七月下旬。嵐のような期末試験を乗り越えると、待ちに待った夏休みがやってきた。
蒸し暑い体育館の中で大人数が密集する終業式を終えると、教室に戻り、担任から夏休みの指導を受ける。それからクラスメイトたちとしばしの別れを告げた——と言っても仲のいい者同士は休み中にアミューズメントパークなどへ遊びに行くようだが。
俺はといえば、見事期末試験の数学で赤点を取ってしまったので、明日から一週間補習授業に出なければならなかった。
「うわっ⁉︎ あっつ……」
玄関ドアを開けると熱気という名の塊が体当たりをしてきたので反射的に閉じて身を守る。
すると、凄まじい速さと回数のノックが玄関に響き渡った。ドアガラスに映る影にぶつからないよう、慎重に開き直すと、膨れっ面の陽兄が佇んでいた。
「おはよう」
「お、おはよ……」
「こら、なに外出キャンセルしてるの」
「だってすげぇあちぃんだもん……」
「そうだけど学校行かないと」
「もう夏休みだぞ」
「補習と部活、あるんでしょ」
「そうだけど……絶対こんな時に外出る方がおかしいって!」
再びドアを閉じようとするも、隙間から白くて細長い腕が生え、あっさりこじ開けられるとそのまま強く手を引かれ、俺の体は炎天下に曝されたのだった。
「だわっ⁉︎」
「よし、連れ出し大成功!」
「危ないだろ! ドアに挟んだらどうすんだよ」
「平気平気、僕の方が力あるって知ってるでしょ」
目が痛くなるような真っ白いYシャツに身を包んだ陽兄が、これまた真っ白な歯を見せつけてくる。
しかし彼も暑いのか、額に浮かぶ大粒の汗を紺色のハンカチで拭っている。その姿は暑苦しさを感じさせず、寧ろマイナスイオンを撒き散らしている。
「はぁーあ、マジで行きたくねぇ……」
「でも行かないと成績下がっちゃうよ」
「だから行くしかないんだけど……暑すぎる‼︎」
「急に気温上がったもんね」
「ほんとだよ」
今日から本格的に真夏日に入ったのか、前日とは比にならないくらい日差しは強く、朝の時点で気温は三十度を越していた。
昨今は温暖化が進んでおり、これから昼に向かって気温が上昇するのは目に見えている。そんな時に外出なんてとんでもない。
しかし、すでに低いであろう評定平均をさらに落とすのは都合が悪いので、俺は諦めの気持ちで歩き始めると、汗で張り付いたシャツを胸元で掴み、パタパタと空気を取り込んだ。すると横から手を押さえられ、動きを遮られたのだった。
「服が伸びるから駄目だよ」
「そう言っても暑いもんは暑いんだよ」
「そうだけどそんなに引っ張ったらお腹出ちゃうよ」
「俺のお腹が出てもなんも問題ないね」
「問題あるでしょ」
「なんで」
「それは……お兄ちゃんがお腹を触りたくなるからだー!!」
「うぉっ⁉︎」
少し汗ばんだ手が腹に伸ばされると、擽ったさのあまり大声で笑ってしまう。
朝の住宅街に裏返った笑い声が木霊すと、慌てて口を覆い、陽兄の頭を軽く握り拳で小突いた。
「あた! 殴られたぁ!」
「あっついんだから暑くなるようなことすんなよ‼︎」
「じゃあお腹をきちんとしまいましょう」
「わかったよ、もうシャツ引っ張んねぇから」
まくれ上がったシャツをズボンの中に押し込むと暑苦しさに顔をしかめる。
それから効きの悪い冷房の点いたバスに鮨詰めで座り、電車で学校の最寄り駅まで向かうと、長い坂道を登ってようやく校門に辿り着いた。
校舎の中は普段より生徒数も少ないため、全体的に静まり返っており、俺はその雰囲気が好きだった。
教室に行くと中に居た人たちの視線が一斉にこちらへ向けられる。顔見知りの者もいれば全く知らない人もおり、軽く会釈すると特に会話を交わすことなく、前から三番目の窓際に座った。
しばらくして、気怠そうな教師がプリントを抱えて入ってくると、出席を取り、号令を合図に授業が始まった。
前期に習った基礎をはじめからさらっているのだが、退屈すぎて欠伸を噛み殺しながら話を聞く。すると、窓の外から風に乗って流れてくる音に耳を傾けた。
どこかノスタルジックなメロディーを、まるで人が歌っているような太く鋭い音で奏でている。緩急がしっかり付いており、奏者の自信が伝わってくる。それでいて独り善がりではなく、後から追いかけてくるパートをしっかり支えている。
その音を陽兄が奏でているのだとなんとなく感じると、俺は目を瞑りながら音色に聞き惚れたのだった。
吹奏楽部の練習に夢中になっていると、いつの間にか授業が終わっていた。教師から課題プリントを受け取り、誰もいない空き教室で昼食を食べた。
午後は部室棟で練習用ウェアに着替え、午前中から練習をしている部員に混じって走り込みを始めた。
茹だるような暑さ。
額から噴き出す汗は顎先から落ち、何度も服や手の甲で拭っても湧いて出てくる。
陽炎のせいなのか、暑さに脳みそが沸騰しているのか足元の長い白線が歪み始める。
「……や、やば」
いつもと変わらないフォームとスピードだが、動悸が激しくなり、空気を吸い込めなくなると最後は足が絡れ始め、転がるようにトラックの上へ倒れ込んだ。
土埃が舞い激しく咳き込むも、思ったように体が動かない。
土は太陽の光で温められているはずなのに水のように冷たい。
周囲がザワつき何かを訴えかけてきているようだが、うまく聞き取れず、そこで意識が途切れたのだった——。
⁂
「軽い熱中症と夏風邪なんで、まぁ点滴打って何日か休めば元気になりますよ」
白い床の溝をぼんやり目で辿りながら医師の言葉に頷くと、周囲のカーテンを閉められ、俺はベッドの上に取り残された。
病院特有の薬品と消毒の匂い。
左腕を見ると透明な輸液パックから伸びた管が紙テープで巻き付けられており、その先には青色の器具が固定されている。
心なしか針の刺さった箇所を見ていると、なんとなく腕が痛むので、隣に座っている陽兄の肩にもたれかかった。
「辛いね」
「ん……」
「でも点滴で済むくらいでよかった」
温かい手が肩に置かれると、優しく引き寄せられ、トントンと規則正しいリズムで背中を叩かれた。
幼い頃、陽兄と一緒に寝た時にこうして寝かしつけてくれていたことを思い出し、無意識のうちに肩に頬を擦り寄せてしまう。
「それ……すげぇ眠くなる……」
「葉は寝る前はしゃいじゃう子だったけど、こうするとすぐ寝てくれたね」
「だって……兄ちゃんと寝るって言ったら……嬉しくて騒いじゃうもんだって……」
「僕も嬉しかったけどさ、十時過ぎても枕投げしたりゲームしたりはさすがに親に怒られたよ『お兄ちゃんならちゃんと弟のこと寝かしつけなさい』って」
「はは……だから布団に入ったらすぐトントンしてくれてたのか」
「だって親の機嫌を損ねて一緒に寝れなくなったら悲しいでしょ?」
「そうなったら俺、グズっただろうな……」
「『なんでお兄ちゃんと寝れないの〜!』って?」
陽兄のダミ声に笑い声が出ると、目の奥が絞られたような痛みが走り、唸り声を漏らした。
つい思い出話に花が咲いてしまったが、一応高熱で病院に連れてこられていたのだ。
「少しおしゃべりし過ぎちゃったね。点滴終わるまであと一時間はあるから少し寝る?」
「……そうする。終わったら起こして」
俺はいつもより重怠い瞼を閉じると、静かに呼吸を繰り返したのだった。
——時間は少し遡って。
校庭で倒れ込んだ後、保健室に運ばれている途中で意識を取り戻した俺は、ひとまずベッドに寝かされ、養護教諭から体調を確認された。
幸い転倒した時に頭は打っておらず、怪我は腕と脚に軽い擦り傷程度で済んでいた。若干の吐き気はあるものの、脱水症状は見られないので重篤な熱中症ではないそうな。しかし寒気が酷く、体温を測ると三十九度超えの高熱だったことが判明した。
顧問とも相談し『帰宅後病院に行く』と話がまとまったところで、息を切らした陽兄がやってきたのだ。
後に話を聞いたところ、どうやら部活の練習中に教室の窓から倒れ込んだ瞬間が見えたので、練習を放って飛んできたらしい。
陽兄は教師二人に『日中は俺の両親が居らず、自分は隣に住んでおり昔から交流もあるため、かかりつけの病院に連れて行ける』と説明をした。それから彼は走って部室棟へ荷物と着替えを取りに行くと、熱でよろける俺を支えながらジャージに着替えさせ、かかりつけの内科へ連れて行ってくれたのだった。
「——……う、葉」
肩を優しく叩かれながら名前を呼ばれると、暗闇の中から少しずつ明るい世界へ向かった。
瞼を開くと視界は九十度横になっており、右頬から温もりが伝わってくる。
左腕を確認すると貼り付けられていた管も、刺されていた針も知らぬ間に喪失している。
どうやら陽兄の膝の上で寝てしまった間に、全ての処置が終わったらしい。
「病院に来たときは土気色だったけど、かなり顔色良くなったね、よかった……」
俺は大欠伸で返事すると、意識が完全に覚醒するまで陽兄の顔を見上げていた。
ローアングルからだと、長い睫毛がいつも以上に伸びて見える。瞬きをする度にバサバサと羽ばたき音が鳴るのではないのかと思えるほど、綺麗に生え揃っている。
そのまま整った顔を観察していると、優しく微笑みながら頬を撫でられたので、恥ずかしさで完全に目覚めると体を起こし横に座り直した。
「そんなに慌てなくてもカーテンも閉まってるし、僕たちのことをよく知ってる先生たちだから平気だよ」
「そうだけど落ち着かない」
「じゃあもう帰る? 家ならゆっくりできるでしょ」
「家だから膝枕していいとは言ってない!」
「僕は膝枕するとは言ってないけど?」
売り言葉に買い言葉。
ほくそ笑む陽兄に突っかかりそうになるも、見え透いたトラップに引っ掛かるほどもう体調は悪くないので、彼の言葉を無視してベッドから離れるとカーテンを開き、近くにいた顔なじみの看護師に挨拶すると処置室から立ち去ったのだった。
生まれたての雛のように後ろに張り付いてくる陽兄を引き連れて、待合室の端の席に腰掛けて待っていると受付スタッフに名前を呼ばれたので、無一文の俺の代わりに彼が治療費を払いに行ってくれた。
支払いを済ませた陽兄は俺の前に戻ってくると、手を差し出してきたので、今度は振り払わずに握り返すとゆっくり立ち上がり、家まで連れ帰ってもらったのだった。
⁂
無事、家に到着すると鍵を持つ陽兄に玄関を開けてもらい、真っ先に洗面所に足を運んだ。
ジャージと汚れた練習用ウェアを脱ぎ洗濯機に放り入れると、手洗いうがいを済ませ、土と汗で汚れた顔と腕を入念に洗い流してから、自分の部屋に向かう。
短い時間だったとはいえ、さすがに炎天下の中を移動したせいで再び熱が上がり始めたのか、頭痛がする。着替える体力も気力も残っておらず、下着のままベッドに寝転がった。
ヘッドボードに手を伸ばし、リモコンを掴むと冷房のスイッチを入れる。
横長の機械が唸り声を上げると、すぐに冷たい風が吐き出され、心地良さに目を細めた。
「葉、入るよ」
部屋のドアをノックする音が四回聞こえた後、静かにドアが開けられると陽兄はタオルとスポーツドリンク、冷却ジェルシートを持ってやってきた。
「熱上がっちゃったみたい?」
「多分、少し頭痛い」
「薬箱の中に痛み止めしまってあったけどどうする? 飲んでみる?」
「休めば多分治ると思うからいい……」
「じゃあ足汚れてるの拭かせてね」
「ごめん……」
ベッドの横にしゃがみ込んだ陽兄は右足を掴むと『少し冷たいからね』と声を掛けた後、足裏に濡れたタオルを当てた。ひんやりしたタオルは火照る体の熱を奪い取っていく。
ガーゼの貼られた擦り傷を避けながら優しく土を拭われると、反対の足に加えて背中の汗も綺麗に拭き取り、最後はパジャマに着替えるのも手伝ってもらった。
実に至れり尽くせりである。
「何から何までほんとごめん……」
「そう何度も謝らないの、全部僕がやりたくてやってることなんだから」
「でもこれくらい一人でできなきゃ、なんでも頼りっぱなしとか悔しい……」
「誰だって具合が悪い時はできないことが増えるのは当然のことだし、悔しいなんて思わないでもっと我儘言っていいんだよ」
「もっと我儘って……もう色々迷惑かけてるじゃん……今日だって……ううん、それ以外でも朝起こしてもらうのだって、学校の送り迎えだって、勉強だって。もっと俺ができるやつだったら陽兄は今よりずっと苦労なんてしない」
「兄弟なら助け合うものでしょ? 僕は一度も迷惑だとは思ったことはないよ」
「助け合うなんて言ってるけど、いつも俺ばっか助けてもらってるじゃん」
「それは葉が僕を助けてるのに気づいてないだけ」
「じゃあいつどこで陽兄のこと助けたんだよ」
「そうだね、やっぱり一番は僕の弟としてずっと変わらず傍に居てくれること、かな」
「……本当の弟じゃないのに」
ジワリと、熱で鈍った思考の隙間から漏れ出た黒い何かに俺自身が驚くと、咄嗟に陽兄の顔を見上げた。
彼も驚いたのか、目を大きく見開いたまま硬直するも、視線を逸らし誤魔化すように八の字の眉で笑った。
その表情は一度も見たことがなく、胸を強く締め付けられた。
「ご、ごめ、い、今のは……」
「大丈夫、具合が悪い時って暗いこと考えちゃうもんだから。それにいつまで経っても弟扱いされてたら葉だって疲れるよね」
「違——」
陽兄の言葉を否定したいのに肝心な言葉が出てこず、黙り込んでしまう。
それでも酷く優しい彼は、俺の額にかかった前髪を掻き上げ、青いシートを貼り付けると『早く良くなりますように』とおまじないを唱えながら強く手のひらを押し当てたのだった。
「それじゃあ、あんまり長居すると寝れないだろうからそろそろ帰るね。飲み物はテーブルの上に置いておくから喉が渇いたら飲んでね。あと玄関の鍵はいつもの鉢植えの下に隠しておくから、ゆっくり休むんだよ」
陽兄は逃げるように立ち上がるとドアを開けて出て行ってしまった。
その背中を追いかけるように腕を伸ばすも、ただ冷たい空気を掴んだだけだった。
蒸し暑い体育館の中で大人数が密集する終業式を終えると、教室に戻り、担任から夏休みの指導を受ける。それからクラスメイトたちとしばしの別れを告げた——と言っても仲のいい者同士は休み中にアミューズメントパークなどへ遊びに行くようだが。
俺はといえば、見事期末試験の数学で赤点を取ってしまったので、明日から一週間補習授業に出なければならなかった。
「うわっ⁉︎ あっつ……」
玄関ドアを開けると熱気という名の塊が体当たりをしてきたので反射的に閉じて身を守る。
すると、凄まじい速さと回数のノックが玄関に響き渡った。ドアガラスに映る影にぶつからないよう、慎重に開き直すと、膨れっ面の陽兄が佇んでいた。
「おはよう」
「お、おはよ……」
「こら、なに外出キャンセルしてるの」
「だってすげぇあちぃんだもん……」
「そうだけど学校行かないと」
「もう夏休みだぞ」
「補習と部活、あるんでしょ」
「そうだけど……絶対こんな時に外出る方がおかしいって!」
再びドアを閉じようとするも、隙間から白くて細長い腕が生え、あっさりこじ開けられるとそのまま強く手を引かれ、俺の体は炎天下に曝されたのだった。
「だわっ⁉︎」
「よし、連れ出し大成功!」
「危ないだろ! ドアに挟んだらどうすんだよ」
「平気平気、僕の方が力あるって知ってるでしょ」
目が痛くなるような真っ白いYシャツに身を包んだ陽兄が、これまた真っ白な歯を見せつけてくる。
しかし彼も暑いのか、額に浮かぶ大粒の汗を紺色のハンカチで拭っている。その姿は暑苦しさを感じさせず、寧ろマイナスイオンを撒き散らしている。
「はぁーあ、マジで行きたくねぇ……」
「でも行かないと成績下がっちゃうよ」
「だから行くしかないんだけど……暑すぎる‼︎」
「急に気温上がったもんね」
「ほんとだよ」
今日から本格的に真夏日に入ったのか、前日とは比にならないくらい日差しは強く、朝の時点で気温は三十度を越していた。
昨今は温暖化が進んでおり、これから昼に向かって気温が上昇するのは目に見えている。そんな時に外出なんてとんでもない。
しかし、すでに低いであろう評定平均をさらに落とすのは都合が悪いので、俺は諦めの気持ちで歩き始めると、汗で張り付いたシャツを胸元で掴み、パタパタと空気を取り込んだ。すると横から手を押さえられ、動きを遮られたのだった。
「服が伸びるから駄目だよ」
「そう言っても暑いもんは暑いんだよ」
「そうだけどそんなに引っ張ったらお腹出ちゃうよ」
「俺のお腹が出てもなんも問題ないね」
「問題あるでしょ」
「なんで」
「それは……お兄ちゃんがお腹を触りたくなるからだー!!」
「うぉっ⁉︎」
少し汗ばんだ手が腹に伸ばされると、擽ったさのあまり大声で笑ってしまう。
朝の住宅街に裏返った笑い声が木霊すと、慌てて口を覆い、陽兄の頭を軽く握り拳で小突いた。
「あた! 殴られたぁ!」
「あっついんだから暑くなるようなことすんなよ‼︎」
「じゃあお腹をきちんとしまいましょう」
「わかったよ、もうシャツ引っ張んねぇから」
まくれ上がったシャツをズボンの中に押し込むと暑苦しさに顔をしかめる。
それから効きの悪い冷房の点いたバスに鮨詰めで座り、電車で学校の最寄り駅まで向かうと、長い坂道を登ってようやく校門に辿り着いた。
校舎の中は普段より生徒数も少ないため、全体的に静まり返っており、俺はその雰囲気が好きだった。
教室に行くと中に居た人たちの視線が一斉にこちらへ向けられる。顔見知りの者もいれば全く知らない人もおり、軽く会釈すると特に会話を交わすことなく、前から三番目の窓際に座った。
しばらくして、気怠そうな教師がプリントを抱えて入ってくると、出席を取り、号令を合図に授業が始まった。
前期に習った基礎をはじめからさらっているのだが、退屈すぎて欠伸を噛み殺しながら話を聞く。すると、窓の外から風に乗って流れてくる音に耳を傾けた。
どこかノスタルジックなメロディーを、まるで人が歌っているような太く鋭い音で奏でている。緩急がしっかり付いており、奏者の自信が伝わってくる。それでいて独り善がりではなく、後から追いかけてくるパートをしっかり支えている。
その音を陽兄が奏でているのだとなんとなく感じると、俺は目を瞑りながら音色に聞き惚れたのだった。
吹奏楽部の練習に夢中になっていると、いつの間にか授業が終わっていた。教師から課題プリントを受け取り、誰もいない空き教室で昼食を食べた。
午後は部室棟で練習用ウェアに着替え、午前中から練習をしている部員に混じって走り込みを始めた。
茹だるような暑さ。
額から噴き出す汗は顎先から落ち、何度も服や手の甲で拭っても湧いて出てくる。
陽炎のせいなのか、暑さに脳みそが沸騰しているのか足元の長い白線が歪み始める。
「……や、やば」
いつもと変わらないフォームとスピードだが、動悸が激しくなり、空気を吸い込めなくなると最後は足が絡れ始め、転がるようにトラックの上へ倒れ込んだ。
土埃が舞い激しく咳き込むも、思ったように体が動かない。
土は太陽の光で温められているはずなのに水のように冷たい。
周囲がザワつき何かを訴えかけてきているようだが、うまく聞き取れず、そこで意識が途切れたのだった——。
⁂
「軽い熱中症と夏風邪なんで、まぁ点滴打って何日か休めば元気になりますよ」
白い床の溝をぼんやり目で辿りながら医師の言葉に頷くと、周囲のカーテンを閉められ、俺はベッドの上に取り残された。
病院特有の薬品と消毒の匂い。
左腕を見ると透明な輸液パックから伸びた管が紙テープで巻き付けられており、その先には青色の器具が固定されている。
心なしか針の刺さった箇所を見ていると、なんとなく腕が痛むので、隣に座っている陽兄の肩にもたれかかった。
「辛いね」
「ん……」
「でも点滴で済むくらいでよかった」
温かい手が肩に置かれると、優しく引き寄せられ、トントンと規則正しいリズムで背中を叩かれた。
幼い頃、陽兄と一緒に寝た時にこうして寝かしつけてくれていたことを思い出し、無意識のうちに肩に頬を擦り寄せてしまう。
「それ……すげぇ眠くなる……」
「葉は寝る前はしゃいじゃう子だったけど、こうするとすぐ寝てくれたね」
「だって……兄ちゃんと寝るって言ったら……嬉しくて騒いじゃうもんだって……」
「僕も嬉しかったけどさ、十時過ぎても枕投げしたりゲームしたりはさすがに親に怒られたよ『お兄ちゃんならちゃんと弟のこと寝かしつけなさい』って」
「はは……だから布団に入ったらすぐトントンしてくれてたのか」
「だって親の機嫌を損ねて一緒に寝れなくなったら悲しいでしょ?」
「そうなったら俺、グズっただろうな……」
「『なんでお兄ちゃんと寝れないの〜!』って?」
陽兄のダミ声に笑い声が出ると、目の奥が絞られたような痛みが走り、唸り声を漏らした。
つい思い出話に花が咲いてしまったが、一応高熱で病院に連れてこられていたのだ。
「少しおしゃべりし過ぎちゃったね。点滴終わるまであと一時間はあるから少し寝る?」
「……そうする。終わったら起こして」
俺はいつもより重怠い瞼を閉じると、静かに呼吸を繰り返したのだった。
——時間は少し遡って。
校庭で倒れ込んだ後、保健室に運ばれている途中で意識を取り戻した俺は、ひとまずベッドに寝かされ、養護教諭から体調を確認された。
幸い転倒した時に頭は打っておらず、怪我は腕と脚に軽い擦り傷程度で済んでいた。若干の吐き気はあるものの、脱水症状は見られないので重篤な熱中症ではないそうな。しかし寒気が酷く、体温を測ると三十九度超えの高熱だったことが判明した。
顧問とも相談し『帰宅後病院に行く』と話がまとまったところで、息を切らした陽兄がやってきたのだ。
後に話を聞いたところ、どうやら部活の練習中に教室の窓から倒れ込んだ瞬間が見えたので、練習を放って飛んできたらしい。
陽兄は教師二人に『日中は俺の両親が居らず、自分は隣に住んでおり昔から交流もあるため、かかりつけの病院に連れて行ける』と説明をした。それから彼は走って部室棟へ荷物と着替えを取りに行くと、熱でよろける俺を支えながらジャージに着替えさせ、かかりつけの内科へ連れて行ってくれたのだった。
「——……う、葉」
肩を優しく叩かれながら名前を呼ばれると、暗闇の中から少しずつ明るい世界へ向かった。
瞼を開くと視界は九十度横になっており、右頬から温もりが伝わってくる。
左腕を確認すると貼り付けられていた管も、刺されていた針も知らぬ間に喪失している。
どうやら陽兄の膝の上で寝てしまった間に、全ての処置が終わったらしい。
「病院に来たときは土気色だったけど、かなり顔色良くなったね、よかった……」
俺は大欠伸で返事すると、意識が完全に覚醒するまで陽兄の顔を見上げていた。
ローアングルからだと、長い睫毛がいつも以上に伸びて見える。瞬きをする度にバサバサと羽ばたき音が鳴るのではないのかと思えるほど、綺麗に生え揃っている。
そのまま整った顔を観察していると、優しく微笑みながら頬を撫でられたので、恥ずかしさで完全に目覚めると体を起こし横に座り直した。
「そんなに慌てなくてもカーテンも閉まってるし、僕たちのことをよく知ってる先生たちだから平気だよ」
「そうだけど落ち着かない」
「じゃあもう帰る? 家ならゆっくりできるでしょ」
「家だから膝枕していいとは言ってない!」
「僕は膝枕するとは言ってないけど?」
売り言葉に買い言葉。
ほくそ笑む陽兄に突っかかりそうになるも、見え透いたトラップに引っ掛かるほどもう体調は悪くないので、彼の言葉を無視してベッドから離れるとカーテンを開き、近くにいた顔なじみの看護師に挨拶すると処置室から立ち去ったのだった。
生まれたての雛のように後ろに張り付いてくる陽兄を引き連れて、待合室の端の席に腰掛けて待っていると受付スタッフに名前を呼ばれたので、無一文の俺の代わりに彼が治療費を払いに行ってくれた。
支払いを済ませた陽兄は俺の前に戻ってくると、手を差し出してきたので、今度は振り払わずに握り返すとゆっくり立ち上がり、家まで連れ帰ってもらったのだった。
⁂
無事、家に到着すると鍵を持つ陽兄に玄関を開けてもらい、真っ先に洗面所に足を運んだ。
ジャージと汚れた練習用ウェアを脱ぎ洗濯機に放り入れると、手洗いうがいを済ませ、土と汗で汚れた顔と腕を入念に洗い流してから、自分の部屋に向かう。
短い時間だったとはいえ、さすがに炎天下の中を移動したせいで再び熱が上がり始めたのか、頭痛がする。着替える体力も気力も残っておらず、下着のままベッドに寝転がった。
ヘッドボードに手を伸ばし、リモコンを掴むと冷房のスイッチを入れる。
横長の機械が唸り声を上げると、すぐに冷たい風が吐き出され、心地良さに目を細めた。
「葉、入るよ」
部屋のドアをノックする音が四回聞こえた後、静かにドアが開けられると陽兄はタオルとスポーツドリンク、冷却ジェルシートを持ってやってきた。
「熱上がっちゃったみたい?」
「多分、少し頭痛い」
「薬箱の中に痛み止めしまってあったけどどうする? 飲んでみる?」
「休めば多分治ると思うからいい……」
「じゃあ足汚れてるの拭かせてね」
「ごめん……」
ベッドの横にしゃがみ込んだ陽兄は右足を掴むと『少し冷たいからね』と声を掛けた後、足裏に濡れたタオルを当てた。ひんやりしたタオルは火照る体の熱を奪い取っていく。
ガーゼの貼られた擦り傷を避けながら優しく土を拭われると、反対の足に加えて背中の汗も綺麗に拭き取り、最後はパジャマに着替えるのも手伝ってもらった。
実に至れり尽くせりである。
「何から何までほんとごめん……」
「そう何度も謝らないの、全部僕がやりたくてやってることなんだから」
「でもこれくらい一人でできなきゃ、なんでも頼りっぱなしとか悔しい……」
「誰だって具合が悪い時はできないことが増えるのは当然のことだし、悔しいなんて思わないでもっと我儘言っていいんだよ」
「もっと我儘って……もう色々迷惑かけてるじゃん……今日だって……ううん、それ以外でも朝起こしてもらうのだって、学校の送り迎えだって、勉強だって。もっと俺ができるやつだったら陽兄は今よりずっと苦労なんてしない」
「兄弟なら助け合うものでしょ? 僕は一度も迷惑だとは思ったことはないよ」
「助け合うなんて言ってるけど、いつも俺ばっか助けてもらってるじゃん」
「それは葉が僕を助けてるのに気づいてないだけ」
「じゃあいつどこで陽兄のこと助けたんだよ」
「そうだね、やっぱり一番は僕の弟としてずっと変わらず傍に居てくれること、かな」
「……本当の弟じゃないのに」
ジワリと、熱で鈍った思考の隙間から漏れ出た黒い何かに俺自身が驚くと、咄嗟に陽兄の顔を見上げた。
彼も驚いたのか、目を大きく見開いたまま硬直するも、視線を逸らし誤魔化すように八の字の眉で笑った。
その表情は一度も見たことがなく、胸を強く締め付けられた。
「ご、ごめ、い、今のは……」
「大丈夫、具合が悪い時って暗いこと考えちゃうもんだから。それにいつまで経っても弟扱いされてたら葉だって疲れるよね」
「違——」
陽兄の言葉を否定したいのに肝心な言葉が出てこず、黙り込んでしまう。
それでも酷く優しい彼は、俺の額にかかった前髪を掻き上げ、青いシートを貼り付けると『早く良くなりますように』とおまじないを唱えながら強く手のひらを押し当てたのだった。
「それじゃあ、あんまり長居すると寝れないだろうからそろそろ帰るね。飲み物はテーブルの上に置いておくから喉が渇いたら飲んでね。あと玄関の鍵はいつもの鉢植えの下に隠しておくから、ゆっくり休むんだよ」
陽兄は逃げるように立ち上がるとドアを開けて出て行ってしまった。
その背中を追いかけるように腕を伸ばすも、ただ冷たい空気を掴んだだけだった。
