本の表紙が千家から見えるように机の上へ置いた。
表紙には『、と。』とだけ書かれている。
大きく描かれた読点と句点、余計なイラストも説明文もない。
その二つの記号だけで構成された表紙には、一度見たら忘れにくい存在感があった。
「えっと、俺が紹介するのは『、と。』っていう本で……これは文章に出てくる読点と句点が、ある日、本の中から現れるんだ。夏休みに絵日記を書いてる女の子のところに現れて、読点の使い方を教えてあげたり、文章になんで句点が必要なのかを一から説明してくれたりする」
怜太が話し始めると、千家はにこにこと笑いながら耳を傾けた。
その笑顔が視界に入るたび、怜太は妙に意識してしまう。体育館なら観客が何人いようと試合に集中しているので気にならない。
ところが今は、目の前にいる千家一人に話を聞かれているだけなのに、言葉が思うように出てこない。
怜太は緊張に押しつぶされないよう、言葉をなんとか繋いでいった。
「そうだな。俺が一番好きな話は、人間関係に悩んでる男性が、遺書を書いてる最中に現れる話かな。死のうとしている相手を説得するんじゃなくて、句読点の打ち方を指導するっていう、ずれたところが最高で……それで男性は結局、自分の悩みが馬鹿馬鹿しくなって、遺書を破り捨てて生きることを決心するんだ」
そこまで話して、怜太はちらりと壁の時計を見た。
プレゼンを開始してから、まだ一分しか経っていない。
思ったよりも時間が進んでいないことに、怜太は内心で焦った。
さっきまでの一時間は、あっという間だった。それなのに話し始めてからの一分は、異様に長く感じられる。
「それ以外だと、文章が怖いって言われるサラリーマンを助ける話も面白かったな。そのサラリーマンは部下への連絡で句読点を――」
そこから先は、さっき読んだ本の内容をひたすら口にした。
印象に残った話を思い出しては話し、話すことがなくなれば、また別のエピソードを探して口にする。どの話をどんな順番で紹介すればいいのかも分からないまま、とにかく沈黙だけは避けようと、思いついたことを次々に並べていった。
話しているうちに、自分でも何を伝えたいのか分からなくなってきた。それでも、まだ時間は残っている。怜太は時計を気にしながら、頭の中に残っている本の内容を掘り起こし続けた。
「……こんなところかな」
ようやく区切りをつけて、怜太は時計を見た。
約三分。
思ったよりは長く話せていた。
怜太が息をつくと、向かいからパチパチと拍手が聞こえてきた。
「うんうん、なるほどねえ」
「どうだった?」
怜太が尋ねると、千家は腕を組んで少し考え込んだ。すぐには答えず、話の内容を頭の中で整理するように視線を宙へ向ける。
「そうだねえ……なんというか、言いたいことは伝わってくる。そこにある温度感は本物なんだけど……」
妙に歯切れが悪い。
千家が何か言いにくいことを抱えているのは、怜太の目にも明らかだった。
「言いたいことがあるなら、はっきり言ってくれていいぞ」
悩みもだえていた千家が、白い歯を見せて笑う。
「お言葉に甘えて遠慮なく。全然だめかな」
あまりにもあっさり告げられて、怜太は愕然とした。
「だめ!?」
「勘違いしないで、だめじゃないよ。全然だめだから」
「それ、慰めになってないだろ」
千家は少し笑ったものの、すぐに真面目な表情へ戻った。
「気になる点はいろいろあるんだけど、まずはその本の魅力が伝わらないってところかな」
「魅力か……。俺なりにうまくやったつもりなんだけどな」
「怜太君がやってることって、ファスト映画なんだよね」
「ファスト映画?」
「うん。本そのものは面白そうだと思った。でも、怜太君の話を聞いただけで、もうある程度内容を知っちゃったから、改めて読もうとはならないんだよ」
怜太は黙り込む。ぐうの音も出ない感想だった。
自分が何を話したのかを思い返してみる。紹介したのは、本を読んで感じた面白さというより、そこに書かれていた出来事の数々だった。登場人物が何をして、どんなことが起きて、最後にどうなったのか。本人は至って真面目に本の魅力を伝えているつもりでも、千家からすれば物語の中身をネタバレされただけなのだ。
「どうかな?」
「……的を射た感想だ」
怜太が小さく呟くと、千家は続けた。
「後は一時間の使い方だね。これはあえて説明しなかったから仕方ない部分もあるんだけど、怜太君は一時間ずっと本を読んでたでしょ」
「内容を知ろうとすることが変なのか?」
「やっぱりプレゼンっていう前提があったから、喋る内容をメモにまとめるとかは、やったほうがいいと思うよ。何を話すか決まってなかったから、ストーリーを並べるだけになっちゃったんじゃない?」
たった三分間で心は丸裸にされていた。
怜太は与えられた一時間をいたずらに消費しただけだった。読んで面白いと感じて、それで終わり。
「レベル上げや宝箱を無視して最短ルートでボスに挑んだ結果、ボコボコにされた気分だ」
「いい例えだね。それが出るなら才能はあるから安心していいよ」
褒められて少しだけ嬉しくなったが、千家はダメ押しとばかりにこう続けた。
「一番残念だった点は――」
姿勢を正し、怜太の顔を指差す。
「私をこの本の虜にさせてやる、っていう気概が足りなかったところ」
アーモンド型の瞳が、まっすぐ怜太を見据える。
「俺なりに頑張ってみたんだけど、足りなかったみたいだな」
「厳しいことを言うけどね」
千家が本をひょいと取り上げる。
「本のタイトル、間違ってるよ?」
「えぇ!?」
怜太は慌てて表紙を見た。
『、と。』とだけ書かれていて、読み仮名らしきものはどこにもない。
「読点と句点じゃないのか?」
「普通に読めばね。でも、正式なタイトルは『、と。』だよ」
「……てんとまる?」
「そう。私も偶然この本を読んだことがあるの。不思議なタイトルだなーと思って調べたら、あらびっくり」
怜太は何も言わず、もう一度表紙をまじまじと見つめた。
句読点だという先入観が、タイトルをそう読ませてしまった。しかし冷静になって思い返せば、句点をマルと呼ぶことはある。怜太自身が数日前にマルハラという言葉を口にしたばかりだ。
「この本を好きな人がさ、怜太君のプレゼンを聞いたらどう思うかな?」
想像するまでもなく、答えはすぐに出た。
内容がどうこう以前に、タイトルを間違えている。しかもその本を紹介するために、物語のあらすじを延々と話してしまった。
もし自分が大好きな本について、誰かがそんな紹介をしたらどう感じるだろう。面白さを伝えようとしてくれたこと自体は分かっても、最初から最後まで見当違いの説明を聞かされれば、好きな人ほど複雑な気持ちになるに違いない。
「……本当に全然だめだな」
怜太は肩を落とした。
「これくらい簡単だろって、軽い気持ちでやってたわ」
「すごいよ、怜太君。それに気づいて反省できるのは偉い!」
千家は身を乗り出すと、怜太の手をぎゅっと掴んだ。
「失敗は悪くない。そこから目を背けないのは、さすがアスリートだね」
あまりにも真っ直ぐな言葉だった。
怜太は思わず目を逸らした。こういうことを真正面から言われるのは慣れていない。胸の奥を不意に見透かされたようで、妙に落ち着かない。それでも、嫌な気持ちはしなかった。むしろ、じわじわと頬が熱くなっていくのを感じた。
「あ、ありがとう……で、合ってるのか?」
千家は、にこにこと笑いながら何度も首を縦に振った。
「うんうん、合ってる合ってる」
ぱっと怜太の手を離すと、勢いよく立ち上がる。
「じゃあ、次は私だね。ディベート部の部長としての意地、見せちゃうよお!」
さっきまで冷静に講評していた人物とは思えないほどの変わりよう。緊張に包まれていた怜太とは比べ物にならない。
腕まくりをした千家は、秒針が十二を指すのに合わせて口火を切った。
表紙には『、と。』とだけ書かれている。
大きく描かれた読点と句点、余計なイラストも説明文もない。
その二つの記号だけで構成された表紙には、一度見たら忘れにくい存在感があった。
「えっと、俺が紹介するのは『、と。』っていう本で……これは文章に出てくる読点と句点が、ある日、本の中から現れるんだ。夏休みに絵日記を書いてる女の子のところに現れて、読点の使い方を教えてあげたり、文章になんで句点が必要なのかを一から説明してくれたりする」
怜太が話し始めると、千家はにこにこと笑いながら耳を傾けた。
その笑顔が視界に入るたび、怜太は妙に意識してしまう。体育館なら観客が何人いようと試合に集中しているので気にならない。
ところが今は、目の前にいる千家一人に話を聞かれているだけなのに、言葉が思うように出てこない。
怜太は緊張に押しつぶされないよう、言葉をなんとか繋いでいった。
「そうだな。俺が一番好きな話は、人間関係に悩んでる男性が、遺書を書いてる最中に現れる話かな。死のうとしている相手を説得するんじゃなくて、句読点の打ち方を指導するっていう、ずれたところが最高で……それで男性は結局、自分の悩みが馬鹿馬鹿しくなって、遺書を破り捨てて生きることを決心するんだ」
そこまで話して、怜太はちらりと壁の時計を見た。
プレゼンを開始してから、まだ一分しか経っていない。
思ったよりも時間が進んでいないことに、怜太は内心で焦った。
さっきまでの一時間は、あっという間だった。それなのに話し始めてからの一分は、異様に長く感じられる。
「それ以外だと、文章が怖いって言われるサラリーマンを助ける話も面白かったな。そのサラリーマンは部下への連絡で句読点を――」
そこから先は、さっき読んだ本の内容をひたすら口にした。
印象に残った話を思い出しては話し、話すことがなくなれば、また別のエピソードを探して口にする。どの話をどんな順番で紹介すればいいのかも分からないまま、とにかく沈黙だけは避けようと、思いついたことを次々に並べていった。
話しているうちに、自分でも何を伝えたいのか分からなくなってきた。それでも、まだ時間は残っている。怜太は時計を気にしながら、頭の中に残っている本の内容を掘り起こし続けた。
「……こんなところかな」
ようやく区切りをつけて、怜太は時計を見た。
約三分。
思ったよりは長く話せていた。
怜太が息をつくと、向かいからパチパチと拍手が聞こえてきた。
「うんうん、なるほどねえ」
「どうだった?」
怜太が尋ねると、千家は腕を組んで少し考え込んだ。すぐには答えず、話の内容を頭の中で整理するように視線を宙へ向ける。
「そうだねえ……なんというか、言いたいことは伝わってくる。そこにある温度感は本物なんだけど……」
妙に歯切れが悪い。
千家が何か言いにくいことを抱えているのは、怜太の目にも明らかだった。
「言いたいことがあるなら、はっきり言ってくれていいぞ」
悩みもだえていた千家が、白い歯を見せて笑う。
「お言葉に甘えて遠慮なく。全然だめかな」
あまりにもあっさり告げられて、怜太は愕然とした。
「だめ!?」
「勘違いしないで、だめじゃないよ。全然だめだから」
「それ、慰めになってないだろ」
千家は少し笑ったものの、すぐに真面目な表情へ戻った。
「気になる点はいろいろあるんだけど、まずはその本の魅力が伝わらないってところかな」
「魅力か……。俺なりにうまくやったつもりなんだけどな」
「怜太君がやってることって、ファスト映画なんだよね」
「ファスト映画?」
「うん。本そのものは面白そうだと思った。でも、怜太君の話を聞いただけで、もうある程度内容を知っちゃったから、改めて読もうとはならないんだよ」
怜太は黙り込む。ぐうの音も出ない感想だった。
自分が何を話したのかを思い返してみる。紹介したのは、本を読んで感じた面白さというより、そこに書かれていた出来事の数々だった。登場人物が何をして、どんなことが起きて、最後にどうなったのか。本人は至って真面目に本の魅力を伝えているつもりでも、千家からすれば物語の中身をネタバレされただけなのだ。
「どうかな?」
「……的を射た感想だ」
怜太が小さく呟くと、千家は続けた。
「後は一時間の使い方だね。これはあえて説明しなかったから仕方ない部分もあるんだけど、怜太君は一時間ずっと本を読んでたでしょ」
「内容を知ろうとすることが変なのか?」
「やっぱりプレゼンっていう前提があったから、喋る内容をメモにまとめるとかは、やったほうがいいと思うよ。何を話すか決まってなかったから、ストーリーを並べるだけになっちゃったんじゃない?」
たった三分間で心は丸裸にされていた。
怜太は与えられた一時間をいたずらに消費しただけだった。読んで面白いと感じて、それで終わり。
「レベル上げや宝箱を無視して最短ルートでボスに挑んだ結果、ボコボコにされた気分だ」
「いい例えだね。それが出るなら才能はあるから安心していいよ」
褒められて少しだけ嬉しくなったが、千家はダメ押しとばかりにこう続けた。
「一番残念だった点は――」
姿勢を正し、怜太の顔を指差す。
「私をこの本の虜にさせてやる、っていう気概が足りなかったところ」
アーモンド型の瞳が、まっすぐ怜太を見据える。
「俺なりに頑張ってみたんだけど、足りなかったみたいだな」
「厳しいことを言うけどね」
千家が本をひょいと取り上げる。
「本のタイトル、間違ってるよ?」
「えぇ!?」
怜太は慌てて表紙を見た。
『、と。』とだけ書かれていて、読み仮名らしきものはどこにもない。
「読点と句点じゃないのか?」
「普通に読めばね。でも、正式なタイトルは『、と。』だよ」
「……てんとまる?」
「そう。私も偶然この本を読んだことがあるの。不思議なタイトルだなーと思って調べたら、あらびっくり」
怜太は何も言わず、もう一度表紙をまじまじと見つめた。
句読点だという先入観が、タイトルをそう読ませてしまった。しかし冷静になって思い返せば、句点をマルと呼ぶことはある。怜太自身が数日前にマルハラという言葉を口にしたばかりだ。
「この本を好きな人がさ、怜太君のプレゼンを聞いたらどう思うかな?」
想像するまでもなく、答えはすぐに出た。
内容がどうこう以前に、タイトルを間違えている。しかもその本を紹介するために、物語のあらすじを延々と話してしまった。
もし自分が大好きな本について、誰かがそんな紹介をしたらどう感じるだろう。面白さを伝えようとしてくれたこと自体は分かっても、最初から最後まで見当違いの説明を聞かされれば、好きな人ほど複雑な気持ちになるに違いない。
「……本当に全然だめだな」
怜太は肩を落とした。
「これくらい簡単だろって、軽い気持ちでやってたわ」
「すごいよ、怜太君。それに気づいて反省できるのは偉い!」
千家は身を乗り出すと、怜太の手をぎゅっと掴んだ。
「失敗は悪くない。そこから目を背けないのは、さすがアスリートだね」
あまりにも真っ直ぐな言葉だった。
怜太は思わず目を逸らした。こういうことを真正面から言われるのは慣れていない。胸の奥を不意に見透かされたようで、妙に落ち着かない。それでも、嫌な気持ちはしなかった。むしろ、じわじわと頬が熱くなっていくのを感じた。
「あ、ありがとう……で、合ってるのか?」
千家は、にこにこと笑いながら何度も首を縦に振った。
「うんうん、合ってる合ってる」
ぱっと怜太の手を離すと、勢いよく立ち上がる。
「じゃあ、次は私だね。ディベート部の部長としての意地、見せちゃうよお!」
さっきまで冷静に講評していた人物とは思えないほどの変わりよう。緊張に包まれていた怜太とは比べ物にならない。
腕まくりをした千家は、秒針が十二を指すのに合わせて口火を切った。
