ようくんはひとりじめしたい!

 六月下旬。先日行われた中間試験の答案が返却され、校内の掲示板には学年ごとの成績上位者の名前と点数が張り出されていた。
 昼食を終えた俺は教室に戻る前に、寄り道がてら職員室横の掲示板を覗きに行った。
 返却された答案用紙の赤いチェックマークの数を見れば、そこに自分の名前が書かれていないのは容易に想像がつく。単純に同学年の上位者の名前を確認したかったのと、今回も陽兄の名前があるのか興味を惹かれたのだ。
 案の定、昼休みということもあり掲示板の前にはすでに人が群がっており、一番後ろに並ぶと静かに列が進むのを待った。

「見てよ! また七瀬先輩が一位だって、ヤバくない⁉︎」
「しかも今回は全教科満点だぜ!」

 案の定ネタバレ。
 聞き耳を立てずとも、前の方の男女が大きな声で会話していたせいで、話の内容が耳に飛び込んできてしまった。
 どうやら今回も陽兄が一位だったらしい。それも満点で。

「こんなに成績いいならもっとウチよりいいとこ行けそうなのに」
「あれじゃね、家が近いからとかって理由じゃねぇの」
「えーもったいナイ! まぁでも先輩が見れなくなるほうがウチ的にはイヤだからいいや!」

 立て続けに嫌な会話が聞こえてくると俺は俯き、周りからの視線を切った。
 なんで俺みたいな人間が陽兄の隣に居れるんだろ——なんて負い目を感じると他の名前なぞどうでも良くなり、列から抜けると掲示板を背にしたのだった。

 ⁂

「そういえば今日テストの順位張り出されてたけど、今回も一位だったんだな」

 帰りのバスの中、隣に並んで座る陽兄に校内で持ちきりの話題を振ってみた。
 すると彼はきょとんとした顔をしながら首を傾げてきた。表情から察するに、恐らく順位の張り紙は全く目にしていないのだろう。

「そうだったんだ」
「本当そういうの興味ないんだな」
「うん、大事なのは順位じゃなくて中身でしょ」
「その中身が満点の場合はなんて言えばいいんだ」
「凄い?」
「え? そりゃ当たり前だろ、オール満点なんて誰でも取れないし凄いに決まってる」
「どれくらい凄い?」
「えぇっ……うーん、明日の朝起きたら俺の身長が二メートルになってるくらい?」
「そんなに⁉︎」
「そんくらい俺にはできないってこと」
「葉はまだまだ大きくなれそうだけどね」
「もう牛乳飲んでも伸びないんだって!」
「ははっ、それは迷信でしょ。それより葉の点数はどうだったの?」
「俺はー……」

 言葉を濁しながらも、膝の上に抱えた鞄の中から答案用紙を全て取り出して渡す。
 車内が上下に小刻みに揺れる中、陽兄は紙を破かないよう慎重に受け取ると、上から順に目を通し始めた。それから最後の紙をめくり終えると、手のひらの上でバラバラにずれた紙を揃えた後、満面の笑みで差し出してきたのだった。

「うんうん頑張ったね、数学の点数ちゃんと上がってる」
「つっても平均点ギリギリ越せたくらいだけど……」
「苦手教科なのにきちんと結果を伸ばせて凄いよ。一生懸命勉強してたもんね? それに他の教科も去年のテストより五点ずつは上がってる。部活とかも頑張ってる中、これだけ伸ばせるのは凄いことだよ。もっと葉は自信を持つべきだと思うな」
「こんな点数でそういうこと言うの陽兄くらいじゃん」
「じゃあ僕が代わりにうんと褒めてあげる」

 その瞬間、腰に腕が回され強く引き寄せられると、右頬に陽兄の左肩がめり込んだ。鈍い痛みから眉間に力が入るとすかさず身を引き睨み付けた。

「あでっ! んなにすんだよ!」
「抱きしめようと思って」
「今ここ外! つーか家でもそういうことすんな!」
「そんなぁ、褒めたいだけなのに……」
「そういうのが恥ずかしいんだって言ってんだろ」
「最近は思春期の反抗期で葉は忙しいなー」
「いやそういうことじゃないって……」
「そうか、こういう時に僕より大きければいいんだね」
「ん?」
「今みたいに突発的に抱きしめたい時、僕から飛び込めば葉が痛い思いをしなくて済むし恥ずかしくないよね」
「はぁ⁇」
「あぁでもそうすると頭を撫でるのが大変になっちゃうな……やっぱ僕たちの身長はこのままがいいね」
「だからなんの話してんだよ」

 俺は腰に回された腕を引き剥がすと、鞄の中から透明なクリアフォルダーを取り出し、折れないよう答案用紙を挟み込んだ。
 すると横目でこちらを見ていたのか、陽兄は『あっ』と小さな声を漏らしたのだった。

「なんかあった?」
「調査票……もう三者面談の時期なんだなって」
「あぁ、うん。これな」

 クリアフォルダーの中から今度は一枚のコピー用紙を取り出すと、陽兄にも見える位置で持った。
 A4サイズの紙の上部には、ゴシック体の大きな字で『進路希望調査』と書かれており、その下には三段の表がある。第一希望から第三希望まで、それぞれ進学・就職・その他のどれかに丸をつけ、進学の場合は希望校と希望学科、志望動機が記入できる。

「葉はどこか行きたい学校とか、就きたい仕事とか決まってるの?」
「ぜーんぜん。やりたいこととかも特にないし、流れで大学に行くのかなって」
「そんな適当じゃ駄目だよ。進学するならきちんと目標を持っていかないと周りのいいように流されちゃう」
「そう言われてもな、本当にやりたいこととかないし」
「好きなことに関する仕事はどう?」
「好きなことって……ゲームとか?」
「ゲームね。ゲームなら例えばプログラマーは面白いんじゃないかな? 葉はコツコツ真面目に取り組むタイプだから、地道に積み上げていく作業が得意そうだよね」

 陽兄の提案を受けると、なんとなく脳内でその職業に就いた自分の姿を想像してみる。
 毎朝、同じ時間に満員電車に乗り、会社に着くと昼までパソコンに向き合う。そして昼食を摂ったら夕方までパソコンと睨めっこ。すると上司が俺の机にやってきて『日髙くん、悪いんだけど今日残ってくれないかな。大量のデバッグ作業が出ちゃって』と目の下に隈を作った顔で笑いかけてくる。当然断る理由もないので、上司と同僚と一緒に深夜十二時まで残業。終電を逃し、帰る方法はタクシーしかなくなるも、薄給の俺じゃ家に辿り着く前に道路脇に捨てられてしまうので、帰宅は諦めて会社の固いカーペットフロアの上に寝転がる。そうして布団もなく一人、身を震わせながら太陽が昇るのを待つのである——。

「絶対風邪引くって」
「風邪?」
「え? あ、うん、ごめん、俺の中の話」

 脳内で描いた妄想を振り払い、調査票をクリアフォルダーに仕舞い込むと、鞄のチャックを端からてっぺんまで引っ張った。

「それでどうなの?」
「仮眠室のある職場ならなんとかなりそうだな」
「じゃあ第一希望は大学進学? それとも専門学校かスクール?」
「まぁ、大学行っとけば他のやりたいことが見つかってもなんとかなるだろ」

 その言葉に陽兄は深いため息をつくと『もっと自分を大事にしてほしいな』と呟いたのだった。
 そうは言われても本当にやりたいことが思い浮かばないのだから仕方がないだろう——と気まずさからなんとなく視線を左に逸らし、窓の外を見ると、よく家族で歩いて食べに行く近所の焼肉屋の看板が視界に入った。

「やば⁉︎ 陽兄!」
「え? あっ‼︎」
「すみません降ります‼︎」

 会話が弾んでいるうちに、最寄りのバス停に到着していることに気がつき、慌てて席を立ち、運転手に向かって声をかけた。
 降車ボタンは光っていなかったが、運良く赤信号で停車していたので、バスの後方ドアを開けてもらい、俺たちは急いで飛び降りたのだった。

「ふぅー危ない危ない、気づいてくれてありがとうね」
「乗り過ごすところだったな」
「ね、気をつけないと」

 陽兄は額に浮かぶ、わずかな汗を右腕で拭うと、俺の空いた右手に左手を重ねてきた。
 今日も手を握って帰るらしい。

「なぁ、前から言ってるけどそろそろ手繋いで帰るのやめね?」
「それは無理かな」
「なんで」
「まぁまぁ」

 陽兄は俺が逃げられないよう、さらに強く手を握り締めると、腕を大きく振りながら歩き始めたので、引っ張られるような形で横を歩いた。
 坂道を少し登って、角を曲がると左手に大きな公園が出てくる。
 小さい頃、ここではよく陽兄と砂場や鉄棒、ブランコで遊び、てんとう虫のような穴ボコの空いた半球の遊具の中では秘密基地ごっこをしたのを思い出す。
 俺が砂場で足を取られて転んだ時も、鉄棒で前周り一回転して落ちた時も、泣いてると誰よりも真っ先に駆けつけてくれる陽兄。家まで何度おぶられたことか。
 今は『子どもの安全性が〜』と言った世間の声を受けて、遊具はほとんど撤去され、砂場と水道しか残されていない。
 公園という名の広場の横を通り抜け、二分ほど歩くと今度はボロボロになった暖簾がぶら下がる古民家が現れる。
 ここは小学校六年生の頃まで、近所のお婆さんが経営していた駄菓子屋。
 俺がご飯を食べずにお菓子ばかり食べていたら母親からお菓子を取り上げられてしまい、お菓子ロスに泣いていると陽兄がお小遣いを握ってこっそり連れて行ってくれた。
 もちろん、町の情報網は甘くないので帰宅すると陽兄と一緒にコッテリ絞られたのだが。

「ここに住んでた駄菓子屋のお婆ちゃん、先月亡くなったらしいよ」
「あー、そうなんだ……だいぶ前に施設入ったんだっけ」
「うん。この間、息子さんが業者の人と一緒に来てる時に、たまたまお父さんがすれ違ったから聞いたみたい」
「そっか。取り壊すって言えば、小学校の横の畑が全部建売になったらしいな」
「そうらしいね。みんなで芋掘りとかしたのに、ね」
「あー懐かしー、芋虫事件な」

 ——俺が小学校四年生で、陽兄は五年生だった頃の夏。
 小学校の横にあった畑で、春先に低学年の子たちが植えてくれたじゃがいもを掘る作業を、四年生と五年生が合同で行っていたのだ。
 ふかふかに耕した土から大きく伸びた葉の下を軍手で掘り出すのだが、虫嫌いの俺は畑に入るだけでも一苦労で、当然土の中に手を入れるなんてできたものではなかった。
 そのため、隣の子や前の子が掘った芋を収穫ケースに運ぶ係になった。
 大量の掘り立てじゃがいもを腕いっぱいに抱え、よろけながらもケースの元に足を運んでいると、突然近くにいた女の子が小さな悲鳴をあげたのだ。
 手元を覗くと土の中に白い塊が。
 カブトムシの幼虫の姿に驚き、抱えていたじゃがいもを全てばら撒いてしまうと、それを面白がったクラスの男子が土の中に手を突っ込み、幼虫を手掴みすると俺の胸に押し付けてきたのだった。

「あの時はいきなり泣きながら走ってくるから何事かと思ったよ」
「いやだってアイツがカブトの幼虫持って追いかけてくるから」
「葉には申し訳ないけど、僕は『おにいぢゃんだすげでぇっ〜!』って抱きついてくる姿がそりゃもう可愛くって可愛くって……んふっ、今でも忘れられないや」
「頼むから俺の黒歴史忘れてくんない?」
「駄目、僕の大事な思い出なんだから」

 陽兄は脳内で当時の思い出を反芻しているのか、いつにも増して垂れ下がった目でこちらを見た後に頭を撫でてきた。
 もう手を払いのけるのも面倒くさいので、大人しく撫でさせてやる。

「今じゃこんなに大きくなっちゃって、もうお兄ちゃんなんて泣きついてくれないでしょ」
「そりゃそうだよ。この歳にもなって『おにいちゃ〜ん』はキツすぎる」
「僕は全然大アリだけどね」
「陽兄がよくても俺は周りの目に耐えられない」
「周りのことなんて気にしなくていいのに、ね?」

 俺は陽兄の言葉にため息で返すと黙って歩き続けた。
 日の入り時間が遅くなったとはいえ、十九時手前になると住宅街の中は薄暗くなり、所々の家の玄関灯がちらほら点き始めた。たまに風に乗ってカレーみたいな香りも漂ってくる。
 その香りに刺激されると腹からギュルルルと情けない爆音を発したのだった。

「うわ、はっず……」
「お腹すいたね」
「今の匂いで腹減った」
「今晩カレーなんだろうね」
「俺ん家は今日なんだっけ……あぁ、そうだ、シチューだ」
「いつものシーフードのシチューかな?」
「だと思う。海老とイカとアサリのやつな!」
「きっと美味しいんだろうね。ちなみにウチは今晩餃子だったかな」
「餃子⁉︎ それもいいなぁー」
「いつも余るくらい作ってるからお母さんに分けてもいいか聞いてみるよ」
「じゃあ俺も母さんにシチュー分けるように言うな」
「ありがとう」

 夕食の話が終わると同時に、タイミングよく家の前に辿り着いた。
 予想通り換気扇を通って、海老の香ばしい香りが周囲に漂っている。
 俺は握られていた手を振り払うと、門扉を押し開け、首だけを後ろに向けた。

「じゃあ風呂入って飯食べるから、また明日」

 陽兄は静かに頷くと、首を下げたまま消え入りそうな声で話しかけてきた。

「周りがどんどん変わっても……葉だけは、変わらないでいてね」
「え?」
「じゃあおやすみ!」

 陽兄は勢い良く顔を上げると、いつもの笑顔のまま小走りで隣の家に入って行ってしまった。
 その様子に呆然としてしまうと、しばらく玄関ドアの取手を握ったまま立ち竦んでしまったのだった。