十一月上旬。
銀杏の香りに包まれた、いちょう並木の中を今日も、二人で静かに踏み締める。
カサリ、と足元の葉が擦れて、時折バランスを崩しそうになると、ようくんが差し出した腕に掴まり、笑みを零す。
ほんの一週間前までは眩しい日差しの中、グラウンドで汗を流していたというのに、肌寒い日が増え、服装も長袖シャツにニットのカーディガンを羽織る日が増えた。
今月は胃の痛くなる二学期期末試験が控えているが、それを乗り切れば二年生にはご褒美のような修学旅行が両手を広げて待ち構えている。ちなみに行き先は三泊四日の沖縄だ。
それよりも今は違う意味で胃に穴が開きそうなのだが——。
「日髙チャン! 昼飯食いに行こうぜ〜」
昼休み、階段の踊り場にて待ち伏せしている人が一人。
なんの巡り合わせか、体育祭での転倒をきっかけに再会した先輩は、あろうことか『日髙チャンの彼氏』とわけのわからぬ爆弾発言を投下し、その場の空気を完全に凍りつかせた。
おかげで午後からの競技の結果も応援もそっちのけ。気がつけば、あれよあれよと時間は過ぎ去り、昼食を共にする仲になっていた。
「はぁ……どうも」
「なんだー? 元気ないな、午前の授業で疲れたのか?」
「今疲れたところです」
「そんなら飯食べ終わったら肩揉みでもしてやろーか」
先輩の軽口を華麗に無視して階段を降りると、重い足音がすぐ真後ろから追ってくる。
昇降口を出て、中庭を通って体育館横の木陰に向かうと、先客の落ち葉が大量に積まれていた。
「すげーな、焼き芋作れそうじゃね」
「でもこれだと座れないですね」
「こういうのはなぁ、テキトーに蹴散らしゃいいんだよ」
先輩は長い足を黄色い葉っぱの山に突っ込むと、バサバサと激しく撒き散らし、黄色いカーペットを作り上げたのだった。
腰を下ろすと、芝生とはまた異なる柔らかな座り心地に、疲れが和らいだ。
先輩は何食わぬ顔で隣に座ると、両足を前に大きく伸ばし、太腿の上に弁当を広げた。先輩はパン食らしく、サンドイッチの日が多い。
「ピクニック日和だなァー」
「そうですね」
「今日のおかずはなんだ?」
「トンカツです」
弁当箱の蓋を開けると、先輩は興味津々で覗き込んでくるので、頭を押し退け、ソースの染み込んだトンカツを一口齧った。
実は先日、クラスにいる吹奏楽部の男子に聞いたのだが、瀬音先輩は明るく陽気で部内のムードメーカーである一方、非常に変わり者らしく、動物のぬいぐるみを持ち歩くほど、極度の可愛いもの好きだとか。そして、なぜだかようくんを目の敵にしており、スポーツテストや学力テストの成績を勝手に比較しては突っ掛かっているそうな。しかし、後輩への面倒見の良さや音楽の腕は確かで、一部生徒の間で密かに人気らしい。
そんな先輩に絡まれている理由は未だわからず仕舞いではあるが、過度なスキンシップを除けば常識人で、勉強で困ったところがあればすぐに聞けるし、お菓子も貰えるので現状は野放しにしていた。
「そういや、ひーちゃんは七瀬とどれくらい付き合いあんだァ?」
「俺が小学校の途中で引っ越した時からだから……九年くらい?」
「はぁー、そりゃなげーな」
「小さい頃は家が隣同士だからって、家族と一緒にご飯を食べに行ったり、遊びに行ったりしましたけど……中学からは別の部活だったし、今は登校時間も学校も同じだから一緒に通学してるってだけで、昔より遊ぶ頻度とかも減ったんで別にそんな関係が深いかと言ったら……」
「そのワリに固執してるよなァ?」
「どちらかと言うと固執してるのは先輩ですけど」
「俺はいーのよ。ひーちゃんの彼氏候補だから、な?」
「いや、そういうの間に合ってるんで」
キッパリ言い放つと、予想だにしなかった返答だったのか、先輩は目を丸くしてこちらを見つめてきたのだった。
「なんだ、もう付き合ってんのか」
「一応……?」
「マジかー、ちなみにどんな子なんだ?」
「教えたくないです」
「いいじゃねーか、ちょっとは教えろよ。髪型とか性格とかさぁ」
「ダメです」
「そういうのは口堅ぇんだな。よしっ! そんなら七瀬に聞いてみっか。どうせ七瀬公認なんだろ?」
——公認というか、最早本人なんですけど。
弁当を食べながら、内心ツッコミを入れていると、先輩は携帯電話を取り出し、どこかへ電話をかけ始めた。
聞き覚えのある着信音が漏れてくると、数秒後に『もしもし』と男の小さな声が聞こえてきた。
「もしもーしオレオレ。あ、オレオレ詐欺じゃねーから、瀬音だけど。今、体育館横のとこにいんだけどさ……あ? 何、誰かそこに居るのかって? どうだろーな、来ればわかるんじゃ……って切れちまったよ。やべーな七瀬、場所しか言ってねぇのにブチギレてたぜ」
「七瀬先輩で遊ばないでくださいって」
「いいじゃん、おもしれーんだよ。あのいつもスカしてる七瀬が感情剥き出しになってんのがさァ」
「スカしてる?」
「だろ? 誰でも彼でも愛嬌振り撒いてヘコヘコ頭下げてゴマすって、頭も見た目も認めたくねーけど楽器の腕も……そこそこあんじゃん? なのに自信ねぇっつーか、人を寄せ付けねぇオーラ出してんだろ」
「え……?」
その言葉に弁当を食べる手が止まる。
ようくんは昔から誰からも好かれて、尊敬され、多くの人に囲まれて過ごしている。自分と住む世界が違う存在のように感じていたが、先輩の口ぶりではまるで孤立している印象を受けた。
「その、よう……七瀬先輩ってクラスではどんな感じなんですか?」
「どうだろーな? クラスは一緒になったことねーからわかんねぇけど……昼休みになると廊下で毎回すれ違うなァ」
「それって、一人で……?」
「おぉ、他のクラスの奴と待ち合わせでもしてんじゃねーの?」
「部活だとどうですか?」
「そーだな。一年の時から先輩に一歩引かれてたっつーか、夏前には楽器教えてた連中から『もう七瀬には教えられることない』とか言われてたな? そんで真面目なのか朝は一人で自主練して……一年のそれも未経験者でコンクールのソロに選ばれた時はさすがに引いたワ。んで後輩できてからは懇切丁寧に教えてんじゃね? 教室ちげーからよくわかんねーけど」
「……そうなんですね」
「つーか、七瀬のことよりもっと俺に興味持ってくんねぇ? ぜってー今付き合ってる子より俺のがひーちゃんのこと可愛がれる自信あるぜ⁇」
「——誰が誰を可愛がるって?」
背後から冷淡な声が降ってくると、先輩と同じタイミングで首だけ振り返った。
するとそこには、肩を激しく上下させたようくんが見下ろしていたのだった。
「よぉ! 七瀬、走ってきたのか?」
「何してるの、ここで」
「あ? どう見ても飯食ってんだろ。それより聞いたんだけどよ、日髙チャンって付き合ってるやつ居るんだってな?」
「……葉?」
名前を呼ばれた途端、全身の血の気が引く。
逆光で表情が読み取れないせいで、淡々とした声色はどこか怒っているように感じ、ただ恐怖を覚えた。
隣に座る先輩も何かを察知したのか、喉を鳴らして唾を飲み込んだ。
「何話したの」
「その、付き合ってる人いるって……」
「言ったの?」
「う、うん」
「どうして?」
「話の流れで……」
「そもそもなんで瀬音と一緒にお昼ご飯食べてるの」
「先輩が待ち伏せしてるから」
「いつから」
「いつからって、体育祭の後から……」
「断らなかったの」
「断ったけど先輩がしつけーんだって」
「どうして僕に相談しなかったの」
「だって相談したらまた喧嘩するだろうし……目立つ、から……」
そこで会話が終わると、足元の落ち葉が風に乗って散り散りになった。
ようくんは沈黙を貫き、先輩は無表情で彼の顔を窺っていた。
空気の重さに耐え切れず顔を伏せてしまうと、頭上からわずかに震えたため息が降りかかった。
それからジャリ、とコンクリートと靴底の擦れる音が聞こえたので、ゆっくり顔を上げた。
「よ、ようくん!」
俺は抱えていた弁当を放り出し、彼の服を掴むと背中に額を押し付けた。
「ご、ごめんっ!」
「……ごめんって何? 理由もないのに謝らないでよ」
「だから、その、先輩と一緒に飯食ってて悪かった! 今度からようくんにもちゃんと言うからっ」
「僕が謝って欲しいのはそういうことじゃない。それにここ外だから、くっつくのやめてくれないかな」
ようくんは掴んでいた手を振りほどくと、そのまま早足で立ち去ってしまった。
俺はその後ろ姿を眺めることしかできなかったのだった。
⁂
——翌日。
朝、玄関を出ると、そこにはようくんの姿はなかった。
念のため体調を窺うメッセージを送ると『今日は用事があって学校に行けない』と一言だけ返信が来た。
用事があるのは仕方がないが、昨日の放課後も『部活長引くから先に帰って』と告げられ、明らかに避けられている。
何かいけないことをしてしまったのか、帰宅後に考えてみたものの結局、思い当たることといえば無断で先輩とご飯を食べていたことしかなく、いったん一人で考え込むのは断念した。
午前の授業は頭に入ってこず、現代文の授業で三回くらい名前を呼ばれるまで気がつかなかった上に、体育の授業ではまたもやグラウンドで盛大に転倒し、治りかけの右腕を傷だらけにした。
そんなこんなで昼休みになり、階段をとぼとぼ降りていると、踊り場で今日も先輩が壁に寄り掛かっていたのだった。
「よぉ、日髙チャ——っておいおい、まーたボロボロじゃねぇか」
「……ども」
「これから飯、行くんだろ」
「そうですね……」
「ちょっと話してーことあるから付いて行ってもいいか?」
断る気力もなく、黙って頷くと先輩は後を付いてきた。
お馴染みの体育館横は再び落ち葉が積まれていたので、芝生は諦め、コンクリートの固い地面に横並びで腰を下ろしたのだった。
「昨日はなんか、悪いことしたな」
「こっちこそ色々迷惑かけてすみませんでした」
「気にすんなって!」
先輩はあっけらかんとした顔で笑うと、落ち葉の山から一枚の葉っぱを掴み、くるくると指で回し始めた。
あの後、弁当を盛大に地面にばら撒いてしまったせいで、先輩の制服にシミを作ってしまい、片付けを手伝わせた挙句、サンドイッチをお裾分けしてもらったのだ。
それにしても昨日の今日で先輩に会うのは、何だか後ろめたさを感じる。
「あれから七瀬と話したのか?」
「話してないです。今日は用事があるからって会えてないんで」
「用事?」
「それより話ってなんですか」
「あー……その、不快にさせたら悪いんだけどよ……ひーちゃんが付き合ってる相手って、もしかして七瀬の奴か?」
「……どうしてそう思ったんですか」
「あくまで直感なんだけどな。最初はただの過保護すぎる幼馴染つーか、弟扱いでもしてんのかって思ったんだけど、昨日の喧嘩と七瀬の態度でありゃただの幼馴染のカンケーじゃねぇなァって感じたワケよ」
「……もし、そうだったらどう思いますか?」
先輩はいちょうの葉を息で吹き飛ばし、鰯雲が風に乗って泳いでいる空を見上げた。
それから肩を大きく落とすと、突然頭を掻きむしりながら地面に向かって叫び、眉を下げた顔で見つめてきた。
「だよなあ⁉︎ いやマジでわりーことしたわ! 俺、昔っからカワイーモンが近くにあると周りが見えなくなっちまうんだよ‼︎ マジごめんな⁉︎」
「え、あっ、先輩はそんな悪くないです。俺がようくんに黙ってたのがいけないんで」
「……いや、多分そうじゃねーぞ。七瀬が怒ってる理由」
「え……?」
次の瞬間、一段と強い風が吹くと頭上からひらひらと黄色い葉が舞い落ち、膝の上に乗ったのだった。
「俺が説教できる立場じゃねぇけど……お前らってさァー、いい意味でも悪い意味でも近いんだよ。小さい頃からずーっと一緒に居たんだろ? そうするといつも隣にいるのが当たり前になっちまって、境界線がわかんねーの」
「境界線?」
「恋人と幼馴染の線引きのことだ。意識したことなかったか?」
意識、と言われても恋人になったとはいえ一度もデートに出かけたり、何かをしているわけではないので、今までと特段変わらない関係ともいえる。
「なんも意識したことないです」
「じゃあ付き合ってから七瀬が変わったところはねーか?」
「なんとなく前より触ってこなくなった気がする。あと、今までのようくんじゃ考えられないこと言ったり……」
「どうしてそうなったか考えたことはねーのか」
「ない、です」
「じゃあよく思い出して考えてみろ、七瀬の様子が変わった時の状況とかな」
先輩に促されるまま、ここ数か月をゆっくりと振り返る。
夏祭りの後に怪我してから毎日、傷の具合を見ながら『跡残らないといいね』と労ってくれたこと。
文化祭で誰よりも早く、俺の正体に気がつき、困っているところに駆けつけた後、ウィッグなんか被らなくても可愛いと褒めてくれたこと。そして、周囲からの反応に対して『妬ける』と正直に伝えてくれたこと。
体育祭では当日を迎えるまで何度も体調のことを気遣ってくれ、転倒してしまった後、自分の身だしなみなど気にせず走ってきてくれたこと。
それからスキンシップの多い先輩と二人きりにしなかったこと。
全部、ようくんは俺のことを意識して、気遣ってくれていた。
それに対して俺は一度でも彼を一人の〝男〟として意識したことはあっただろうか——。
「——俺、最低だ……ようくんに嫌な気持ちいっぱいさせてた」
「ひーちゃん、今ここで謝るんじゃねぇ。七瀬に全部伝えろ。そんでこれから七瀬とどうしていきたいのか話せ」
「……先輩、ありがとうございます。俺、ようくんとちゃんと話し合います」
「頑張れよ!」
先輩はゆっくり立ち上がり、軽く挨拶すると、その場を立ち去ろうとした。
俺はその背中を追おうと立ち上がりかけたが、そこで踏み留まり、浮いた腰をゆっくり下ろした。
「先輩っ! 面倒見がいいって噂、本当だったんですね」
「まぁーな! かわいー子と後輩は可愛がれって兄貴に躾けられてきたからな」
「今度は三人で昼飯食べれるといいですね」
「おぉー。まぁ七瀬次第なんだろうけどな、じゃーなっ」
ひらひらと手を振る先輩に、手を振り返すと俺はズボンのポケットから携帯電話を取り出した。
メッセージの送信先はもちろん、ようくんだった。
⁂
時刻は進み、二十時を過ぎた頃。
なんとか会う約束を取り付けると、夕食を食べ終えた後、俺は七瀬宅のチャイムを鳴らしたのだった。
インターホンから母親の穏やかな声が聞こえると、玄関ドアがゆっくり押し開けられた。
「こんばんは」
「あら〜、葉くんこんばんはぁ。陽に用事かしら? ちょうど今、帰ってきたところなのよ〜」
「帰ってきたばっかなら、また日改めて来ます」
「遠慮しなくていいのよ〜。そのままお部屋でお勉強すると思うから、晩ご飯持っていってくれるかしら〜?」
ようくんの母親に温かく迎え入れられると、お盆に乗った夕食を受け取り二階へ上がる。
ふと、最後にようくんの部屋に入ったのは、一学期の期末テスト勉強以来だと思い出した。
夏休み明けから勉強する時は、ようくんの家のリビングを使っていた。あの頃からずっと意識してくれていたのだと、改めて実感した。
ドアを四回ノックし、一呼吸置いてから声を発する。
「よ、ようくん。俺だけど……」
廊下に弱々しい声が静かに響くも、返事はない。
しかし、ドアの向こうでガタガタと物が激しく動く音が聞こえ、しばらくするとドアがゆっくりと開かれたのだった。
「オバさんからご飯預かってきたんだけど……」
「ありがとう。中、入るよね?」
「う、うん。いい?」
「どうぞ」
ドアが大きく開かれると「お邪魔します」と一声掛けてから踏み入った。
相変わらず部屋のあちこちには観葉植物が置かれている。
ローテーブルにお盆を置き、とりあえずマグカップにお茶を注ぐと正座した。
彼はテーブルを挟んだ向こう側で胡座をかいた。
「それで話って何?」
「昨日のこととか、色々謝りたいことがあって」
「あぁ……もう気にしてないから平気だよ、昨日は勝手に早とちりして怒ってごめんね?」
「ち、違うっ! ようくんは謝ることなんかないんだって、俺の方が……!」
勢いで膝立ちになるも、一度深呼吸してから座り直す。
「今まで何も言わずに瀬音先輩と二人きりで昼飯食っててごめん。それから付き合ってる人がいるって話も勝手にしてごめん」
「もうそれはいいよ」
「それだけじゃなくって……どうしてようくんが怒ったのか真剣に考えたんだ。俺さ、ようくんと一緒にいるのが当たり前で、撫でられたり抱きしめられるのが当然になってた。でもそうじゃなかった。本当はもっと特別なことで、俺はようくんにどう思われてるのかとか、どう大事にされてるのかを考えて行動すべきだった。今まで嫌な思いさせて本当に、ごめん……」
深く頭を下げると、部屋はシンと静まり返った。
しばらくそのまま待ち続けていると、正面から小さなため息が聞こえ、そっと頭の上に温かい手が乗せられたのだった。
「頭上げていいよ」
「う、うん……」
ゆっくり頭を持ち上げると、少しだけ寂しそうに笑う彼と目が合った。
「葉はさ、恋人ってどういうものだか、考えたことある?」
「抱きしめ合ったり、キ、キスすること……?」
「確かにそれも一つだけど、僕はね〝相手の安全を守ってあげること〟だとも思ってるんだ」
「安全を守ってあげる?」
「例えば、葉と恋人になったのに、どうして抱きしめたりキスしないのか考えたことはない?」
「お、俺が恥ずかしがる、から?」
「うーん、それもあるけどね……僕はね、葉が怖がるんじゃないかって思ってるんだよ」
「俺が怖がる……?」
「夏祭りの時、見ず知らずの男の人に追いかけられて酷い目に遭ったでしょ? もし僕が何も考えないでベタベタ触ったりキスなんかしたら、葉が気づかないうちに凄く傷ついちゃうかもしれないから何もしないんだよ」
「ようくんとあの変質者は違うだろ!」
「そうかもしれないけど、葉はまだあの時の傷が癒えてないんだよ。本当は葉を不安にさせたくなかったから言いたくなかったんだけど……葉が転ぶようになっちゃったのは、あの時のことを無意識に思い出してるからだと僕は思うんだ」
「そ、それは……」
「葉も本当は思い当たることがあるんじゃない……?」
今日出来たばかりの傷は、痛みこそ引いたものの、まだ乾き切ってはいなかった。
「勿論、ヤキモチを焼いたのもあるけど、それよりも僕は葉の心と体が何より大事だから……瀬音みたいに葉に好意を抱いている相手と二人きりになることが、どれだけ危険なのかわかって欲しかった……葉が傷付く姿はもう見たくないから……」
「じゃあこれからは、誰かに会う時とかもようくんに相談すればいい?」
「いや、そこまでしなくても……それより今は、瀬音と二人きりになりそうな時はきちんと声を掛けてほしいな」
「そ、そしたら明日からはさっ、ようくんも一緒に、昼ご飯食べてくれる?」
「いいよ。いつものところでいいんだよね?」
「ん、体育館横な!」
ようやく、ようくんの考えていたことが少し理解できると、体の力が抜けたのか、お腹からキュルキュルと小さな生き物の鳴き声がした。
「あれ、ご飯食べてないの?」
「た、食べた……何ならオムライス食ってきた」
「ふふっ、まだまだ育ち盛りってことかな? じゃあそんな葉くんには、僕の唐揚げを一個分けてあげましょう」
ようくんは唐揚げを箸で掴むと、口元に運んでくれた。
それを思い切り頬張ると、箸に唇が触れ、なぜか胸が高鳴ったのだった。
⁂
——翌日、昼休み。
今や日課になっている、瀬音先輩を階段の踊り場で回収し、いつもの場所へ向かうとすでにようくんはコンクリートの地面にピクニックシートを敷いて待っていた。
「よぉー七瀬ぇ。元気してるかァ?」
「瀬音の顔見たらちょっと疲れたかな」
「わかる」
「お前らなぁ……」
「七瀬先輩、隣座ってもいい?」
ようくんは頷くと、すぐ横の地面を優しく叩いたので、肩が触れそうな距離に腰を落としたのだった。
先輩は俺たちの正面に堂々と胡座をかいた。
「なんだァー? 気ぃ遣って〝先輩〟って呼んでんのか?」
「葉、大丈夫だよ。いつもみたいに呼んで。もう瀬音は僕たちのこと知ってるんでしょ?」
「まぁ、その……うん」
「そこんところ一応誤解っつーか、ひーちゃんのために言っておくけどな。昨日付き合ってる話はしたけどな〝誰と〟とは言ってねぇから。そこんとこはイジめてやんなよ」
「僕が葉のことをイジめるわけないでしょ」
「でも結局先輩にはバレたし、俺が言ったようなもんだから」
「葉は全然気にしなくていいんだよ。全部瀬音が絡んできたのがいけないんだから……ね?」
「マジでそのキモい笑顔やめろよな」
先輩は顰めっ面になると、今日も弁当箱の中からサンドイッチを取り出した。
ちなみに俺は焼肉風野菜炒め、ようくんは唐揚げである。
「げっ……ピーマン入ってる」
「食べようか?」
彼の気遣いに一瞬、箸が宙を舞うも、野菜炒めの中から緑色の物体を掴むと、次から次へとようくんの口に運んだ。
彼は笑顔で美味しそうに飲み込んだのだった。
「おいおいおいおいそれは甘やかしすぎだろ。ピーマンくらい食わせねーのか⁉︎」
「僕はピーマンが好きで、葉はピーマンが嫌いだからウィンウィンな関係なんだよ」
「俺、そのうちこの席から消えそうだワ……」
「どうぞご自由に。そしたら僕たちは二人で食べるからねー?」
ようくんの言葉に頷くと、緑色が消失した野菜炒めに箸をつける。
一口、二口と食べ進めると、時折箸先が唇に触れ、なぜか熱を感じた。
それにしても、今日も変わらず空では鰯が悠々自適に泳いでおり、時折風に煽られて黄色い葉が舞い落ちる。実に穏やかな昼だ。
「そういや昨日の用事ってなんだったんだァ?」
「……大学の、面接」
「あー、早い奴だともう合格出てるもんなー。俺はまだ面接も試験も来年だけど」
「瀬音先輩はどこに行くんですか?」
「俺は東都藝術大学。作曲かピアノか迷ってんだよなー。七瀬は?」
「僕は……その……」
ようくんは言葉を濁すと、なぜかこちらを一瞬見た後に先輩の方へ向き直った。
「千羽大学かな」
「千羽大って……けっこー遠くに行くんだな」
「うん、園芸学部のある大学ってそこしかないから——葉?」
カランカラン、とプラスチックの箸が手から滑り落ち、弁当箱の上で跳ねる。
視界が大きく歪み、隣にいるはずのようくんの姿がぼやけていったのだった。
銀杏の香りに包まれた、いちょう並木の中を今日も、二人で静かに踏み締める。
カサリ、と足元の葉が擦れて、時折バランスを崩しそうになると、ようくんが差し出した腕に掴まり、笑みを零す。
ほんの一週間前までは眩しい日差しの中、グラウンドで汗を流していたというのに、肌寒い日が増え、服装も長袖シャツにニットのカーディガンを羽織る日が増えた。
今月は胃の痛くなる二学期期末試験が控えているが、それを乗り切れば二年生にはご褒美のような修学旅行が両手を広げて待ち構えている。ちなみに行き先は三泊四日の沖縄だ。
それよりも今は違う意味で胃に穴が開きそうなのだが——。
「日髙チャン! 昼飯食いに行こうぜ〜」
昼休み、階段の踊り場にて待ち伏せしている人が一人。
なんの巡り合わせか、体育祭での転倒をきっかけに再会した先輩は、あろうことか『日髙チャンの彼氏』とわけのわからぬ爆弾発言を投下し、その場の空気を完全に凍りつかせた。
おかげで午後からの競技の結果も応援もそっちのけ。気がつけば、あれよあれよと時間は過ぎ去り、昼食を共にする仲になっていた。
「はぁ……どうも」
「なんだー? 元気ないな、午前の授業で疲れたのか?」
「今疲れたところです」
「そんなら飯食べ終わったら肩揉みでもしてやろーか」
先輩の軽口を華麗に無視して階段を降りると、重い足音がすぐ真後ろから追ってくる。
昇降口を出て、中庭を通って体育館横の木陰に向かうと、先客の落ち葉が大量に積まれていた。
「すげーな、焼き芋作れそうじゃね」
「でもこれだと座れないですね」
「こういうのはなぁ、テキトーに蹴散らしゃいいんだよ」
先輩は長い足を黄色い葉っぱの山に突っ込むと、バサバサと激しく撒き散らし、黄色いカーペットを作り上げたのだった。
腰を下ろすと、芝生とはまた異なる柔らかな座り心地に、疲れが和らいだ。
先輩は何食わぬ顔で隣に座ると、両足を前に大きく伸ばし、太腿の上に弁当を広げた。先輩はパン食らしく、サンドイッチの日が多い。
「ピクニック日和だなァー」
「そうですね」
「今日のおかずはなんだ?」
「トンカツです」
弁当箱の蓋を開けると、先輩は興味津々で覗き込んでくるので、頭を押し退け、ソースの染み込んだトンカツを一口齧った。
実は先日、クラスにいる吹奏楽部の男子に聞いたのだが、瀬音先輩は明るく陽気で部内のムードメーカーである一方、非常に変わり者らしく、動物のぬいぐるみを持ち歩くほど、極度の可愛いもの好きだとか。そして、なぜだかようくんを目の敵にしており、スポーツテストや学力テストの成績を勝手に比較しては突っ掛かっているそうな。しかし、後輩への面倒見の良さや音楽の腕は確かで、一部生徒の間で密かに人気らしい。
そんな先輩に絡まれている理由は未だわからず仕舞いではあるが、過度なスキンシップを除けば常識人で、勉強で困ったところがあればすぐに聞けるし、お菓子も貰えるので現状は野放しにしていた。
「そういや、ひーちゃんは七瀬とどれくらい付き合いあんだァ?」
「俺が小学校の途中で引っ越した時からだから……九年くらい?」
「はぁー、そりゃなげーな」
「小さい頃は家が隣同士だからって、家族と一緒にご飯を食べに行ったり、遊びに行ったりしましたけど……中学からは別の部活だったし、今は登校時間も学校も同じだから一緒に通学してるってだけで、昔より遊ぶ頻度とかも減ったんで別にそんな関係が深いかと言ったら……」
「そのワリに固執してるよなァ?」
「どちらかと言うと固執してるのは先輩ですけど」
「俺はいーのよ。ひーちゃんの彼氏候補だから、な?」
「いや、そういうの間に合ってるんで」
キッパリ言い放つと、予想だにしなかった返答だったのか、先輩は目を丸くしてこちらを見つめてきたのだった。
「なんだ、もう付き合ってんのか」
「一応……?」
「マジかー、ちなみにどんな子なんだ?」
「教えたくないです」
「いいじゃねーか、ちょっとは教えろよ。髪型とか性格とかさぁ」
「ダメです」
「そういうのは口堅ぇんだな。よしっ! そんなら七瀬に聞いてみっか。どうせ七瀬公認なんだろ?」
——公認というか、最早本人なんですけど。
弁当を食べながら、内心ツッコミを入れていると、先輩は携帯電話を取り出し、どこかへ電話をかけ始めた。
聞き覚えのある着信音が漏れてくると、数秒後に『もしもし』と男の小さな声が聞こえてきた。
「もしもーしオレオレ。あ、オレオレ詐欺じゃねーから、瀬音だけど。今、体育館横のとこにいんだけどさ……あ? 何、誰かそこに居るのかって? どうだろーな、来ればわかるんじゃ……って切れちまったよ。やべーな七瀬、場所しか言ってねぇのにブチギレてたぜ」
「七瀬先輩で遊ばないでくださいって」
「いいじゃん、おもしれーんだよ。あのいつもスカしてる七瀬が感情剥き出しになってんのがさァ」
「スカしてる?」
「だろ? 誰でも彼でも愛嬌振り撒いてヘコヘコ頭下げてゴマすって、頭も見た目も認めたくねーけど楽器の腕も……そこそこあんじゃん? なのに自信ねぇっつーか、人を寄せ付けねぇオーラ出してんだろ」
「え……?」
その言葉に弁当を食べる手が止まる。
ようくんは昔から誰からも好かれて、尊敬され、多くの人に囲まれて過ごしている。自分と住む世界が違う存在のように感じていたが、先輩の口ぶりではまるで孤立している印象を受けた。
「その、よう……七瀬先輩ってクラスではどんな感じなんですか?」
「どうだろーな? クラスは一緒になったことねーからわかんねぇけど……昼休みになると廊下で毎回すれ違うなァ」
「それって、一人で……?」
「おぉ、他のクラスの奴と待ち合わせでもしてんじゃねーの?」
「部活だとどうですか?」
「そーだな。一年の時から先輩に一歩引かれてたっつーか、夏前には楽器教えてた連中から『もう七瀬には教えられることない』とか言われてたな? そんで真面目なのか朝は一人で自主練して……一年のそれも未経験者でコンクールのソロに選ばれた時はさすがに引いたワ。んで後輩できてからは懇切丁寧に教えてんじゃね? 教室ちげーからよくわかんねーけど」
「……そうなんですね」
「つーか、七瀬のことよりもっと俺に興味持ってくんねぇ? ぜってー今付き合ってる子より俺のがひーちゃんのこと可愛がれる自信あるぜ⁇」
「——誰が誰を可愛がるって?」
背後から冷淡な声が降ってくると、先輩と同じタイミングで首だけ振り返った。
するとそこには、肩を激しく上下させたようくんが見下ろしていたのだった。
「よぉ! 七瀬、走ってきたのか?」
「何してるの、ここで」
「あ? どう見ても飯食ってんだろ。それより聞いたんだけどよ、日髙チャンって付き合ってるやつ居るんだってな?」
「……葉?」
名前を呼ばれた途端、全身の血の気が引く。
逆光で表情が読み取れないせいで、淡々とした声色はどこか怒っているように感じ、ただ恐怖を覚えた。
隣に座る先輩も何かを察知したのか、喉を鳴らして唾を飲み込んだ。
「何話したの」
「その、付き合ってる人いるって……」
「言ったの?」
「う、うん」
「どうして?」
「話の流れで……」
「そもそもなんで瀬音と一緒にお昼ご飯食べてるの」
「先輩が待ち伏せしてるから」
「いつから」
「いつからって、体育祭の後から……」
「断らなかったの」
「断ったけど先輩がしつけーんだって」
「どうして僕に相談しなかったの」
「だって相談したらまた喧嘩するだろうし……目立つ、から……」
そこで会話が終わると、足元の落ち葉が風に乗って散り散りになった。
ようくんは沈黙を貫き、先輩は無表情で彼の顔を窺っていた。
空気の重さに耐え切れず顔を伏せてしまうと、頭上からわずかに震えたため息が降りかかった。
それからジャリ、とコンクリートと靴底の擦れる音が聞こえたので、ゆっくり顔を上げた。
「よ、ようくん!」
俺は抱えていた弁当を放り出し、彼の服を掴むと背中に額を押し付けた。
「ご、ごめんっ!」
「……ごめんって何? 理由もないのに謝らないでよ」
「だから、その、先輩と一緒に飯食ってて悪かった! 今度からようくんにもちゃんと言うからっ」
「僕が謝って欲しいのはそういうことじゃない。それにここ外だから、くっつくのやめてくれないかな」
ようくんは掴んでいた手を振りほどくと、そのまま早足で立ち去ってしまった。
俺はその後ろ姿を眺めることしかできなかったのだった。
⁂
——翌日。
朝、玄関を出ると、そこにはようくんの姿はなかった。
念のため体調を窺うメッセージを送ると『今日は用事があって学校に行けない』と一言だけ返信が来た。
用事があるのは仕方がないが、昨日の放課後も『部活長引くから先に帰って』と告げられ、明らかに避けられている。
何かいけないことをしてしまったのか、帰宅後に考えてみたものの結局、思い当たることといえば無断で先輩とご飯を食べていたことしかなく、いったん一人で考え込むのは断念した。
午前の授業は頭に入ってこず、現代文の授業で三回くらい名前を呼ばれるまで気がつかなかった上に、体育の授業ではまたもやグラウンドで盛大に転倒し、治りかけの右腕を傷だらけにした。
そんなこんなで昼休みになり、階段をとぼとぼ降りていると、踊り場で今日も先輩が壁に寄り掛かっていたのだった。
「よぉ、日髙チャ——っておいおい、まーたボロボロじゃねぇか」
「……ども」
「これから飯、行くんだろ」
「そうですね……」
「ちょっと話してーことあるから付いて行ってもいいか?」
断る気力もなく、黙って頷くと先輩は後を付いてきた。
お馴染みの体育館横は再び落ち葉が積まれていたので、芝生は諦め、コンクリートの固い地面に横並びで腰を下ろしたのだった。
「昨日はなんか、悪いことしたな」
「こっちこそ色々迷惑かけてすみませんでした」
「気にすんなって!」
先輩はあっけらかんとした顔で笑うと、落ち葉の山から一枚の葉っぱを掴み、くるくると指で回し始めた。
あの後、弁当を盛大に地面にばら撒いてしまったせいで、先輩の制服にシミを作ってしまい、片付けを手伝わせた挙句、サンドイッチをお裾分けしてもらったのだ。
それにしても昨日の今日で先輩に会うのは、何だか後ろめたさを感じる。
「あれから七瀬と話したのか?」
「話してないです。今日は用事があるからって会えてないんで」
「用事?」
「それより話ってなんですか」
「あー……その、不快にさせたら悪いんだけどよ……ひーちゃんが付き合ってる相手って、もしかして七瀬の奴か?」
「……どうしてそう思ったんですか」
「あくまで直感なんだけどな。最初はただの過保護すぎる幼馴染つーか、弟扱いでもしてんのかって思ったんだけど、昨日の喧嘩と七瀬の態度でありゃただの幼馴染のカンケーじゃねぇなァって感じたワケよ」
「……もし、そうだったらどう思いますか?」
先輩はいちょうの葉を息で吹き飛ばし、鰯雲が風に乗って泳いでいる空を見上げた。
それから肩を大きく落とすと、突然頭を掻きむしりながら地面に向かって叫び、眉を下げた顔で見つめてきた。
「だよなあ⁉︎ いやマジでわりーことしたわ! 俺、昔っからカワイーモンが近くにあると周りが見えなくなっちまうんだよ‼︎ マジごめんな⁉︎」
「え、あっ、先輩はそんな悪くないです。俺がようくんに黙ってたのがいけないんで」
「……いや、多分そうじゃねーぞ。七瀬が怒ってる理由」
「え……?」
次の瞬間、一段と強い風が吹くと頭上からひらひらと黄色い葉が舞い落ち、膝の上に乗ったのだった。
「俺が説教できる立場じゃねぇけど……お前らってさァー、いい意味でも悪い意味でも近いんだよ。小さい頃からずーっと一緒に居たんだろ? そうするといつも隣にいるのが当たり前になっちまって、境界線がわかんねーの」
「境界線?」
「恋人と幼馴染の線引きのことだ。意識したことなかったか?」
意識、と言われても恋人になったとはいえ一度もデートに出かけたり、何かをしているわけではないので、今までと特段変わらない関係ともいえる。
「なんも意識したことないです」
「じゃあ付き合ってから七瀬が変わったところはねーか?」
「なんとなく前より触ってこなくなった気がする。あと、今までのようくんじゃ考えられないこと言ったり……」
「どうしてそうなったか考えたことはねーのか」
「ない、です」
「じゃあよく思い出して考えてみろ、七瀬の様子が変わった時の状況とかな」
先輩に促されるまま、ここ数か月をゆっくりと振り返る。
夏祭りの後に怪我してから毎日、傷の具合を見ながら『跡残らないといいね』と労ってくれたこと。
文化祭で誰よりも早く、俺の正体に気がつき、困っているところに駆けつけた後、ウィッグなんか被らなくても可愛いと褒めてくれたこと。そして、周囲からの反応に対して『妬ける』と正直に伝えてくれたこと。
体育祭では当日を迎えるまで何度も体調のことを気遣ってくれ、転倒してしまった後、自分の身だしなみなど気にせず走ってきてくれたこと。
それからスキンシップの多い先輩と二人きりにしなかったこと。
全部、ようくんは俺のことを意識して、気遣ってくれていた。
それに対して俺は一度でも彼を一人の〝男〟として意識したことはあっただろうか——。
「——俺、最低だ……ようくんに嫌な気持ちいっぱいさせてた」
「ひーちゃん、今ここで謝るんじゃねぇ。七瀬に全部伝えろ。そんでこれから七瀬とどうしていきたいのか話せ」
「……先輩、ありがとうございます。俺、ようくんとちゃんと話し合います」
「頑張れよ!」
先輩はゆっくり立ち上がり、軽く挨拶すると、その場を立ち去ろうとした。
俺はその背中を追おうと立ち上がりかけたが、そこで踏み留まり、浮いた腰をゆっくり下ろした。
「先輩っ! 面倒見がいいって噂、本当だったんですね」
「まぁーな! かわいー子と後輩は可愛がれって兄貴に躾けられてきたからな」
「今度は三人で昼飯食べれるといいですね」
「おぉー。まぁ七瀬次第なんだろうけどな、じゃーなっ」
ひらひらと手を振る先輩に、手を振り返すと俺はズボンのポケットから携帯電話を取り出した。
メッセージの送信先はもちろん、ようくんだった。
⁂
時刻は進み、二十時を過ぎた頃。
なんとか会う約束を取り付けると、夕食を食べ終えた後、俺は七瀬宅のチャイムを鳴らしたのだった。
インターホンから母親の穏やかな声が聞こえると、玄関ドアがゆっくり押し開けられた。
「こんばんは」
「あら〜、葉くんこんばんはぁ。陽に用事かしら? ちょうど今、帰ってきたところなのよ〜」
「帰ってきたばっかなら、また日改めて来ます」
「遠慮しなくていいのよ〜。そのままお部屋でお勉強すると思うから、晩ご飯持っていってくれるかしら〜?」
ようくんの母親に温かく迎え入れられると、お盆に乗った夕食を受け取り二階へ上がる。
ふと、最後にようくんの部屋に入ったのは、一学期の期末テスト勉強以来だと思い出した。
夏休み明けから勉強する時は、ようくんの家のリビングを使っていた。あの頃からずっと意識してくれていたのだと、改めて実感した。
ドアを四回ノックし、一呼吸置いてから声を発する。
「よ、ようくん。俺だけど……」
廊下に弱々しい声が静かに響くも、返事はない。
しかし、ドアの向こうでガタガタと物が激しく動く音が聞こえ、しばらくするとドアがゆっくりと開かれたのだった。
「オバさんからご飯預かってきたんだけど……」
「ありがとう。中、入るよね?」
「う、うん。いい?」
「どうぞ」
ドアが大きく開かれると「お邪魔します」と一声掛けてから踏み入った。
相変わらず部屋のあちこちには観葉植物が置かれている。
ローテーブルにお盆を置き、とりあえずマグカップにお茶を注ぐと正座した。
彼はテーブルを挟んだ向こう側で胡座をかいた。
「それで話って何?」
「昨日のこととか、色々謝りたいことがあって」
「あぁ……もう気にしてないから平気だよ、昨日は勝手に早とちりして怒ってごめんね?」
「ち、違うっ! ようくんは謝ることなんかないんだって、俺の方が……!」
勢いで膝立ちになるも、一度深呼吸してから座り直す。
「今まで何も言わずに瀬音先輩と二人きりで昼飯食っててごめん。それから付き合ってる人がいるって話も勝手にしてごめん」
「もうそれはいいよ」
「それだけじゃなくって……どうしてようくんが怒ったのか真剣に考えたんだ。俺さ、ようくんと一緒にいるのが当たり前で、撫でられたり抱きしめられるのが当然になってた。でもそうじゃなかった。本当はもっと特別なことで、俺はようくんにどう思われてるのかとか、どう大事にされてるのかを考えて行動すべきだった。今まで嫌な思いさせて本当に、ごめん……」
深く頭を下げると、部屋はシンと静まり返った。
しばらくそのまま待ち続けていると、正面から小さなため息が聞こえ、そっと頭の上に温かい手が乗せられたのだった。
「頭上げていいよ」
「う、うん……」
ゆっくり頭を持ち上げると、少しだけ寂しそうに笑う彼と目が合った。
「葉はさ、恋人ってどういうものだか、考えたことある?」
「抱きしめ合ったり、キ、キスすること……?」
「確かにそれも一つだけど、僕はね〝相手の安全を守ってあげること〟だとも思ってるんだ」
「安全を守ってあげる?」
「例えば、葉と恋人になったのに、どうして抱きしめたりキスしないのか考えたことはない?」
「お、俺が恥ずかしがる、から?」
「うーん、それもあるけどね……僕はね、葉が怖がるんじゃないかって思ってるんだよ」
「俺が怖がる……?」
「夏祭りの時、見ず知らずの男の人に追いかけられて酷い目に遭ったでしょ? もし僕が何も考えないでベタベタ触ったりキスなんかしたら、葉が気づかないうちに凄く傷ついちゃうかもしれないから何もしないんだよ」
「ようくんとあの変質者は違うだろ!」
「そうかもしれないけど、葉はまだあの時の傷が癒えてないんだよ。本当は葉を不安にさせたくなかったから言いたくなかったんだけど……葉が転ぶようになっちゃったのは、あの時のことを無意識に思い出してるからだと僕は思うんだ」
「そ、それは……」
「葉も本当は思い当たることがあるんじゃない……?」
今日出来たばかりの傷は、痛みこそ引いたものの、まだ乾き切ってはいなかった。
「勿論、ヤキモチを焼いたのもあるけど、それよりも僕は葉の心と体が何より大事だから……瀬音みたいに葉に好意を抱いている相手と二人きりになることが、どれだけ危険なのかわかって欲しかった……葉が傷付く姿はもう見たくないから……」
「じゃあこれからは、誰かに会う時とかもようくんに相談すればいい?」
「いや、そこまでしなくても……それより今は、瀬音と二人きりになりそうな時はきちんと声を掛けてほしいな」
「そ、そしたら明日からはさっ、ようくんも一緒に、昼ご飯食べてくれる?」
「いいよ。いつものところでいいんだよね?」
「ん、体育館横な!」
ようやく、ようくんの考えていたことが少し理解できると、体の力が抜けたのか、お腹からキュルキュルと小さな生き物の鳴き声がした。
「あれ、ご飯食べてないの?」
「た、食べた……何ならオムライス食ってきた」
「ふふっ、まだまだ育ち盛りってことかな? じゃあそんな葉くんには、僕の唐揚げを一個分けてあげましょう」
ようくんは唐揚げを箸で掴むと、口元に運んでくれた。
それを思い切り頬張ると、箸に唇が触れ、なぜか胸が高鳴ったのだった。
⁂
——翌日、昼休み。
今や日課になっている、瀬音先輩を階段の踊り場で回収し、いつもの場所へ向かうとすでにようくんはコンクリートの地面にピクニックシートを敷いて待っていた。
「よぉー七瀬ぇ。元気してるかァ?」
「瀬音の顔見たらちょっと疲れたかな」
「わかる」
「お前らなぁ……」
「七瀬先輩、隣座ってもいい?」
ようくんは頷くと、すぐ横の地面を優しく叩いたので、肩が触れそうな距離に腰を落としたのだった。
先輩は俺たちの正面に堂々と胡座をかいた。
「なんだァー? 気ぃ遣って〝先輩〟って呼んでんのか?」
「葉、大丈夫だよ。いつもみたいに呼んで。もう瀬音は僕たちのこと知ってるんでしょ?」
「まぁ、その……うん」
「そこんところ一応誤解っつーか、ひーちゃんのために言っておくけどな。昨日付き合ってる話はしたけどな〝誰と〟とは言ってねぇから。そこんとこはイジめてやんなよ」
「僕が葉のことをイジめるわけないでしょ」
「でも結局先輩にはバレたし、俺が言ったようなもんだから」
「葉は全然気にしなくていいんだよ。全部瀬音が絡んできたのがいけないんだから……ね?」
「マジでそのキモい笑顔やめろよな」
先輩は顰めっ面になると、今日も弁当箱の中からサンドイッチを取り出した。
ちなみに俺は焼肉風野菜炒め、ようくんは唐揚げである。
「げっ……ピーマン入ってる」
「食べようか?」
彼の気遣いに一瞬、箸が宙を舞うも、野菜炒めの中から緑色の物体を掴むと、次から次へとようくんの口に運んだ。
彼は笑顔で美味しそうに飲み込んだのだった。
「おいおいおいおいそれは甘やかしすぎだろ。ピーマンくらい食わせねーのか⁉︎」
「僕はピーマンが好きで、葉はピーマンが嫌いだからウィンウィンな関係なんだよ」
「俺、そのうちこの席から消えそうだワ……」
「どうぞご自由に。そしたら僕たちは二人で食べるからねー?」
ようくんの言葉に頷くと、緑色が消失した野菜炒めに箸をつける。
一口、二口と食べ進めると、時折箸先が唇に触れ、なぜか熱を感じた。
それにしても、今日も変わらず空では鰯が悠々自適に泳いでおり、時折風に煽られて黄色い葉が舞い落ちる。実に穏やかな昼だ。
「そういや昨日の用事ってなんだったんだァ?」
「……大学の、面接」
「あー、早い奴だともう合格出てるもんなー。俺はまだ面接も試験も来年だけど」
「瀬音先輩はどこに行くんですか?」
「俺は東都藝術大学。作曲かピアノか迷ってんだよなー。七瀬は?」
「僕は……その……」
ようくんは言葉を濁すと、なぜかこちらを一瞬見た後に先輩の方へ向き直った。
「千羽大学かな」
「千羽大って……けっこー遠くに行くんだな」
「うん、園芸学部のある大学ってそこしかないから——葉?」
カランカラン、とプラスチックの箸が手から滑り落ち、弁当箱の上で跳ねる。
視界が大きく歪み、隣にいるはずのようくんの姿がぼやけていったのだった。
