足先に触れる冷気に身を震わせると、張り付いた瞼をゆっくり押し上げた。
目と鼻の先には朝日を跳ね返す長い睫毛。頬には何本もの白い筋。
もう何年も見続けた顔だというのに、見惚れるほどの美しさだった。
頬に左手を添え、親指で涙の跡を辿ると昨晩の記憶が蘇る。
慈しむように名前を呼ぶ声も、胸に当てられた手のひらも、太腿をなぞる指も、彼の熱も。
全てが心地良く、心の底から渇望していたものだった。
まだ体のあちこちに熱が残っているが、もう一度あの温もりを求めて、ようくんの首元に擦り寄ると、ほんのりと汗の香りがした。
「よう、くん……」
無意識に何度も名前が溢れると、彼は眉間に皺を寄せ、わずかに身動ぐ。
その顔を見つめていると、あたたかい手のひらが腰に回され、強く抱き寄せられた。
「ん……ん゛ー……よ、う……」
「おはよ……」
睫毛が小刻みに震えると、薄目の彼と視線が交わる。
いつも以上に下がった目尻で、ふにゃふにゃと笑うと額や瞼に口付けを落とされた。
「おはよう……寒くない?」
「うん、くっついてるから寒くない。昨日は服、着せてくれてありがと」
「どういたしまして」
ようくんは背中に手を回すと、トントン、と心地いいリズムで叩き始めた。
しっかり眠ったはずなのに、再び睡魔が呼び起こされると頭が大きく揺れ動く。
「ふふっ可愛い。赤ちゃんみたい」
「それ……だから、眠くなるん、だって……」
「また寝ちゃう?」
「寝てもいい……?」
「いいよ、一緒に寝よっか」
彼の温かい腕の中に閉じ込められると、呼吸音と心音に耳を傾けながら、意識を手放したのだった——。
⁂
かくして、恋人として初めて一夜を過ごしてから、俺はようくんの部屋に籠り切りになった。
家には『しばらく七瀬さんの家で過ごします』とだけメッセージを入れたきり、帰ってはいない。
毎朝ようくんの腕の中で目覚め、一緒に顔を洗いに行き、作り置きの朝ごはんを部屋に運ぶと肩のぶつかる距離で食べる。勿論、煩わしさはない。
「ハムエッグ美味しそ」
「お醤油とマヨネーズ、どっちがいい?」
「今日はマヨネーズの気分だな」
「じゃあかけてあげるね」
オレンジの濃い黄身の上にクリーム色のハート模様が作られる。
それを箸で掬って口に入れると、彼の気持ちも一緒に咀嚼しているようだった。
「葉、口の端っこにご飯付いてる」
「ん」
「ん、って……もう、仕方ないなぁ」
ようくんは眉を下げながら、口に付いた米を摘むと何の躊躇いもなく口に入れた。
その様子を眺めていると『あ、もしかして食べたかった?』と何十倍にもなったご飯を乗せた箸が差し出された。
別に米粒一つに未練があるわけではないが、貰えるものはしっかりいただく。
「ご飯食べ終わったら今日は何したい?」
「どうしよ、ゲームも飽きてきたし……あ、久しぶりに図鑑見ようぜ、図鑑」
「なんの図鑑がいい?」
「面白いやつならなんでも」
「じゃあこの間買ってきた食用植物の図鑑にしよっか」
ペロリと朝ごはんを平らげてしまうと、ようくんが片付けに行ってしまったので三角座りをして戻ってくるのを待つ。
窓際に置かれた植物を観察しながら、脱ぎ捨てられたパジャマを抱きしめていると、駆け足で階段を上る足音が聞こえ、ドアが勢い良く開かれた。
「おまたせ! よし、一緒に読もっ……あ、ごめんね。お楽しみの邪魔しちゃったね」
「え? あ……」
無意識に口元に寄せていた、ようくんのパジャマをベッドに放り投げると、いそいそ床に寝転んだ。
含み笑いをする彼は本棚から一冊の図鑑を取り出し、隣に座ると分厚い表紙をめくった。
綺麗な写真と共に植物の名前や生息地が記されており、分からない単語は所々解説してもらいながら読み進める。
未知の植物に興味が湧くも、彼の穏やかな声に安堵すると、次第に頭が下がり、床に落ちた。
「ふふ、眠くなっちゃった?」
「ごめん……面白いんだけど、声、落ち着いて……」
「少し休憩しよっか」
彼は重いであろう体を持ち上げてくれると、ベッドに寝かし布団を掛けてくれた。そのまま背中を叩かれると徐々に視界が闇に呑まれ始める。
「おやすみ、葉——」
ようくんの安心する声を最後に暗闇へ沈む。
こんな堕落した生活を繰り返しているものの、誰一人、俺たちを咎めるものは居なかった。
強いて欠点を挙げるとするなら、怖がりになった俺は日夜、彼にくっついていないと気力が持たなくなったくらいか。
目が覚め、意識がハッキリするまでオレンジ色に染まった部屋を眺める。
体は冷え切り、鉛のように重たい。
辛うじて動く首を回して、ようくんを探すと彼は机に向かって何か作業しているようだった。
「よ、うくん……」
「……ん? 起きた?」
「こわ、い……」
「怖くなっちゃったんだね。ちょっと待ってね」
喉から絞り出した声に、ようくんは慌ててノートを閉じると、ベッドに腰を下ろし両手を広げてこちらを見た。
膝の上に這って移動すると、思い切り抱きしめられた。背中から伝わる熱が淋しさも苦しさも消し去ってくれる。
こんなに自分は寂しがり屋だったのだと、初めて気づいた。
ようくんにも変化が訪れたのか、以前よりスキンシップの回数が増え、強請ればキスもそれ以上のこともしてくれるようになった。
「ようくん……キス、したい」
「いいよ、どのキスがいい?」
「きもちいやつ……」
彼の首に腕を回し、少しずつ流し込まれる栄養を待ち続ける。
ある程度、栄養が体に行き渡ると今度は熱を求めて彼と共に倒れ込む。
この六畳一間が二人の箱庭。
しかし、部屋の壁に掛けられた日めくりカレンダーは少しずつ薄くなり、タイムリミットは刻一刻と迫っていた。
⁂
——年が明け、東の山から新しい陽が昇れば、この世界にも終止符が打たれる。
ある朝、ようくんに手を引かれて、鞄と制服を取りに家に戻った。
約二週間ぶりの帰宅に、母親も父親も叱ることはせず、ただ『七瀬くんを応援してあげて』とだけ言い聞かされた。
人形のように制服を着せられ、久しぶりの二人での登校。
この時間は手が繋げない寂しさはあるものの、帰ってからその分、めいっぱい抱きつくことで我慢した。
しかし、学校が再開してすぐに三年生は午前授業になってしまい、ようくんも例に漏れず一足先に帰路に着いていた。
対して一人でいることに閉塞感を覚えてしまった俺は、最初の三日間は一人きりで下校できたものの、次第に早退することが増えた。
今日も七瀬家の玄関で靴を脱ぎ捨てると、駆け足で二階へ上がる。
「ようくん、ただい——」
いつものように元気良くドアを開けると、部屋の中はしんと静まり返っていた。
昨日までは笑顔で両手を広げた彼が、温かく迎え入れてくれたのに。そこにいたのは机に伏せる、ようくんの姿があった。
足音を立てずに、そっと近づくと微かに寝息が聞こえてくる。気持ち良さそうに寝ている顔は、幼子のようで自然と笑みが溢れた。
ほんのりと赤くなった頬を指先で撫でると、ようくんは擽ったかったのか大きく身動いだ。
その拍子に体の下に敷かれていたものがバサリ、と床に落ちた。
大事な本に折れ目が付いてしまっては、後で彼が悲しむだろうと慌てて拾い上げると、それは一冊のノートだった。
「……——」
手の上に乗っている紙には、聞いたことのない単語の表や植物を分解したような図、赤ペンが所狭しと書き記されており、ページをめくる手は止まらなかった。
机の上には他にも勉強道具が積まれており、過去問題集や参考書はもちろん、開きっぱなしの赤本には、付箋やマーカーが目がチカチカするほど付けられている。
——あれ、そういえば、今日って何日だっけ。
いつの間にか分厚くなってしまった日めくりカレンダーを確認すると、そこには〝一月十五日〟と大きく記されている。
携帯電話で共通テストまで何日か調べると、もう二日しかなかった。
「う、嘘だ……そんな……」
呼吸が浅くなり、次第に視界が暗くなると足が大きく震え出した。
別に、ようくんが大学に行くのが嫌だったわけではない。
本来ならもっと早くから時間をかけて、空いた隙間を埋めていけたはずだったのに。俺が本当の意味で彼に向き合えなかったから、彼の大事な時間も、未来も、奪い去る形で必死に埋め合わせをしていた。
〝兄弟〟だろうと〝恋人〟だろうと、大切な人だからこそ迷惑を掛けたくない——。
なぜ、そんな初歩的なことを忘れてしまっていたのだろうか。
背後から忍び寄る罪悪感に怯えると、ようくんの背中にブランケットをかけ、逃げるように部屋を出て行ったのだった。
「はぁッ……う、ぅゔ……‼︎」
嗚咽を漏らしながら、階段を駆け降り、素足のまま玄関ドアを開けると背後から小走りで近づいてくる足音が聞こえた。
「どうしたの⁉︎ 葉くんっ!」
その声に足を止めると、エプロン姿のようくんの母親が心配そうな顔で腕を掴んできた。
「裸足で出て行こうとしてっ……陽にいじめられたの〜⁉︎」
「お゛、俺っ……もうここに、いられないです……っ」
「ど、どうして?」
「ようぐんに、ひ、酷いごとばっがしちゃって……!」
上擦った声で必死に話すも、よろけて壁にぶつかると、そのまま力が抜け床に崩れ落ちた。
石のタイルは今まで大事に貯めていた熱を奪い去っていく。
「葉くん落ち着いて、大丈夫よ。少しソファに座ってお話ししましょ? 玄関は寒いから、ね?」
「……は、い」
今度は母親に手を引かれ、リビングのソファに座らされた。
頭が大きく揺さぶられているように痛く、項垂れていると目の前のローテーブルに湯気の立つマグカップが二つ置かれた。
母親は隣に腰掛けると、濡れた顔をティッシュでそっと拭ってくれた。
「ココア持ってきたから一緒に飲みましょ〜」
「ありがと、ございます……」
震える両手でマグカップを持ち、湯気に乗った甘い香りに意識を移すと、少しだけ呼吸が落ち着く。
一口啜るとほろ苦い甘さが口の中に広がり、冷えた体を芯から温めてくれる。
ほっと息をつくと、母親が笑顔で話しかけてきた。
「今日は学校楽しかった?」
「あんま……」
「お勉強は好きじゃない?」
「そんなに……」
「陽が居ないと帰り道寂しいでしょお」
「ちょっと……ううん、凄く……寂しい」
母親は静かに笑うと、しばらく二階に目を遣った後、瞼を閉じて俯いたのだった。
「葉くんは……陽のこと、好き?」
突然振られた質問に戸惑うと、手に持っていたマグカップの中のココアが大きく揺れ動いた。
「え、えっと……」
「遠慮しないで言っていいのよ」
「す、好き……です」
「どこが好きなの〜?」
「どこって……全部、って言ったら、変ですか……?」
母親は首を横に振ると、両手をそっと包み込んで目を合わせてくれた。
「そう言ってもらえてすっごく嬉しい。陽はね、あなたがいてくれたから今日まで頑張って来れたのよ」
「俺は、何もしてないです……今までようくんの足ばっか引っ張って……」
「そんなことないのよ。昔の陽はね、勉強も運動も嫌いで、好きなことにしか興味がなくてどうしようもない子だったの。でもあなたに出会ってから少しずつ変わっていったのよ。だから、そんなに自分を否定しないであげて」
温かい抱擁を交わすと、母親は夕ご飯の支度をしにキッチンの前に戻ってしまった。
しばらく茶色い水面を眺め、先ほどの言葉をゆっくりと自分の中に落とし込む。
どんなに形が変われども、彼は俺の隣に居続けるために陰で努力と想いを抱き続けてくれていた。
対して俺は自分の寂しさを優先し、悲観してばかりいた。
あの冬の日『僕も同じ気持ちだから』と泣いていた彼だって、本当は離れたくないはずなのに、それでも夢を追う決断をした。
そこで怖いからという理由で、俺が逃げてしまったらどうなるのだろうか。
きっとようくんは、足を止めてしまうかもしれない。
これはただの思い上がりかもしれないけど、もし俺が彼の傍で笑っているだけで本当に力になれるのなら——。
俺は腕で顔を擦ると、頬を強く叩いたのだった。
⁂
まだ冷えていないマグカップを持って二階に戻ると、ようくんは再び勉強机に向き直っていた。
気配に気がついたのか、彼はペンを握る手を止めると、勢い良く椅子を回し、両腕を広げたのだった。
「……あっ! 葉、おかえり!」
「ただいま」
「目どうしたの? 腫れちゃってる……もしかして一人で泣いてたの?」
「い、いや……その……」
「ごめんね。今、片付けるから一緒にベッドで休もっか?」
どんな時でも変わらぬ優しい言葉。
また甘えそうな気持ちをぐっと飲み込むと、俺は首を横に振り、持っていたココアを差し出した。
「あの……俺にも、何かできることない?」
「葉……?」
「もう今から遅いかもしれないけど……暗記の手伝いとか、肩たたきとかっ! なんでもやるから、なんか俺にも手伝えることない⁉︎」
ようくんは驚いたのか、目を大きく見開いたまま硬直してしまった。
しばらく何も言えず、動けず、見つめ合ったままになっていると、彼は握っていたマグカップを受け取り、一口啜った。
「……うん、美味しい。疲れてたから甘い物、助かるな」
「ほ、他に必要なのは……」
「じゃあ一回だけ、抱きしめて?」
俺は若干の躊躇を覚えながらも彼の傍に近寄ると、広い背中に両腕を伸ばして強くしがみついた。彼の吐息が耳に当たり、少しだけ擽ったい。
「葉はあったかくて、いい匂いで……落ち着くなぁ」
「これでようくんが落ち着けるなら、何度だってする」
「……ありがとう」
「ようくん、俺、応援してるから」
「うん……がんばるね」
そっと体から離れると、いつもの柔和な笑みを浮かべる彼が居たのだった——。
その日を境に、少しずつ今の生活を見直していった。
毎朝、早く起きて、ようくんの母親と一緒に弁当と朝ごはんを作った。
学校に行ってからは遅れてしまった授業を取り戻すため、クラス委員長に頼んで空き時間や放課後を使って勉強に励んだ。
未だ帰る場所はようくんのところだけれども、甘えるためではなく、最後まで彼の傍で支えたいと、お互いの両親に頭を下げたのだ。
彼が勉強している間は邪魔しないよう、俺もローテーブルに向かって勉強を始めた。
少しでも彼の努力に寄り添い続けたい。ただその一心で。
⁂
——長かった冬が、もうじき終わる。
庭に埋められた梅の木に白い花弁が一つ、二つと咲き始め、これから訪れる春を告げていた。
今朝、七瀬家に一通の封書が届いた。
差出人は『千羽大学園芸学部』。
茶封筒をポストから取り出した俺は、小走りでようくんの部屋に向かい、読書中の彼に手渡したのだった。
「どうしよう、これで不合格とかだったら」
「怖いこと言うなって、そしたら俺と同じになるんだぞ」
「それもそれでいいけど」
「よくねぇだろ⁉︎」
「……じゃあ、開けるね?」
自分の結果ではないのに、心臓が痛いほど激しく脈打つ。
ようくんも緊張しているのか、封を持つ手が震えていた。
ハサミで封筒上部を綺麗に切り取り、中に入っている白い紙を掴むと一気に引っ張り出す。
同じタイミングで深呼吸をし、丁寧に三つ折りされた紙が開かれるのを見守る。
「千羽大学……合格、通知書」
彼の視線が紙からこちらに移ると、目尻には輝くものが浮かんでいた。
その瞬間、彼の体を強く抱きしめると背中を何度もさすった。
そこに言葉は必要なかった。
それからは目まぐるしい勢いで日々が進み始めた。
七瀬家と日髙家で合格祝いの焼肉パーティーを行い、その翌日から三年生は自由登校が始まると、ようくんは新しい住まいを探して、両親と不動産巡りに明け暮れていた。
俺は学年末最後の期末試験を受ける。
感傷に浸る時間なんてものはなく、残酷に時間が消費されていく。
それでも唯一変わらないのは、毎晩共に過ごすことだった。
一緒に新居へ持って行く荷物を段ボールに詰める。
本がぎっちり埋まっていた棚には所々大きな空きができ、タンスの中から夏服は完全に消え去っていき、少しずつようくんの形跡が消えていった。
「どこからどこまで持っていけばいいか悩んじゃうね」
「さすがにこの量の本は全部持ってけないよな」
「そうだね、最低限読み返したい本だけ持って行こうかな……」
「そしたらさ、持っていかない本って俺が借りててもいい?」
「もちろんいいよ」
俺は本棚に残されていた参考書を数冊、そして子供向けの植物図鑑を手に取ったのだった。
「それ、懐かしいね」
「ちっちゃい頃、読み聞かせてくれたよな」
「葉は確か花壇に生えてる花を見るのが好きだったよね」
「写真とかカラフルだから見てて楽しい」
「じゃあ元気が出ない時はそれを見るんだよ」
「……うん」
本音を打ち明けてしまうと、淋しい気持ちは微塵も消えてはおらず、眠れない夜だってあった。
そんな日はようくんと肌を重ね、お互いの存在がここにあることを確かめ合った。
少しでもこの体に、ようくんのぬくもりが留まるよう祈りながら——。
⁂
そうして迎えた三月。
運のいいことに、桜が満開の時期に卒業式を迎えられたのは、彼が植物に愛されている象徴なのかもしれない。
朝から体育館には二年生や保護者、来賓が集まり、三年生の門出を祝っていた。
卒業生代表の答辞では、ようくんと知らない女の先輩が選ばれ、大勢の人の前で教職員への感謝の言葉や、学校生活の思い出を語った。
「——僕は植物を通して、多くの人に安らぎを届ける。そんな人になりたいと思います。最後になりましたが、これまで僕たちを支えてくださった全ての方々に、心より感謝申し上げます。卒業生代表、七瀬陽」
ようくんが深く頭を下げると、会場からは温かい拍手が沸き起こった。
その後は全校生徒による校歌斉唱を行い、退場していく三年生を拍手で見送った。
二年生は体育館に残り、パイプ椅子や紅白幕の片付けを終えると、それぞれ別れの挨拶をするために校内へ散っていった。
「おっ! ひーちゃん!」
「あ、瀬音先輩」
裏門のガードレールに寄り掛かっていると、花束を持った先輩が手を上げながら走ってきた。
「ご卒業おめでとうございます」
「ありがとーな。ひーちゃんとは短い期間だったけど、ちょー楽しかったワ。俺は七瀬と違ってすぐそこの大学だからな。暇な時遊ぼうな!」
「じゃあ、ようくんが帰ってきた時ならいいですよ」
「それ絶対無理なやつだろ……それより大丈夫なのか」
「何がですか」
「七瀬と離れんの」
「正直、全然大丈夫じゃないです。でも、俺も頑張るって決めたんで」
「はーあ、マジで羨ましいワ……なぁ、日髙チャン——」
先輩は持っていた花束を俺に差し出すと、今まで見たことのない真剣な顔つきで口を開いた。
「遠くに行っちまう七瀬なんかやめて、本気で俺と付き合ってくんねぇか」
「……ごめんなさい。瀬音先輩は悪い人じゃないってのはわかってるんですけど。俺、先輩に触られてもドキドキしないんで、無理です」
「おいおいおいズバッと言うな⁉︎ そこはもっとマイルドにだろ」
「俺そういうの苦手なんで」
先輩には申し訳ないが笑って受け流してしまうと、再び裏門に続く道を眺めて彼が来るのを待ち続けた。
頭上では桜の花が静かに舞っており、手を差し伸べれば花びらは手のひらの上に落ちた。
「葉!」
掲げていた手を下ろし、声のする方に視線を向けると、先ほど差し出された花束と同じものを抱えたようくんが佇んでいた。
「ごめんね、寒いとこで待たせちゃったね」
「大丈夫。花束凄いな」
「部活の後輩たちからもらったんだ」
「そっか」
俺はガードレールから体を離し、左手に隠し持っていた小さな花束をゆっくり差し出した。
「ようくん、卒業おめでとう。これ、そんな立派なモン貰ってるから大したことないかもしれないけど……その、卒業祝いってことで」
ようくんは赤とピンクの花束を受け取ると、目を伏せ、じっと花を見つめていた。
その姿はまるで、絵画の世界から抜け出してきた美青年のようだった。
「……ゼラニウム」
「やっぱ凄いな、名前すぐわかるんだな」
「これ、葉が選んでくれたの?」
「ん、まぁ……な」
その言葉に彼は静かに『そっか……』と溢すと、瞬きと共に一筋の涙を流した。
「え⁉︎ え、ようくん……?」
「……うん? あっ、ご、ごめんねっ! ちょっと嬉しくって……泣くつもりなんかなかったんだけど……ありがとう。押し花にして大切に保管するね」
彼はいつもと変わらぬ笑顔を浮かべると、花びらにそっと口付けを落とした。
なんだか心の奥にじんわりと温かいものを感じた。
「ようくん。そろそろ帰ろ」
「そうだね」
「……手」
ようくんに向かって右手を差し出すと、彼は短く息を飲み込んだ後、指先を手のひらに当てながら首を傾げて様子を伺ってきた。
「……いいの?」
「最後くらい、いいかなって」
「ありがとう」
ようくんの左手がそっと重ねられると、指を絡ませ、目を合わせて笑い合う。
二年間、毎日一緒に通い続けた道を振り返るように、歩みを進めたのだった。
⁂
桜は散り、青々とした葉が木に寄り添う。
いよいよ荷造りを終え、部屋に残っているのは最低限必要な寝具や明日の着替え、それから窓際に置かれた鉢植えだけになった。
「はー……いよいよ明日か。やっぱ早かったな」
「そうだね、早かった……本当に」
今夜はいつにも増して、酷く静かな夜だった。
窓の外ではミミズクの鳴き声が聞こえ、雨戸を風が揺らしていた。
ベッドに並んで座っていると、ようくんは静けさを打ち消すように足をパタパタと揺らしていた。
「でもよかった。引っ越しちゃう前に葉のテスト結果が見れて」
「そんな大したことねぇって」
「何言ってるの、大躍進でしょ? 理科のテストが学年一位なんだよ!」
「テスト結果渡して泣かれるとか人生で初めてだったぞ」
「僕も初めてだった」
「でも数学は赤点ギリギリだからな。もっと頑張んないと……」
「……変わったね」
その言葉に首を傾げると、ようくんは俺の頬をそっと撫でながら、どこか愛おしそうに目を細めていた。
「前までは勉強嫌だとか言ってたのに、一生懸命勉強するようになったね」
「そりゃようくんが頑張ってたの知ったら、俺もやるしかないって思うじゃん」
「それって僕が頑張ってなかったら、頑張ってくれなかったの?」
「多分頑張れなかったと思う。一応これでもさ、ようくんのか、彼氏だし……少しは自信持って立てるようになりたいだ——うおッ⁉︎」
まだ話の途中だというのに、彼は思い切り抱きついてくるとそのままベッドに雪崩れ込み、顔中に口付けの大豪雨を発生させた。
「や、やめ……っ‼︎ よ、ようくんっ!」
「だって葉がっ、急に大きくなるから褒めないと……‼︎」
「そんな激しくされたら恥ずいだろっ‼︎」
「今はめいっぱい可愛がらせてよ」
顔から首、腕とあらゆる場所に唇が当てられると擽ったさに身を捩らせた。
涙で滲んだ視界の中、いたずらっ子のように笑う彼の姿は眩しかった。
「ちょっ……も、ぉっ、ギブッ‼︎ おしまいだ!」
「えーやだー。もうちょっとイチャイチャしようよ」
「明日出るの早いんだろ! あんま夜更かしすると向こう着いた時に片付けできなくなるぞ」
「久しぶりにちゃんと怒られた……」
「俺だって明日学校あるし仕方ないだろ」
「そうだよね。じゃあそろそろ寝よっか……っとその前に——葉」
「な、なに……」
今までになく真剣な様子で名前を呼ばれ、自然と背筋が伸びる。
ようくんに手を引かれて起き上がると、彼は窓際に置いていた鉢植えを手に取ると、穏やかな表情で差し出してきた。
「これは……?」
「ナナカマドの盆栽なんだけどね。僕の誕生日の花なんだ。今はまだ葉しか見えないけど、もうすぐ白い花が咲くんだよ」
「白い花……」
「そう。秋になると葉が赤くなって、冬まで赤い実が付くから一年中楽しめるんだよ。陽の光が大好きな植物だから……葉の部屋の窓際に置いて、僕の代わりに葉のことを見守らせてくれたら嬉しいな。受け取ってくれる……?」
細い幹の先には青々とした緑の葉が茂っている。
彼の両手にそっと手を重ね、しっかりと目を合わせて頷く。
「……わかった。この木をようくんだと思って毎日話しかければいいんだな」
「ありがとう」
鉢植えを受け取ると、一つだけ付いていた白い蕾に鼻を寄せた。
まだ香りはしない、花が咲いたらどんな香りになるのだろうか。
「さてと、渡す物もきちんと渡したし、今度こそ寝よっか!」
「ん。これさ、抱えて寝るのは無理だからテーブルのところに置いてもいい?」
ようくんは笑いながら鉢植えを受け取ると、ローテーブルの上にそっと置いた。
布団を持ち上げて横になると、ようくんがすぐ隣にくっついてきた。
頬を撫でられると瞼が閉じ始め、彼の姿が闇に消えていく。
「葉……時間はかかっちゃうけど絶対に、絶対にまた戻ってくるから、それまでお互い頑張ろうね」
「……ううん。戻ってこなくていい。今度は俺が——」
——ようくんを迎えに行くから。
目と鼻の先には朝日を跳ね返す長い睫毛。頬には何本もの白い筋。
もう何年も見続けた顔だというのに、見惚れるほどの美しさだった。
頬に左手を添え、親指で涙の跡を辿ると昨晩の記憶が蘇る。
慈しむように名前を呼ぶ声も、胸に当てられた手のひらも、太腿をなぞる指も、彼の熱も。
全てが心地良く、心の底から渇望していたものだった。
まだ体のあちこちに熱が残っているが、もう一度あの温もりを求めて、ようくんの首元に擦り寄ると、ほんのりと汗の香りがした。
「よう、くん……」
無意識に何度も名前が溢れると、彼は眉間に皺を寄せ、わずかに身動ぐ。
その顔を見つめていると、あたたかい手のひらが腰に回され、強く抱き寄せられた。
「ん……ん゛ー……よ、う……」
「おはよ……」
睫毛が小刻みに震えると、薄目の彼と視線が交わる。
いつも以上に下がった目尻で、ふにゃふにゃと笑うと額や瞼に口付けを落とされた。
「おはよう……寒くない?」
「うん、くっついてるから寒くない。昨日は服、着せてくれてありがと」
「どういたしまして」
ようくんは背中に手を回すと、トントン、と心地いいリズムで叩き始めた。
しっかり眠ったはずなのに、再び睡魔が呼び起こされると頭が大きく揺れ動く。
「ふふっ可愛い。赤ちゃんみたい」
「それ……だから、眠くなるん、だって……」
「また寝ちゃう?」
「寝てもいい……?」
「いいよ、一緒に寝よっか」
彼の温かい腕の中に閉じ込められると、呼吸音と心音に耳を傾けながら、意識を手放したのだった——。
⁂
かくして、恋人として初めて一夜を過ごしてから、俺はようくんの部屋に籠り切りになった。
家には『しばらく七瀬さんの家で過ごします』とだけメッセージを入れたきり、帰ってはいない。
毎朝ようくんの腕の中で目覚め、一緒に顔を洗いに行き、作り置きの朝ごはんを部屋に運ぶと肩のぶつかる距離で食べる。勿論、煩わしさはない。
「ハムエッグ美味しそ」
「お醤油とマヨネーズ、どっちがいい?」
「今日はマヨネーズの気分だな」
「じゃあかけてあげるね」
オレンジの濃い黄身の上にクリーム色のハート模様が作られる。
それを箸で掬って口に入れると、彼の気持ちも一緒に咀嚼しているようだった。
「葉、口の端っこにご飯付いてる」
「ん」
「ん、って……もう、仕方ないなぁ」
ようくんは眉を下げながら、口に付いた米を摘むと何の躊躇いもなく口に入れた。
その様子を眺めていると『あ、もしかして食べたかった?』と何十倍にもなったご飯を乗せた箸が差し出された。
別に米粒一つに未練があるわけではないが、貰えるものはしっかりいただく。
「ご飯食べ終わったら今日は何したい?」
「どうしよ、ゲームも飽きてきたし……あ、久しぶりに図鑑見ようぜ、図鑑」
「なんの図鑑がいい?」
「面白いやつならなんでも」
「じゃあこの間買ってきた食用植物の図鑑にしよっか」
ペロリと朝ごはんを平らげてしまうと、ようくんが片付けに行ってしまったので三角座りをして戻ってくるのを待つ。
窓際に置かれた植物を観察しながら、脱ぎ捨てられたパジャマを抱きしめていると、駆け足で階段を上る足音が聞こえ、ドアが勢い良く開かれた。
「おまたせ! よし、一緒に読もっ……あ、ごめんね。お楽しみの邪魔しちゃったね」
「え? あ……」
無意識に口元に寄せていた、ようくんのパジャマをベッドに放り投げると、いそいそ床に寝転んだ。
含み笑いをする彼は本棚から一冊の図鑑を取り出し、隣に座ると分厚い表紙をめくった。
綺麗な写真と共に植物の名前や生息地が記されており、分からない単語は所々解説してもらいながら読み進める。
未知の植物に興味が湧くも、彼の穏やかな声に安堵すると、次第に頭が下がり、床に落ちた。
「ふふ、眠くなっちゃった?」
「ごめん……面白いんだけど、声、落ち着いて……」
「少し休憩しよっか」
彼は重いであろう体を持ち上げてくれると、ベッドに寝かし布団を掛けてくれた。そのまま背中を叩かれると徐々に視界が闇に呑まれ始める。
「おやすみ、葉——」
ようくんの安心する声を最後に暗闇へ沈む。
こんな堕落した生活を繰り返しているものの、誰一人、俺たちを咎めるものは居なかった。
強いて欠点を挙げるとするなら、怖がりになった俺は日夜、彼にくっついていないと気力が持たなくなったくらいか。
目が覚め、意識がハッキリするまでオレンジ色に染まった部屋を眺める。
体は冷え切り、鉛のように重たい。
辛うじて動く首を回して、ようくんを探すと彼は机に向かって何か作業しているようだった。
「よ、うくん……」
「……ん? 起きた?」
「こわ、い……」
「怖くなっちゃったんだね。ちょっと待ってね」
喉から絞り出した声に、ようくんは慌ててノートを閉じると、ベッドに腰を下ろし両手を広げてこちらを見た。
膝の上に這って移動すると、思い切り抱きしめられた。背中から伝わる熱が淋しさも苦しさも消し去ってくれる。
こんなに自分は寂しがり屋だったのだと、初めて気づいた。
ようくんにも変化が訪れたのか、以前よりスキンシップの回数が増え、強請ればキスもそれ以上のこともしてくれるようになった。
「ようくん……キス、したい」
「いいよ、どのキスがいい?」
「きもちいやつ……」
彼の首に腕を回し、少しずつ流し込まれる栄養を待ち続ける。
ある程度、栄養が体に行き渡ると今度は熱を求めて彼と共に倒れ込む。
この六畳一間が二人の箱庭。
しかし、部屋の壁に掛けられた日めくりカレンダーは少しずつ薄くなり、タイムリミットは刻一刻と迫っていた。
⁂
——年が明け、東の山から新しい陽が昇れば、この世界にも終止符が打たれる。
ある朝、ようくんに手を引かれて、鞄と制服を取りに家に戻った。
約二週間ぶりの帰宅に、母親も父親も叱ることはせず、ただ『七瀬くんを応援してあげて』とだけ言い聞かされた。
人形のように制服を着せられ、久しぶりの二人での登校。
この時間は手が繋げない寂しさはあるものの、帰ってからその分、めいっぱい抱きつくことで我慢した。
しかし、学校が再開してすぐに三年生は午前授業になってしまい、ようくんも例に漏れず一足先に帰路に着いていた。
対して一人でいることに閉塞感を覚えてしまった俺は、最初の三日間は一人きりで下校できたものの、次第に早退することが増えた。
今日も七瀬家の玄関で靴を脱ぎ捨てると、駆け足で二階へ上がる。
「ようくん、ただい——」
いつものように元気良くドアを開けると、部屋の中はしんと静まり返っていた。
昨日までは笑顔で両手を広げた彼が、温かく迎え入れてくれたのに。そこにいたのは机に伏せる、ようくんの姿があった。
足音を立てずに、そっと近づくと微かに寝息が聞こえてくる。気持ち良さそうに寝ている顔は、幼子のようで自然と笑みが溢れた。
ほんのりと赤くなった頬を指先で撫でると、ようくんは擽ったかったのか大きく身動いだ。
その拍子に体の下に敷かれていたものがバサリ、と床に落ちた。
大事な本に折れ目が付いてしまっては、後で彼が悲しむだろうと慌てて拾い上げると、それは一冊のノートだった。
「……——」
手の上に乗っている紙には、聞いたことのない単語の表や植物を分解したような図、赤ペンが所狭しと書き記されており、ページをめくる手は止まらなかった。
机の上には他にも勉強道具が積まれており、過去問題集や参考書はもちろん、開きっぱなしの赤本には、付箋やマーカーが目がチカチカするほど付けられている。
——あれ、そういえば、今日って何日だっけ。
いつの間にか分厚くなってしまった日めくりカレンダーを確認すると、そこには〝一月十五日〟と大きく記されている。
携帯電話で共通テストまで何日か調べると、もう二日しかなかった。
「う、嘘だ……そんな……」
呼吸が浅くなり、次第に視界が暗くなると足が大きく震え出した。
別に、ようくんが大学に行くのが嫌だったわけではない。
本来ならもっと早くから時間をかけて、空いた隙間を埋めていけたはずだったのに。俺が本当の意味で彼に向き合えなかったから、彼の大事な時間も、未来も、奪い去る形で必死に埋め合わせをしていた。
〝兄弟〟だろうと〝恋人〟だろうと、大切な人だからこそ迷惑を掛けたくない——。
なぜ、そんな初歩的なことを忘れてしまっていたのだろうか。
背後から忍び寄る罪悪感に怯えると、ようくんの背中にブランケットをかけ、逃げるように部屋を出て行ったのだった。
「はぁッ……う、ぅゔ……‼︎」
嗚咽を漏らしながら、階段を駆け降り、素足のまま玄関ドアを開けると背後から小走りで近づいてくる足音が聞こえた。
「どうしたの⁉︎ 葉くんっ!」
その声に足を止めると、エプロン姿のようくんの母親が心配そうな顔で腕を掴んできた。
「裸足で出て行こうとしてっ……陽にいじめられたの〜⁉︎」
「お゛、俺っ……もうここに、いられないです……っ」
「ど、どうして?」
「ようぐんに、ひ、酷いごとばっがしちゃって……!」
上擦った声で必死に話すも、よろけて壁にぶつかると、そのまま力が抜け床に崩れ落ちた。
石のタイルは今まで大事に貯めていた熱を奪い去っていく。
「葉くん落ち着いて、大丈夫よ。少しソファに座ってお話ししましょ? 玄関は寒いから、ね?」
「……は、い」
今度は母親に手を引かれ、リビングのソファに座らされた。
頭が大きく揺さぶられているように痛く、項垂れていると目の前のローテーブルに湯気の立つマグカップが二つ置かれた。
母親は隣に腰掛けると、濡れた顔をティッシュでそっと拭ってくれた。
「ココア持ってきたから一緒に飲みましょ〜」
「ありがと、ございます……」
震える両手でマグカップを持ち、湯気に乗った甘い香りに意識を移すと、少しだけ呼吸が落ち着く。
一口啜るとほろ苦い甘さが口の中に広がり、冷えた体を芯から温めてくれる。
ほっと息をつくと、母親が笑顔で話しかけてきた。
「今日は学校楽しかった?」
「あんま……」
「お勉強は好きじゃない?」
「そんなに……」
「陽が居ないと帰り道寂しいでしょお」
「ちょっと……ううん、凄く……寂しい」
母親は静かに笑うと、しばらく二階に目を遣った後、瞼を閉じて俯いたのだった。
「葉くんは……陽のこと、好き?」
突然振られた質問に戸惑うと、手に持っていたマグカップの中のココアが大きく揺れ動いた。
「え、えっと……」
「遠慮しないで言っていいのよ」
「す、好き……です」
「どこが好きなの〜?」
「どこって……全部、って言ったら、変ですか……?」
母親は首を横に振ると、両手をそっと包み込んで目を合わせてくれた。
「そう言ってもらえてすっごく嬉しい。陽はね、あなたがいてくれたから今日まで頑張って来れたのよ」
「俺は、何もしてないです……今までようくんの足ばっか引っ張って……」
「そんなことないのよ。昔の陽はね、勉強も運動も嫌いで、好きなことにしか興味がなくてどうしようもない子だったの。でもあなたに出会ってから少しずつ変わっていったのよ。だから、そんなに自分を否定しないであげて」
温かい抱擁を交わすと、母親は夕ご飯の支度をしにキッチンの前に戻ってしまった。
しばらく茶色い水面を眺め、先ほどの言葉をゆっくりと自分の中に落とし込む。
どんなに形が変われども、彼は俺の隣に居続けるために陰で努力と想いを抱き続けてくれていた。
対して俺は自分の寂しさを優先し、悲観してばかりいた。
あの冬の日『僕も同じ気持ちだから』と泣いていた彼だって、本当は離れたくないはずなのに、それでも夢を追う決断をした。
そこで怖いからという理由で、俺が逃げてしまったらどうなるのだろうか。
きっとようくんは、足を止めてしまうかもしれない。
これはただの思い上がりかもしれないけど、もし俺が彼の傍で笑っているだけで本当に力になれるのなら——。
俺は腕で顔を擦ると、頬を強く叩いたのだった。
⁂
まだ冷えていないマグカップを持って二階に戻ると、ようくんは再び勉強机に向き直っていた。
気配に気がついたのか、彼はペンを握る手を止めると、勢い良く椅子を回し、両腕を広げたのだった。
「……あっ! 葉、おかえり!」
「ただいま」
「目どうしたの? 腫れちゃってる……もしかして一人で泣いてたの?」
「い、いや……その……」
「ごめんね。今、片付けるから一緒にベッドで休もっか?」
どんな時でも変わらぬ優しい言葉。
また甘えそうな気持ちをぐっと飲み込むと、俺は首を横に振り、持っていたココアを差し出した。
「あの……俺にも、何かできることない?」
「葉……?」
「もう今から遅いかもしれないけど……暗記の手伝いとか、肩たたきとかっ! なんでもやるから、なんか俺にも手伝えることない⁉︎」
ようくんは驚いたのか、目を大きく見開いたまま硬直してしまった。
しばらく何も言えず、動けず、見つめ合ったままになっていると、彼は握っていたマグカップを受け取り、一口啜った。
「……うん、美味しい。疲れてたから甘い物、助かるな」
「ほ、他に必要なのは……」
「じゃあ一回だけ、抱きしめて?」
俺は若干の躊躇を覚えながらも彼の傍に近寄ると、広い背中に両腕を伸ばして強くしがみついた。彼の吐息が耳に当たり、少しだけ擽ったい。
「葉はあったかくて、いい匂いで……落ち着くなぁ」
「これでようくんが落ち着けるなら、何度だってする」
「……ありがとう」
「ようくん、俺、応援してるから」
「うん……がんばるね」
そっと体から離れると、いつもの柔和な笑みを浮かべる彼が居たのだった——。
その日を境に、少しずつ今の生活を見直していった。
毎朝、早く起きて、ようくんの母親と一緒に弁当と朝ごはんを作った。
学校に行ってからは遅れてしまった授業を取り戻すため、クラス委員長に頼んで空き時間や放課後を使って勉強に励んだ。
未だ帰る場所はようくんのところだけれども、甘えるためではなく、最後まで彼の傍で支えたいと、お互いの両親に頭を下げたのだ。
彼が勉強している間は邪魔しないよう、俺もローテーブルに向かって勉強を始めた。
少しでも彼の努力に寄り添い続けたい。ただその一心で。
⁂
——長かった冬が、もうじき終わる。
庭に埋められた梅の木に白い花弁が一つ、二つと咲き始め、これから訪れる春を告げていた。
今朝、七瀬家に一通の封書が届いた。
差出人は『千羽大学園芸学部』。
茶封筒をポストから取り出した俺は、小走りでようくんの部屋に向かい、読書中の彼に手渡したのだった。
「どうしよう、これで不合格とかだったら」
「怖いこと言うなって、そしたら俺と同じになるんだぞ」
「それもそれでいいけど」
「よくねぇだろ⁉︎」
「……じゃあ、開けるね?」
自分の結果ではないのに、心臓が痛いほど激しく脈打つ。
ようくんも緊張しているのか、封を持つ手が震えていた。
ハサミで封筒上部を綺麗に切り取り、中に入っている白い紙を掴むと一気に引っ張り出す。
同じタイミングで深呼吸をし、丁寧に三つ折りされた紙が開かれるのを見守る。
「千羽大学……合格、通知書」
彼の視線が紙からこちらに移ると、目尻には輝くものが浮かんでいた。
その瞬間、彼の体を強く抱きしめると背中を何度もさすった。
そこに言葉は必要なかった。
それからは目まぐるしい勢いで日々が進み始めた。
七瀬家と日髙家で合格祝いの焼肉パーティーを行い、その翌日から三年生は自由登校が始まると、ようくんは新しい住まいを探して、両親と不動産巡りに明け暮れていた。
俺は学年末最後の期末試験を受ける。
感傷に浸る時間なんてものはなく、残酷に時間が消費されていく。
それでも唯一変わらないのは、毎晩共に過ごすことだった。
一緒に新居へ持って行く荷物を段ボールに詰める。
本がぎっちり埋まっていた棚には所々大きな空きができ、タンスの中から夏服は完全に消え去っていき、少しずつようくんの形跡が消えていった。
「どこからどこまで持っていけばいいか悩んじゃうね」
「さすがにこの量の本は全部持ってけないよな」
「そうだね、最低限読み返したい本だけ持って行こうかな……」
「そしたらさ、持っていかない本って俺が借りててもいい?」
「もちろんいいよ」
俺は本棚に残されていた参考書を数冊、そして子供向けの植物図鑑を手に取ったのだった。
「それ、懐かしいね」
「ちっちゃい頃、読み聞かせてくれたよな」
「葉は確か花壇に生えてる花を見るのが好きだったよね」
「写真とかカラフルだから見てて楽しい」
「じゃあ元気が出ない時はそれを見るんだよ」
「……うん」
本音を打ち明けてしまうと、淋しい気持ちは微塵も消えてはおらず、眠れない夜だってあった。
そんな日はようくんと肌を重ね、お互いの存在がここにあることを確かめ合った。
少しでもこの体に、ようくんのぬくもりが留まるよう祈りながら——。
⁂
そうして迎えた三月。
運のいいことに、桜が満開の時期に卒業式を迎えられたのは、彼が植物に愛されている象徴なのかもしれない。
朝から体育館には二年生や保護者、来賓が集まり、三年生の門出を祝っていた。
卒業生代表の答辞では、ようくんと知らない女の先輩が選ばれ、大勢の人の前で教職員への感謝の言葉や、学校生活の思い出を語った。
「——僕は植物を通して、多くの人に安らぎを届ける。そんな人になりたいと思います。最後になりましたが、これまで僕たちを支えてくださった全ての方々に、心より感謝申し上げます。卒業生代表、七瀬陽」
ようくんが深く頭を下げると、会場からは温かい拍手が沸き起こった。
その後は全校生徒による校歌斉唱を行い、退場していく三年生を拍手で見送った。
二年生は体育館に残り、パイプ椅子や紅白幕の片付けを終えると、それぞれ別れの挨拶をするために校内へ散っていった。
「おっ! ひーちゃん!」
「あ、瀬音先輩」
裏門のガードレールに寄り掛かっていると、花束を持った先輩が手を上げながら走ってきた。
「ご卒業おめでとうございます」
「ありがとーな。ひーちゃんとは短い期間だったけど、ちょー楽しかったワ。俺は七瀬と違ってすぐそこの大学だからな。暇な時遊ぼうな!」
「じゃあ、ようくんが帰ってきた時ならいいですよ」
「それ絶対無理なやつだろ……それより大丈夫なのか」
「何がですか」
「七瀬と離れんの」
「正直、全然大丈夫じゃないです。でも、俺も頑張るって決めたんで」
「はーあ、マジで羨ましいワ……なぁ、日髙チャン——」
先輩は持っていた花束を俺に差し出すと、今まで見たことのない真剣な顔つきで口を開いた。
「遠くに行っちまう七瀬なんかやめて、本気で俺と付き合ってくんねぇか」
「……ごめんなさい。瀬音先輩は悪い人じゃないってのはわかってるんですけど。俺、先輩に触られてもドキドキしないんで、無理です」
「おいおいおいズバッと言うな⁉︎ そこはもっとマイルドにだろ」
「俺そういうの苦手なんで」
先輩には申し訳ないが笑って受け流してしまうと、再び裏門に続く道を眺めて彼が来るのを待ち続けた。
頭上では桜の花が静かに舞っており、手を差し伸べれば花びらは手のひらの上に落ちた。
「葉!」
掲げていた手を下ろし、声のする方に視線を向けると、先ほど差し出された花束と同じものを抱えたようくんが佇んでいた。
「ごめんね、寒いとこで待たせちゃったね」
「大丈夫。花束凄いな」
「部活の後輩たちからもらったんだ」
「そっか」
俺はガードレールから体を離し、左手に隠し持っていた小さな花束をゆっくり差し出した。
「ようくん、卒業おめでとう。これ、そんな立派なモン貰ってるから大したことないかもしれないけど……その、卒業祝いってことで」
ようくんは赤とピンクの花束を受け取ると、目を伏せ、じっと花を見つめていた。
その姿はまるで、絵画の世界から抜け出してきた美青年のようだった。
「……ゼラニウム」
「やっぱ凄いな、名前すぐわかるんだな」
「これ、葉が選んでくれたの?」
「ん、まぁ……な」
その言葉に彼は静かに『そっか……』と溢すと、瞬きと共に一筋の涙を流した。
「え⁉︎ え、ようくん……?」
「……うん? あっ、ご、ごめんねっ! ちょっと嬉しくって……泣くつもりなんかなかったんだけど……ありがとう。押し花にして大切に保管するね」
彼はいつもと変わらぬ笑顔を浮かべると、花びらにそっと口付けを落とした。
なんだか心の奥にじんわりと温かいものを感じた。
「ようくん。そろそろ帰ろ」
「そうだね」
「……手」
ようくんに向かって右手を差し出すと、彼は短く息を飲み込んだ後、指先を手のひらに当てながら首を傾げて様子を伺ってきた。
「……いいの?」
「最後くらい、いいかなって」
「ありがとう」
ようくんの左手がそっと重ねられると、指を絡ませ、目を合わせて笑い合う。
二年間、毎日一緒に通い続けた道を振り返るように、歩みを進めたのだった。
⁂
桜は散り、青々とした葉が木に寄り添う。
いよいよ荷造りを終え、部屋に残っているのは最低限必要な寝具や明日の着替え、それから窓際に置かれた鉢植えだけになった。
「はー……いよいよ明日か。やっぱ早かったな」
「そうだね、早かった……本当に」
今夜はいつにも増して、酷く静かな夜だった。
窓の外ではミミズクの鳴き声が聞こえ、雨戸を風が揺らしていた。
ベッドに並んで座っていると、ようくんは静けさを打ち消すように足をパタパタと揺らしていた。
「でもよかった。引っ越しちゃう前に葉のテスト結果が見れて」
「そんな大したことねぇって」
「何言ってるの、大躍進でしょ? 理科のテストが学年一位なんだよ!」
「テスト結果渡して泣かれるとか人生で初めてだったぞ」
「僕も初めてだった」
「でも数学は赤点ギリギリだからな。もっと頑張んないと……」
「……変わったね」
その言葉に首を傾げると、ようくんは俺の頬をそっと撫でながら、どこか愛おしそうに目を細めていた。
「前までは勉強嫌だとか言ってたのに、一生懸命勉強するようになったね」
「そりゃようくんが頑張ってたの知ったら、俺もやるしかないって思うじゃん」
「それって僕が頑張ってなかったら、頑張ってくれなかったの?」
「多分頑張れなかったと思う。一応これでもさ、ようくんのか、彼氏だし……少しは自信持って立てるようになりたいだ——うおッ⁉︎」
まだ話の途中だというのに、彼は思い切り抱きついてくるとそのままベッドに雪崩れ込み、顔中に口付けの大豪雨を発生させた。
「や、やめ……っ‼︎ よ、ようくんっ!」
「だって葉がっ、急に大きくなるから褒めないと……‼︎」
「そんな激しくされたら恥ずいだろっ‼︎」
「今はめいっぱい可愛がらせてよ」
顔から首、腕とあらゆる場所に唇が当てられると擽ったさに身を捩らせた。
涙で滲んだ視界の中、いたずらっ子のように笑う彼の姿は眩しかった。
「ちょっ……も、ぉっ、ギブッ‼︎ おしまいだ!」
「えーやだー。もうちょっとイチャイチャしようよ」
「明日出るの早いんだろ! あんま夜更かしすると向こう着いた時に片付けできなくなるぞ」
「久しぶりにちゃんと怒られた……」
「俺だって明日学校あるし仕方ないだろ」
「そうだよね。じゃあそろそろ寝よっか……っとその前に——葉」
「な、なに……」
今までになく真剣な様子で名前を呼ばれ、自然と背筋が伸びる。
ようくんに手を引かれて起き上がると、彼は窓際に置いていた鉢植えを手に取ると、穏やかな表情で差し出してきた。
「これは……?」
「ナナカマドの盆栽なんだけどね。僕の誕生日の花なんだ。今はまだ葉しか見えないけど、もうすぐ白い花が咲くんだよ」
「白い花……」
「そう。秋になると葉が赤くなって、冬まで赤い実が付くから一年中楽しめるんだよ。陽の光が大好きな植物だから……葉の部屋の窓際に置いて、僕の代わりに葉のことを見守らせてくれたら嬉しいな。受け取ってくれる……?」
細い幹の先には青々とした緑の葉が茂っている。
彼の両手にそっと手を重ね、しっかりと目を合わせて頷く。
「……わかった。この木をようくんだと思って毎日話しかければいいんだな」
「ありがとう」
鉢植えを受け取ると、一つだけ付いていた白い蕾に鼻を寄せた。
まだ香りはしない、花が咲いたらどんな香りになるのだろうか。
「さてと、渡す物もきちんと渡したし、今度こそ寝よっか!」
「ん。これさ、抱えて寝るのは無理だからテーブルのところに置いてもいい?」
ようくんは笑いながら鉢植えを受け取ると、ローテーブルの上にそっと置いた。
布団を持ち上げて横になると、ようくんがすぐ隣にくっついてきた。
頬を撫でられると瞼が閉じ始め、彼の姿が闇に消えていく。
「葉……時間はかかっちゃうけど絶対に、絶対にまた戻ってくるから、それまでお互い頑張ろうね」
「……ううん。戻ってこなくていい。今度は俺が——」
——ようくんを迎えに行くから。
