ようくんはひとりじめしたい!

 八月下旬。真夏の日差しにもだいぶ慣れ、窓の外で毎日開催されている蝉の合唱コンクールも、いよいよ終幕を迎えようとしていた。
 俺は自分の部屋でソーダ味のポッキンアイスを咥えながら、夏の課題プリントを前に頬杖をついていた。
 紙の上には長ったらしい英文が書かれており、所々に鉤括弧が入っては虫食いのように欠けている。教科書や単語集を開いて解けばすぐにでも終わる量だが、どうにも気力が湧かない。それは英語が嫌いだからとかではなく、心の端にずっとモヤが残っているからだ。

 先月、高熱で倒れ込んで以来、陽兄との折り合いが悪くなっていた。否、正確には陽兄が俺を避けているのだ。
 あれからすぐに体調が良くなると、補習と部活動のために登校を再開したのだが、いつもの決まった時間に玄関ドアを開けても陽兄は居らず、その代わりポストの中に『しばらく気持ちの整理をさせてください』とだけ書かれた手紙が入っていた。
 何一つ変わらない通学路を、初めて一人で歩く。
 小学校の時からいつも隣に居た関係はたった一言によって音を立てて崩れ、その代わり目を閉じれば喪失感と罪悪感が肩を抱いていた。
 それでも日常は廻り続け、気がつけば盆の時期。
 気を紛らわすための部活動も休みになり、手の付かなかった課題の山に向き合うことでしか心の隙間を埋める術がなかった。

「はぁぁああ……」

 あの時、口を衝いて出た言葉を強く後悔しながら、部屋の外まで聞こえるほどのため息を漏らす。
 当然携帯のメッセージアプリで連絡するも既読が付かないので、直接謝りに行こうともした。しかし、なぜか家でも学校でも会えず、いっそのこと夜中に訪ねれば嫌でも会えるだろうとも考えたが、陽兄の両親に迷惑を掛けるほど馬鹿ではなかったので断念した。
 ちっとも課題は進まず、握っていた鉛筆を揺らすのにも飽きると、机の上に鉛筆を放り出し、ベッドの上で仰向けになった。
 頭の後ろで腕を組み、天井に貼られた壁紙の凸凹模様を眺める。
 今ここに陽兄が居ればきっと『食べながら寝るのは行儀悪いよ』なんて叱られたに違いない。それも今となっては答え合わせができないのだが。

「葉‼︎ なーに寝っ転がってアイス食べてるの! 勉強は終わったの⁉︎」
「はっ、はひゃっ⁉︎」

 突然の怒声に驚きベッドから跳ね起きると、いつの間にか部屋のドアが大きく開かれ、入り口には眉間に深い皺を刻んだ母親が洗濯物を抱えて佇んでいた。

「ビックリしたぁ。来るならノックしてって言ってるだろ!」
「しましたけど? 返事が全然ないからもしかして勉強頑張ってるのかしら〜と思ってコッソリ開けてみれば、まさかグータラ寝てるなんてねぇ」
「全然聞こえなかった。なんか集中できなくてさ……洗濯物ありがと」
「どういたしまして」

 綺麗に折り畳まれた服には、まだ陽の暖かさが残っており、思わず頬を擦り付けた。

「ちょっと! 今日洗ったばかりなんだから、それするならアイスを食べてからにしなさい」
「はーい……っていうか母さんこれ食べない? 一本は多くて」
「多いって、それなら最初から折って食べなさいよ」

 口に咥えていた食べかけのアイスを押し付けると、母親は呆れ混じりのため息をつきながらもちゃっかりベッドに腰掛け、チューブの中で半分固まっている水色の塊を吸い始めた。

「はぁーいいわねぇ。洗濯物を取り込んだ後にクーラーの下で食べるアイスは冷たくて美味しいわ」
「そうだと思って半分残しておきました」
「何調子のいいこと言ってるの」

 頬に当てていた服は次第に熱を失い、最後はただの冷たい布になると頬に当てる意味がなくなったので、一枚一枚丁寧にタンスにしまった。

「それで、まだ仲直りしてないの?」
「仲直りって……」
「七瀬くんと喧嘩、したんでしょ」
「……わかんない。今まで喧嘩したことないからこれが喧嘩なのかよくわかんない」
「そうね、アンタたちはいつも仲がいいから、これまで一度も喧嘩なんてしたことなかったわよね」

 母親は顔を上げ、一滴残らずアイスを食べ切ると短いため息をつく。それから悲しそうな表情を浮かべながら語り続けたので、俺は横に座ると静かに耳を傾けた。

「母さんね、今まで言わなかったけどね……七瀬くんには悪いことしちゃったなって思ってたのよ。たった一つしか違わない子だったのに〝お兄ちゃん〟を押し付けちゃったせいでいっぱい我慢させてたと思うの」

 確かに母親の言う通り、小さい頃から陽兄は〝兄として〟俺のことをいの一番に優先し、それが当たり前になっていた。
 しかし歳を重ねるにつれて周りの目も厳しくなり、容姿はもちろん学力の差を比べられることが増えると、それがいつしか〝兄に甘える駄目な弟(幼馴染)〟にしか感じられなくなり、いつからか彼の隣に立っていることが怖くなった。
 それをいくら熱があったとはいえ、こちらの勝手な都合で彼に劣等感剥き出しで当たるのはお門違いである。

「本当はお兄ちゃんをしたくない時だってあったはずなのに、アンタが楽しそうに笑うとあの子も幸せそうに笑うから止めてあげれなかった。自分勝手な親でごめんね」
「母さん……」

 母親は目の端を擦ると太腿を軽く叩き、勢い良く立ち上がった。

「まぁ今すぐにとはいかないと思うけれど、いつか七瀬くんと話せる日が来るわよ。だから今は自分のできることをしなさい」
「……うん。まずは溜まった課題やるよ」
「そう! 課題の提出が間に合わなくて単位を落として留年なんかしたら、アンタを家から放り出さなきゃいけなくなっちゃうわ!」
「それはやめて」
「だからそうならないように頑張るんでしょお」

 俺は少し丸まった背中を強めに叩かれると『頑張れ』と励まされたので、しっかり頷き、椅子に深く腰掛け直すと課題に向き合った。
 すると母親は去り際に何かを思い出したのか、背後で小さな声を漏らした。

「あぁ……そういえば、さっきお父さんがタンスの整理をしてたら、昔着てた浴衣が出てきたって言ってたのよ」
「え?」
「明後日は神社で盆踊りもあるし、それでも着て息抜きしてきなさいよ」

 そう言い残すと母親は静かに立ち去ったのだった。

 ⁂

 ——翌々日の夕方。
 俺は両親の寝室で、父親が見つけたお古の浴衣を人形のように着せられていた。
 黒地に薄っすらと浮かび上がる麻の葉模様の浴衣は、長年タンスの奥にしまい込んでいた割に生地の傷みはなく、まるで自分のために拵えたと錯覚するほどピッタリだった。

「はい、できたわよ‼︎」

 帯を腹にきつく締められ、背中で固く結ばれると、最後は何のサービスか尻を思い切り叩かれた。その勢いに負け、前に大きくよろけると壁に衝突してしまった。

「ちょっとちょっと、せっかく綺麗に着付けたんだから出かける前にはだけさせないでよ」
「じゃあ尻叩くなって!」
「アンタが暗い顔してるからでしょ。ほらシャキッとする!」
「わかったよ……」
「うん、それにしてもなかなか似合ってるんじゃないか?」

 父親は少し伸びた顎髭を触りながら頷くと、俺に向かって携帯電話のレンズを向け、数枚シャッターを切った。
 不意打ちのショットに表情を作る余裕はなく、額についたであろう赤い跡をさすっている、恥ずかしい画になっているのではないかと思う。

「確かに背筋も伸びていつもよりシャキッとしてるわね」
「顔も仕事中の俺に似てきたんじゃないか」
「そうねぇ。普段はボ〜ッと口を開けてるけど、ちゃんとした格好をすればそれなりにイイ男に見えるんじゃないかしら?」
「ん? それって仕事中の俺はまだまだイイ男ってことか!」
「何馬鹿なこと言ってるのよ」

 両親の夫婦漫才に嫌気が差すと、床に置かれていた巾着袋を拾い上げ、そそくさとその場から離れる。
 玄関には黒の鼻緒の下駄が用意されていたので、踵が少し出るよう足先に突っ掛けると家から抜け出した。

 ——時刻は十八時過ぎ。
 昼間、大コーラスを演じていたアブラゼミはヒグラシへバトンタッチしており、俺は哀愁漂う鳴き声に耳を澄ませながら夕空の下を歩き出した。
 神社は母校の小学校へ続く大通りから川沿いへ向かう道を進み、途中の坂を上った先にある。
 慣れない下駄を小さく鳴らしながら小股で歩みを進めると、ふと隣の家の窓を見上げた。
 陽兄の部屋にあたる窓の灯りは消えており、家の中にいるのかは外から判別がつかず、俺は小さなため息をつくと、かつての通学路を辿るように一歩一歩踏みしめながら進んだ。
 夕陽でオレンジ色になった住宅街を抜け、緩やかな坂道を下ると大通りにぶつかる。
 徐々に車や通行人が増え、その中には浴衣で着飾った人もおり、これから祭りに行くのだと窺える。
 ようやく下駄に慣れてきた俺は、浴衣集団に混じると後れを取らないよう早足で付いていった。
 川沿いの道に差し掛かると、頭上には神社名の書かれた赤と白の提灯が川の流れに沿ってぶら下げられており、風に乗ってお囃子の音や活気のある声が耳に届いてくる。
 ここ周辺では比較的規模の広い神社なので、毎年本殿前にはやぐらが組まれ、頂上では大太鼓が盛大な音を響かせるのだ。
 歩みを進める度に音は大きくなり、次第に甘い香りやしょっぱい香りを感じ始めると気分が高揚する。
 家から歩いておよそ三十分。
 陽は沈み、辺りが闇に包まれる中、ようやく参道に辿り着くと目の前にある大きな鳥居を見上げた。

「はぁ……すご……」

 すでに参道は人で溢れ返っており、両脇には多種多様な屋台が本殿へ向かって長く伸びている。その眩しさに目を細め、立ち止まると額から汗が噴き出し始めたので、ハンカチで拭いながらまずは飲み物を探す。

「ラッシャイラッシャイ、ビール、麦茶、ラムネ冷えてるよ〜‼︎」

 ナイスタイミング。
 まさしく今求めている物を叫ぶダミ声が耳に届くと、声を頼りに人混みの中を進み、それっぽい列に並んだ。すぐに先頭がやってくると額にタオルを巻きつけた中年男性が注文を伺ってきた。

「すみません、ラムネ一本ください」
「まいどっ!」

 男性は氷水がたっぷり入った青色のアイスボックスの中からラムネ瓶を掴み、タオルで周りの水を拭き取ると目の前に濡れた手のひらを差し出してきたので、巾着袋の中にしまってあった財布の小銭と交換してもらった。
 通行の妨げにならないよう道の端に寄ると、早速ボトルキャップの周りに付いた白いシールを剥がし、ピンクのリングから玉押しを外す。それから飲み口を塞ぐビー玉の上に突起部分を被せ、手のひらで真上からグッと力を掛けた。
 ポンッ、と小さな音がするとボトルの底に勢い良くビー玉が落ち、清涼感のある音が立ち始めた。
 すぐ手を離さないことでラムネが噴かずに済むのだが、小さい頃は早く飲みたい一心ですぐ手を離してしまって、自分の服や陽兄の服を濡らしてしまい親に叱られたものだ。
 泡が大粒から小粒へと変わり炭酸の音も静まると、そっと手を離し、一口呷る。
 喉をチクチクと刺激するきめ細かい泡と、くどすぎない甘さは昔懐かしい夏の味だ。

「っぷはぁ……!」

 胃に冷たいものが入る爽快感から、ついついお決まりの掛け声を発してしまう。
 瓶を傾けすぎるとビー玉が飲み口に転がり落ちてしまい、ラムネが飲めなくなるので、宇宙人の目のような二つの丸い凹みに玉を引っ掛けながら流し込む。
 あっという間に飲み切ってしまうと、瓶は露天商の男性に返却した。
 炭酸で刺激された胃袋は、固形物を求めてクルクルと小さな呻き声を上げたので、今度は食べ物を求めて散策を始めた。
 主食系は焼きそばにたこ焼き、お好み焼き。食べ歩きのおかず系ではフランクフルトやイカ焼き、焼き鳥が王道だろうか。
 どれも捨てがたく、頭を悩ませながら参道をゆっくり登っていると、ある光景が目に飛び込んできた。
 天板の上には丸く広げられた生地。そこに山盛りのキャベツ、麺、豚肉、卵が積み上がると職人の手によって綺麗にひっくり返される。最後は半月型に折り畳まれ、大量のソースが刷毛で塗られると、仕上げに鰹節と青のりが振り掛けられた。
 いわゆる広島焼きとも呼ばれるお好み焼きの一種。
 ゆらゆらと湯気に踊らされる鰹節は魅力的で、鉄板の上から目が離せなくなり、自然に足は暖簾の下へ向かっていた。
 財布の中からお札を取り出し、店員のお婆さんからお釣りとお好み焼きを受け取ると、人の少ない脇道へ移動した。

「はぁーうまそ……いただきますっ」

 割り箸の端を咥え、真っ二つに割ると片手で輪ゴムを外し蓋を開けた。
 白い湯気と共にソースと鰹節の香ばしい香りが上ってくると、口の中に溜まった唾液をごくりと飲み込む。早く食べたい気持ちを抑えつつ一口サイズに切ると、そのまま口へ放り込んだ。

「んんッ……‼︎ あ、あふっ⁉︎」

 直後、口からは蒸気機関車のように大量の湯気が放出された。
 ロクに息を吹き掛けずに食べたせいで確実に火傷を負ったが、痛みより美味しさが上回ったので良しとする。
 シンプルな生地に麺はお好み焼きと焼きそばのハイブリッド。野菜は嫌いだがキャベツが入っていることによって、甘みの底上げとソースの濃さを中和している。そこに半熟の卵と豚肉が加わると贅沢感が増す。
 ハフハフと熱い息を吐きながらゆっくり咀嚼していると、ちょうど目の前をウロウロする少年二人に自然と目が移った。
 小学三、四年生くらいの兄弟だろうか。首からポシェットをぶら下げて前を行く兄は、弟の手をしっかりと握り、屋台を指差しながら笑顔で話しかけている。

「タケル、今度は何食べたい?」
「んー……ボク、たこ焼きが食べたぁーい」
「じゃあ兄ちゃんと半分こなっ」
「えーっ! やだ! 一人で食べたい‼︎」

 弟が激しく腕を振りながら駄々をこねると、兄はその場で説教を始めた。
聞き耳を立ててみると、どうやらここに来るまでに焼きそばやポテト、焼き鳥とかなり食べてきているらしい。

——俺も昔、陽兄と来た時に一人で食べたいって駄々こねたなぁ。

 あれは今の兄弟と同じく、俺が小学校三年になった時だったか。
 すでに屋台で色々なものを食べていたというのに、イカ焼きに心を奪われた俺は一本丸ごと食べたいとおねだりをしたのだ。すると陽兄に『僕も食べたいから半分こして食べよう?』と優しく諭されるも、それが気に入らなかった俺は駄々をこね、結局二人分購入してもらったのだ。
 ずしりと重いイカを渡された時は飛び跳ねるくらいに嬉しかった。だが、全ての足を食べ切る頃には、腹がはち切れそうになり、結果残り全てを陽兄に押し付けたのだった。
 そんな懐かしい出来事を思い出すと、胸の奥が何かに鷲掴まれる切なさを覚えた。
 兄弟から手元に視線を戻し、黙々とお好み焼きを平らげるとハンカチで汚れた口を拭き取り、空の容器は店横に置かれていたゴミ箱に投げ入れた。
 少し気分が沈んでしまったので、何か遊んで楽しめる屋台はないか辺りを探すと、ちょうど近くに金魚すくいを見つけた俺は赤い暖簾を潜ったのだった。

「すみません、一回お願いします」
「はいよ」

 ビールケースに腰を下ろす仏頂面の男性に一回分のお金を渡し、ポイと呼ばれる丸いプラスチックの枠に薄い紙を貼った道具と手桶を貰うと、水槽の前にしゃがみ込んだ。
 白い水槽の中では、コントラストの強い赤と黒の小さな金魚がゆらゆらと自由気ままに遊泳している。
 まずは袖を肩までまくり上げると脇をしっかり締め、浴衣が濡れないようにする。それから金魚を入れる用の手桶に少量の水を掬うと、今度はポイの裏表を確認した。
 ポイをゆっくり水底に沈めると金魚たちは突然現れた異物に驚いたのか、蜘蛛の子を散らすようにして逃げた。
 しばらくそのまま待ち続けていると、ポイの上を通過する金魚が何匹か現れたので、ど真ん中に来たところを狙ってゆっくり上へ持ち上げた。

「あっ……」

 ポチャン、と金魚が水面に落ちるとポイの真ん中には大きな穴が。
 辛うじて端っこに紙が残っているので、ダメ元でもう一度水の中に手を差し込み、再びチャンスが訪れるのを待つと、ポイに向かって泳いでくる小さな赤い金魚がいた。
 今度こそは——と手を動かした途端、耳元で懐かしい少年の声が響いたのだった。

『あー惜しいっ‼︎ 狙うタイミングは良かったんだけどなぁ……さっきも言ったけどポイは真上じゃなくて斜めに持ち上げるんだよ。角度は確か——』

 ——斜め四十五度。
 空に向かって掬い上げるとポイの端に一匹の金魚の頭が乗り、そのまま手桶の中に落ちた。

「とっ……獲れた……」
「おめでとう、兄ちゃん」

 仏頂面だった男性はわずかに口の端を吊り上げると、獲った金魚と水槽の水を透明な巾着袋に入れ、水が漏れないように赤い紐で締めると左手首に掛けてくれた。
 腕を持ち上げ、屋台の照明に袋を翳すと、金魚は小さな世界の中で、気持ちよさそうにゆらゆらと尾鰭を揺らして泳いでいる。
 あの時は獲れなかったのに——もしも今の彼がこれを見たらなんと言ってくれるのだろうか。
 『凄いね』それとも『頑張ったね』

「はは……」

 自分から突き放したというのに、あまりにも利己的な思考に嫌気が差すと口からは乾いた笑いが漏れた。
 せっかく気分転換で祭りに来たというのに、彼と過ごした思い出をなぞっているようで、かえって気分が暗くなると、この場から逃げるように立ち去ったのだった。

 ⁂

「す、すみませんっ……通してくださいっ……!」

 参道を降り始めてかなり経つも、未だ神社から抜け出せていなかった。
 なぜなら多くの人がこれから境内で行われる花火に向かう中、人混みを掻き分けながら参道を降りなくてはならなかったからだ。
 何度も足を踏まれては蹴られ、それでも無理に前に進むものだから鼻緒が擦れてしまい、親指と人差し指の間から鈍い痛みが走っていた。
 こんなに混むのなら運動靴で来ればよかった——と強く後悔しながら抗い続けていると、自分の先にも人の波に逆らって突き進む者が見えた。

 少し背の高い、薄茶色の髪に黒のシャツ。

 つい数分前まで会いたいと思っていた彼に似た人物は、頭を何度も下げながら進んでいる。
 もしかして陽兄ではないかと思うと居ても立ってもいられず、俺はその背中を掴もうと必死に手を伸ばしながら追っていた。

「まっ、待って……陽兄っ‼︎」

 人の間を縫って、やっとの思いで彼のシャツの裾を掴むと逸れないよう強く握りしめたが、掴まれていることに全く気がついていないのか、はたまた逃げているのか、彼はお構いなしに道を下り続けるので、後で怒られる覚悟で服を思い切り引っ張ると、脇道に引きずり込んだのだった。

「はぁ……はぁっ……陽兄、待ってよ……」

 さすがに人の少ない場所に連れてくれば、嫌でも話さざるを得ないだろう。
 荒くなった息を整え、少し乱れてしまった浴衣の前部分を整えていると、彼はゆっくり振り返り、少し前屈みで声を掛けてきたのだった。

「どうしたの? ボク、迷子?」
「……へ」

——誰だ、この人。

 後ろ姿の雰囲気は陽兄に瓜二つだったが、真正面から見ると鼻はぺちゃんと潰れ、腹が大きく前へ飛び出ており、明らかに彼とはかけ離れた容姿である。

「あ……すっ、すみません! 人違いでした」
「うん? もしかしてオニイチャンとハグれちゃったのかナ? 大丈夫? ボクチャンが一緒に探してあげようか?」
「い、いや、大丈夫っす……」
「遠慮とかしなくていいからッ‼︎ こんなに人がいっぱいいる中、一人でオニイチャンを探すのは大変だよぅ!」

 男は鼻を鳴らしながら近付いてくると、こちらの許可も取らずに右手を掴み、指を絡ませるだけに留まらず手の甲を撫でてきたのだ。
 ゾクリ、と背筋が凍る。
 不穏な空気を察知し、男の手を思い切り振りほどくと、すぐ裏手にある雑木林に逃げ込んだ。

 土を蹴って、木の根を飛んで——。
 家からは離れてしまうが一度境内まで行き、花火を鑑賞する人々に紛れて参道に戻れば、仮に追い掛けられたとしても、あの小太り体型では到底追いつけないだろう——と脳内で作戦がまとまると、真っ直ぐ進んでいた足を急遽左に切り、全力で坂道を駆け上がったのだった。
 だがしかし、予想を大きく裏切り、背後からは豚のような鼻息と時折バキッと枝を踏み潰す音が物凄い勢いで追ってきたのだ。

「ハァーッ、ハァーッ‼︎ まッ、待ってよぉ〰〰〰〰‼︎」

 男はゼヒゼヒと荒らげた息を漏らし、こちらのスピードに食らいついてくる。

——浴衣とはいえ、こちとら陸上部だぞ……⁉︎

 単に自分の足が遅いのか、はたまた予想以上に相手の足が速かったのか。とにかく追いつかれないよう必死に逃げる。
 ブツン、と右足の下駄の鼻緒が切れ、大きくバランスを崩しそうになるも近くにあった木を支えにしてなんとか体勢を立て直すと、残っていた左足の下駄を脱ぎ捨て、月明かりに照らされる薄暗い道を走り続けた。
 腕を大きく振って、足を前に伸ばして。
 そろそろ境内に辿り着いてもおかしくないはずだが、知らず知らずのうちに雑木林の深いところへ迷い込んでしまったのか、賑やかな人の声も音楽も聞こえず、今は自分と男の荒い息と左手にぶら下がっている袋の激しい水音の方がよく聞こえていた。
 これがあの高熱の悪夢だったらどれほどよかっただろうか——と思いを馳せても足の裏から伝わる土の冷たさと、石や木を踏ん付けた後の痛みが現実であることを証明していた。

「……あっ⁉︎」

 つま先に鈍い衝撃——。
 両足が宙に浮き、前傾姿勢になると地面が目と鼻の先にあった。
 咄嗟に両手を前に突き出し、前回り一回転。
 間一髪、頭をぶつけることは回避できるも近くでバシャン、と水が弾け飛ぶ音がした。
 金魚はきっと無事ではない。
 そして多分、俺も。

「ハーハーッ、んもー酷いなぁッ! チッ、チミから声を掛けて来たのにッ、逃げるなんてぇッ!」
「い、いや、だからっ……人違い、なんだって……っ‼︎」

 声を荒らげると受け身を打った際に強打した尻と両手が、ズキンズキンと心臓の脈動のように激しく痛む。
 男も満身創痍なのか、地面に伏したまま上がった息を整えるのに夢中になっていた。

——そうだ、今のうちに携帯電話で警察を。

 俺は右手に掛けた巾着袋に手を伸ばすも、思わず息を短く飲んだ。
 巾着が、ない。

「う、うそ……」

 転倒した際に落としたのではないかと祈るような思いで周囲を探すもやはり、ない。
 もしかして男の手を思い切り振りほどいたあの時、手首から抜けてどこかへ飛んでいってしまったのだと思い至ると、瞬時に血の気が引いた。
 俺が狼狽えている間に男は息を整えたらしく、のっそりと立ち上がり、千鳥足でこちらへ歩み寄ってきた。

「大丈夫?」
「だ、大丈夫って、どこからどう見ても大丈夫なわけないだろ!」
「痛いよねぇ? でもボクチャンの方がもっと痛かったお! 可愛いチミが困ってるからせっかく助けてあげようって思ったのに手を叩いて逃げるんだもん‼︎ でも大丈夫ボクちゃんはとっても優しいからチミの怪我を見てあげよう」

 男はまるで呪文でも唱えているかのような早口でまくし立て終えると、重そうな体で馬乗りになってきた。
 腕をバタつかせ抵抗するも、乱れた浴衣の隙間に腕を差し込まれ、全身の毛穴が粟立ち、体が勝手に小刻みに震え出した。

「デュフ‼︎ ふっ、腹筋もムキムキでかっこいいなぁ!」

 男は唾を撒き散らしながら、浴衣を乱暴に開くと胸に顔を擦り付けては、腹にじっとりと湿った手を這わせてきた。

——いやだ、こわい、たすけて。

 怪我の痛みなぞ忘れ、全身が強張り息が詰まる。本当に人間は恐怖に陥ると声も出ず、動けなくなるのだと初めて知った。
 男は興奮しているのか膨張した下半身を擦り付けながら、腹や腰、背中を執拗に撫で回してくる。
 吐き気を催すほどの嫌悪感を前にしても、未だ声も出せず、ただ嵐が過ぎ去るのを待ち続けた。するとこちらが抵抗できないことをいいことに、浴衣の裾を持ち上げ、太腿に手を伸ばしたのだった。

——嗚呼これでもう終わったな。

 せめて意識を別の場所へ逃そうと瞼を閉じる。
 その刹那——。

「ぅるぁあああああッッ‼︎」

 ゴンッ、と鈍い音がすると同時に、頭上の男が絶叫した。
 体の上に乗っていた重みが物凄い勢いで吹き飛ぶと、少し離れた横から醜い呻き声が聞こえてきた。
 何が起こったのか、辛うじて上半身を起こし声のする方に視線を向けると、細身の影が蹲る男の腹を蹴り上げていた。

「おい何触ってんだオッサン。立てよ」
「い、いだ……い゛だいぃっ‼︎」
「ギャアギャア喚いてんじゃねぇよ、立てつってんだろうが!」

 風切り音と共に、肉を蹴る生々しい音が耳に届くと、別の恐怖を覚える。
 両耳を塞ぎ頭を伏せると、ただ嵐が過ぎるのを待ったのだった。

 ⁂

 ——どれくらいの時間が経ったのだろうか。
 振動も罵声も消え、雑木林に本来の静けさが訪れると、恐る恐る体を起こし辺りを見回した。
 細身の男は肩を大きく上下に動かしており、その足元には動かなくなった塊があった。
 目を凝らして見る度胸はないが、土の匂いに混じって鉄臭さが鼻を刺した。

「……う」

 激しい吐き気を催すと鳩尾と口元を押さえ、胃の中の物が逆流してくるのをグッと堪えた。
 すると俺の異変に気がついたのか、細身の男は駆け寄ってくると目の前にしゃがみ込み、背中に両腕を回してきた。
 決して不快感はなく、むしろ安心する匂いに包まれると全身の緊張の糸が切れ始めた。

「葉っ……‼︎ よかった、見つけられてよかった……! 遅くなってごめんね、怖かったよね、もう大丈夫だよ」
「よ、う……にぃ……?」
「うん、陽兄だよ」

 いつもと変わらぬテノールの優しい声に目の奥が熱くなるとボロボロと涙が溢れ落ち、広い背中に強くしがみついた。
 恐怖から解放された安堵感からか、それとも陽兄に再会できた喜びが強いのか、まるで子供のように声を上げながら泣き続けた。
 彼があやすように背中をさすり続けると、次第に涙と震えは収まった。

「少し落ち着いた?」
「ん……ありがと。でもなんで俺がここにいるってわかったの……」
「話すと長くなるんだけど、その前に服直させてもらってもいいかな」
「……うん」

 彼は持ってきていた懐中電灯を点け、近くの木に立てかけた。
 小さな光を頼りに、乱れてしまった浴衣を丁寧に直しながら、ここに至るまでの経緯を説明してくれた。

「今日の夕方、お母さんに晩ご飯のおかずを作りすぎたから隣に持って行くよう言われて、それで葉の家に行ったらご両親から『お祭りに行ったよ』って教えてもらってね。その時に色々話をして……葉の顔が見たくなったのかな、気がついたら神社まで来てたんだよね」

 ぐちゃぐちゃだった胸元と裾が綺麗に整えられ、帯が締め直される。タオルで涙や汗で濡れた顔を拭われると、その手の温かさに安心し、そっと頬を擦り寄せたのだった。

「あれだけ人の多い中で、人を一人探すなんて当然雲を掴むような話だから、一度だけ電話を掛けてみたんだ。そしたらたまたま近くで着信音が鳴って……音を頼りに探してみたら、葉の巾着を持った人に出会えてね」

 彼はタオルを握る手を下ろすと、ズボンのポケットから俺の薄汚れてしまった巾着袋を差し出してくれた。

「参道の脇道に落ちてたのを拾ったんだって。その場所まで案内してもらったら近くの生垣が荒れてて、もしかしてその先に行ったんじゃないかって思って覗いてみたら案の定、土に硬い何かで抉ったような跡があったから、それを追ってきたんだよ。でも僕がもっと早く……いや、僕が怖気づかなければこんな酷い目に遭わずに済んだのに……ごめんね」
「ううん、俺の方こそ酷いこと言ったのに助けてくれてありがとう。陽兄が来てくれて本当によかった」

 彼は胸を撫で下ろしながら薄く笑うとそのまま身を返し、背を向けてきたのだった。

「浴衣も直せたし、そろそろ案内所まで行こっか。何があったか一人でも説明できるよね?」
「え……できる、けど……その……」
「うん? あっ、もしかしておんぶが嫌だった……? でもごめんね、こうしないと葉のことを運んであげられないから、今は我慢して欲しいんだ」

 今ここで背中に乗ってしまったら、もう二度と陽兄と話せないのではないかと悟ると、俺は差し出されていた手を掴んだのだった。

「葉?」
「待って……俺、謝らなきゃいけないことがあって」
「葉が謝ることなんて何もないでしょ?」
「あるから聞いてほしい」

 彼は背を向けたまま動かなかったが、しばらくして静かに頷いたので、俺は今まで心の奥にしまい込んでいた気持ちを吐露したのだった。

「俺、本当は陽兄に弟扱いされるの嫌じゃなかったんだ。俺にとって陽兄ってさ、本当に自慢の兄ちゃんで、昔っからなんでもできるし、皆に好かれてキラキラしてて……そんな弟で居られるのが自慢だった。けどさ、だんだん成長してくと、なんか周りの目が変わり始めるじゃん。陽兄みたいな完璧な人の隣に、俺みたいな見た目も運動も勉強も全部普通なやつが並ぶのは、世間からは認められないっぽくて……。陽兄は周りのことなんか気にしなくていいって言ってたけど、俺は自分が比較されるのも怖かったし、何より自分の尊敬する兄ちゃんが俺と一緒にいることで、周りから評価を下げられるのがもっと嫌だった。もし〝本当に血の繋がった兄弟〟だったら今よりマシな見え方すんのかなって。何度も本当の弟になれれば良かったって思ったんだぞ。そんなの絶対なれないってのに……馬鹿みたいだろ……」

 俺は小さく鼻を啜ると、目尻を袖で拭った。

「でもどんな時も陽兄は変わらず優しくしてくれるから、いつからか陽兄は〝俺〟だからじゃなくて〝弟〟だから優しくしてくれてるだけなんだって疑うようになって……だからあんな酷い言い方してごめん」

 長い沈黙が続き、木々がそよぐ音だけが辺りに響くと、ようやく彼は口を開いたのだった。

「葉は強いね、僕なんかよりもずっと……」
「え……?」
「高校に入った時からだよね、葉が僕から一歩引いてくれたのは」
「まぁ、その、中学までと違って俺たちのことを知らない人ばっかだし」
「そうだよね。それなのに僕は〝兄〟じゃないと葉の傍にいられなくて……」
「それって、俺がただの幼馴染として隣に置くには恥ずかしかったから?」
「ううん」
「じゃあ弟じゃない俺のことが嫌い、だから……」
「違うよ——」

 彼がゆっくり振り向くと、はにかんだ顔を照らすように頭上でドンッ、と大きな赤い花火が上がった。

「——好きだから。誰よりも葉のことが、好きだから」

 瞳を煌めかせた彼が穏やかに笑うと、白い弾が何発も上がり始め、空が明るくなったのだった。

「好き、って……俺も陽兄のこと、好きだけど」
「ううん、葉の〝好き〟と僕の〝好き〟は違うから」
「それって……その……」

 彼は長い睫毛を伏せると、今まで聞いたことのない弱々しい声で語り始めた。

「さっき葉は僕に謝らなきゃいけない、って言ったけど本当に謝るのは僕の方なんだよ。あの日、葉に『本当の弟じゃないのに』って言われて、僕はずっと目を逸らし続けてたことを思い出したんだ。僕は葉の〝兄〟だったから、自信を持って葉の隣を歩けただけで……ただの〝七瀬陽〟になったら隣を歩けなくなっちゃう臆病で狡い人間だったんだって」
「なんで? 陽兄は全然臆病で狡くなんてないじゃん」
「それは葉の前では〝理想のお兄ちゃん〟しか見せてないからだよ。本当の僕は、もっと醜くて汚くて……葉のことを襲った男と変わらない、気持ち悪い感情を持ってるんだよ。そんな僕が葉の隣に並ぶためには〝お兄ちゃん〟でいる以外に方法がなかったんだよ」

 パチパチと音を鳴らしながら消える花火に紛れて、彼は自虐的に笑うと『それももう、今はできないけど』と呟いたのだった。

「……そろそろ行こっか。怪我、手当してもらわないと」
「待ってよ」
「葉、お願い、我儘言わないで」
「待てって!」

 彼の胸ぐらを掴むと、暗闇の中でも目と目が合う距離まで近づいた。

「お兄ちゃんじゃなきゃ隣に立てないってなんだよ……なんで、突然俺のこと見放すんだよ……俺のことが好きならずっと一緒に居ろよ‼︎」
「僕だってずっと一緒に居たいよ! でも僕と居ることで葉が苦しい思いをするのは見たくないっ」
「俺は——俺はっ! そんな理由で陽兄と離れるくらいなら幼馴染でも恋人でも、何にだってなっていい‼︎」

 震える胸に顔を埋めると、溢れ出した涙を擦り付けたのだった。
 彼も泣いているのか掠れた声で話しかけてきた。

「じゃあ、僕とキスできるの」
「…………で、でき、できる」
「本当に?」
「でっ、できる‼︎」
「キスしたら……幼馴染でも、兄弟でも、友達でも、なくなるんだよ」
「できるって言ってるだろ!」

 俺は顔を上げると、閉じ切っていない唇に口先を当て、勢いに任せて彼の上に覆い被さったのだった。

「俺たち何年兄弟と幼馴染やってきたと思ってんだよ。同じ飯食って風呂入って布団で寝たんだぞ! それがキ、キスの一回や二回で嫌いになるわけないだろ‼︎」
「……は」

 彼は目を大きく見開くと、目頭に光るものを浮かべながらゲラゲラと笑い始めたのだった。

「な、なんで笑うんだよっ!」
「いや……ごめんっ、ははっ……はははっ‼︎」

 花火の大音量に混じって、彼の笑い声が辺りに木霊した。
 ひとしきり笑い終えたのか、大きく息を吸い込んで、最後は目を腕で拭うと俺の涙に濡れた頬に触れたのだった。

「そうだよね、僕たち何年の付き合いだって話だよね。本当に——本当に、葉は強いなぁ」

 彼は震える腕で、俺の体を思い切り抱きしめると何度も頭を撫でたのだった。
 背後ではヒューッ、と甲高い音の後にパァン、と軽い音が次々と空に響いていた。

「だから撫でるなって」
「今は許してよ……」
「まぁいいけど……はーあ。なんか全部ぶちまけたらすげぇスッキリした」
「僕もスッキリした。これでもう葉への気持ちを隠さずに済むね」
「それって」
「好きとか可愛いとか言ってもいいでしょ?」
「は、はぁっ⁉︎」

 思わず顔を上げると、いたずらっ子のような笑みを浮かべた彼と視線が重なり、顔が熱くなると、心臓の鼓動が一気に早まった。

「顔赤いけどもしかして、照れてる?」
「てっ、照れてねぇっ‼︎ 花火だ! 花火が赤いからそうやって見えるんだよ‼︎」
「はいはい、今はそういうことにしておこうね」
「そんなことより、もうさっさと帰ろ! 体のあっちこっち痛くなってきた……」
「わかった。っと……その前に通報しないと」
「警察には後で通報すればいいじゃん、あんだけボコられてたら絶対動けないし」
「……だね、というか骨何本か折っちゃった気がするんだけど、これって正当防衛になるかな」
「なる。正当防衛だって認めるまで俺が説明する」
「葉は本当に強いなぁー」

 彼は笑いながら体を起こすと、一度土の上に俺を下ろした。そして、懐中電灯を拾い上げた後、再び背中を差し出してきたので、今度こそ彼の背中に身を預けると目線がいつもより高くなった。
 裸足で駆け上がった道を一歩一歩、滑らないように慎重に降りていく。

「よく裸足でこの道走れたね」
「人間ピンチになれば多分、針の山も登れそうだよな」
「確かに。葉が針の山の天辺に居るってなったら、登って行っちゃうね」
「どんだけ俺のこと好きなんだよ」

 笑い混じりのため息を吐くと「まぁでも、俺も登ってくかも」と呟いたのだった。

「え? 今なんか言った?」
「なんでもねぇー。それよりもう兄ちゃんじゃないなら、これからは陽兄のことなんて呼べばいい?」
「今さら変えるのは難しいでしょ、今まで通り陽兄でいいよ」
「それじゃあケジメがつかないだろ」
「そしたら葉がまた新しい渾名考えてよ」
「えぇー……じゃあ七瀬、とか」
「全然渾名じゃないんだけど」
「七瀬くんは?」
「それは絶対にやめて。皆からそう呼ばれてるから葉には絶対そう呼ばれたくない」
「意外と我儘だな。じゃあよっちゃんー?」
「イカか‼︎」
「これもパスな。うーん、呼び捨ては紛らわしすぎるし…………あ。これなら絶対いいだろ‼︎」
「うん?」

 花火の大音量にかき消されないよう、耳元に口を寄せると、こう呼んだのだった——。

「——ようくん」