頭上から降り注ぐけたたましい音で今日も目を覚ます。
脳を激しく揺さぶるベルを止めるべく、時計上部に付いているボタンに手を伸ばそうとするも、腕が伸びない。
「う……ゔ〜ん……」
伸びない、というより正確には全身が何かに締め付けられているような。
張り付いた瞼をこじ開けると、すぐ真上にあるものを見た。
ほんの少し開いた薄い唇にバサバサ睫毛。
かつて兄と呼んでいた彼は気持ち良さそうに、両手両足ガッチリホールドを決めて今日も寝ている。
「ようくーん……苦しいんですけどー。よーうーくーんーおーきーてー」
完全に動きを封じられているので身を捩りながら、まるで子供が遊びに誘う時のノリで起こす。
すると、ようくんは眉間に皺を寄せ、何を思ったのか強く抱きしめてきたのだ。
蛙を潰したような断末魔が漏れると、鼻と口が彼の胸で塞がれ、息ができなくなってしまう。
辛うじて動かせる右手で腹を叩いてタップアウトを宣言するも、彼の締め技は緩むどころか、背骨が軋むほど力が加わり意識が薄れ始めた。
——やばい、落ち、る。
酸欠で激しく体が震え出すと、ようやくそこで目が覚めたのか、ようくんは小さな呻き声をあげた。彼は腕の中で雑巾のように絞られた俺を見て『わ⁉︎』と絶叫した後、飛ぶように離れ、ドシン、と盛大に尻から床へ落ちたのだった。
締め技から解放されると鼻と口の両方から肺に空気を送り込み、数回咽せる。それから未だ鳴り続けるベルを止め、一息つくとベッドの横を覗き込んだのだった。
「い……いたい……」
「なにやってんの」
「目開けたら葉の顔があまりにも近いから……」
「それはようくんがずっと俺のこと抱きしめてたからだろ!」
「だってポカポカあったかくて、いい匂いがしたんだよ……」
「ちょおっ、あ⁉︎」
突然、腕を引っ張られ何の抵抗もできず大きな体の上に落ちると、ムードのムの字もなく唇と唇が衝突した。
前歯が唇の裏に勢い良くぶつかり鈍い痛みを感じる。完全に事故。
「痛って‼︎」
「……あ、ゴメン、もうちょっと抱きしめたいと思って引っ張っちゃった」
「いやもう十分だろ、それより着替えて飯食わないと遅刻するぞ!」
「たまにはいいんじゃない?」
「よくねぇって! 新学期早々ようくんが遅刻は学校中大騒ぎだぞ」
俺は腕の中から抜け出るとパジャマを脱ぎ捨て、タンスにしまってあるTシャツに袖を通したのだった。
——遡ること一週間前。
雑木林から降りると、ようくんが家と警察に電話をし、これまでの事情を説明してくれた。
五分も経たずして駆け付けてくれた両親は、俺たちを見るや否や、顔を真っ青にしながら車に押し込むと病院まで連れて行った。
処置台に乗り、照明の下に行って初めて分かったが、靴擦れに始まり、手足の擦り傷、打撲、切り傷、捻挫、エトセトラエトセトラ……浴衣が血で濡れるほど悲惨な状態になっており、人生で初めて足裏の縫合を体験することとなった。
実はようくんも興奮していて気がついていなかったが、足に擦り傷や打撲を負っていたらしい。
恐るべしアドレナリン。
処置を受けている間にも犯人は無事確保され、後日警察の事情聴取を受けると、ようくんは多少のお咎めはあったものの正当防衛として認められ、無事問題は解決した——と思いきや、ここからが本番だった。
全治二週間、自宅療養、絶対安静。
俺の容態に酷く落ち込んだようくんは、毎日寝泊まりしては甲斐甲斐しく世話してくれた。
着替えをする時も、家の中を移動する時も、風呂へ入る時も、ほぼ二十四時間の監視とも言える状況に、このままでは新たな劣等感が誕生しそうなので『せめて夏休みが終わるまでにして』と進言したのだ。
——こうして俺たちの長かった夏は終わりを迎え、いよいよ新学期が始まろうとしていた。
「おはようございます」
「おはよ」
「二人ともおはよう」
「おはよう」
制服に着替えたようくんと共にリビングへ行くと、父親はテーブルで新聞を読み、母親はちょうど全員分の朝ごはんを並べ終えたところだった。
「今朝、ドシンって凄い音がしてたけど何かあったの?」
「ようくんがベッドから落ちた」
「葉、駄目だろ。七瀬くんを蹴り落としちゃ」
父親は読んでいた新聞を少し下げると、薄目でこちらに睨みを効かせてきた。正しくは睨んでいるではなく、メガネを外していて顔がよく見えないのだと思う。
「いや俺のせいじゃないって、勝手にようくんが落ちたんだよ」
「そうなのか? 七瀬くん」
「えっ……えっと、目を覚ましたらちょっと葉に驚いて」
「葉! 嘘はつくなと教えただろ!」
「えぇ⁉︎ いやだから俺のせいじゃないんだって、勝手に驚いて落ちて、むしろ俺は被害者なんだよ!」
「葉、言い訳は後でいくらでも聞いてあげるから、七瀬くんに朝ご飯食べてもらわないと、アンタのせいで遅刻しちゃうわよ」
「だからなんで俺ばっか……」
俺は肩を落としながら自分の席に腰掛けると、手を合わせ「いただきます」と挨拶してから味噌汁に手を伸ばした。
「七瀬くん、お弁当作っておいたからよかったら持って行ってちょうだいね」
「いいんですか? ありがとうございます。僕、お母さんの作る卵焼き美味しくて大好きなんです」
「あらやだ、嬉しいわ!」
母親は嬉しそうに頬を赤らめながら頷いている。
俺が美味いと言っても『あら、そう』で済ませるのに、ウチの家族はとことん彼に甘過ぎる。
「でも、今日で葉のお母さんとのご飯ともお別れは、ちょっぴり寂しいな……」
「別にいつでも食べにくればいいだろ」
「じゃあ今日も泊まっていい?」
「いや飯だけ食って帰れって、いい加減毎日毎日泊まってたらオバさんに怒られるぞ」
味噌汁のお椀から手を離し、鮭を少し摘むとご飯と一緒に口へ運ぶ。
隣でも同じタイミングでようくんが茶碗を持つと、肘と肘がぶつかる。
「大丈夫大丈夫、怒るどころか『私もお泊まりしちゃおうかしらぁ〜』って言ってるんだよ」
「ようくんで寝るところが埋まってるってのに、オバさんとオジさんまで来たら定員オーバー過ぎるだろ」
「もし家族全員で泊まることになったら当然、次郎も連れて来るからね」
「パンツ犬……」
〝次郎〟というのは七瀬家の庭で飼われているメスの柴犬なのだが、昔から会うとなぜかズボンを引き摺り下ろそうとしてくる特殊な犬だったため、小学校以来顔を合わせていないのだ。
お茶碗をいったん置き、少し冷めた味噌汁を啜り直す。
「もう何年も会ってないから、葉の顔忘れてるかもよ?」
「どうなんだろうな、庭を覗いてないだけでようくんの家に行ってるのは変わらないから、匂いで気づいてるだろうし。つーか、そもそも俺のズボンを下げないように躾直してくれれば会えんのに」
「そう言われても、葉にだけそういうことするんだよね。他の人に会った時は怯えて小屋から出てこないくらいだし。何か悪戯でもしたんじゃないの?」
「なんもしてないって、いつもようくん居たんだから知ってるだろ」
「そっか。そうだよね」
汁の中に沈む豆腐を全て回収し終えると、隣ではようくんが手を合わせたので、テーブルの上にお椀と箸を置いた。
「……ふぅ、ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした。食器はそのまま置いておいていいからね、忘れ物ないように気をつけていってらっしゃい」
「あ、玄関まで送ってく」
「ありがとう」
椅子から立ち上がり、壁伝いにようくんの背中を追いかける。
玄関にしゃがみ込んでローファーを履く姿をぼんやり眺めていると、彼は勢い良く立ち上がり、軽やかに身を翻し、両手を横に大きく広げた。
「葉っ!」
「……いやそんな爽やかに呼ばれても」
「行ってらっしゃいのハグとか、してくれないの?」
ようくんは綺麗な瞳を潤ませ、上目遣いでこちらを見てくるので、額を押さえながら腹の底から深いため息を吐き出すと、一応労いの意味も込めて抱きついたのだった。
「一週間、いろいろ助かった……ありがとな」
「こちらこそ、僕の我儘に付き合ってくれてありがとうね。痛みが引いたからって無理して歩きすぎないようにするんだよ」
「わかってるって、飯食ったらまたベッドで休むから」
「じゃあ行ってくるね」
「ん、気をつけて」
彼の腕の中から離れると、白い歯を見せて笑う横顔に手を振る。
玄関ドアが押し開けられると、その隙間から少しだけ冷たい風が吹き込んできたのだった。
⁂
始業式から遅れること一週間。
久々の学校に行くとクラスメイトから心配された。空き時間には委員長から授業内容を写したノートのコピーやプリントを渡され、公欠中にあった出来事を説明してもらったのだった。
「——っていうことで、悪いんだけど日髙くんは配膳担当ってことになっちゃったから、お願いできる?」
「あー、うん、なるほど……?」
机の上に置かれた紙に目を落としながら、首を横に傾げる。
A4サイズの白い紙の上には、女の子特有の丸文字で大きく『女装男装喫茶』と書かれており、その下には調理、配膳、レジ、衣装・メイク、宣伝、装飾・撮影と六つの役割があり、横に担当する生徒の名前が記されている。
恐らく出し物名から察するに、配膳というのは女装して食べ物を運ぶ役、といったところだろうか。
「ちなみにこれって、どうして俺が配膳になったのか聞いてもいい感じ?」
「日髙くん、ウチにいる男子を思い出してみて。筋肉モリモリにガッリガリ、下品、デリカシーの欠如、三歩歩いて忘れる馬鹿……そんな感じの男子ばっかでしょ?」
「そ、そう? みんな普通に見えるけど……」
「そうなの! その中でも日髙くんは、ちょっとボーッとしてはいるけど、真面目で人当たりが良くって中肉中背で女装してもなんら違和感がないのよ‼︎」
委員長はかなり興奮しているのか、机を思い切り叩き、前のめりで顔を近づけてきたので、少しだけ身を引く。すると今度は一つ前の席の野球坊主がキメ顔をしながら手を差し出してきたので、勢いで握手を交わした。もしやと思い配膳担当の名前を確認すると、俺と運命を共にする女装仲間だった。
それにしても、二週間前に変質者に襲われた身としては些か不安が残るのは仕方ない。
「ちなみにこれってもう担当は変えられない感じだよな」
「できれば日髙くんにお願いしたいんだけど、どうしても嫌だったら……顔バレが嫌ならメイクとかウィッグとか衣装で、なるべく誰だかわかりにくくなるように努力はするから……」
委員長は眼鏡の奥で瞳を潤ませながら、こちらを見つめ返してきた。
そこまでして俺に女装させたいのかはさておき。あくまで学校の文化祭なので変質者が来ることは早々ないだろうし、仮に遭遇したとしても先生や警備員に捕まると思うので、受けても問題ないだろう。
「わかった、俺でいいならやるよ」
「あっ、ありがとう日髙くん‼︎」
委員長は俺の手を握ると、上下に激しく振った後に安堵の笑みを浮かべたのだった。
「それで肝心なとこを聞いてないんだけど、配膳担当は何をすればいいのか教えてほしい」
「もちろん。まず、お客さんが来たら挨拶をする。女の人なら『おかえりなさいませ、お嬢様』男の人なら『おかえりなさいませ、ご主人様』って感じでね。それで席に案内して注文を聞いたら、調理の人に伝えて準備をしてもらって、食べ物と飲み物の用意ができたら運ぶ。あとはチェキを撮ったり、おしゃべりをして、帰る時には『行ってらっしゃいませ』で見送っておしまい……とざっくり説明したけどわかったかしら?」
矢継ぎ早に説明された内容を紙の裏に書き留めると、上から順に読み返した。
仕事内容は至ってどこにでもあるような、コンセプトカフェの内容とほぼ同じである。強いて言うのなら〝チェキ〟の内容がとても気になると、俺は委員長に向かって尋ねた。
「あぁ、チェキって言うのはフィルムカメラのことで……」
「それは知ってるんだけど、それってお客さんと一緒に撮るってこと?」
「そうよ! しかもただ撮るだけじゃなくて、ちゃんと落書きもしてあげるのよ」
「へぇ……随分本格的なんだな」
「まぁね! 高校の文化祭だからどうせ低クオリティだろって舐められたくないの。クラスの皆もやる気だし、日髙くんも困ったことがあればあたしとか、この野球馬鹿に聞くといいわ」
「おい、委員長。馬鹿は余計だろ‼︎」
二人の会話に笑いながら頷くと、授業を開始する予鈴がスピーカーから流れたので、委員長は自分の席に戻り、俺はメモ用紙を無くさないよう大事にクリアフォルダーへ挟み込んだのだった。
それから文化祭までの放課後は、手の空いてる者がメニューを考案したり、店内の装飾デザインや衣装のレンタル業者探し、小道具作りなどに励んでいた。
ようやく足裏の傷が塞がったとはいえ、部活動で走れるまでは完治していないので、当然暇を持て余していた俺は、メイクやヘアセットの実験台となっては、歩き方や言葉遣いの指導を徹底的に叩き込まれ、いつの間にかメイド長と呼ばれるまで仕立て上げられていたのだった。
⁂
そして時は流れ九月下旬、文化祭当日。
普段の登校時間より少し早めに教室へ向かうと、すでに何人かクラスメイトが来ており、前日に準備し切れなかった飾り付けや、飲食物の在庫数などの最終チェックを行なっていた。
「日髙くん、おはよう!」
「おはよ、何か手伝うことある?」
「こっちは大丈夫だから、トイレとか平気だったら着替えに行っちゃっていいよ。来た人からどんどん準備してくらしいから」
装飾担当の子たちと挨拶を交わすと、肩に担いでいた鞄を廊下のロッカーへしまい、隣の教室に入った。
隣の二年B組は外で模擬店を開いているため、荷物置きにしか使われないので更衣室として自分たちのクラスが借りたのだ。
「おはよう、日髙くん。こっちこっち!」
衣装担当のショートカットの女の子に手招きされ、パーテーションで組まれた簡易的な男子更衣室の中に足を踏み入れると、机の上には黒のパフスリーブのワンピースに白のエプロン、手作りのネームプレート、そして白いパンツのような物が綺麗に畳まれていた。
「着替え方は昨日教えたから覚えてるよね?」
「確かワンピースを着てから、エプロンを首から掛ければいいんだったよな」
「そうそう、ワンピースのチャックとリボンは一人でできないだろうから、後で私がやるね。それから今日は絶対にドロワーズ履くのは忘れないでね」
「ドロワーズ……ってこれ?」
白いフリフリのレースがたくさんあしらわれた布を広げると、メイク担当の子が頷いた。いわゆるこれは〝見せパン〟と呼ばれるものなのだろうか。
着替え方を再確認できると、パーテーションの出入り口を閉じ、早速制服を脱ぎ捨てると、広げっぱなしのドロワーズを手に取った。
すでに穿いているパンツの上からさらにパンツを穿くのは違和感しかないが、スカートの下からボクサーパンツが見えたら、きっと現実に引き戻される人が多数生じると思うので、きちんとウエストまで引き上げる。
黒のワンピースを頭から被り、綺麗に裾を伸ばすとスカートは膝上でゆらゆら揺れている。
前日の衣装合わせで白のハイソックスを履いてくるよう指示を受けていたが、確かに体毛が濃くないとはいえ、この丈の長さでは、いつも履いているくるぶしソックスだと少々見苦しい足を晒すことになってしまう。
最後は白いエプロンを首から掛けると、右胸のところに『ひーちゃん♡』と書かれたネームプレートを刺して、ほぼ完成。
外で待っていた子に声を掛けると、ワンピースの背中にあるチャックを締めてもらい、エプロンは蝶々結びで縛ってもらった。
着替えが終わり、今度は更衣室の外に用意されたメイク台の前の椅子に腰掛けると、メイク担当の女の子が背後に回ってきた。
それにしても、目の前に置かれた手鏡の中に映り込んだ姿は、目を逸らしたくなるほど不恰好である。
「それじゃあメイクしてくからね」
「お、オネガイシマス……」
まずは短い髪の毛を、ウィッグネットと呼ばれる網の中に収め、即席野球坊主の仲間入りを果たす。
それから顔の脂を紙で取った後に、下地クリームとやらを顔全体に塗り込み、眉毛や瞼の上にも何か手を加えられる。付け睫を貼り付けられ、銀色の器具で挟み込むと目をこじ開ける勢いで、空に向かって睫毛が持ち上げられた。
そこにコンシーラーで太眉の端っこが覆われ、薄眉になると、ファンデーション、パウダー、チークの順番で顔全体を塗りたくられ、焼けた肌の色が薄白くなる。
これで髪の毛を生やせば、十分素朴なパッチリ二重の女の子に見えるだろう。
それにしても顔が、粉っぽい。
「もうこれでも十分それっぽいよな」
「え? 全然普通に男の子だよ」
「あ……そう」
——訂正。どうやら女の子目線では、まだまだ男でしかないらしい。
そこにさらに、目の下に薄いピンクのアイシャドウとハイライトが入れられると、ぷっくりとした涙袋が手品のように現れる。目の上や周りにはポンポンと指の腹が当てられ、キラキラした赤からピンクのグラデーションが落とされていくと、目頭から目尻に向かって黒のラインが引かれた。
あとは眉毛を茶色いペンで綺麗に整え、小鼻や鼻先に影、ハイライトを入れると、最後は唇にリップクリーム、口紅、グロスと重ね塗りをされ、顔全体にいい香りの霧が吹き掛けられた。
メイクはこれで完成。
衣装担当の子が綺麗に整えられた黒髪の長いウィッグを持ってくると、それが生首のように見えて内心驚いてしまうも、そのままスポッと真上から被せられた。
耳より少し高い位置に二つ結びが作られ、根元にピンクのリボンを結んでもらうと、カチューシャを差し込まれる。
「よしできた‼︎ 今までの中で一番最高の出来だと思うっ。日髙くんも確認してみて」
目の前に置かれた手鏡を手に取り、鏡の中にいる人物の姿をじっくりと観察する。
黒髪ツインテールに、大きな瞳の女の子は自分と同じタイミングで動き、まばたきをしている。あまりにも元の容姿とかけ離れており、本当に自分なのか錯覚してしまうほど完璧な仕上がりだと思う。
「どうどうどう? 凄くカワイイでしょ!」
「す、凄い……俺じゃないみたいだ。二人ともありがと」
「どういたしまして、早く皆にも見せに行ってあげなよ」
俺は二人に頭を下げると、恐る恐る廊下へと足を踏み出した。
すれ違う生徒に横目で見られた後、今度は大きく見開いた目で二度見されると、やっぱり似合っていないんじゃないかと不安が募り始める。
それでも自信満々だった二人の言葉を信じ、俺は大股で教室の入り口を潜った。
着替えやメイクを始めてから一時間が経過したからか、クラスメイトはほとんど揃っており、和気藹々と準備を行っていた。
そこに突如〝メイド〟という異質な存在が現れると、教室中の視線が一斉に俺へ釘付けになり、会話が止まった。
「…………お、おはよ」
気まずさから挨拶すると、次の瞬間。
女子は携帯電話を構えながら一斉に詰め寄り、男子は奥でこちらを見ながら顔を赤くしたのだった。
「え? 日髙くんだよね⁇ 可愛い! 可愛いよ日髙くんっ」
「超似合ってるんですけど‼︎ ヤバ、写真一緒に撮ろ?」
「腰ほっそ! 目も大きくてキラキラしてていいじゃん!」
「ひーちゃん爆誕すぎるっ」
これまでの人生で一度もこんな大勢の女の子に囲まれたことはなく、圧に耐え切れなくなるとその場にしゃがみ込んだ。
すると豪雨のように〝可愛い〟と称賛の声が降り注ぎ始め、なんだかとんでもない一日が始まりそうな予感がしたのだった。
⁂
午前九時過ぎ、文化祭実行委員による開会宣言の校内放送が流され、教室内は拍手で満たされると、廊下には多くの人が流れ込み始めた。
眼鏡をかけた執事、後頭部で一つ結びをした執事、野球坊主の片鱗もない縦巻きロールのメイド、そしてツインテールメイドの俺たちは、入り口を挟み込むようにして立った。すると本日最初の一組が入ってきた。
「「「「おかえりなさいませ、お嬢様」」」」
四人全員の綺麗なハーモニーで唱和すると、女性客二人は『きゃっ!』と驚きの声を上げた。
俺は一歩前に踏み出すと、なるべく高めの声で『お席へご案内いたします』とエスコートする。
窓際にある白い布を掛けられた席の椅子を引き、預かった荷物は机の横のフックに掛けると、黒いバインダーを広げ、一ページ目の注意書きを説明した。
「えっと、本日は当店にお越しいただき誠にありがとうございます。ここではお客様に楽しんでいただくために幾つかのルールがございます。まず店内での撮影は固く禁じております。それからキャストへのボディタッチは禁止。お席のご利用はお料理到着後の三十分まで。それ以外にも迷惑行為と見なされた場合は退店をお願いすることもございますのでご理解ください。次に本日のメニューがこちらになります。ご注文がお決まりの際はお申し付けください」
二ページ目の手書きメニューを広げると一礼してドアの横に戻る。
ひとまず一組目の接客を無事終え、短いため息を漏らしていると縦巻きロールのメイドが声をひそめて話しかけてきた。
「おい日髙、お前接客うますぎだろ」
「いや、委員長に叩き込まれた通りにやっただけだって」
「俺、そこまで上手くできる自信ねぇんだけど」
「大丈夫だろ、昨日練習した通りにやれば——悪い、ちょっと行ってくる」
先ほどの客が手を挙げてこちらを見つめていたので、話を切り上げ、注文を伺いに向かう。
ドーナツとタピオカミルクティーを二つずつ頼まれると、調理担当にオーダーを伝え、完成した品を配膳用トレーに乗せると、慎重に席まで運んだ。
「お待たせいたしました。ドーナツとタピオカミルクティーになります」
「ありがとうございます! それと追加でお願いしたいんですけど、チェキって撮ってもらえますか?」
「チェ、チェキ……ご指名のキャストはいらっしゃいますか?」
「もちろん、あなたで!」
初めての指名に戸惑いながらも、撮影担当の子に声を掛けると、客の横に屈む。左手でハートの片割れを作ると、相手は右手で同じポーズを取り、二人の間に大きなハートが出来上がった。
「撮るよ〜! はい、チーズ!」
カシャッ、とシャッターを切る音が鳴り、カメラは唸りながらフィルムを排出する。それを受け取りしばらく見つめていると、真っ白だったフィルムに二人の女の子の姿がじんわりと浮かび上がった。
きちんと可愛く笑えている——と思いたい。
「こ、こんな感じでどうですか……?」
「えっ、カワイイ‼︎ あのあのっ、メニューに書いてあったんですけど、落書きサービスもあるんですよね?」
「よかった……あ。はい、良ければお名前と日付をお書きします」
「じゃあ『あいり』でお願いします!」
エプロンのポケットからピンクの油性ペンを取り出し、今日の日付とお客様の名前、そして〝来てくれてありがとう〟と一言コメントを添えて仕上げた。
完成したチェキを差し出すと、顔を赤くして大喜びしてもらえた。そんなに良かったのかと安心していると、一緒に来ていたもう一人の女性も友人の喜びように感化されたのか、チェキサービスを注文したのだった。
その間にも一組目を皮切りに次々と客が増えてくると、手の空いているキャストが席に案内しては接客に励む。気がつけば用意していた十二席全てがあっという間に埋まっていた。
ひっきりなしに注文を受けては、運んで、写真撮影して、ようやく手が空いたかと思いきやおしゃべりして、気が休まることはない。
開店してからおよそ二時間が経過するも、客足は減るどころか、廊下の賑やかさは増すばかり。
廊下をチラリと覗くと、ロッカーの前にはかなりの列ができており、喫茶店の人気ぶりに衝撃を受ける。男女比は今のところ半々、だろうか。
「……あ」
列の真ん中辺りに、薄茶色の頭が飛び出している人が一人。
見慣れた顔の彼は友人と一緒に並んでいるのか、横にいる誰かに向かって何やら険しい顔で話しかけている。
「おーい、ひーちゃん。会計するから退いて」
「あっ、ごめん」
彼に見惚れていた俺は入り口から首を引っ込めると、会計を終えた客に向かって「いってらっしゃいませ」とお辞儀をしながら見送ったのだった。
それから何組かを案内し、男性客と撮ったチェキに落書きをしていると、隣の席で接客中の縦巻きロールのメイドが耳打ちしてきた。
「日髙。入り口んとこ、七瀬先輩じゃね」
教室の入り口に目をやると、ようくんと濃紺の髪の男子生徒が列の先頭まで来ていた。
なんの気遣いか、縦巻きロールメイドは『お前が接客してこいよ』と目配せをしてきたので、ちょうど空いたばかりの席の片付けを終わらせると、教室の入り口に向かった。
——あれ。俺、こんな格好だけど、大丈夫だよな?
今になって我に返ると、冷たい汗が背中を伝う。別に彼がこの姿を見て馬鹿にするとは全く思えないが、女装姿を見せるのは些か気が引ける。
それでも今は〝ひーちゃん〟という仮面を被っているので、精一杯の笑顔を作り、深々と頭を下げた。
「お、おかえりなさいませ。ご主人様」
「こんにちは」
「おぉー! スゲー、かわいー子来た」
ようくんは柔らかい笑みで挨拶を返してくれたのに対し、隣にいる友人は思い切り顔を近付けては品定めをする視線を向けてきたので、彼が視線を遮るように間に割って入ったのだった。
「おいっ七瀬、邪魔だよ‼︎ 見えねぇって」
「キャストさんに食いつき過ぎ、迷惑」
「だってよぉー、マジで男に見えねぇからさァー」
「だからって顔近づけて見る必要ないでしょ」
「別にいいだろ。もし顔にぶつかっても女の子じゃねぇんだし、な?」
「……はぁ」
「あ、あの、お席へ……」
「あぁっ、ごめんね。お仕事の邪魔しちゃったね」
「いえっ! お席はこちらになります〜……」
ようくんは俺の正体に気がついているのか、一定の距離を保ったまま後ろを付いてくる。
椅子を引き、二人が席についたのを確認すると本日何度目かの説明を行う。
二人分のクレープとタピオカミルクティーとチェキを頼まれると、軽くお辞儀をし、裏に引っ込むと調理待ちの合間に聞き耳を立てたのだった。
「今の子、マジですげー可愛くなかった? あそこの縦巻きドリルちゃんもいい感じだし、全体的にクオリティ高けー」
「そうだね」
「珍しく七瀬が行きたい場所があるとか言うから付いてきてみたらサイコーだワ」
「僕は一人で来たかったけど」
「冷たいこと言うなよ、せっかく一緒に回れたんだからさァー……んで? お前の知り合いってどこにいんの?」
「——おい、日髙。準備できてるぞ」
「え、あっ……」
すっかり盗み聞きに夢中になっていると、いつの間にかトレーの上には注文の品が揃えられており、俺は慌ててようくんの席まで運んだ。
「お待たせいたしました。タピオカミルクティーとクレープになります」
「どーもー。ねねねね、俺さー、チェキ撮るのひ——」
「縦巻きロールのお姉さんと撮りたいんだって。こっちに呼んでもいいかな? 縦巻きロールのおねーさーん!」
ようくんは満面の笑みを顔に貼り付けたまま、友人の言葉を遮ると遠くにいたメイドに声をかけた。
すぐに『あら、アタシと写真を撮りたいのはどの子かしらぁ〜』と、しゃがれ声の縦巻きロールメイドがやって来ると、友人は断ることも出来ず泣く泣くチェキを撮り始めたのだ。
「じゃあ僕は君ね」
「あ、はい……」
彼に促されるまま横に並び、片割れのハートポーズを作ると、指先がツンと触れた。
そのままカメラのレンズに向かって笑いかけるとシャッターを切られ、現像されたチェキを彼に見せたのだった。
「うん、素敵な写真だね。あと落書きサービスもお願いしてもいいかな」
「はい。お名前をお書きしているんですけど……」
「じゃあ〝ようくん〟って入れてくれる?」
「え、っと、ようくん?」
もしかして口に出していないだけで、とっくに俺の正体に気がついているのでは——と上目遣いでそれとなく訴えかけるも、単に気にしすぎだったのか『最近、僕の大事な子が付けてくれた渾名なんだ』と、目尻を下げながら、惚気たような回答を返してきた。
正体がバレていないことに安堵すると、できるだけ綺麗に名前と日付、一言コメントを書き加えてから渡したのだった。
無事、任務達成。
教室の隅でニコニコと愛想笑いを振り撒いていると、レジの前に立っていた委員長に呼ばれ、小声で会話を始めた。
「忙しいところ悪いんだけど、ちょっと日髙くんにお願い。この後十二時から屋外ステージでミスコンがあるから、それに出てきてくれないかしら」
「ミッ、ミスコン⁉︎ 俺、男だぞ‼︎」
突然の要望に思わず大きな地声が出てしまうと、店内全ての視線が一箇所に集まる。
俺は咄嗟に口元を押さえ、ペコペコとお辞儀してから委員長に向き直った。
「わ、悪い……」
「次から気をつけて。あのね、ミスコンの結果発表前にクラスの出し物を宣伝する時間が設けられてるのよ。今朝それのエントリーしておいたから行ってきてちょうだい」
「あぁ、そういうこと……ってそれ、俺じゃないと駄目?」
「だって今のところ日髙くんが一番チェキの数多いし」
委員長の手元には売上数のメモがあり、そこには〝日髙:四十七〟と他のキャストより頭一つ抜けた数字が記されていた。
「宣伝って舞台に上がんなきゃいけないんだろ? さすがにそれはキツイって」
「でも売り上げいっぱい出せば、明日の打ち上げの焼肉食べ放題のコース、ちょっと豪華になるかもしれないわよ」
「それってつまり——」
明日予約している焼肉のコースは一番安いスタンダードプランだが、宣伝によって今よりさらに売り上げが伸びれば、ワンランク上の全メニュー食べ放題になるということだ。
大好物の四文字を出されては断る余地もなく、俺は深いため息と共に了承したのだった。
原稿はすでに用意していたのか、手のひらサイズのメモ用紙を渡されると、内容は確認せずに小さく畳み、エプロンのポケットにしまったのだった。
⁂
時間は進み、十二時過ぎ。
ミスコン会場に向かうべく、教室を出ると何人もの生徒や来賓に声を掛けられ、その度に笑顔で応えていたせいで、想定より時間がかかってしまい、屋外ステージ横の文化祭実行委員のテントに着く頃には、すでに出し物紹介が始まっていた。
「キミ、クラスと名前は?」
「二年C組の日髙です。出し物紹介で来ました」
尋ねてきた役員に返事すると、大きく見開いた目でつま先から頭のてっぺんまで凝視した後、小声で『そうか……女装男装喫茶の』と呟いたのだった。
スピーチ時間は三分まで、進行役に呼ばれたら壇上に上がる、との説明を受けると、待ち時間の間に渡された原稿に目を通した。
とても綺麗な字で当たり障りのない、よくある宣伝文句が書かれている。
読むのに夢中になっていると、会場のスピーカーから『次は二年C組の紹介です』と流れ、慌てて壇上に登った。
進行役からマイクを受け取り、第一声を発すると案の定、会場にいる観客は顔を見合わせてはざわつき始める。
馬鹿にされているのではないかと、不安で手汗が滲み出る中、マイクを落とさないよう必死で原稿を読み上げ続ける。
「——ぜひ、みなさん遊びにきてねっ!」
最後の挨拶文まで読み切ると、ホッと一息つき、顔を上げる。
すると何が起こったのか、観客席から大音量の拍手が湧き上がり、指笛や『H・I・C・Y・A・N・ひーちゃん!』とアイドルコールのようなものも聞こえてきた。
——何が起きたんだ……⁉︎
その途端、顔が熱くなると恥ずかしさのあまりマイクを進行役に押し付け、早足で教室まで逃げ帰ったのだった。
息を切らしながら喫茶店に戻ると、ちょうど午前と午後のメンバーを入れ替えたばかりだったらしく、教室内は和やかな空気が流れていた。
背後から肩をポン、と軽く叩かれると驚きのあまりその場で軽くジャンプする。
体の向きを変えると、店で提供しているタピオカドリンクを握った委員長が佇んでいた。
「あら日髙くん。萌えアピール?」
「い、委員長……! 何言ってんだよ、こっちは最悪だったってのに‼︎ ステージに行くのも大変だったし、スピーチ終わったら歓声起こるわで、これじゃあもう普通に学校行けねぇって」
「大丈夫大丈夫、メイク落としたら誰がやってたかなんてわからないから。それより全員交代したからあなたも休憩入っちゃっていいわよ、お疲れ様」
苦労の割にあっさりと業務の終わりを告げた委員長はタピオカを吸い込みながら、厨房ゾーンへと消えてしまった。
まさかこの姿のまま、午後の自由時間を過ごせと言っているのか——。
移動だけでも一苦労だったのに今度は一人、女装姿のまま模擬店に並び、食べ物をがっつくなんて当然、鋼のメンタルを有していない俺には無理なミッションだった。
「あっ、そこのメイドさんと俺チェキ撮りたいっす」
「そこの……あ、ひーちゃんですか? ひーちゃん! チェキお願いしてもいい?」
「ア。ウン……」
奥の席の客と執事に呼ばれ、撮影に行くと続けて横の席からも声がかかりそうになる。
ここに居続けては、再び接客とチェキの嵐になりそうな予感がするので、咄嗟に「あらやだ、お花摘みの時間だわっ」と訳もわからぬ嘘をついて、なんとか教室から抜け出すと隣の教室へ逃げ込んだのだった。
ドアの小窓には目隠し用の紙を貼ってあるが、なんとなく気まずいので男子更衣室の中にある椅子に腰掛ける。
蒸し暑いウィッグネットとウィッグ、カチューシャを外すと、緊張が解けたのか、普段笑わない弊害により表情筋が痛み始めた。
衣装も脱いでしまいたいのだが、メイクを落としてからでないと服を汚す可能性が高いので、スカートをめくり上げて足元から新鮮な空気を取り込む形で我慢する。
あとは運よくメイク担当の誰かが帰ってくることを祈りながら、ギュルギュルギュルと空腹を訴える腹を押さえ、椅子にもたれかかったまま静かに休んでいると、ドアがノックされたので適当に返事をした。
「お邪魔します」
「……え」
耳当たりのいい声が入り口の方から聞こえてくると、慌ててスカートを下ろし両足を閉じると、ウィッグをとりあえず被った。
ドアが静かに閉められ、足音が近づいて来ると、パーテーションを数回ノックした後にゆっくりと開けられたのだった。
「こんにちは」
「こ、こんにち……は?」
優しい笑みを浮かべたようくんと、本日二回目の挨拶を交わすと、彼は目の前にしゃがみ、美味しそうな香りのするビニール袋を差し出してきたのだ。
「え、えっと、これは……?」
「このクラスに知り合いの子がいるから差し入れを持ってきたんだ。渡しておいてもらってもいいかな?」
「知り合いの子、ですか。な、名前は?」
「日髙、って黒髪ショートカットの男の子なんだけど」
「あー……日髙くんですね、わかりました。渡しておきます」
彼の手からビニール袋を受け取ると——直後。
彼の腕が頭上へ伸び、ウィッグが剥ぎ取られたのだった。
「あっ……!」
ウィッグを追って慌てて椅子から立ち上がると、バランスを崩し彼の胸に飛び込む。
〝ひーちゃん〟という魔法が完全に解け、ただの女装メイクをした日髙葉に戻ってしまうと、顔が上げられなくなった。
「ウィッグ、返せよ……」
「んー……ダメって言ったらどうする?」
「なんでそんな意地悪するんだよ」
「だってこうでもしないと、全然僕と目合わせてくれないし、お喋りしてくれないでしょ」
顎を掴まれ、顔を無理やり上げさせられると、彼の瞳の中に不恰好な男が映り込んだ。
「やっぱり気づいて……!」
「うん、メイクはちょっと濃いけどこっちの方が断然可愛い」
「か、可愛いって、こんな女装なんかしてキモイだろっ!」
「そんなことないよ、お人形さんみたいで可愛いよ」
いつもより低い声で囁かれ、みるみるうちに顔が熱くなると胸を押して椅子の上に座り直した。
「なんだよ、揶揄いに来たのかよ」
「違うよ。葉のことだから、きっとご飯食べれなくなってるだろうって思って色々買ってきてあげたんだよ」
確かに先ほどから、袋の隙間からソースの香りやら香ばしい肉の香りがしている。
その香りに釣られて、再び腹から獣の呻き声が鳴り響くと、頭をポンポンと優しく撫でられた。
「タイミング最悪」
「最高、でしょ?」
「これ全部食べていいの?」
「もちろん、葉が食べ終わるまでここに居てもいい?」
「いちいち聞かないで好きにしろって」
「じゃあ遠慮なく」
ようくんは机の上に座ると、じっとこちらを見下ろしてきた。ビニール袋の中からギュウギュウに詰め込まれた焼きそばと、フランクフルト、お茶のペットボトル、割り箸を机の空いているスペースに並べた。
手を合わせて挨拶すると、まずはフランクフルトに齧り付く。少し冷めてしまってはいるものの、歯を突き立てたところから肉汁が溢れ出し、味は悪くない。
「美味しい?」
「ウマい……そのさ、今日のこと全然言わなかったのに、いつから俺って気づいてた?」
「お店の中を覗いた時にはわかったかな」
「やっぱり皆が言うほどそんなに別人って感じじゃねぇんだな……」
「いや、葉が心配するほどバレてはないと思うよ。僕が葉の履いてるローファーと体型と歩き方を覚えてるだけだから」
「それはそれで怖いんだけど……」
フランクフルトをペロリと平らげると、今度は焼きそばに手をつけ始める。
肉の油が十分に行き渡った麺は美味しい。だが苦手なピーマンに一瞬顔を顰めると『ピーマン食べようか?』とほくそ笑みながら聞かれたので、無表情でようくんの口元までピーマンを運んだ。
「間接キスだね」
「なっ、何馬鹿なこと言ってんだよ。こんなのフツーだろ、フツー!」
「……少しは僕のこと意識してくれないの? 今日だっていろんな人に可愛がられて満更でもなさそうな顔して、さすがに妬くよ」
「仕方ないだろ、仕事でやってんだから」
「僕が先に見つけたのに……」
「え?」
麺とキャベツを一緒に啜る音に掻き消された言葉を聞き直すも、普段と変わらぬ笑顔で『なんでもなーい』と誤魔化されてしまう。
「今なんか言っただろ」
「ピーマンもうなくなった? って言ったの」
「あぁ、うん。なくなった、ありがと」
黙々と食べている姿を見ていて何が面白いのか、ようくんは楽しそうに笑いながら見つめてくる。
パーテーションを超えた廊下の向こう側では、未だ人の声がひしめき合っている。
どうか今だけは、誰もこの教室に来ませんように——そんなことを考えながら、束の間の休息を楽しんだのだった。
脳を激しく揺さぶるベルを止めるべく、時計上部に付いているボタンに手を伸ばそうとするも、腕が伸びない。
「う……ゔ〜ん……」
伸びない、というより正確には全身が何かに締め付けられているような。
張り付いた瞼をこじ開けると、すぐ真上にあるものを見た。
ほんの少し開いた薄い唇にバサバサ睫毛。
かつて兄と呼んでいた彼は気持ち良さそうに、両手両足ガッチリホールドを決めて今日も寝ている。
「ようくーん……苦しいんですけどー。よーうーくーんーおーきーてー」
完全に動きを封じられているので身を捩りながら、まるで子供が遊びに誘う時のノリで起こす。
すると、ようくんは眉間に皺を寄せ、何を思ったのか強く抱きしめてきたのだ。
蛙を潰したような断末魔が漏れると、鼻と口が彼の胸で塞がれ、息ができなくなってしまう。
辛うじて動かせる右手で腹を叩いてタップアウトを宣言するも、彼の締め技は緩むどころか、背骨が軋むほど力が加わり意識が薄れ始めた。
——やばい、落ち、る。
酸欠で激しく体が震え出すと、ようやくそこで目が覚めたのか、ようくんは小さな呻き声をあげた。彼は腕の中で雑巾のように絞られた俺を見て『わ⁉︎』と絶叫した後、飛ぶように離れ、ドシン、と盛大に尻から床へ落ちたのだった。
締め技から解放されると鼻と口の両方から肺に空気を送り込み、数回咽せる。それから未だ鳴り続けるベルを止め、一息つくとベッドの横を覗き込んだのだった。
「い……いたい……」
「なにやってんの」
「目開けたら葉の顔があまりにも近いから……」
「それはようくんがずっと俺のこと抱きしめてたからだろ!」
「だってポカポカあったかくて、いい匂いがしたんだよ……」
「ちょおっ、あ⁉︎」
突然、腕を引っ張られ何の抵抗もできず大きな体の上に落ちると、ムードのムの字もなく唇と唇が衝突した。
前歯が唇の裏に勢い良くぶつかり鈍い痛みを感じる。完全に事故。
「痛って‼︎」
「……あ、ゴメン、もうちょっと抱きしめたいと思って引っ張っちゃった」
「いやもう十分だろ、それより着替えて飯食わないと遅刻するぞ!」
「たまにはいいんじゃない?」
「よくねぇって! 新学期早々ようくんが遅刻は学校中大騒ぎだぞ」
俺は腕の中から抜け出るとパジャマを脱ぎ捨て、タンスにしまってあるTシャツに袖を通したのだった。
——遡ること一週間前。
雑木林から降りると、ようくんが家と警察に電話をし、これまでの事情を説明してくれた。
五分も経たずして駆け付けてくれた両親は、俺たちを見るや否や、顔を真っ青にしながら車に押し込むと病院まで連れて行った。
処置台に乗り、照明の下に行って初めて分かったが、靴擦れに始まり、手足の擦り傷、打撲、切り傷、捻挫、エトセトラエトセトラ……浴衣が血で濡れるほど悲惨な状態になっており、人生で初めて足裏の縫合を体験することとなった。
実はようくんも興奮していて気がついていなかったが、足に擦り傷や打撲を負っていたらしい。
恐るべしアドレナリン。
処置を受けている間にも犯人は無事確保され、後日警察の事情聴取を受けると、ようくんは多少のお咎めはあったものの正当防衛として認められ、無事問題は解決した——と思いきや、ここからが本番だった。
全治二週間、自宅療養、絶対安静。
俺の容態に酷く落ち込んだようくんは、毎日寝泊まりしては甲斐甲斐しく世話してくれた。
着替えをする時も、家の中を移動する時も、風呂へ入る時も、ほぼ二十四時間の監視とも言える状況に、このままでは新たな劣等感が誕生しそうなので『せめて夏休みが終わるまでにして』と進言したのだ。
——こうして俺たちの長かった夏は終わりを迎え、いよいよ新学期が始まろうとしていた。
「おはようございます」
「おはよ」
「二人ともおはよう」
「おはよう」
制服に着替えたようくんと共にリビングへ行くと、父親はテーブルで新聞を読み、母親はちょうど全員分の朝ごはんを並べ終えたところだった。
「今朝、ドシンって凄い音がしてたけど何かあったの?」
「ようくんがベッドから落ちた」
「葉、駄目だろ。七瀬くんを蹴り落としちゃ」
父親は読んでいた新聞を少し下げると、薄目でこちらに睨みを効かせてきた。正しくは睨んでいるではなく、メガネを外していて顔がよく見えないのだと思う。
「いや俺のせいじゃないって、勝手にようくんが落ちたんだよ」
「そうなのか? 七瀬くん」
「えっ……えっと、目を覚ましたらちょっと葉に驚いて」
「葉! 嘘はつくなと教えただろ!」
「えぇ⁉︎ いやだから俺のせいじゃないんだって、勝手に驚いて落ちて、むしろ俺は被害者なんだよ!」
「葉、言い訳は後でいくらでも聞いてあげるから、七瀬くんに朝ご飯食べてもらわないと、アンタのせいで遅刻しちゃうわよ」
「だからなんで俺ばっか……」
俺は肩を落としながら自分の席に腰掛けると、手を合わせ「いただきます」と挨拶してから味噌汁に手を伸ばした。
「七瀬くん、お弁当作っておいたからよかったら持って行ってちょうだいね」
「いいんですか? ありがとうございます。僕、お母さんの作る卵焼き美味しくて大好きなんです」
「あらやだ、嬉しいわ!」
母親は嬉しそうに頬を赤らめながら頷いている。
俺が美味いと言っても『あら、そう』で済ませるのに、ウチの家族はとことん彼に甘過ぎる。
「でも、今日で葉のお母さんとのご飯ともお別れは、ちょっぴり寂しいな……」
「別にいつでも食べにくればいいだろ」
「じゃあ今日も泊まっていい?」
「いや飯だけ食って帰れって、いい加減毎日毎日泊まってたらオバさんに怒られるぞ」
味噌汁のお椀から手を離し、鮭を少し摘むとご飯と一緒に口へ運ぶ。
隣でも同じタイミングでようくんが茶碗を持つと、肘と肘がぶつかる。
「大丈夫大丈夫、怒るどころか『私もお泊まりしちゃおうかしらぁ〜』って言ってるんだよ」
「ようくんで寝るところが埋まってるってのに、オバさんとオジさんまで来たら定員オーバー過ぎるだろ」
「もし家族全員で泊まることになったら当然、次郎も連れて来るからね」
「パンツ犬……」
〝次郎〟というのは七瀬家の庭で飼われているメスの柴犬なのだが、昔から会うとなぜかズボンを引き摺り下ろそうとしてくる特殊な犬だったため、小学校以来顔を合わせていないのだ。
お茶碗をいったん置き、少し冷めた味噌汁を啜り直す。
「もう何年も会ってないから、葉の顔忘れてるかもよ?」
「どうなんだろうな、庭を覗いてないだけでようくんの家に行ってるのは変わらないから、匂いで気づいてるだろうし。つーか、そもそも俺のズボンを下げないように躾直してくれれば会えんのに」
「そう言われても、葉にだけそういうことするんだよね。他の人に会った時は怯えて小屋から出てこないくらいだし。何か悪戯でもしたんじゃないの?」
「なんもしてないって、いつもようくん居たんだから知ってるだろ」
「そっか。そうだよね」
汁の中に沈む豆腐を全て回収し終えると、隣ではようくんが手を合わせたので、テーブルの上にお椀と箸を置いた。
「……ふぅ、ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした。食器はそのまま置いておいていいからね、忘れ物ないように気をつけていってらっしゃい」
「あ、玄関まで送ってく」
「ありがとう」
椅子から立ち上がり、壁伝いにようくんの背中を追いかける。
玄関にしゃがみ込んでローファーを履く姿をぼんやり眺めていると、彼は勢い良く立ち上がり、軽やかに身を翻し、両手を横に大きく広げた。
「葉っ!」
「……いやそんな爽やかに呼ばれても」
「行ってらっしゃいのハグとか、してくれないの?」
ようくんは綺麗な瞳を潤ませ、上目遣いでこちらを見てくるので、額を押さえながら腹の底から深いため息を吐き出すと、一応労いの意味も込めて抱きついたのだった。
「一週間、いろいろ助かった……ありがとな」
「こちらこそ、僕の我儘に付き合ってくれてありがとうね。痛みが引いたからって無理して歩きすぎないようにするんだよ」
「わかってるって、飯食ったらまたベッドで休むから」
「じゃあ行ってくるね」
「ん、気をつけて」
彼の腕の中から離れると、白い歯を見せて笑う横顔に手を振る。
玄関ドアが押し開けられると、その隙間から少しだけ冷たい風が吹き込んできたのだった。
⁂
始業式から遅れること一週間。
久々の学校に行くとクラスメイトから心配された。空き時間には委員長から授業内容を写したノートのコピーやプリントを渡され、公欠中にあった出来事を説明してもらったのだった。
「——っていうことで、悪いんだけど日髙くんは配膳担当ってことになっちゃったから、お願いできる?」
「あー、うん、なるほど……?」
机の上に置かれた紙に目を落としながら、首を横に傾げる。
A4サイズの白い紙の上には、女の子特有の丸文字で大きく『女装男装喫茶』と書かれており、その下には調理、配膳、レジ、衣装・メイク、宣伝、装飾・撮影と六つの役割があり、横に担当する生徒の名前が記されている。
恐らく出し物名から察するに、配膳というのは女装して食べ物を運ぶ役、といったところだろうか。
「ちなみにこれって、どうして俺が配膳になったのか聞いてもいい感じ?」
「日髙くん、ウチにいる男子を思い出してみて。筋肉モリモリにガッリガリ、下品、デリカシーの欠如、三歩歩いて忘れる馬鹿……そんな感じの男子ばっかでしょ?」
「そ、そう? みんな普通に見えるけど……」
「そうなの! その中でも日髙くんは、ちょっとボーッとしてはいるけど、真面目で人当たりが良くって中肉中背で女装してもなんら違和感がないのよ‼︎」
委員長はかなり興奮しているのか、机を思い切り叩き、前のめりで顔を近づけてきたので、少しだけ身を引く。すると今度は一つ前の席の野球坊主がキメ顔をしながら手を差し出してきたので、勢いで握手を交わした。もしやと思い配膳担当の名前を確認すると、俺と運命を共にする女装仲間だった。
それにしても、二週間前に変質者に襲われた身としては些か不安が残るのは仕方ない。
「ちなみにこれってもう担当は変えられない感じだよな」
「できれば日髙くんにお願いしたいんだけど、どうしても嫌だったら……顔バレが嫌ならメイクとかウィッグとか衣装で、なるべく誰だかわかりにくくなるように努力はするから……」
委員長は眼鏡の奥で瞳を潤ませながら、こちらを見つめ返してきた。
そこまでして俺に女装させたいのかはさておき。あくまで学校の文化祭なので変質者が来ることは早々ないだろうし、仮に遭遇したとしても先生や警備員に捕まると思うので、受けても問題ないだろう。
「わかった、俺でいいならやるよ」
「あっ、ありがとう日髙くん‼︎」
委員長は俺の手を握ると、上下に激しく振った後に安堵の笑みを浮かべたのだった。
「それで肝心なとこを聞いてないんだけど、配膳担当は何をすればいいのか教えてほしい」
「もちろん。まず、お客さんが来たら挨拶をする。女の人なら『おかえりなさいませ、お嬢様』男の人なら『おかえりなさいませ、ご主人様』って感じでね。それで席に案内して注文を聞いたら、調理の人に伝えて準備をしてもらって、食べ物と飲み物の用意ができたら運ぶ。あとはチェキを撮ったり、おしゃべりをして、帰る時には『行ってらっしゃいませ』で見送っておしまい……とざっくり説明したけどわかったかしら?」
矢継ぎ早に説明された内容を紙の裏に書き留めると、上から順に読み返した。
仕事内容は至ってどこにでもあるような、コンセプトカフェの内容とほぼ同じである。強いて言うのなら〝チェキ〟の内容がとても気になると、俺は委員長に向かって尋ねた。
「あぁ、チェキって言うのはフィルムカメラのことで……」
「それは知ってるんだけど、それってお客さんと一緒に撮るってこと?」
「そうよ! しかもただ撮るだけじゃなくて、ちゃんと落書きもしてあげるのよ」
「へぇ……随分本格的なんだな」
「まぁね! 高校の文化祭だからどうせ低クオリティだろって舐められたくないの。クラスの皆もやる気だし、日髙くんも困ったことがあればあたしとか、この野球馬鹿に聞くといいわ」
「おい、委員長。馬鹿は余計だろ‼︎」
二人の会話に笑いながら頷くと、授業を開始する予鈴がスピーカーから流れたので、委員長は自分の席に戻り、俺はメモ用紙を無くさないよう大事にクリアフォルダーへ挟み込んだのだった。
それから文化祭までの放課後は、手の空いてる者がメニューを考案したり、店内の装飾デザインや衣装のレンタル業者探し、小道具作りなどに励んでいた。
ようやく足裏の傷が塞がったとはいえ、部活動で走れるまでは完治していないので、当然暇を持て余していた俺は、メイクやヘアセットの実験台となっては、歩き方や言葉遣いの指導を徹底的に叩き込まれ、いつの間にかメイド長と呼ばれるまで仕立て上げられていたのだった。
⁂
そして時は流れ九月下旬、文化祭当日。
普段の登校時間より少し早めに教室へ向かうと、すでに何人かクラスメイトが来ており、前日に準備し切れなかった飾り付けや、飲食物の在庫数などの最終チェックを行なっていた。
「日髙くん、おはよう!」
「おはよ、何か手伝うことある?」
「こっちは大丈夫だから、トイレとか平気だったら着替えに行っちゃっていいよ。来た人からどんどん準備してくらしいから」
装飾担当の子たちと挨拶を交わすと、肩に担いでいた鞄を廊下のロッカーへしまい、隣の教室に入った。
隣の二年B組は外で模擬店を開いているため、荷物置きにしか使われないので更衣室として自分たちのクラスが借りたのだ。
「おはよう、日髙くん。こっちこっち!」
衣装担当のショートカットの女の子に手招きされ、パーテーションで組まれた簡易的な男子更衣室の中に足を踏み入れると、机の上には黒のパフスリーブのワンピースに白のエプロン、手作りのネームプレート、そして白いパンツのような物が綺麗に畳まれていた。
「着替え方は昨日教えたから覚えてるよね?」
「確かワンピースを着てから、エプロンを首から掛ければいいんだったよな」
「そうそう、ワンピースのチャックとリボンは一人でできないだろうから、後で私がやるね。それから今日は絶対にドロワーズ履くのは忘れないでね」
「ドロワーズ……ってこれ?」
白いフリフリのレースがたくさんあしらわれた布を広げると、メイク担当の子が頷いた。いわゆるこれは〝見せパン〟と呼ばれるものなのだろうか。
着替え方を再確認できると、パーテーションの出入り口を閉じ、早速制服を脱ぎ捨てると、広げっぱなしのドロワーズを手に取った。
すでに穿いているパンツの上からさらにパンツを穿くのは違和感しかないが、スカートの下からボクサーパンツが見えたら、きっと現実に引き戻される人が多数生じると思うので、きちんとウエストまで引き上げる。
黒のワンピースを頭から被り、綺麗に裾を伸ばすとスカートは膝上でゆらゆら揺れている。
前日の衣装合わせで白のハイソックスを履いてくるよう指示を受けていたが、確かに体毛が濃くないとはいえ、この丈の長さでは、いつも履いているくるぶしソックスだと少々見苦しい足を晒すことになってしまう。
最後は白いエプロンを首から掛けると、右胸のところに『ひーちゃん♡』と書かれたネームプレートを刺して、ほぼ完成。
外で待っていた子に声を掛けると、ワンピースの背中にあるチャックを締めてもらい、エプロンは蝶々結びで縛ってもらった。
着替えが終わり、今度は更衣室の外に用意されたメイク台の前の椅子に腰掛けると、メイク担当の女の子が背後に回ってきた。
それにしても、目の前に置かれた手鏡の中に映り込んだ姿は、目を逸らしたくなるほど不恰好である。
「それじゃあメイクしてくからね」
「お、オネガイシマス……」
まずは短い髪の毛を、ウィッグネットと呼ばれる網の中に収め、即席野球坊主の仲間入りを果たす。
それから顔の脂を紙で取った後に、下地クリームとやらを顔全体に塗り込み、眉毛や瞼の上にも何か手を加えられる。付け睫を貼り付けられ、銀色の器具で挟み込むと目をこじ開ける勢いで、空に向かって睫毛が持ち上げられた。
そこにコンシーラーで太眉の端っこが覆われ、薄眉になると、ファンデーション、パウダー、チークの順番で顔全体を塗りたくられ、焼けた肌の色が薄白くなる。
これで髪の毛を生やせば、十分素朴なパッチリ二重の女の子に見えるだろう。
それにしても顔が、粉っぽい。
「もうこれでも十分それっぽいよな」
「え? 全然普通に男の子だよ」
「あ……そう」
——訂正。どうやら女の子目線では、まだまだ男でしかないらしい。
そこにさらに、目の下に薄いピンクのアイシャドウとハイライトが入れられると、ぷっくりとした涙袋が手品のように現れる。目の上や周りにはポンポンと指の腹が当てられ、キラキラした赤からピンクのグラデーションが落とされていくと、目頭から目尻に向かって黒のラインが引かれた。
あとは眉毛を茶色いペンで綺麗に整え、小鼻や鼻先に影、ハイライトを入れると、最後は唇にリップクリーム、口紅、グロスと重ね塗りをされ、顔全体にいい香りの霧が吹き掛けられた。
メイクはこれで完成。
衣装担当の子が綺麗に整えられた黒髪の長いウィッグを持ってくると、それが生首のように見えて内心驚いてしまうも、そのままスポッと真上から被せられた。
耳より少し高い位置に二つ結びが作られ、根元にピンクのリボンを結んでもらうと、カチューシャを差し込まれる。
「よしできた‼︎ 今までの中で一番最高の出来だと思うっ。日髙くんも確認してみて」
目の前に置かれた手鏡を手に取り、鏡の中にいる人物の姿をじっくりと観察する。
黒髪ツインテールに、大きな瞳の女の子は自分と同じタイミングで動き、まばたきをしている。あまりにも元の容姿とかけ離れており、本当に自分なのか錯覚してしまうほど完璧な仕上がりだと思う。
「どうどうどう? 凄くカワイイでしょ!」
「す、凄い……俺じゃないみたいだ。二人ともありがと」
「どういたしまして、早く皆にも見せに行ってあげなよ」
俺は二人に頭を下げると、恐る恐る廊下へと足を踏み出した。
すれ違う生徒に横目で見られた後、今度は大きく見開いた目で二度見されると、やっぱり似合っていないんじゃないかと不安が募り始める。
それでも自信満々だった二人の言葉を信じ、俺は大股で教室の入り口を潜った。
着替えやメイクを始めてから一時間が経過したからか、クラスメイトはほとんど揃っており、和気藹々と準備を行っていた。
そこに突如〝メイド〟という異質な存在が現れると、教室中の視線が一斉に俺へ釘付けになり、会話が止まった。
「…………お、おはよ」
気まずさから挨拶すると、次の瞬間。
女子は携帯電話を構えながら一斉に詰め寄り、男子は奥でこちらを見ながら顔を赤くしたのだった。
「え? 日髙くんだよね⁇ 可愛い! 可愛いよ日髙くんっ」
「超似合ってるんですけど‼︎ ヤバ、写真一緒に撮ろ?」
「腰ほっそ! 目も大きくてキラキラしてていいじゃん!」
「ひーちゃん爆誕すぎるっ」
これまでの人生で一度もこんな大勢の女の子に囲まれたことはなく、圧に耐え切れなくなるとその場にしゃがみ込んだ。
すると豪雨のように〝可愛い〟と称賛の声が降り注ぎ始め、なんだかとんでもない一日が始まりそうな予感がしたのだった。
⁂
午前九時過ぎ、文化祭実行委員による開会宣言の校内放送が流され、教室内は拍手で満たされると、廊下には多くの人が流れ込み始めた。
眼鏡をかけた執事、後頭部で一つ結びをした執事、野球坊主の片鱗もない縦巻きロールのメイド、そしてツインテールメイドの俺たちは、入り口を挟み込むようにして立った。すると本日最初の一組が入ってきた。
「「「「おかえりなさいませ、お嬢様」」」」
四人全員の綺麗なハーモニーで唱和すると、女性客二人は『きゃっ!』と驚きの声を上げた。
俺は一歩前に踏み出すと、なるべく高めの声で『お席へご案内いたします』とエスコートする。
窓際にある白い布を掛けられた席の椅子を引き、預かった荷物は机の横のフックに掛けると、黒いバインダーを広げ、一ページ目の注意書きを説明した。
「えっと、本日は当店にお越しいただき誠にありがとうございます。ここではお客様に楽しんでいただくために幾つかのルールがございます。まず店内での撮影は固く禁じております。それからキャストへのボディタッチは禁止。お席のご利用はお料理到着後の三十分まで。それ以外にも迷惑行為と見なされた場合は退店をお願いすることもございますのでご理解ください。次に本日のメニューがこちらになります。ご注文がお決まりの際はお申し付けください」
二ページ目の手書きメニューを広げると一礼してドアの横に戻る。
ひとまず一組目の接客を無事終え、短いため息を漏らしていると縦巻きロールのメイドが声をひそめて話しかけてきた。
「おい日髙、お前接客うますぎだろ」
「いや、委員長に叩き込まれた通りにやっただけだって」
「俺、そこまで上手くできる自信ねぇんだけど」
「大丈夫だろ、昨日練習した通りにやれば——悪い、ちょっと行ってくる」
先ほどの客が手を挙げてこちらを見つめていたので、話を切り上げ、注文を伺いに向かう。
ドーナツとタピオカミルクティーを二つずつ頼まれると、調理担当にオーダーを伝え、完成した品を配膳用トレーに乗せると、慎重に席まで運んだ。
「お待たせいたしました。ドーナツとタピオカミルクティーになります」
「ありがとうございます! それと追加でお願いしたいんですけど、チェキって撮ってもらえますか?」
「チェ、チェキ……ご指名のキャストはいらっしゃいますか?」
「もちろん、あなたで!」
初めての指名に戸惑いながらも、撮影担当の子に声を掛けると、客の横に屈む。左手でハートの片割れを作ると、相手は右手で同じポーズを取り、二人の間に大きなハートが出来上がった。
「撮るよ〜! はい、チーズ!」
カシャッ、とシャッターを切る音が鳴り、カメラは唸りながらフィルムを排出する。それを受け取りしばらく見つめていると、真っ白だったフィルムに二人の女の子の姿がじんわりと浮かび上がった。
きちんと可愛く笑えている——と思いたい。
「こ、こんな感じでどうですか……?」
「えっ、カワイイ‼︎ あのあのっ、メニューに書いてあったんですけど、落書きサービスもあるんですよね?」
「よかった……あ。はい、良ければお名前と日付をお書きします」
「じゃあ『あいり』でお願いします!」
エプロンのポケットからピンクの油性ペンを取り出し、今日の日付とお客様の名前、そして〝来てくれてありがとう〟と一言コメントを添えて仕上げた。
完成したチェキを差し出すと、顔を赤くして大喜びしてもらえた。そんなに良かったのかと安心していると、一緒に来ていたもう一人の女性も友人の喜びように感化されたのか、チェキサービスを注文したのだった。
その間にも一組目を皮切りに次々と客が増えてくると、手の空いているキャストが席に案内しては接客に励む。気がつけば用意していた十二席全てがあっという間に埋まっていた。
ひっきりなしに注文を受けては、運んで、写真撮影して、ようやく手が空いたかと思いきやおしゃべりして、気が休まることはない。
開店してからおよそ二時間が経過するも、客足は減るどころか、廊下の賑やかさは増すばかり。
廊下をチラリと覗くと、ロッカーの前にはかなりの列ができており、喫茶店の人気ぶりに衝撃を受ける。男女比は今のところ半々、だろうか。
「……あ」
列の真ん中辺りに、薄茶色の頭が飛び出している人が一人。
見慣れた顔の彼は友人と一緒に並んでいるのか、横にいる誰かに向かって何やら険しい顔で話しかけている。
「おーい、ひーちゃん。会計するから退いて」
「あっ、ごめん」
彼に見惚れていた俺は入り口から首を引っ込めると、会計を終えた客に向かって「いってらっしゃいませ」とお辞儀をしながら見送ったのだった。
それから何組かを案内し、男性客と撮ったチェキに落書きをしていると、隣の席で接客中の縦巻きロールのメイドが耳打ちしてきた。
「日髙。入り口んとこ、七瀬先輩じゃね」
教室の入り口に目をやると、ようくんと濃紺の髪の男子生徒が列の先頭まで来ていた。
なんの気遣いか、縦巻きロールメイドは『お前が接客してこいよ』と目配せをしてきたので、ちょうど空いたばかりの席の片付けを終わらせると、教室の入り口に向かった。
——あれ。俺、こんな格好だけど、大丈夫だよな?
今になって我に返ると、冷たい汗が背中を伝う。別に彼がこの姿を見て馬鹿にするとは全く思えないが、女装姿を見せるのは些か気が引ける。
それでも今は〝ひーちゃん〟という仮面を被っているので、精一杯の笑顔を作り、深々と頭を下げた。
「お、おかえりなさいませ。ご主人様」
「こんにちは」
「おぉー! スゲー、かわいー子来た」
ようくんは柔らかい笑みで挨拶を返してくれたのに対し、隣にいる友人は思い切り顔を近付けては品定めをする視線を向けてきたので、彼が視線を遮るように間に割って入ったのだった。
「おいっ七瀬、邪魔だよ‼︎ 見えねぇって」
「キャストさんに食いつき過ぎ、迷惑」
「だってよぉー、マジで男に見えねぇからさァー」
「だからって顔近づけて見る必要ないでしょ」
「別にいいだろ。もし顔にぶつかっても女の子じゃねぇんだし、な?」
「……はぁ」
「あ、あの、お席へ……」
「あぁっ、ごめんね。お仕事の邪魔しちゃったね」
「いえっ! お席はこちらになります〜……」
ようくんは俺の正体に気がついているのか、一定の距離を保ったまま後ろを付いてくる。
椅子を引き、二人が席についたのを確認すると本日何度目かの説明を行う。
二人分のクレープとタピオカミルクティーとチェキを頼まれると、軽くお辞儀をし、裏に引っ込むと調理待ちの合間に聞き耳を立てたのだった。
「今の子、マジですげー可愛くなかった? あそこの縦巻きドリルちゃんもいい感じだし、全体的にクオリティ高けー」
「そうだね」
「珍しく七瀬が行きたい場所があるとか言うから付いてきてみたらサイコーだワ」
「僕は一人で来たかったけど」
「冷たいこと言うなよ、せっかく一緒に回れたんだからさァー……んで? お前の知り合いってどこにいんの?」
「——おい、日髙。準備できてるぞ」
「え、あっ……」
すっかり盗み聞きに夢中になっていると、いつの間にかトレーの上には注文の品が揃えられており、俺は慌ててようくんの席まで運んだ。
「お待たせいたしました。タピオカミルクティーとクレープになります」
「どーもー。ねねねね、俺さー、チェキ撮るのひ——」
「縦巻きロールのお姉さんと撮りたいんだって。こっちに呼んでもいいかな? 縦巻きロールのおねーさーん!」
ようくんは満面の笑みを顔に貼り付けたまま、友人の言葉を遮ると遠くにいたメイドに声をかけた。
すぐに『あら、アタシと写真を撮りたいのはどの子かしらぁ〜』と、しゃがれ声の縦巻きロールメイドがやって来ると、友人は断ることも出来ず泣く泣くチェキを撮り始めたのだ。
「じゃあ僕は君ね」
「あ、はい……」
彼に促されるまま横に並び、片割れのハートポーズを作ると、指先がツンと触れた。
そのままカメラのレンズに向かって笑いかけるとシャッターを切られ、現像されたチェキを彼に見せたのだった。
「うん、素敵な写真だね。あと落書きサービスもお願いしてもいいかな」
「はい。お名前をお書きしているんですけど……」
「じゃあ〝ようくん〟って入れてくれる?」
「え、っと、ようくん?」
もしかして口に出していないだけで、とっくに俺の正体に気がついているのでは——と上目遣いでそれとなく訴えかけるも、単に気にしすぎだったのか『最近、僕の大事な子が付けてくれた渾名なんだ』と、目尻を下げながら、惚気たような回答を返してきた。
正体がバレていないことに安堵すると、できるだけ綺麗に名前と日付、一言コメントを書き加えてから渡したのだった。
無事、任務達成。
教室の隅でニコニコと愛想笑いを振り撒いていると、レジの前に立っていた委員長に呼ばれ、小声で会話を始めた。
「忙しいところ悪いんだけど、ちょっと日髙くんにお願い。この後十二時から屋外ステージでミスコンがあるから、それに出てきてくれないかしら」
「ミッ、ミスコン⁉︎ 俺、男だぞ‼︎」
突然の要望に思わず大きな地声が出てしまうと、店内全ての視線が一箇所に集まる。
俺は咄嗟に口元を押さえ、ペコペコとお辞儀してから委員長に向き直った。
「わ、悪い……」
「次から気をつけて。あのね、ミスコンの結果発表前にクラスの出し物を宣伝する時間が設けられてるのよ。今朝それのエントリーしておいたから行ってきてちょうだい」
「あぁ、そういうこと……ってそれ、俺じゃないと駄目?」
「だって今のところ日髙くんが一番チェキの数多いし」
委員長の手元には売上数のメモがあり、そこには〝日髙:四十七〟と他のキャストより頭一つ抜けた数字が記されていた。
「宣伝って舞台に上がんなきゃいけないんだろ? さすがにそれはキツイって」
「でも売り上げいっぱい出せば、明日の打ち上げの焼肉食べ放題のコース、ちょっと豪華になるかもしれないわよ」
「それってつまり——」
明日予約している焼肉のコースは一番安いスタンダードプランだが、宣伝によって今よりさらに売り上げが伸びれば、ワンランク上の全メニュー食べ放題になるということだ。
大好物の四文字を出されては断る余地もなく、俺は深いため息と共に了承したのだった。
原稿はすでに用意していたのか、手のひらサイズのメモ用紙を渡されると、内容は確認せずに小さく畳み、エプロンのポケットにしまったのだった。
⁂
時間は進み、十二時過ぎ。
ミスコン会場に向かうべく、教室を出ると何人もの生徒や来賓に声を掛けられ、その度に笑顔で応えていたせいで、想定より時間がかかってしまい、屋外ステージ横の文化祭実行委員のテントに着く頃には、すでに出し物紹介が始まっていた。
「キミ、クラスと名前は?」
「二年C組の日髙です。出し物紹介で来ました」
尋ねてきた役員に返事すると、大きく見開いた目でつま先から頭のてっぺんまで凝視した後、小声で『そうか……女装男装喫茶の』と呟いたのだった。
スピーチ時間は三分まで、進行役に呼ばれたら壇上に上がる、との説明を受けると、待ち時間の間に渡された原稿に目を通した。
とても綺麗な字で当たり障りのない、よくある宣伝文句が書かれている。
読むのに夢中になっていると、会場のスピーカーから『次は二年C組の紹介です』と流れ、慌てて壇上に登った。
進行役からマイクを受け取り、第一声を発すると案の定、会場にいる観客は顔を見合わせてはざわつき始める。
馬鹿にされているのではないかと、不安で手汗が滲み出る中、マイクを落とさないよう必死で原稿を読み上げ続ける。
「——ぜひ、みなさん遊びにきてねっ!」
最後の挨拶文まで読み切ると、ホッと一息つき、顔を上げる。
すると何が起こったのか、観客席から大音量の拍手が湧き上がり、指笛や『H・I・C・Y・A・N・ひーちゃん!』とアイドルコールのようなものも聞こえてきた。
——何が起きたんだ……⁉︎
その途端、顔が熱くなると恥ずかしさのあまりマイクを進行役に押し付け、早足で教室まで逃げ帰ったのだった。
息を切らしながら喫茶店に戻ると、ちょうど午前と午後のメンバーを入れ替えたばかりだったらしく、教室内は和やかな空気が流れていた。
背後から肩をポン、と軽く叩かれると驚きのあまりその場で軽くジャンプする。
体の向きを変えると、店で提供しているタピオカドリンクを握った委員長が佇んでいた。
「あら日髙くん。萌えアピール?」
「い、委員長……! 何言ってんだよ、こっちは最悪だったってのに‼︎ ステージに行くのも大変だったし、スピーチ終わったら歓声起こるわで、これじゃあもう普通に学校行けねぇって」
「大丈夫大丈夫、メイク落としたら誰がやってたかなんてわからないから。それより全員交代したからあなたも休憩入っちゃっていいわよ、お疲れ様」
苦労の割にあっさりと業務の終わりを告げた委員長はタピオカを吸い込みながら、厨房ゾーンへと消えてしまった。
まさかこの姿のまま、午後の自由時間を過ごせと言っているのか——。
移動だけでも一苦労だったのに今度は一人、女装姿のまま模擬店に並び、食べ物をがっつくなんて当然、鋼のメンタルを有していない俺には無理なミッションだった。
「あっ、そこのメイドさんと俺チェキ撮りたいっす」
「そこの……あ、ひーちゃんですか? ひーちゃん! チェキお願いしてもいい?」
「ア。ウン……」
奥の席の客と執事に呼ばれ、撮影に行くと続けて横の席からも声がかかりそうになる。
ここに居続けては、再び接客とチェキの嵐になりそうな予感がするので、咄嗟に「あらやだ、お花摘みの時間だわっ」と訳もわからぬ嘘をついて、なんとか教室から抜け出すと隣の教室へ逃げ込んだのだった。
ドアの小窓には目隠し用の紙を貼ってあるが、なんとなく気まずいので男子更衣室の中にある椅子に腰掛ける。
蒸し暑いウィッグネットとウィッグ、カチューシャを外すと、緊張が解けたのか、普段笑わない弊害により表情筋が痛み始めた。
衣装も脱いでしまいたいのだが、メイクを落としてからでないと服を汚す可能性が高いので、スカートをめくり上げて足元から新鮮な空気を取り込む形で我慢する。
あとは運よくメイク担当の誰かが帰ってくることを祈りながら、ギュルギュルギュルと空腹を訴える腹を押さえ、椅子にもたれかかったまま静かに休んでいると、ドアがノックされたので適当に返事をした。
「お邪魔します」
「……え」
耳当たりのいい声が入り口の方から聞こえてくると、慌ててスカートを下ろし両足を閉じると、ウィッグをとりあえず被った。
ドアが静かに閉められ、足音が近づいて来ると、パーテーションを数回ノックした後にゆっくりと開けられたのだった。
「こんにちは」
「こ、こんにち……は?」
優しい笑みを浮かべたようくんと、本日二回目の挨拶を交わすと、彼は目の前にしゃがみ、美味しそうな香りのするビニール袋を差し出してきたのだ。
「え、えっと、これは……?」
「このクラスに知り合いの子がいるから差し入れを持ってきたんだ。渡しておいてもらってもいいかな?」
「知り合いの子、ですか。な、名前は?」
「日髙、って黒髪ショートカットの男の子なんだけど」
「あー……日髙くんですね、わかりました。渡しておきます」
彼の手からビニール袋を受け取ると——直後。
彼の腕が頭上へ伸び、ウィッグが剥ぎ取られたのだった。
「あっ……!」
ウィッグを追って慌てて椅子から立ち上がると、バランスを崩し彼の胸に飛び込む。
〝ひーちゃん〟という魔法が完全に解け、ただの女装メイクをした日髙葉に戻ってしまうと、顔が上げられなくなった。
「ウィッグ、返せよ……」
「んー……ダメって言ったらどうする?」
「なんでそんな意地悪するんだよ」
「だってこうでもしないと、全然僕と目合わせてくれないし、お喋りしてくれないでしょ」
顎を掴まれ、顔を無理やり上げさせられると、彼の瞳の中に不恰好な男が映り込んだ。
「やっぱり気づいて……!」
「うん、メイクはちょっと濃いけどこっちの方が断然可愛い」
「か、可愛いって、こんな女装なんかしてキモイだろっ!」
「そんなことないよ、お人形さんみたいで可愛いよ」
いつもより低い声で囁かれ、みるみるうちに顔が熱くなると胸を押して椅子の上に座り直した。
「なんだよ、揶揄いに来たのかよ」
「違うよ。葉のことだから、きっとご飯食べれなくなってるだろうって思って色々買ってきてあげたんだよ」
確かに先ほどから、袋の隙間からソースの香りやら香ばしい肉の香りがしている。
その香りに釣られて、再び腹から獣の呻き声が鳴り響くと、頭をポンポンと優しく撫でられた。
「タイミング最悪」
「最高、でしょ?」
「これ全部食べていいの?」
「もちろん、葉が食べ終わるまでここに居てもいい?」
「いちいち聞かないで好きにしろって」
「じゃあ遠慮なく」
ようくんは机の上に座ると、じっとこちらを見下ろしてきた。ビニール袋の中からギュウギュウに詰め込まれた焼きそばと、フランクフルト、お茶のペットボトル、割り箸を机の空いているスペースに並べた。
手を合わせて挨拶すると、まずはフランクフルトに齧り付く。少し冷めてしまってはいるものの、歯を突き立てたところから肉汁が溢れ出し、味は悪くない。
「美味しい?」
「ウマい……そのさ、今日のこと全然言わなかったのに、いつから俺って気づいてた?」
「お店の中を覗いた時にはわかったかな」
「やっぱり皆が言うほどそんなに別人って感じじゃねぇんだな……」
「いや、葉が心配するほどバレてはないと思うよ。僕が葉の履いてるローファーと体型と歩き方を覚えてるだけだから」
「それはそれで怖いんだけど……」
フランクフルトをペロリと平らげると、今度は焼きそばに手をつけ始める。
肉の油が十分に行き渡った麺は美味しい。だが苦手なピーマンに一瞬顔を顰めると『ピーマン食べようか?』とほくそ笑みながら聞かれたので、無表情でようくんの口元までピーマンを運んだ。
「間接キスだね」
「なっ、何馬鹿なこと言ってんだよ。こんなのフツーだろ、フツー!」
「……少しは僕のこと意識してくれないの? 今日だっていろんな人に可愛がられて満更でもなさそうな顔して、さすがに妬くよ」
「仕方ないだろ、仕事でやってんだから」
「僕が先に見つけたのに……」
「え?」
麺とキャベツを一緒に啜る音に掻き消された言葉を聞き直すも、普段と変わらぬ笑顔で『なんでもなーい』と誤魔化されてしまう。
「今なんか言っただろ」
「ピーマンもうなくなった? って言ったの」
「あぁ、うん。なくなった、ありがと」
黙々と食べている姿を見ていて何が面白いのか、ようくんは楽しそうに笑いながら見つめてくる。
パーテーションを超えた廊下の向こう側では、未だ人の声がひしめき合っている。
どうか今だけは、誰もこの教室に来ませんように——そんなことを考えながら、束の間の休息を楽しんだのだった。
