに、苦しさに溺れてしまいかねない。
「気持ちはわかるけど……次からは断ろう? そうやって何でも引き受けてたら、どんどんエスカレートするに決まってる」
「そう、なの……?」
「そうなの。気をつけて。澪、このままじゃ疲れ果てちゃうよ」
「わかった……わたし、なるべく断れるように、頑張ってみる。ごめんなさい、海未ちゃん」
マフラーに顔をうずめる澪は、叱られた小さな子どものように眉尻が下がり、頬を赤くした。
しまった。澪はちっとも悪くないのに。私はまた余計なトゲを――。
「謝らないで。怒ってるわけじゃないから」
「うん……」
思わず取った澪の両手は白くほっそりしていて、ずっと外にいたせいかひんやりと冷たい。
そのとき。目の前に蝶のようにひらりと一枚のイチョウの葉が舞い降りて――引き寄せられるように、私たちは同時に木を仰ぎ見た。
「わぁ……」
澪が感嘆の声を漏らす。私たちはまるで、黄色いレースでできた天蓋の下にいるようだった。時折ひらりひらりと葉が落ちてくるけれど、本格的に散り始めるのは、もう少し先だろう。
「きれいだね、海未ちゃん」
「うん」
澪の言葉に、短く返す。それ以上言葉を飾り立てる必要なんてないくらい、きれい。
「手伝うよ」
「えっ、いいよ」
澪は遠慮がちに首を横に振ったけれど、私は箒の立てかけてある倉庫に向かう。
「いいから。私は落ち葉掃くから、澪は水やり終わらせて」
「あ、ありがとう、海未ちゃん」
澪も、ジョウロを取りにこちらに駆けてくる。その顔は微笑みながらも、少し泣きそうだった。
そこから私たちは、黙々と各々の作業に集中した。
澪は花壇に植えられたビオラやパンジーの花苗に水をやり、私はできる範囲で花壇周辺の落ち葉を掃いて集めた。
「頑張って冬を越して、春になったらいっぱい咲いてね」
澪はそっと声を掛けて回っている。ジョウロから落ちるシャワーを浴びた花苗たちは、まだ小さいけれどその葉にしっかりと、真珠のような水の粒をたたえていた。つやつやの真珠で小さな花苗たちを飾る澪は、何だかかわいい。ダサいなんて二度と言わせない。
「ちょっとじっとしてて。……これ、付いてた」
澪の頭に、落ち葉のかけらがくっついていたのを取ってあげる。澪は私を見上げてはにかんだ。
「ありがとう。全然気付かなかった」
この子はいつだってそうだ。自分のことなんて後回しで、手を抜くことを決してしない。ただひたすらに、やさし過ぎるんだ。
「終わったー!」
澪は空っぽになったジョウロを手に、ばんざいをして見せた。落ち葉は掃いたそばからまた舞い降りるけれど、それでも十分きれいになったし、多少落ちている方が風情があると思うことにした。
「海未ちゃん、本当にありがとう。わたしひとりだったら、きっとまだ全然終わってなかったよ」
「だと思う。やっぱりこれ、ひとりでする量じゃなかったよ」
「えへへ。海未ちゃんの仰る通りでしたー」
澪はまたふにゃっと笑ったけれど、さっきとは違って、どこか自嘲気味でもあった。いかに自分が無理難題を押し付けられていたか、実感したのかもしれない。
「帰ろ。肌寒くなってきた」
倉庫に箒をしまってから、私は澪にそう自然に提案していた。
「えっ、一緒に?」
「嫌なら、いいけど」
「ううん、うれしい! だって海未ちゃんがいたら、わたし、ひとりじゃないもん」
そんな澪の笑顔は、私の好きな秋の空に似ていた。どこか物憂げで儚さを含んでいて、ちょっぴり胸がきゅっとなった。

