コホンと咳払いをした千家は、教師さながらに説明を始めた。先ほどまでの騒がしさはどこへやら、今度は本当に部活動らしい空気になっている。
「ディベートって、ただ意見をぶつけ合うだけじゃないの。いろいろと奥が深くて、ちゃんとルールもあるんだよ」
「ルール覚えるの苦手だから、お手柔らかに頼むぞ」
「初日から全部教えても混乱するだろうから、詳しい話はくるみちゃんがいるときにしようか」
「くるみちゃん……ああ、もう一人の部員か」
「そう。今日は風邪をひいてお休みだって」
これからは千家とくるみ、そして怜太の三人で放課後を過ごすことになる。
小学校から高校まで、怜太の放課後にはいつだってバスケットボールがあった。練習着に着替えて体育館へ向かい、汗だくになってもボールを追いかける。
それが当たり前だっただけに、見知らぬ場所でバスケとはまるで違う活動を始めることには、少なからず戸惑いがあった。
しかも相手は後輩の女子生徒となれば、怜太がこれまで一番接してこなかったタイプだ。うまくコミュニケーションを取れるのか、早くも不安になった。
「今日はまず、人に対して喋ることに慣れよう」
「慣れるもなにも、千家とは普通に喋れてるだろ」
千家は分かりやすく指を振る。
「私たちがしてるのは普通の会話。今から練習するのはプレゼンって感じ」
プレゼン……慣れない響きではあったが、怜太はそれっぽくうなずく。
「せっかく隣に図書室があるんだからこうしようか。好きな本を一冊借りてきて、魅力を紹介するの」
「あーなんかあるよな、そういうの」
怜太は記憶の糸を手繰り寄せる。
「ビブリオバトルのこと?」
「たぶん合ってる」
「あれはそもそも二人じゃできないし、時間制限とかもあるんだけど、まあ今回はその簡易版ってことで」
そう言って千家が立ち上がったので、怜太も松葉杖を手に取った。
図書準備室とは打って変わって、図書室には静謐な空気が満ちていた。高い天井まで届きそうな本棚が並び、整然と収められた本の背表紙が一面に続いている。さっきまでいた準備室とは同じ校舎の中とは思えないほどで、怜太は自然と歩幅を抑え、松葉杖をつく音を小さくしようと気を遣った。
千家は目当ての本があるらしく、棚の間を迷うことなく進んでいく。ほどなくして一冊を手に取ると、そのままさっさと図書準備室へ戻っていった。
一方の怜太は、無数に並ぶ本を前にして立ち尽くしていた。
そもそも怜太には、本を読む習慣がほとんどない。自分から手に取るものといえば、せいぜいバスケットボールの雑誌くらいだった。これだけ大量の本を目の前に並べられても、どれを選べばいいのか見当もつかない。
ここに愛読しているバスケ雑誌が置いてあるはずもなく、少ない読書経験の中からなんとか発表に使えそうなものを探すしかなかった。
あてもなく棚の間をさまよっていると、ふと見覚えのある背表紙が目に留まった。
『、と。』
(あ……これ、小学校の読書感想文を書くときに読んだ……)
独特なタイトルに引かれるように、その本を棚から抜き取る。ページをパラパラとめくると、読んだときの記憶がところどころ蘇ってきた。
内容を細部まで覚えているわけではない。それでも、まったく知らない本を今から一冊読み始めるよりは、話すことを考えやすいだろう。
そう判断した怜太は、その本を抱えて図書準備室へ戻った。
「お、戻ってきたね。今から一時間後にお互いに発表しようか」
「一時間!?」
思わず声を上げた怜太に、千家は平然とうなずいた。
「うん。本を読み直してもいいし、どんなふうに喋ろうか考える時間にあてるのもありだよ。そんな時間必要ねえ! って言うならすぐに始めるけど……どうする?」
「準備時間は確かに欲しいかも」
そう言うと、怜太はさっそく本を開いた。教科書と雑誌以外では久しぶりに触れる紙の本に、懐かしさと緊張が混ざりあう。
最初のうちはどうにも落ち着かなかった。人前で本を紹介することを意識するたびに、ページを追っていた目が止まってしまう。何を話せばいいのか、どこを取り上げればいいのか。そもそも、こんな本の紹介に一時間も必要なのか。そんなことばかりが頭に浮かんでは、読書に集中できない。
けれど、そんな状態も長くは続かなかった。
文章を追っているうちに、怜太の意識は少しずつ物語の中へ引き込まれていった。ページをめくるたびに次の展開が気になり、さっきまで気にしていた発表のことさえ頭から抜け落ちていく。
気がつけば、怜太は夢中になって本を読み進めていた。
隣では千家も黙々とページをめくっている。誰も口を開かない静かな部屋の中で、本のページが擦れる小さな音だけが時折聞こえる。
日が傾くにつれて、図書準備室に差し込む光も少しずつ角度を変えていった。発表のために与えられた一時間が、静かに過ぎていく。
「はい、時間だよー」
千家の声に怜太は顔を上げた。
「……え?」
手元の本から視線を離し、壁に掛けられた時計を見る。長針は二人が読み始めたときの位置から、きっちり一周していた。
「マジか……一瞬だったな」
「ふふっ、集中してたねー」
言われてみれば、その通りだった。けれど怜太自身が感じている疲労は、バスケの練習を終えたときとは明らかに違う。
体育館でボールを追いかけているときは、全身の筋肉を使っていることが分かる。
それに対して今は、ほとんど体を動かしていないにもかかわらず、頭の奥にじんわりと疲れが残っていた。
慣れないことに集中し続けたせいなのだろう。怜太は、自分がこれまで使ってこなかった筋肉を使ったような、不思議な疲労感を覚えていた。
千家は、そんな怜太の様子を面白そうに眺めながら微笑んでいる。
「どうかな、発表できそう?」
「まあ……いけるだろ」
実のところ、一時間のほとんどを本を読むことに使ってしまった。どんな順番で話すのか、どこを取り上げるのか、何を一番伝えたいのか。そういったことは何一つ考えていない。
それでもここで無理と答えるのは、妙に格好が悪い気がした。怜太はなるべく軽い調子を装う。
「怜太君からね」
千家はそう言って机の上に両手を置いた。まずは出方を窺おうとしていた怜太の作戦は、一瞬で水泡に帰した。
「練習だから制限時間とかそういうのはなし。ルールは一つだけ」
さっきまでの柔らかな笑みが消え、千家の表情が一変した。
「真面目にすること」
授業中でさえ、こんな顔を見たことはなかった。冗談を言っているときとは違う真剣な眼差しから、千家にとってディベートという存在が何なのかが垣間見えた気がした。
「分かった」
怜太は短く答えたものの、その空気に飲まれないようにするので精一杯だった。
いざ始めるとなると、バスケの試合とはまるで違う緊張がじわじわと込み上げてくる。相手の動きを読む必要もなければ、ボールを奪い合う必要もない。それなのに、自分一人に視線が集まっていると思うと、妙に落ち着かなかった。
試合なら、シュートを外しても次のプレーがある。パスミスしても、すぐに走って取り返せばいい。けれど今は自分の言葉だけで、この場を持たせなければならない。
怜太は一度だけ深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
向かいに座る千家が楽しそうに宣言する。
「それでは、スタートです!」
「ディベートって、ただ意見をぶつけ合うだけじゃないの。いろいろと奥が深くて、ちゃんとルールもあるんだよ」
「ルール覚えるの苦手だから、お手柔らかに頼むぞ」
「初日から全部教えても混乱するだろうから、詳しい話はくるみちゃんがいるときにしようか」
「くるみちゃん……ああ、もう一人の部員か」
「そう。今日は風邪をひいてお休みだって」
これからは千家とくるみ、そして怜太の三人で放課後を過ごすことになる。
小学校から高校まで、怜太の放課後にはいつだってバスケットボールがあった。練習着に着替えて体育館へ向かい、汗だくになってもボールを追いかける。
それが当たり前だっただけに、見知らぬ場所でバスケとはまるで違う活動を始めることには、少なからず戸惑いがあった。
しかも相手は後輩の女子生徒となれば、怜太がこれまで一番接してこなかったタイプだ。うまくコミュニケーションを取れるのか、早くも不安になった。
「今日はまず、人に対して喋ることに慣れよう」
「慣れるもなにも、千家とは普通に喋れてるだろ」
千家は分かりやすく指を振る。
「私たちがしてるのは普通の会話。今から練習するのはプレゼンって感じ」
プレゼン……慣れない響きではあったが、怜太はそれっぽくうなずく。
「せっかく隣に図書室があるんだからこうしようか。好きな本を一冊借りてきて、魅力を紹介するの」
「あーなんかあるよな、そういうの」
怜太は記憶の糸を手繰り寄せる。
「ビブリオバトルのこと?」
「たぶん合ってる」
「あれはそもそも二人じゃできないし、時間制限とかもあるんだけど、まあ今回はその簡易版ってことで」
そう言って千家が立ち上がったので、怜太も松葉杖を手に取った。
図書準備室とは打って変わって、図書室には静謐な空気が満ちていた。高い天井まで届きそうな本棚が並び、整然と収められた本の背表紙が一面に続いている。さっきまでいた準備室とは同じ校舎の中とは思えないほどで、怜太は自然と歩幅を抑え、松葉杖をつく音を小さくしようと気を遣った。
千家は目当ての本があるらしく、棚の間を迷うことなく進んでいく。ほどなくして一冊を手に取ると、そのままさっさと図書準備室へ戻っていった。
一方の怜太は、無数に並ぶ本を前にして立ち尽くしていた。
そもそも怜太には、本を読む習慣がほとんどない。自分から手に取るものといえば、せいぜいバスケットボールの雑誌くらいだった。これだけ大量の本を目の前に並べられても、どれを選べばいいのか見当もつかない。
ここに愛読しているバスケ雑誌が置いてあるはずもなく、少ない読書経験の中からなんとか発表に使えそうなものを探すしかなかった。
あてもなく棚の間をさまよっていると、ふと見覚えのある背表紙が目に留まった。
『、と。』
(あ……これ、小学校の読書感想文を書くときに読んだ……)
独特なタイトルに引かれるように、その本を棚から抜き取る。ページをパラパラとめくると、読んだときの記憶がところどころ蘇ってきた。
内容を細部まで覚えているわけではない。それでも、まったく知らない本を今から一冊読み始めるよりは、話すことを考えやすいだろう。
そう判断した怜太は、その本を抱えて図書準備室へ戻った。
「お、戻ってきたね。今から一時間後にお互いに発表しようか」
「一時間!?」
思わず声を上げた怜太に、千家は平然とうなずいた。
「うん。本を読み直してもいいし、どんなふうに喋ろうか考える時間にあてるのもありだよ。そんな時間必要ねえ! って言うならすぐに始めるけど……どうする?」
「準備時間は確かに欲しいかも」
そう言うと、怜太はさっそく本を開いた。教科書と雑誌以外では久しぶりに触れる紙の本に、懐かしさと緊張が混ざりあう。
最初のうちはどうにも落ち着かなかった。人前で本を紹介することを意識するたびに、ページを追っていた目が止まってしまう。何を話せばいいのか、どこを取り上げればいいのか。そもそも、こんな本の紹介に一時間も必要なのか。そんなことばかりが頭に浮かんでは、読書に集中できない。
けれど、そんな状態も長くは続かなかった。
文章を追っているうちに、怜太の意識は少しずつ物語の中へ引き込まれていった。ページをめくるたびに次の展開が気になり、さっきまで気にしていた発表のことさえ頭から抜け落ちていく。
気がつけば、怜太は夢中になって本を読み進めていた。
隣では千家も黙々とページをめくっている。誰も口を開かない静かな部屋の中で、本のページが擦れる小さな音だけが時折聞こえる。
日が傾くにつれて、図書準備室に差し込む光も少しずつ角度を変えていった。発表のために与えられた一時間が、静かに過ぎていく。
「はい、時間だよー」
千家の声に怜太は顔を上げた。
「……え?」
手元の本から視線を離し、壁に掛けられた時計を見る。長針は二人が読み始めたときの位置から、きっちり一周していた。
「マジか……一瞬だったな」
「ふふっ、集中してたねー」
言われてみれば、その通りだった。けれど怜太自身が感じている疲労は、バスケの練習を終えたときとは明らかに違う。
体育館でボールを追いかけているときは、全身の筋肉を使っていることが分かる。
それに対して今は、ほとんど体を動かしていないにもかかわらず、頭の奥にじんわりと疲れが残っていた。
慣れないことに集中し続けたせいなのだろう。怜太は、自分がこれまで使ってこなかった筋肉を使ったような、不思議な疲労感を覚えていた。
千家は、そんな怜太の様子を面白そうに眺めながら微笑んでいる。
「どうかな、発表できそう?」
「まあ……いけるだろ」
実のところ、一時間のほとんどを本を読むことに使ってしまった。どんな順番で話すのか、どこを取り上げるのか、何を一番伝えたいのか。そういったことは何一つ考えていない。
それでもここで無理と答えるのは、妙に格好が悪い気がした。怜太はなるべく軽い調子を装う。
「怜太君からね」
千家はそう言って机の上に両手を置いた。まずは出方を窺おうとしていた怜太の作戦は、一瞬で水泡に帰した。
「練習だから制限時間とかそういうのはなし。ルールは一つだけ」
さっきまでの柔らかな笑みが消え、千家の表情が一変した。
「真面目にすること」
授業中でさえ、こんな顔を見たことはなかった。冗談を言っているときとは違う真剣な眼差しから、千家にとってディベートという存在が何なのかが垣間見えた気がした。
「分かった」
怜太は短く答えたものの、その空気に飲まれないようにするので精一杯だった。
いざ始めるとなると、バスケの試合とはまるで違う緊張がじわじわと込み上げてくる。相手の動きを読む必要もなければ、ボールを奪い合う必要もない。それなのに、自分一人に視線が集まっていると思うと、妙に落ち着かなかった。
試合なら、シュートを外しても次のプレーがある。パスミスしても、すぐに走って取り返せばいい。けれど今は自分の言葉だけで、この場を持たせなければならない。
怜太は一度だけ深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
向かいに座る千家が楽しそうに宣言する。
「それでは、スタートです!」
