「ね、月本さん……お願いがあるの」
文庫本に押し花で彩られたしおりを挟んで顔を上げると、石川千夏が不安げな表情を浮かべていた。
ぱんっと両手を合わせた「お願い」のポーズに、高く結んだポニーテールが揺れる。
「どうしたの?」
首を傾げた私に、千夏は唇をきゅっと結んでから、決心した様子で切り出した。
「……あのね。美化委員が担当してる『冬の校内クリーン運動』の標語だけど、昨日提出期限だったの」
「私、もうだいぶ前に出したよ」
確か、『寒い冬でも心を込めたら温かく』とかなんとか書いたように覚えている。
「うん。月本さんは早めに出してくれたよね。でも、男子の中にまだの子が何人かいて……困ってて」
千夏がちらりと視線を送った先には、三人の男子生徒がスマホを見せ合いながら、ケラケラと笑っている。
その中心にいるのは、瀧本颯真。
彼らはいわゆる陽キャ、なグループ。ただ、クラスのムードメーカーになる一方で、悪目立ちしていることも多い、と私は思っている。あくまで私は、だけれど。
「やむを得ない事情がない限り、クラス全員分の数を揃えて出すようにって、先生から言われてて」
美化委員の担当は、生物の明石先生。提出物については、確かに厳しめ。記入漏れや提出忘れがあると、もれなくお小言のおまけが付いてくる。
「別に、普通に催促したらいいと思うけど」
私はごく一般的な意見を千夏に投げかける。
「わたし……あの子たちちょっと恐くて苦手なの」
苦笑いで俯いたその姿に、私は事情を察した。
あぁ、そういうことね。
「月本さんって、はっきり言えるタイプでしょう? その……代わりに伝えてくれたら、助かるなって……」
胸の前で握られた両手。消え入りそうな声。
千夏の気持ちはわからなくはない。彼らはいつだって教室の中心にいて、そのまわりには人の輪ができる。その輪に入りたい、入りたくない、入れない、入らなければならない――様々な思いが交錯し合っているから。
「わかった。声掛けてみるよ」
「……わ、わたしもついてく!」
私は文庫本を机の中にしまうと、教室の中心へと足を踏み入れた。明るくて陽気で雲一つない、クラスの複雑に絡み合うごたごたとは無縁の、いわば「台風の目」に。
「ねえ、瀧本くんたち」
「なに、月本」
机の上に腰掛けていた瀧本が、半笑いでスマホから顔を上げた。その机、井出くんのなんだけど。
「クリーン運動の標語、昨日までだったんだって。今から書いて、出してくれる?」
さっきまで笑いっぱなしだった三人は、途端に眉をひそめ合う。
「何それ。圭太、知ってた?」
「さあ。雅人は?」
「あー……聞いたような気はするけど、紙なくした」
「あ、あの……用紙ならここにまだあるから」
数歩下がった位置から、千夏が用紙を持った手を恐るおそる伸ばしてくる。
「めんどくさー。別に成績と関係ないし、昨日締め切ったんなら、もう良いだろ」
瀧本は、うんざりした顔で私を一瞥すると、すぐにまたスマホに目を落とす。「だよな」と他の二人も私たちから完全に目を逸らしてしまった。会話、強制終了。
「――良くない」
「えぇ?」
わたしの投げた否定に、瀧本は呆けた声を上げた。教室にいる他の子たちの視線が、ちらちらとこちらに向いているのを感じる。だけど、気にしてなんていられない。
「必ず期限までに提出するよう言われたでしょう? 昨日も千夏、みんなの前で呼び掛けてたよ」
「真面目だな、月本は。さすが学級委員」
「違う。あなたたちが不真面目なだけ」
「なっ……」
「わからないの? 提出率が悪ければ、結果的には私たち二年一組全体が『そういうレベルの低いクラス』だって思われる。正直言って迷惑。だから出して」
三人は顔を見合わせると、乾いた笑いを吐いた。
「あーあ。貴重な昼休みなのになー!」
瀧本のわざとらしい伸びた声。だけど、私は怯まない。
「私だって貴重な昼休みを使ってあなたたちにお願いしてるの。これ以上長引くとお互いにとって無駄な時間が続くわけだけど、いいの?」
私は滝本たちから目を逸らさなかった。真っ直ぐに、彼らを捉え続けた。
教室のあちこちから、ポツポツと声がこぼれる。
――レベル低いっていうのは、困る。
――形だけでも、出してほしいよね。
――内申に響いたりしないかな。
「……わかったよ。石川に出せばいいんだろ?」
瀧本は、ふううっとため息をついて、だらんとこちらに向かって手を伸ばした。
「お、お願いします……」
千夏は私の隣にぴったりとくっついて、滝本に両手で用紙を手渡す。
「時間取らせて悪いけど、よろしくね」
私は三人が用紙を受け取ったのを確認してから、最後にそれだけ伝えて踵を返した。
瀧本たちが、何やら小声で話しているのが背中越しでも伝わってくる。
「月本って、本当尖ってるよな。すげー美人だからやたら迫力あるし」
「名前、『海未』だけどさ、あれは寧ろ『ウニ』だよ。トゲトゲだらけの真っ黒なウニ。ウニ女とか、どうよ」
「しっ、聞こえるって」
――しっかり聞こえてるって。
だけど、余計な追撃はしない。それこそ無駄な時間だから。
席に戻って、黒板の上の無機質な掛け時計を見上げる。五時間目開始まで、あと七分前といったところ。
さっきの続きが気になるけれど、また今度読もう。
私は文庫本の代わりに、数学の教科書にノート、ペンケースを机の上に並べた。
必要なことは伝えた。あとは千夏に任せよう。
ほんの少しの居心地の悪さを感じ、窓の外を見やる。
ミルク色のカーテンがゆらゆら踊り、少し肌寒くも心地良い風が胸まで伸びた髪を撫でていく。その隙間から時折覗く空は高く、細長い雲がポツポツと浮かんでいた。
席替えでこの時期に窓際の席に座れたのは良かった。秋から冬に向けてゆるやかに季節が移ろうこの時期の空の色が、私は好き。
澄み切った青なのに空気はどこか物憂げさを纏っていて、とても落ち着くから。
瀧本たちが、心底怠そうにだけど用紙に何か書き込んでいるのを見て、ひとまず安心する。
それらを回収し終わった千夏と目が合う。ぱたぱたとこちらへ駆け寄ってきたその表情は、安堵に満ちていた。
「ありがとう、月本さん……ごめんね」
「ううん。気にしないで」
「それに、貴重な昼休みを邪魔したのはわたしもでしょう?」
「邪魔されたなんて思ってない。個人的な本が数ページ読めなかったっていうだけよ。そっちの提出の方が大事」
「う、うん」
チャイムが鳴って、先生の姿が見えるとガタガタと椅子を引く音が教室に響く。千夏はもう一度「ありがとう」と小さく手を振って席に戻っていった。
それに応えて手を振り返しながら、さっきの瀧本の言葉を反芻する。
――トゲトゲだらけのウニ女。
私の名前。月本海未。
『広い海のように立派でやさしい心で未来を見つめていてほしい』――今は亡きおばあちゃんが、そう願いを込めてつけてくれたのだとお母さんに聞いた。
決して思い上がるつもりはないけれど、私は幼いときから何でも優秀な方だった。今も成績は学年上位をキープしているし、スポーツも一通りこなせる。千夏のように、そんな私を頼ってくる子は少なくない。
困っている子がいれば、助ける。ごく当たり前のことを続けてきたつもりだった。
なのによりによって、例えられたのがウニだなんて。広い海に転がる、素手で触れると危険な、小さくて真っ黒な存在。
さっきの伝え方、トゲがあったかな。
確かに、まあるく収めたとは言えなかった。
だけど私が声を掛けなければ、きっと瀧本たちは標語のことなんて放っておいた。
私がはっきり伝えなければ、千夏が先生に頭を下げなければならなかった。
私は、間違ったことなんて言っていない。きっと。
文庫本に押し花で彩られたしおりを挟んで顔を上げると、石川千夏が不安げな表情を浮かべていた。
ぱんっと両手を合わせた「お願い」のポーズに、高く結んだポニーテールが揺れる。
「どうしたの?」
首を傾げた私に、千夏は唇をきゅっと結んでから、決心した様子で切り出した。
「……あのね。美化委員が担当してる『冬の校内クリーン運動』の標語だけど、昨日提出期限だったの」
「私、もうだいぶ前に出したよ」
確か、『寒い冬でも心を込めたら温かく』とかなんとか書いたように覚えている。
「うん。月本さんは早めに出してくれたよね。でも、男子の中にまだの子が何人かいて……困ってて」
千夏がちらりと視線を送った先には、三人の男子生徒がスマホを見せ合いながら、ケラケラと笑っている。
その中心にいるのは、瀧本颯真。
彼らはいわゆる陽キャ、なグループ。ただ、クラスのムードメーカーになる一方で、悪目立ちしていることも多い、と私は思っている。あくまで私は、だけれど。
「やむを得ない事情がない限り、クラス全員分の数を揃えて出すようにって、先生から言われてて」
美化委員の担当は、生物の明石先生。提出物については、確かに厳しめ。記入漏れや提出忘れがあると、もれなくお小言のおまけが付いてくる。
「別に、普通に催促したらいいと思うけど」
私はごく一般的な意見を千夏に投げかける。
「わたし……あの子たちちょっと恐くて苦手なの」
苦笑いで俯いたその姿に、私は事情を察した。
あぁ、そういうことね。
「月本さんって、はっきり言えるタイプでしょう? その……代わりに伝えてくれたら、助かるなって……」
胸の前で握られた両手。消え入りそうな声。
千夏の気持ちはわからなくはない。彼らはいつだって教室の中心にいて、そのまわりには人の輪ができる。その輪に入りたい、入りたくない、入れない、入らなければならない――様々な思いが交錯し合っているから。
「わかった。声掛けてみるよ」
「……わ、わたしもついてく!」
私は文庫本を机の中にしまうと、教室の中心へと足を踏み入れた。明るくて陽気で雲一つない、クラスの複雑に絡み合うごたごたとは無縁の、いわば「台風の目」に。
「ねえ、瀧本くんたち」
「なに、月本」
机の上に腰掛けていた瀧本が、半笑いでスマホから顔を上げた。その机、井出くんのなんだけど。
「クリーン運動の標語、昨日までだったんだって。今から書いて、出してくれる?」
さっきまで笑いっぱなしだった三人は、途端に眉をひそめ合う。
「何それ。圭太、知ってた?」
「さあ。雅人は?」
「あー……聞いたような気はするけど、紙なくした」
「あ、あの……用紙ならここにまだあるから」
数歩下がった位置から、千夏が用紙を持った手を恐るおそる伸ばしてくる。
「めんどくさー。別に成績と関係ないし、昨日締め切ったんなら、もう良いだろ」
瀧本は、うんざりした顔で私を一瞥すると、すぐにまたスマホに目を落とす。「だよな」と他の二人も私たちから完全に目を逸らしてしまった。会話、強制終了。
「――良くない」
「えぇ?」
わたしの投げた否定に、瀧本は呆けた声を上げた。教室にいる他の子たちの視線が、ちらちらとこちらに向いているのを感じる。だけど、気にしてなんていられない。
「必ず期限までに提出するよう言われたでしょう? 昨日も千夏、みんなの前で呼び掛けてたよ」
「真面目だな、月本は。さすが学級委員」
「違う。あなたたちが不真面目なだけ」
「なっ……」
「わからないの? 提出率が悪ければ、結果的には私たち二年一組全体が『そういうレベルの低いクラス』だって思われる。正直言って迷惑。だから出して」
三人は顔を見合わせると、乾いた笑いを吐いた。
「あーあ。貴重な昼休みなのになー!」
瀧本のわざとらしい伸びた声。だけど、私は怯まない。
「私だって貴重な昼休みを使ってあなたたちにお願いしてるの。これ以上長引くとお互いにとって無駄な時間が続くわけだけど、いいの?」
私は滝本たちから目を逸らさなかった。真っ直ぐに、彼らを捉え続けた。
教室のあちこちから、ポツポツと声がこぼれる。
――レベル低いっていうのは、困る。
――形だけでも、出してほしいよね。
――内申に響いたりしないかな。
「……わかったよ。石川に出せばいいんだろ?」
瀧本は、ふううっとため息をついて、だらんとこちらに向かって手を伸ばした。
「お、お願いします……」
千夏は私の隣にぴったりとくっついて、滝本に両手で用紙を手渡す。
「時間取らせて悪いけど、よろしくね」
私は三人が用紙を受け取ったのを確認してから、最後にそれだけ伝えて踵を返した。
瀧本たちが、何やら小声で話しているのが背中越しでも伝わってくる。
「月本って、本当尖ってるよな。すげー美人だからやたら迫力あるし」
「名前、『海未』だけどさ、あれは寧ろ『ウニ』だよ。トゲトゲだらけの真っ黒なウニ。ウニ女とか、どうよ」
「しっ、聞こえるって」
――しっかり聞こえてるって。
だけど、余計な追撃はしない。それこそ無駄な時間だから。
席に戻って、黒板の上の無機質な掛け時計を見上げる。五時間目開始まで、あと七分前といったところ。
さっきの続きが気になるけれど、また今度読もう。
私は文庫本の代わりに、数学の教科書にノート、ペンケースを机の上に並べた。
必要なことは伝えた。あとは千夏に任せよう。
ほんの少しの居心地の悪さを感じ、窓の外を見やる。
ミルク色のカーテンがゆらゆら踊り、少し肌寒くも心地良い風が胸まで伸びた髪を撫でていく。その隙間から時折覗く空は高く、細長い雲がポツポツと浮かんでいた。
席替えでこの時期に窓際の席に座れたのは良かった。秋から冬に向けてゆるやかに季節が移ろうこの時期の空の色が、私は好き。
澄み切った青なのに空気はどこか物憂げさを纏っていて、とても落ち着くから。
瀧本たちが、心底怠そうにだけど用紙に何か書き込んでいるのを見て、ひとまず安心する。
それらを回収し終わった千夏と目が合う。ぱたぱたとこちらへ駆け寄ってきたその表情は、安堵に満ちていた。
「ありがとう、月本さん……ごめんね」
「ううん。気にしないで」
「それに、貴重な昼休みを邪魔したのはわたしもでしょう?」
「邪魔されたなんて思ってない。個人的な本が数ページ読めなかったっていうだけよ。そっちの提出の方が大事」
「う、うん」
チャイムが鳴って、先生の姿が見えるとガタガタと椅子を引く音が教室に響く。千夏はもう一度「ありがとう」と小さく手を振って席に戻っていった。
それに応えて手を振り返しながら、さっきの瀧本の言葉を反芻する。
――トゲトゲだらけのウニ女。
私の名前。月本海未。
『広い海のように立派でやさしい心で未来を見つめていてほしい』――今は亡きおばあちゃんが、そう願いを込めてつけてくれたのだとお母さんに聞いた。
決して思い上がるつもりはないけれど、私は幼いときから何でも優秀な方だった。今も成績は学年上位をキープしているし、スポーツも一通りこなせる。千夏のように、そんな私を頼ってくる子は少なくない。
困っている子がいれば、助ける。ごく当たり前のことを続けてきたつもりだった。
なのによりによって、例えられたのがウニだなんて。広い海に転がる、素手で触れると危険な、小さくて真っ黒な存在。
さっきの伝え方、トゲがあったかな。
確かに、まあるく収めたとは言えなかった。
だけど私が声を掛けなければ、きっと瀧本たちは標語のことなんて放っておいた。
私がはっきり伝えなければ、千夏が先生に頭を下げなければならなかった。
私は、間違ったことなんて言っていない。きっと。

