ようくんはひとりじめしたい!

 季節は進んで、十月中旬。
 学校周辺の景色が紅一面に変わり、街はどこか寂しげな雰囲気を漂わせていた。
 無事、文化祭は大成功を収め、ワンランク上の焼肉食べ放題で親睦を深めたところに、今度は体育祭がやってくる。
 椛丘高等学校では三学年を縦割りにした『赤・青・緑・黄・白』のチームで競い合う形式になっている。
 競技はクラス単位と五色対抗が主になっており、表彰式後はお決まりとも言ってもいい、フォークダンスタイムがあるのだ。
 陸上部に所属している俺は、二学年クラス対抗のリレーに出るよう指名を受けたのだが、そこで少々問題が生じた。
 いわゆる〝イップス〟と呼ばれる症状に陥ってしまったのだ。
 というのも足裏の怪我は完治し、部活動も再開できるようにはなったのだが、走り始めるとなぜか転倒することが極端に増えたのだ。
 心配で医者に診てもらうも、怪我の後遺症ではなく『心理的なものなので自然に治ります』と匙を投げられてしまった。
 それに加えて、別の問題が一つ。
 文化祭の出し物を経て、校内では密かに『塩顔のひーちゃん』の存在が噂されていた。
 たった四時間の、シンデレラよりも短い活躍に魅了された多くの者が、定期的にひーちゃんを探して二年C組まで来るようになっていた。
 ありがたいことに、クラスメイトは素知らぬ顔で話を流してくれるので、未だ正体はバレておらず、教室を覗きに来た者も該当する人物を見つけられず、肩を落として帰っていく日々が続いていたのだった。

「それで足の調子はだいぶ良くなったの?」

 いつもの帰り道。
 ようくんと駅に向かう道を歩きながら、明日の体育祭の話をしていると、不安げな表情を浮かべながらこちらを覗き込んできた。

「うん、まぁ多分大丈夫だと思う」
「本当に? コンディションが悪いなら断った方がいいと思うけど」
「そう言われても、クラスの連中も盛り上がってるし、あんま水差したくないっていうか……」
「でも昨日の部活でも転んだんでしょ?」

 ようくんはガーゼの貼られた左腕をそっと掴むと、腕の側面を優しく撫でた。

「これは母さんがちょっと大袈裟に心配してガーゼ貼っただけで、ただの擦り傷だし大したことない。コーチにも走り方の癖とか見てもらってるしさ、前より転ぶ回数も減ってるからそこまで心配するほどじゃないって」
「でも——」
「ようくんは心配しすぎなんだって、少しは俺のこと信用しろよ!」

 少しだけ語気が強くなってしまい、咄嗟に謝ると会話はそこで途切れた。
 正直、彼の言う通りコンディションはあまり良くない。それでもせっかく声を掛けて貰えたのだから、期待を裏切りたくない気持ちもあって、なかなか断れないのもまた事実ではある。

「別に僕は葉のことを信用してないってわけじゃないんだよ。ただ、葉が気づいてないみたいだから」
「気づいてないって?」
「それは、まぁ……色々?」
「色々、って全然答えになってないぞ」
「とにかく、僕は葉が怪我をしたり嫌な思いをしなければそれでいいよ」

 ようくんは前を向くといちょうの木を見上げたので、釣られて顔を上げた。
 黄色い葉に混じってオレンジ色の実がいくつもぶら下がっている。これが地面に落ちると周囲が鼻を刺す匂いに包まれるのだが、それもまた秋の知らせといったところだろうか。

「そういえば銀杏って食べ過ぎるとお腹を壊したり、吐き気を催したりするんだよね」
「銀杏って茶碗蒸しに入ってる実みたいなやつ?」
「そうそう」
「俺、あれあんま好きじゃない」
「ちょっと独特なエグ味があるからね。でも体にとってもいい栄養がいっぱい詰まってて、炒ってから塩をつけて食べると甘くて美味しいんだよ」
「ふぅーん……? 銀杏ってまだ取れないんだっけ」
「そうだね、もうちょっと先かな。早くても今月末くらいだと思うよ」
「そっか」
「あっ、もし拾うなら素手で取っちゃ駄目だよ。かぶれる可能性があるから」

 ようくんは読心術でも使えるのか、先手を打ってきた。
 きっと銀杏が拾える頃には、帰り道にポリ袋を持って二人で拾い集める。そんな未来がなんとなく想像できたのだった。

 ⁂

 翌日、体育祭の日。
 天気は快晴。雲一つない青空に秋とは思えぬ刺すような日差し。
 いつもの通学鞄はリュックに、そして服装はジャージの下に体操着を着て登校する。
 学校の最寄り駅ではジャージを着た学生で溢れ返るので、恐らく近所の者や駅利用者に『今日は椛丘高校で体育祭が行われる』のだと察せられるだろう。
 普段は解放されている昇降口のドアは閉じられ、グラウンドの側面にある雛壇階段へチームごとに集合するようになっていた。
 ようくんは赤チーム、俺は緑チームなので階段近くで別れると、緑鉢巻の軍団に向かった。

「おはようございます」
「日髙、おはよう」

 出席簿を抱える担任に挨拶すると、名前の横にチェックマークが付けられ、緑色の鉢巻を手渡されるので、歩きながら髪の毛を巻き込まないよう、額の上で硬く縛った。
 開会式は九時からなので、残り三十分は階段に腰を下ろし、校庭をぼんやり眺める。
 グラウンドネットには各チームお手製の特大旗が飾られており、後ほど行われる応援合戦ではためかせるのだ。ちなみに緑チームはトノサマガエルの上に筆字で『魚跳竜門』と描かれている。なぜ四字熟語に〝竜〟の文字が入っているのに、蛙になったのかはデザインした者たちしか知る由もない。

「日髙くん、おはよー」
「おはよ」
「今日は暑いけど一緒に頑張ろうね」

 隣に座るクラスメイトの女の子と一言二言、軽く世間話すると脱いだジャージをリュックに詰め込み、瞼を閉じて静かに時が進むのを待つ。
 しばらくして、グラウンドのスピーカーから雑音が聞こえると、一瞬だけ音割れした音楽が流れ、すぐに音が収まると明るくハキハキとした声がグラウンド中に響いた。

『皆さん、おはようございます。間もなく開会式を行いますので、生徒の皆さんはグラウンドに整列してください』

 周囲からは楽しみだの怠いだの早く走りたい等々……十人十色の会話が聞こえ始め、その声に混じってグラウンドに降りた。
 全生徒がクラスごとに整列すると、白い朝礼台に置かれたスタンドマイク前に校長が立ち、一礼する。
 前から後ろに向かって、グラデーションのように頭が上げ下げされると、ジリジリと眩しい太陽の下でスピーチが始まった。

「え〜、今日は朝から天気も良く、雲ひとつない青空になりました。え〜体育祭というのは……」

 体育祭の開催目的や、各チームのスローガンについて力説した後、保護者や近隣住民への謝辞を述べると、約五分にも及ぶスピーチは一礼で締められた。朝礼台から校長がいなくなると周囲からはため息が漏れ、首や肩を回して骨を軋ませる音が鳴っていた。

「それでは次は準備体操です。両手を広げ、ぶつからない距離に整列し直してください」

 わずかにどよめきが起こるも、指示に従ってそれぞれ列を崩さないよう移動する。
 朝礼台に体育祭実行委員長が登り、一礼するとラジオ体操が流れ始めた。
 事前に練習したわけでもないのに、全校生徒がそれとなく動けるのは、ある種の怪奇現象とも言えるだろう。
 体操が終わると、第一種目の綱引きのアナウンスが流され、出場する男子生徒以外は応援席に戻った。
 まだ出番が先の俺は席に戻ると、リュックから水筒を取り出し、お茶を飲みながら観戦する。
 競技は綱引きに始まり、一年生リレー、台風の目……とトラブルも起きず、着々と進んでいく。
 相変わらず空は青一色で塗られており、太陽が昼に向かって高く昇るにつれ、次第に気温も上昇していた。

「続いてプログラムナンバー五番、二年生二百メートルリレーです。出場選手はスタート地点へ集合してください」

 淡々としたアナウンスに出番を知らされると、俺は水筒をリュックにしまい、席から立ち上がった。
 少し高めの階段を慎重に降りていると、背後からクラスメイトの声援が投げ掛けられ、右手を挙げて返事する。
 グラウンドへ降りると、人の密集していた席より空気の流れがよく、心地よい涼しさを感じた。
 係員の指示を受け、校庭中央の待機ゾーンへ移動する。
 男女混合の五人チームでそれぞれが二百メートルを走らなければならないのだが、部活動で中距離専門としている俺は今回、スタミナ担当ということで第三走者になっていた。
 まずは第一走者がスタートラインにつき、スターティングブロックに足を乗せ、ポジションを整えると、横にいる教師がスターターピストルを握る右手を挙げた。
 騒がしかった校庭は一気に静まり返り、緊張が走る。

「位置について、よーい……——」

 ——パン!
 乾いた発砲音が空に向かって響くと、応援席から爆発するような声援が巻き起こり、スピーカーからはトランペットの軽快な音楽が流れ始める。
 走り出しは順調。すぐにトップスピードまで上がると、次々と周りを抜いて先頭に立つ。
 第二走者がテイクオーバーゾーンに立ち、走者が戻ってくるのを待つ間、俺はその場で軽く屈伸運動をし、太ももを伸ばすストレッチや足首、膝の緊張を緩める運動をした。
 その間にもバトンが繋がれ、第二走者が走り始めるといよいよトラックへ歩みを進める。
 運がいいことに第三走者は途中からオープンレーンになるので、勝負が仕掛けやすくなる。
 テイクオーバーゾーンの少し後ろ、練習で決めた位置につま先でマークをつけると、ラインの左側に立って待機する。
 前の走者のスピードが落ちたのか、順位は三位まで後退してしまったので、なんとか三位はキープしたい。
 自分の番が近づくにつれ、曲も観客も盛り上がり始めると心拍数が速くなる。
 マークをつけた位置に第二走者の足が重なるのを目視で確認すると、地面を力強く蹴り、猪の突進のように真っ直ぐ走り始めた。
 左腕を後ろに伸ばしていると背後から短い掛け声が掛かり、手のひらに固いものが当たる。それをしっかり握り締めると、即座に右手に持ち替え、両腕を大きく振りながらひたすらレーンのラインを辿って走り抜ける。
 バトンパスは快調。
 まずは直線で可能な限り加速させ、なるべく前との距離を離さない。カーブに差し掛かったところで徐々に上半身を傾け、バランスをとりながら前の走者に詰め寄る。直線に入るとこれ以上スピードを上げる余力はないので、せめてペースを落とさないよう、必死に食らいつく。

「はッ——は、ぁッ——!!」

 短く息を吐き出し、前へ前へと車輪のように足を回転させる。二回目のカーブまで辿り着くと、すぐ目の前を行く走者の速度が落ちることをいいことに勝負をかける。接触ギリギリまで内側に入り込み、一気に一人抜くとそのまま最後の直線に足を踏み出した。
 前で待機する女の子としっかり目を合わせ、バトンの受け渡し位置を確認し合う。

——行ける。

 テイクオーバーゾーンに足が掛かり、数歩進んだところで第四走者が走り出した。
 その背を追うように、バトンを掴んだ右腕を伸ばす。
 手のひらに触れる直前で『はいっ!』と声を発した瞬間——。

「っあ⁉︎」

 気づいた時には、視界いっぱいに広がる茶色。
 手を出すのも間に合わず、頭を庇って体を右へ倒すとコンマ数秒後に鈍い衝撃。

「ゔ、ぐっ……!」
「緑転倒‼︎」

 土埃が舞い上がり、視界が霞むと係員の焦った声が耳に届く。
 遅れて鈍痛がやってくるも、走行の邪魔にならないようにレーンから転がり出ると、右手首に鋭い痛みが走った。
 額から大量の汗が噴き出し、蹲ったまま呼吸を整えていると何人か駆け寄ってくる足音が聞こえた。

「大丈夫——じゃないっぽいな」
「バ、バトン……バトン……はっ⁉︎」
「お? 喋る元気はありそうじゃん?」

 飄々とした軽い口ぶりの男は横にしゃがみ込むと『バトンはちゃんと繋いでたぜ』と結果を教えてくれた。
 その言葉によかった——と安堵すれば、胸を強く打つ心音は幾許か和らいだ。

「頭を打たない代わりに右半身を豪快な大根おろしにした、と。他に痛いところは?」
「右手首が……すごく、痛いです」
「右手首見せれるかー?」

 右腕を声のする方に差し出すと、ひんやりとした手が腕に触れた。

「よしよし、見た感じ折れてはないな、多分。一人で立てるかー?」
「な、なんとか……っ」
「よし、肩は貸してやるから頑張ってテントまで行くぞー」

 左手で地面を押し、よろけながら体を起こすと男の肩が左脇に入り、ズボンを掴まれると腰に右手が添えられた。

「寄りかかっていいからなー」
「す、すみません……」

 体を支えられながら早歩きで校庭の端に移動すると、ゆっくりと救護テントまで向かい始める。

「なかなか気合の入った走りだったじゃん、見ててスゲー熱くなったワ。走り方もキレーだったし、もしかして陸上部?」
「あ、ハイ。一応陸上部です」
「へえ、お淑やかだけど意外とストイック……っと」
「……?」

 男は何かを呟きながらも、衝撃がこちらに響かないように慎重に歩いてくれている。
 今さらになってその横顔を眺めると、濃紺の肩まで届く長い髪に吊り目、それに男性にしては少し高めの声は一度どこかで見聞きしたような気がした。
 そんなことに気を取られているうちに、競技は終わったのか、スピーカーから『一位赤、二位緑……』と順に結果発表されていた。

「おっしゃあ! 緑二位だぜ〜、頑張った甲斐があったなー?」
「頑張ってよかった……あれ、もしかして緑ですか?」
「おー、今は鉢巻してねーけど一応緑だぜ」
「ならいい点数が取れてよかったです。あの、先輩……ですよね?」
「一応先輩だなァ」
「迷惑掛けてすみません」
「ヘーキヘーキ、迷惑と保険はかけてナンボのもんよ」
「は、はぁ……」

 よくわからないギャグを言いながらも、救護テントに到着するとパイプ椅子に座らせてもらった。

「ふぃーっ、無事怪我人、回収してきやしたっ!」
「瀬音くん、ありがとうね」

 瀬音と呼ばれる青年は敬礼ポーズを取ると、隣のパイプ椅子に腰を下ろし、こちらをじっと観察してきた。

「日髙くん、貴方また転んだのね」
「すみません、またやっちゃいました」
「本当に困った子ねぇー」

 三日前にもお世話になったばかりの養護教諭に頭を下げると、若干呆れ混じりのため息を返されるも早速、怪我の状態を確認し始めた。

「……うん、倒れ方は凄かったけど腕も足も擦り傷のようだから、まずは傷口の砂を綺麗に洗い流すところから処置しましょう。傷口以外に痛むところは?」
「右手首を捻ったのか、強く打ったのか、手を突くと少し痛いです」
「わかりました、それは後で診ましょう。瀬音くん、水道まで一緒に行ってあげて」
「ウィッス!」

 先輩は軽快な挨拶をし、再び肩を担いでもらうと、近くの水道まで連れて行かれた。
 蛇口を捻り、勢い良く水が流れ落ちるところに右腕を突っ込むと、焼けるような痛みに顔を顰めた。

「痛そーだな」
「痛いです」
「痛いだろうけど石鹸で洗っといた方がいい。テキトーに洗ってっと後で傷跡残っちまうからな」
「そうですね」

 まずは砂が付いた左手を石鹸で洗い流した後、右腕の傷を恐る恐る撫でると、徐々に皮膚の感覚が鈍くなり、痛みも麻痺してくる。
 赤い血が滲み、しっかりと傷口の状態が見えるようになると今度は右足に水を当てる。

「さっきセンセと話してたけど日髙クンはよく、すってんころりんするんだ?」
「すってん……いや、最近になって走ると転ぶようになったというか」
「はーそりゃ大変だな。てっきりドジっ子かなんかだと思ったワ」
「さすがにそこまで抜けてはないと……思います」
「そーか? 素もかわいーんだからドジっ子要素が増えたらそれはそれでサイコーだけどなァ」
「可愛い?」

 先輩の言葉に何かが引っ掛かると眉間に皺が寄る。
 傷口が痛いからとかではなく、前にも聞いたような——。

「いやぁーそれにしても二年C組に彗星の如く現れて消えた伝説のメイド、ひーちゃんがあんただったとは。日髙だから〝ひーちゃん〟ってか? 見た目も喋りも全然違うからそりゃ誰も見つけらねーわけだワ。下の名前はなんてーの?」
「秘密です」
「おっ、ひーちゃんは否定しない。はあはあ天然タイプか、いいね、サイコー」
「えっ? ……あ」

 うっかり話の流れで否定しそびれたが、あっさり正体を言い当てられると、動揺のあまり靴まで濡らしてしまった。靴下にじんわりと水が染み込み、不快感が一気に加速する。

「ねねねね、ひーちゃん。ここまでケッコーおしゃべりしたけどさ、まだ俺のこと思い出せねぇ感じ?」
「ひーちゃんなんてそんなの全然知らないし、先輩のこともわかんないです」
「もしかして嘘つくの下手くそだな?」
「んなっ⁉︎ う、嘘なんてそ、ソンナ……」
「さっきから顔に『あれ、この人見たことある〜』って書いてあったぜ」

 濡れた手で咄嗟に顔に手を当てるも、特段いつもと変わない真顔のつもりではあるが。
 先輩はポケットから颯爽とハンカチを取り出すと、濡れた顔を拭き取り始めた。

「ちょっ、やめろって」
「そんまま戻って怪我人に水遊びさせんなって怒られんのは俺だし」
「大丈夫ですって、顔洗ったって言うんで!」

 先輩の手を払い除けると水道を止め、適当に水を払い、救護テントまで戻ろうとすると、先輩は律儀に肩を担いで歩き始めた。

「もう一人で歩けますって」
「マーマー、怪我人は大人しく運ばれればいいのよ、な? ひーちゃん」
「はぁ……」

 なんだか物凄く面倒臭い人に絡まれている気がする。

——それにしてもどうして俺がひーちゃんだってバレたんだ。
「こう見えて耳がいいもんだからな? なんせピアノ歴十四年、ヴァイオリン歴十三年、フルート歴六年。カリスマ音楽一家に生まれた次男坊、瀬音紡(せおつむぐ)様の耳はピカイチってワケよ」
「あぁ……声でわかったのか」
「そーそー、一回地声出してたろ? アレで覚えたんだワ。っていうか、ひーちゃんって認めてくれたな?」
「先輩しつこいんで、もう諦めます」
「素直でかわいー」
「ってかさっきから可愛いってやめてくれませんか、ウザいんで」

 先輩と話をしているうちに、救護テントへ戻ると養護教諭は傷口の洗い残しがないことを入念に確認し、ガーゼを貼り付けた。その後は右手首の可動域や腫れ具合を慎重に診てもらった。

「……うん、この感じだと捻挫ね。とりあえず今は氷で冷やして、お昼になったらテーピングしましょう。処置が終わったら応援席に戻ってもらってもいいけど、なるべく安静にしていて欲しいわ。今日この後に出る予定の個人競技は?」
「ないです」
「じゃあ大人しく仲間を応援してあげてちょうだい」

 養護教諭の言葉に頷き、氷嚢を受け取ると患部に当てながら校庭の様子を眺めた。
 いつの間にか種目は、五色対抗女子の玉入れになっており、小さな玉が空に向かって飛んでは落ちる様子を目でひたすら追った。
 緑チームは今のところ、ネットの半分くらいまでしか入っておらず、他のチームより劣勢に見える。
 しばらくして、終了の笛が鳴り響くと声援は収まり、係員による集計が始まった。
 五色の玉が同時に天高く上げられ、校庭に居る者全員でカウントする時間はワクワクして好きだった。

「おい! 瀬音‼︎」

 玉のカウントが半分まで進んだところで、額に緑色の鉢巻を巻いた男子生徒三人が小走りでテントまでやってくると、隣の椅子に座っていた先輩は立ち上がり、何やらその場で話し込み始めたのだった。

「お前何ここでサボってんだよ」
「サボってねーって、今の今までかわいー子の手当てしてたんだぜ?」
「かわいーって……なんだ、男じゃねぇかよ。そんなん先生に任せときゃいいだろ。お前これから騎馬戦だろ! 主将が居ないとかシャレになんねぇよ」
「お? マジで? もう騎馬戦⁇ すっかりこの子に夢中になってたワ」

 どうやら先輩は次に行われる騎馬戦に出場するらしい。それも主将で。
 そういえば、記憶が定かであれば何日か前に、ようくんから赤組の主将だと聞かされたような——。

「ア゛」
「おぉ? どーしたの大きい声出して、ひーち——」

 先輩が件の呼び名を口走ろうとしたので、慌てて口を押さえようとした瞬間、握っていた氷嚢がドサ、と砂の上に落下した。
 その様子に異変を感じたのか、先輩四人は黙り込み、こちらをじっと見下ろしたのだった。

「あ、す、すみません!」
「ふ……ふははは‼︎ その感じだと思い出してくれたな⁇ ホントはもっとおしゃべりしたいんだけど、行かねーとダメっぽいし、今はそっから俺のこと全力で応援しといてくれよなー? 日髙クン?」

 先輩は頭上に疑問符を浮かべる三人を引き連れて、テントから足早に立ち去っていった。
 俺は落ちた氷嚢を拾い、周りに付いた砂を手で払うと椅子に座り直し校庭をぼんやり見つめた。
 ちょうど緑チームの最後の玉が、思い切り空に向かって飛ばされたところだった。

——そうだ、瀬音先輩って確か文化祭の時にようくんと一緒に来てた人。

 すっかり失念していたが、一ヶ月くらい前の女装男装喫茶で入店早々、顔を近づけてきた失礼極まりない人だ。
 落下する玉の行方を眺めながら、ようやく点と点が一本の線に繋がると頭の中がスッキリしたのだった。

 ⁂

 午前種目の大トリになる騎馬戦が終わり、昼休みになると冷え切った右手に白いテープを巻いてもらっていた。
 つい数分前に終わった試合は、緑チームと赤チームの主将による一騎打ちで、今思い出すだけでも手に汗を握るほどの壮絶な戦いだった。
 最初はお互いに鉢巻を狙って機敏な動きで応戦していたが、赤の主将が手を掴むと力勝負に移行し、何度も騎馬が壊れそうになりながらも押し合い引き合いの末、最後は体力の尽きた緑の騎馬がペシャンコに潰れたのだった。

「はい、テーピングおしまい。ご飯食べてらっしゃい!」
「ありがとうございました」

 綺麗に巻かれたテープをさすりながら頭を深く下げると、どこからともなく名前を呼ぶ声が聞こえてきたので、辺りをキョロキョロと見回したのだった。

「葉っ‼︎」
「あ、ようくん」

 砂で汚れた体操服を着た彼が駆け寄ってくると、こちらも小走りで近づく。
 よく見ると綺麗な顔や足には砂がたくさん付いており、もしかして顔も洗わずに急いで駆けつけてくれたのだろうかと思った。
 ようくんは、傷だらけの右腕をそっと掬い上げると、悲しい表情を浮かべながら血の滲むガーゼをじっと観察したのだった。

「……具合はどう?」
「手首はちょっと捻挫したけど、それ以外はピンピン」
「そっか……お弁当は確か箸だよね? 購買からフォーク貰ってこようか?」
「大丈夫。今日はおにぎりだし、箸が握れなきゃ最悪刺して食えばいい」
「ふふっ、葉らしいや。他に何か手伝えそうなことはある?」
「平気、心配かけてごめん。疲れてるところ来てくれてありがと」
「ううん、葉こそ一生懸命頑張ってる姿、かっこよかったよ」
「それ言ったらさっきの騎馬戦、滅茶苦茶盛り上がったじゃん。最後の瀬音先輩の騎馬を押し潰した時、やっぱようくんは力強いんだなって!」
「瀬音、先輩?」
「あれ? 確か文化祭の時に一緒に来た友達じゃなかった?」

 先輩の名前を出した瞬間、彼の顔が曇ると、もしかして早とちりで人違いをしてしまったのではないかと察する。

「あ、ごめん、俺の勘違いだったかも。なんか瀬音先輩がようくんの友達に似てたから」
「いやぁ? 勘違いじゃないと思うぜ?」

 背後から軽薄そうな声が降ってくると、濃紺の髪が視界の端に映り込んだ。

「お疲れチャン。何? 俺の話してくれてたの? うれし〜、だったら俺も混ぜてよ」
「瀬音っ!」

 噂をすればなんとやら。彼と同じく砂塗れになった先輩がやってくると両肩に手が添えられ、こちらの顔を覗き込んできた。

「どーだった? 負けちまったけど、なかなかいい勝負だったろ」
「あ、ハイ。今ちょうどその話をしてて……」
「瀬音、何勝手にベタベタ触ってるの。後輩怖がらせて楽しい?」
「怖がらせてるんじゃねぇよな、同じチームとして親交を深め合ってんだよなー?」
「いや全然。あんまベタベタしないでもらってもいいですか」
「なんだよ、照れてんのかァ? ツンツンしてかわいーな!」

 頬を冷たい指先で突かれると、先輩とは言えども鬱陶しさから思い切り手をはたき落とした。
 それを見ていたようくんは、口の端を吊り上げると『ざまぁみろ』と今まで聞いたことのない悪態を吐き、鼻でせせら笑ったのだった。

「おい、七瀬ぇ。なんだよ、随分挑発的じゃねーの? つーかお前の知り合いってひーちゃんだったんだな? なんでこんなかわいー子紹介してくれねーんだよ」
「どうして僕が瀬音なんかに教えないといけないの」
「友達の好きなものはフツー教えるだろ⁉︎」
「ごめんね、瀬音のことは友達だと思ったことないから」

 笑顔の鉄面皮を被ったようくんは、明らかに嫌悪感剥き出しのオーラを周囲に漂わせている。
 いわゆる、彼と先輩は犬猿の仲なのかもしれない。

「あ、あのー、瀬音先輩ってよう……七瀬先輩とどういう関係……」
「おぉ? 俺と七瀬はな、永遠のライバルでマブダ——」
「吹奏楽部で一緒なだけだよ。この人が勝手に僕のことを友達って言ってるだけ」
「あぁ、先輩ってしつこいから……」
「なんで二人して冷たいんだよ⁉︎ そういうお前らこそどういう関係だよ」
「僕たちは別に、ただの幼馴染だよ」
「あ……うん、そう。幼馴染」

 〝ただの幼馴染〟という言葉に一瞬、喉が詰まる。
 決して間違いではないのに、なぜここに来て胸に引っかかったのか、よくわからなかった。

「へー、幼馴染にしては随分過保護なんだなァ」
「過保護って、別に普通に接してるだけでしょ」
「いやぁ? 普段のお前の喋りからしたらベッタベタのあっまあまだったぜ?」
「それを言ったら瀬音の方がいつにも増して馴れ馴れしいんじゃない?」
「そりゃかわいー子は甘やかしてナンボだからなァ。な? ひーちゃん」
「その呼び方本当にやめてもらってもいいですか」
「俺との秘密のカンケーにしておきたいんだな……いいぜ。他の人がいる時は日髙チャンで我慢しとこうな?」

——チャンも最悪なんですけど、というか先輩ともう関わりたくないんですけど。

 本音をグッと押し込みながら、その場を立ち去ろうとすると、なぜか二人が後を付いてくる。
 これでは目立って弁当を取りに行くどころか、水の一滴も飲めやしない。

「あの、なんで付いてくるんですか」
「日髙チャンと一緒に飯食おうと思って?」
「僕は瀬音に付いて行ってるだけだから気にしないで」
「じゃあ瀬音先輩、あっち行ってください」
「おっし、そんなら中庭のベンチ集合なー」
「あそこは騒がしくて落ち着いて食べれないでしょ。もっと静かなところがいいよ、例えばC棟の非常階段とか」
「ゲ、そこって幽霊が出るところだろ⁉︎」
「なら瀬音先輩は中庭で食べればいいと思いますよ」
「なんだよ、寂しいこと言うなって〜。そういうこと言うと席まで付いて行っちまうぞ」
「……」

 先輩の様子だと本当に応援席まで付いてきそうな上、オプションでようくんもセットで付いてきて大騒ぎになる予感がするので、ここは潔く諦めると「じゃあC棟の非常階段だったらいいですよ」と妥協したのだった。
 なんとか無理やり解散させ、自分の応援席まで戻るとクラスメイトの何人かから心配の声を掛けられた。
 笑顔で返事しつつ、全員参加の競技の辞退を伝えると、リュックを背負って待ち合わせ場所へ向かった。

 ——C棟非常階段。
 校舎の北側に位置するそこは、昼間にも関わらず薄暗いことに加え、非常階段の一番上から飛び降り自殺をした幽霊が出るなどと、根も葉もない噂が立っているため、人が寄りつかない場所になっていた。
 どこかで油を売ったり、寄り道をしたりしていないのに、すでに二人は階段に腰を下ろしていた。それもなぜか汗だくで。

「なんか二人とも疲れてない?」
「瀬音が突然走り出すから追いかけてた……」
「抜け駆けしようと思ったんだけどな、七瀬がひっついてくんだよ」
「それって俺が居るとこで言うことですか」
「正直に生きていきたいワケ。そんなことより腹減ったから飯食べようぜ」

 なんだか変な組み合わせになってしまったが、同じくお腹が空いてしまったので、階段の一番下の段に腰掛けると、左隣に先輩が降りてきた。
 するとようくんが右隣に降りてきて、階段はぎゅうぎゅうの鮨詰めになったのだった。

「これじゃ食えないって……!」
「七瀬が降りてきたから狭くなっちまっただろー」
「それなら瀬音が二段上がればいいと思うよ、そしたら僕も一段上がるから」
「いやお前が上行けって」
「二人が上行けばいいだろ‼︎」

 空腹からの苛立ち混じりの声に二人は驚くと、意外にも大人しく二段上がった。
 ようやく弁当にありつけると、手を合わせて小さな声で挨拶をし、早速おにぎりを掴んで齧り付いた。
 風に乗って、遠くのグラウンドから賑やかな声と音楽が運ばれてくる。
 なんだか一種目しか出ていないはずなのに、すでに一日分の労力を使った気がする。
 それもこれも先輩にダル絡みをされたのが全ていけないのだ。

「はぁ……なんで瀬音とご飯食べないといけないんだろう……」
「俺は日髙クンと二人きりでも良かったんだぜ」
「それが心配だから付いてきたんでしょ」
「なんだぁ? 人を理性のねぇ獣みたいな言い方して、こちとら一応紳士なんだぜ。そんなすぐに手は出さねーって」
「さっき肩に手を置いてた人間の言葉を信用できると思う?」
「あんくらいは円滑なコミュニケーションを取るための軽いスキンシップだろー? つーかマジで今日の七瀬オモロすぎ。文化祭の時も思ったけどよ、日髙クンにご執心すぎじゃねーの」
「瀬音には関係ないでしょ」
「いや、カンケーあるね。だって俺——日髙チャンの彼氏になる予定だからさァー?」
「「は?」」

 俺とようくんの声が重なると、三人の間を冷たい風がすり抜けて行ったのだった。