ようくんはひとりじめしたい!

 五月。大型連休明けに〝ソレ〟はやってきた。
 朝のホームルームで担任の口から部活動停止が宣言されると同時に、教室の掲示板には一枚の紙が張り出されたのだった。連休で気の抜けた多くの者は〝ソレ〟の姿に戸惑い、頭を抱えた。
 〝ソレ〟の正体の名は——一学期中間試験。
 試験二週間前になると授業では試験範囲の発表や復習が行われる。いつにも増して授業中は静寂に包まれ、休み時間には友人同士で試験範囲やノートの書き漏れがないか確認し合う。そして放課後は図書室や教室で自習する者も増えるので、校内全体がピリついた雰囲気に変わる。
 そんな中、俺はいつもと変わらず人通りの少ない裏門の影で陽兄と待ち合わせし、帰宅すると部屋着に着替え、教科書とノート、問題集、筆箱を抱え込んで隣の七瀬家に向かった。

「お邪魔します」
「いらっしゃい、ちょっと飲み物準備してくるから先に部屋行ってて」

 短い相槌を打ち、運動靴を脱ぐと玄関土間の端に置く。それから何一つ迷わずに正面の階段を上ると右手前のドアを開けた。

「失礼しまーす」

 親しき仲にも礼儀あり。
 形だけの挨拶を済ませると、ローテーブルの上に持ってきた勉強道具を置き、遠慮という言葉を忘れてベッドに飛び乗った。
 枕に顔を埋め、ゆっくりと息を吸い込むと陽兄の香りに混じって、ほんのり汗の匂いがする。なんだか眠くなる香りだ。
 心ゆくまで枕を抱きしめた後、顔を横向きにして部屋の中を見回せば、相変わらずクローゼットや窓台、ウォールシェルフには様々な観葉植物が置かれている。
 名前は確か、パキラにガジュマル。ゲームに出てくるモンスターの名前に似てるからよく覚えている。それからサボテン。これは絵本や漫画にも登場するのでわかる。あとは前に教えてもらったが、聞き馴染みのない名前だったので忘れてしまった。
 俺は植物を見飽きるともう一度枕に顔を埋め、陽兄が戻ってくるのを待ったのだった。
 しばらくして、遠くから階段を上る足音が耳に届くと、ドアがゆっくり押し開けられた。

「おまたせ……って寝てるし」
「んー……疲れた……」
「まだ勉強してないでしょ」
「でも学校行ってきた」
「そうだけど、飲み物は麦茶でいいよね」
「うん」

 ガラスの底が硬いものにぶつかる音が聞こえると、それを合図に仰向けになり、天井に向かって両手を大きく伸ばす。すると陽兄が前屈みで顔を寄せてきて、目がパチリと合ったのだった。

「起こして」
「寝かせて、じゃなくて?」
「何、寝ていいの?」
「葉が赤点取って補習受けたいなら一緒に寝てもいいよ」
「げぇっ、補習とか受けたくないんだけど」
「じゃあ勉強しよっか」

 腹筋に若干力を入れながら陽兄に引っ張り起こされると、ズルズルとベッドから滑り落ち、ローテーブルの前に座り込んだ。彼はテーブルを挟んで向かい側に胡座をかいた。
 まずは鉛筆を取り出し、一番苦手な数学Ⅱの問題集を開くと紙の上の文字を端から辿る。
 数字と記号とアルファベットの集合体。
 授業で説明を受けながら問題を解いている時は、おおむね式の成り立ちを理解していたが、いざ問題集になるとどこからどう処理すればいいのか悩んでしまい、だんだん目が滑り始めてしまう。
 固く閉じた口から悩ましげな声が漏れ出ると、陽兄は本を下げて声を掛けてきた。

「わからない?」
「あ、もしかしてうるさかった?」
「全然うるさくはないけど唸ってたから」
「わかんないっていうか……こうやって問題だけポン、と出されると解き方がゴチャついて悩む」
「授業では手順を整理整頓しながら進めるからね」
「一回ノート確認して駄目だったら聞く」

 一度問題集から目を離し、ノートを開くと似たような公式がないかを探す。
 それっぽいものを見つけると、板書にあったポイントを頼りにもう一度問題集に向き直る。時間はかかったものの一応解けた気がするので、次の問題に移る。それを何度か繰り返し、全ての解答を埋めると次のページをめくり、新たな問題に取り掛かる。
 部屋には紙をめくる乾いた音と、息を呑む音だけが静かに響いていた。

 勉強を始めてから約三十分後。
 突然、俺の腕はピタリと動かなくなった。
 ここまで試験範囲の基礎問題はなんとか解けていたが、応用問題はそう容易ではなく、似たような見た目の皮を被った悪魔だった。
 緊張で口の中の水分が乾くと、汗をかいたグラスを掴み、一口飲むと音を立てないよう、そっと置いた。
 気持ちを切り替えて、方程式に向き合うも頭の中で公式が絡まったコードみたく解けなくなる。

「……うぅん」
「大丈夫?」
「だめ……かも」

 握り締めた鉛筆を机の上に放ると、真後ろにあったベッドに寄りかかり天井を仰いだ。
 すると、正面から本を閉じる音が聞こえ、しばらく経ってからテーブルを指先で小突く音が鳴った。

「葉、教えるから戻っておいで」
「んー? どうやんのー」

 ベッドから背を離すと後ろでギッ、と木枠が軋んだ。
 忌々しい問題集に再度視線を落とすと、陽兄は穏やかな口調で方程式の解き方を説明し、脳内で絡まっていたコードを一緒に解き始めた。そして説明を終える頃には、この式の解き方が魔法のように紙に浮かび上がっていたので、影をなぞるように筆を走らせた。

「……うん、できたね!」
「できた……」
「頑張ったね」

 陽兄の薄い唇が弧を描くと、大きな手のひらが頭に乗せられ、くしゃくしゃと撫でられる。俺は鬱陶しい手を払い除けると、乱れた前髪を適当に整え直した。

「撫でんのやめろって!」
「なんで? 頑張ったんだから褒めないと」
「俺は餓鬼か‼︎」
「ごめん、今のは僕の褒め方がいけなかったね。じゃあ次の問題ができたらハグにしよう」
「……解かなくていい?」
「頑張って解いて、ハグしたいから」

——だからハグが嫌なんだって。

 喉元まで出かかっている言葉をグッと飲み込むと、黙々と問題集に取り掛かった。ありがたいことに非常にわかりやすい説明のおかげで次も、その次も難なく解けていく。
 あっという間にページの端まで辿り着くと、短く息をつき、鉛筆をテーブルの上に転がした。
 カン、と情けない音を鳴らしてグラスにぶつかると、鉛筆の回転は静止した。

「ん? 終わった?」
「終わった」
「答え合わせしようか?」
「お願い」

 陽兄に問題集を渡すと早速、基礎問題のページから順に確認し始めた。所々に赤鉛筆で何かを書いており、最後のページまで添削が終わると静かに頷き、俺の方へ問題集を開き直した。

「どう? 結構できてただろ!」
「うーん……大体はできてるんだけど、所々書き漏れとか、他の公式を無理やり当てはめて解いちゃってるから、途中から全く違う解答になってたかな」
「はぁ、そっか。いい線行ったと思ったんだけどな」
「僕が教えたところはきちんとできてるから、他のところも落ち着いてやり直せばできるようになるよ」
「さすが、赤ペン先生」
「間違いの確認と復習が終わったら今日はおしまいにしよっか」
「おぉっ!」

 赤で書き込まれたアドバイスを教科書と照らし合わせながら確認し、ノートの新しいページに問題集の誤っていた部分を解き直す。

 復習を終える頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。
 俺は疲れで凝り固まってしまった肩を大きく回し、脇腹を重点的に伸ばしてから、ベッドによじ登り、うつ伏せで瞼を閉じた。
 足元のマットレスが沈み、背後に気配を感じる。
 そのまま動かずにいると細長い何かが首に触れ、擽ったさに体が跳ねるも、少しずつ圧が掛けられては解放され、首の緊張がほぐれていった。

「凄いガッチガチになってるね、これじゃあ痛いでしょ」
「うー、痛い……」
「今からお兄ちゃんが気持ちよくしてあげるからね」
「その言い方キモい」
「ひどい!」

 背後でわざとらしい啜り泣きが聞こえるも、構わず心地良さに身を委ねる。
 言い回しは少々気持ちが悪いが、マッサージの腕は悪くない。
 首を揉みほぐし終わると、陽兄の手は肩から背中を辿ってゆっくり下半身へと移動していく。特に大臀筋と大腿筋は部活動で走り込んでいるため、日頃の疲労が蓄積されており、指が滑る度に背中を抜けるような快感を覚えた。

「っや、やば……きもち、い」
「ここ気持ちいい?」
「ん、んっ」

 頭を小さく縦に振ると、布越しにもわかる温かい手のひらが、重点的に大腿筋を押し上げた。その度に我慢している吐息が漏れ、なんとも言い難い羞恥心を覚えた。

「よ、陽兄、やっぱもっ、もういい、かも」
「気持ちよくなくなっちゃった?」
「気持ちいいけど……! なんか、もう満足したっ!」
「遠慮しないしない、たまには頑張り屋さんの足を労ってあげないと」
「俺、筋肉そんなついてないしっ!」
「でも真面目にトレーニングしてるの、いつも窓から見てるよ」
「なっ⁉︎ 俺じゃなくて、ちゃんと、楽譜見ろよっ」
「見てる見てる。ちゃんと楽譜も先週、葉がハードル蹴飛ばして脛押さえながら跳ねてたのも見てるよ」
「そこは、見なくていいっ!」

 自分の失態を見られた恥ずかしさから、思わず反射的に足を後ろへ蹴り上げると踵が硬い何かにぶつかり、頭上で陽兄が強く咳き込んだ。
 慌てて体を捻り起こすと、彼は腹を押さえながら苦笑いを浮かべていた。

「あたた……っ」
「ご、ごめん⁉︎ 大丈夫?」
「大丈夫大丈夫、今のは僕が揶揄いすぎた罰だね」
「いや蹴った俺も悪いから、ちょっとお腹見せて」
「えっ、あ、う」

 歯切れの悪い陽兄の広い肩を押し、ベッドに寝転がすと、黒のTシャツを胸元まで大きくまくり上げた。
 白い肌の中央には薄っすらと六つに割れた腹直筋があり、今のところ変色は見られない。しかし後々痣になったり痛みが出たりする可能性もあるので入念に確認する。
 まず火照り具合を確認するため、溝に人差し指を滑らせると、陽兄の口からは一度も耳にしたことのない上擦った艶やかな声が零れた。

「葉のえっち」
「あっ」
「そんな風に触られたら擽ったいよ」
「ご、ごめん」
「それとも保健体育の勉強でもしておく?」
「えっ、あ、いや……」

 男同士とはいえ、これまで一度も性的な話はしてこなかったので、思わず動揺してしまい「保健体育はテストないし……」と今思いつく限りの返しを放った。
 すると体の下では陽兄が一瞬目を丸くした後、白い歯を見せながら笑った。そして『全然痛くないから大丈夫だよ』と乱れた服を直しながら起き上がると、きちんと裾を下まで伸ばし切ったのだった。

「夜ご飯食べてくでしょ?」
「いいの?」
「うん。お母さんに今日から葉が勉強しにくるからって言ったら『今晩はハンバーグにするわよ!』って張り切ってたよ」
「よっしゃあ! 俺、手伝いに行ってくる」
「じゃあ僕も葉の手伝う様子を見に行こうかな」
「いやそこは一緒に手伝えよ」
「あっ、せっかくだから僕が中学校の時に作ったエプロンでも着る?」
「いやいいって……」

 俺は軽く肘で陽兄の腕を小突くと、ベッドから立ち上がり、部屋を後にしたのだった。