レイトブルーマー

 怜太は固まった。何を言われたのか理解できていない。
 千家はほんの少しだけ顎を引いた。長いまつ毛の下から怜太を見上げると、口元にいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「入部届、出しに行こ」
「いや、ごめん……何言ってるの?」
 あまりにも堂々と言われたせいで、怜太は自分の聞き間違いを疑った。
「何って、ディベート部に入りたいんでしょ?」
「待て待て。ディベート部!? どういうロジック??」
「だって、お昼に言い合いしてたじゃん」
 昼休みに松下と揉めたことと、ディベート部に入ることが、どうすれば結びつくというのか。怜太の困惑をよそに、千家は両手を広げるような仕草をした。
「バスケ部に残るか、残らないかのディベートでしょ??」
「んなわけあるか! あれのどこがディベートだ!」
 呆れた怜太は額を押さえた。昼休みのやり取りは、ディベートと呼ぶにはあまりにも感情的だった。互いに考えを整理してぶつけ合ったわけでもなく、ただ胸の内に溜め込んでいたものを、一方的に松下へぶつけてしまっただけだ。

 これ以上話していても埒が明かないと、怜太は松葉杖をついて体の向きを変えた。
「えー、待ってよー!」
 背後から声が飛んできた次の瞬間、腰に何かがぶつかった。
「うおっ!」
 突然の重みに怜太の体がぐらりと傾く。慌てて松葉杖を床につき、どうにか踏みとどまった。
「ちょ、危ないって!」
「入ってよー!」
 千家は怜太の腰に両腕を回し、逃がすまいとしがみつく。
「春斗とむーちゃんとごっちんと梓が卒業しちゃったから、部員が足りないんだよお」
「知らねえよ。だからって俺を巻き込むな!」
 怜太は千家の腕を引きはがそうとする。思っていた以上に力が強く、片足を庇っているせいで、下手に動けば自分のほうがバランスを崩してしまう。
「おい、力強すぎだろ!」
「お願いだから入ってー!」

「分かった! 分かったから!」
 このままでは本当に二人まとめて倒れかねない。怜太は観念して深々と息を吐いた。
「とりあえず話は聞くから、一旦離れろ」
「ほんと?」
「ああ」
 その一言で、千家はぱっと腕を離した。
 ついさっきまで眉尻を下げ、今にも泣き出しそうだったのが嘘のように、ぱっと笑顔になる。まるで一気に花が咲いたようだった。

「やった! 部員が増えた!」
「……現金なやつだな。つーか勝手に話を膨らませるな」
 怜太は呆れたように呟きながら、部屋の中央に置かれた椅子へ腰を下ろす。
 古い本や資料に囲まれた机を挟んで、二人は向かい合った。

 千家は、先ほどまでの騒がしさが嘘だったかのように背筋を伸ばした。表情まで改め、まるでこれから重要な説明を始める教師のような顔つきになる。
「では、ディベート部について説明します」
「急に真面目になるなよ」
 怜太が呆れたように返すと、千家は構わず話を続けた。
「現在、ディベート部は私と、新しく入ってきた一年生の二人で活動してるの」
「二人?」
「そう。二人」
 念を押すように言いながら、千家は右手を上げ、人差し指と中指を立ててみせた。
「星華高校で正式な部活として認められるには、五人の部員が必要」
「それってつまり……」
 嫌な予感が、じわじわと胸の中に広がっていく。怜太が続きを促すと、千家は大きく頷いた。
「そう、全然足りない!」
「いや、威張ることじゃないだろ」
 思わず呆れた声が漏れる。
「仮に俺が入ったとしても三人だろ。だったら意味ないじゃん」
 話は終わりだとばかりに、怜太は椅子から立ち上がろうとした。その動きを察した千家が机越しに身を乗り出す。

「ところがどっこい!」
 千家は右手を高く掲げると、今度は三本の指をぴんと立てた。
「三人いれば、同好会として認められる!」
 勢いに押され、怜太は立ちかけた体をゆっくりと椅子へ戻した。
「同好会と部活って何が違うんだ?」
「部活になると活動予算がもらえるの。同好会が学校から提供してもらえるのは、活動場所だけ」
 千家はそこで一度言葉を切った。怜太の顔をじっと見つめ、それから声を少し落とす。

「つまり、怜太君が入ってくれなかったら――」
 千家はゆっくりと首を巡らせ、図書準備室を見渡した。
 壁際に並ぶ古びた本。隅に積み重ねられた段ボール。机の上に置かれたままの資料。二人で話していたこの部屋が、急に自分たちの居場所として意識される。
 最後に千家の視線が怜太へ戻ってきた。
「私たちは、ここから追い出されるってわけ!」
「現状二人しかいないってことは、ここを不法占拠してるのかよ」
「お情け状態だね。だからお願い」
 千家が雨に濡れた子犬のような瞳で見つめてくる。
「情に訴えかけようたって無駄だぞ」
「そこをなんとか!」
 今度は手を合わせて懇願してくるが、怜太の意思は変わらない。
「俺はもう、部活は――」

「でも、松下君に感情爆発させたとこ、最高だったよ」
「……は?」
 予想もしなかった言葉に、怜太の口から素っ頓狂な声が出た。
 千家は楽しそうに笑っている。
「私も早生まれだから、気持ち分かるもん」
 怜太は何も答えなかった。
 昼の出来事が頭の中に蘇ってくる。松下の険しい顔。自分が吐き出した言葉。そして最後に返された、「殴れるわけないだろ」という一言。
 そのときのやり取りは薄れるどころか、より濃くなって怜太の心を締め付けてくる。
 あの場にいた全員が怜太の八つ当たりだと認識していたと思っていたが、一人だけ例外がいた。

「……俺は、あのことを後悔してる」
 膝元へ落とした視線の先に、松葉杖がある。
「言う必要のないことまで言っちまった」
 怜太は小さく息を吐き、顔を上げた。
「ディベート部で口喧嘩を学ぶつもりはないんだ」
「それは誤解だよ」
 千家の声から、先ほどまでのふざけた調子が消えた。
「ディベートで身につくのは、口喧嘩の技術じゃない。論理的思考力とか、相手に自分の考えを伝える力とか」
「……」
「松下君に、自分の思いをちゃんと伝えなくていいの?」
 怜太は答えなかった。いや、答えられなかった。
 もし、もう一度松下と話すことができたなら、今度はあんなふうに感情をぶつけることなく、自分の思いを伝えられるだろうか。
 今はまだ分からない。怜太でさえ気持ちの整理がついていない状態だ。ただ一つ言い切れるのは、このままでは前に進めないということ。

 黙り込む怜太を、千家がじっと見つめてくる。まるで観察するような遠慮のない視線。
「そもそもさ、バスケ部を退部して他に行くあてがあるの?」
「ない。帰宅部」
「星華高校は、三年生の夏までは部活が強制だよ」
「……初耳なんだけど」
 その一言を聞いた瞬間、千家の口元がわずかに緩んだ。どうやら、ここぞとばかりに畳みかけるつもりらしい。
「ほらほらおいでよ。ディベート部は誰でもウェルカムだから」
 しばらくして、怜太は小さく息を吐いた。
 ディベートというものが自分に向いているのかは分からない。それ以上に、バスケ部に戻ることは考えられなかった。
 
 論理的思考力、相手に自分の考えを伝える力。それらが足りていないのは自負している。
 部員集めが目的とはいえ、行く当てのない怜太に手を差し伸べてくれたのも事実だ。
「分かった。とりあえず、お試しで入部するよ」
「よっしゃあ!」
 千家は両手を握りしめ、勢いよくガッツポーズを決めた。その喜ぶさまを見ていると、こっちのほうが気恥ずかしくなってくる。
 こうして怜太は、ディベート部という未知の領域に足を踏み入れることとなった。