怜太の心臓は、緊張で張り裂けそうになっていた。それでも、必死に平静を装う。
手応えはあったが、まだ千家に追いつけていない。
それでも、ようやく背中を捉えることができた。
問題は次の立論だった。
感情を爆発させたあの日の自分を、言葉で説得することは可能なのか。
怜太の挑戦が始まる。
「早生まれは損なんかじゃない……って言い切ったらかっこいいんだけどな。正直、俺も少し前までは損だと思っていた」
その言葉を口にした瞬間、怜太の脳裏に過去の自分が重なった。
「俺はバスケ部でレギュラーになるため、誰よりも練習した。朝練は毎日欠かさなかったし、授業中も帰宅後も頭の中はバスケのことだけ。それでもレギュラーにはなれなかった」
告白するような声だった。観客に訴えるというより、過去の自分自身に向けて言葉を吐き出しているようにも聞こえる。
「レギュラーの松下は四月生まれで、俺は三月生まれ。ほとんど一年違う。早生まれだから勝てないんだって、自分に言い聞かせた」
怜太は間を置き、心を整理しながら立論を進める。
「ある日、俺は松下にそれをぶつけた。早生まれを盾にして、俺の方が努力してる、この差は努力じゃ埋まらないって」
怜太は苦笑した。
「松下が悪いわけじゃないって理解しているくせに。全部八つ当たりだって気づいていながら、自分が納得できない悔しさを吐き出さずにはいられなかった……」
その言葉には、松下への謝罪だけではなく、あのときの自分自身に対する怒りも滲んでいた。
「本当に愚かだった。レギュラーを勝ち取った奴が、努力をしてないはずがないのに」
誰もが息を潜めていた。中庭から楽しそうな声が響くが、誰一人として気にしている様子はない。
当事者の一人である松下も、何も言わずに舞台を見つめていた。
「身長、体格、技術、判断力、チームとの相性。スポーツの結果には、いろんなものが関係してくる」
怜太の脳裏を、バスケ部で過ごした三年間が駆け巡る。
練習に明け暮れた日々。思うように伸びなかった身長。何度も繰り返したシュート。松下と競い合った時間。そして、最後まで埋められなかった差。
「早生まれによって不利になる場面があることは否定しない。ただ、その不利があったからといって、それを自分の人生の『損』だと決めつけることには反対だ」
怜太は、あの日の自分に言い聞かせるように、言葉を続けた。
「もっと早く生まれていれば。もっと体が大きければ。もっと違う自分になれていたんじゃないか。何度もそう思った。何度も何度も!」
声が大きくなり、体育館の隅々まで響き渡る。
握った拳に力がこもる。
「でも――それじゃあ、前に進めない」
そこで、言葉が止まった。
静まり返った体育館で、怜太は次の言葉を探した。
頭の中には伝えたいことがある。ここまで何を経験してきたのかも、それを踏まえて何を伝えたいのかも分かっている。
それなのに、言葉にならない。
数秒が過ぎた。
怜太は何かを言おうとして口を開く。しかし、声が出てこない。
さらに数秒が過ぎた。
客席の誰もが、固唾を呑んで見守っている。
くるみが心配そうに怜太を見つめている。
怜太の手はマイクを握ったまま小さく震えていた。
そのとき、
「もういいよ。十分伝わったから」
千家は、怜太にだけ聞こえる声でそう言うと、震える手からそっとマイクを受け取った。
マイクの先端を叩いて音が出ているのを確認すると、観客席に向かって一礼した。
「突発的に始めた三試合目でしたが、ここで終わりにさせてください」
千家はマイクを握ったまま、客席をゆっくりと見渡した。
さっきまで怜太と激しく言葉をぶつけ合っていたとは思えないほど、その表情には不思議な清々しさがあった。
勝敗を決めるための試合は終わった。そう割り切ったような顔だった。
「今の試合は本当にひどかったと思います。私と怜太君の立論、あれは大きく逸脱していました。部長としてこの場を借りて謝罪させていただきます」
千家が深々と頭を下げる。
隣にいたくるみも、何が起きたのか理解しきれないまま、それでも千家に倣って慌てて頭を下げた。
観客席からは、困惑したような小さなざわめきが起こる。
怜太は二人の横に立ったまま、身動きが取れずにいた。
頭の中には、さっき言おうとしていた言葉がいくつも浮かんでは消えていく。
伝えたいことはあった。自分なりに考えていたこともあった。それなのに、いざ口にしようとすると何も出てこなかった。
悔しさもあった。情けなさもあった。途中で言葉を失った自分への苛立ちもある。それらが胸の中で絡まり合い、どう整理すればいいのか分からない。
このまま終わらせることだけはできなかった。
怜太は横から手を伸ばしてマイクを求める。千家は一瞬だけ迷ったが、怜太を信じた。
バトンのように繋がれたマイクで、言えなかった言葉を紡ぐ。
「えっと……さっきはすみませんでした。言いたいことはたくさんあったんですけど、ちょっとテンパっちゃって」
マイクを握る手に、まだわずかな震えが残っている。
さっきまでとは違う。用意された原稿もなければ、考え抜いた反論もない。
口から出てくる言葉は、ひどく拙かった。
私服登校を巡って、あれほど激しく千家と渡り合っていた人間と同一人物とは思えない。
不格好でも、怜太は言葉を続ける。
「俺たちは三人とも早生まれです。それが原因で、過去に悩んだりしたこともあります。でも、今は前を向いて歩けてます」
怜太は一度、左右に立つ二人を見た。
千家も、くるみも、何も言わない。ただ怜太の隣に立っている。
それだけのことが、今の怜太には何よりも頼もしく感じられた。
「この会場にも早生まれの人はたくさんいると思います。俺とは違って、壁なんて一切感じずに全速力で駆け抜けた人もいるはずです。本当に尊敬しかありません」
自分とは違う人生を歩いてきた人たちが、この会場にはいる。
早生まれであることを意識することもなく、何かに躓いたとき、その原因を生まれ月に求めることもなく、ただ前へ進んできた人もいるのだろう。
そんな人たちを思い浮かべると、怜太は少しだけ自嘲するように笑った。
「もし、早生まれが原因で悩んでいる人がいたら聞いてください」
怜太は、胸の奥に残っていた緊張を押し込むように、小さく息を吸った。
ここから先に用意された言葉はない。
けれど、だからこそ今の自分にしか言えない言葉だった。
「ここから巻き返せるから、絶対に大丈夫です」
資料も根拠もない、説得力のない無責任な発言。
相手を論破するためでも、早生まれが得なのか損なのか、その答えでもない。
ただ、自分と同じように悩んでいる誰かに向けた、怜太自身の宣言だった。
「俺たちは大器晩成だから」
勝ち負けを決めるための言葉ではなかった。
「年を取ったときに、何でこんな馬鹿馬鹿しいことで悩んだんだろうって、笑い飛ばしてやりましょう」
怜太はそこで言葉を切った。
客席を見渡してから、ゆっくりと一歩下がる。
さっきまで自分が立っていた演台から、少しだけ距離を取った。
「今日は足を運んでいただきありがとうございました」
三人が同時に頭を下げる。
その瞬間、会場から音が消えた。
ほんの一瞬だった。
誰もが言葉を失ったような静寂が、体育館いっぱいに広がる。
そして次の瞬間、その静寂を打ち破るように拍手が湧き上がった。
最初は一人、二人だったものが、あっという間に周囲へ広がっていく。手を叩く音が重なり、体育館の壁や天井に反響して、まるで滝のような音になっていった。
怜太が頭を上げると、観客席の母親と目が合った。
その顔は、涙で濡れていた。
怜太は、その涙が何を意味しているのか考えないようにした。
考えてしまえば、自分まで耐えられなくなる気がした。
演台の後ろに隠した手を太腿に押し当て、強くつねる。痛みでどうにか涙を引っ込めようとする。
それでも、視界の奥が熱くなっていく。
拍手は鳴りやまない。
いつまでも続くその音の中で、怜太がどうしていいのか分からず立ち尽くしていると、隣から肘で軽くつつかれた。
千家が客席の右側を指差している。
「あそこ」
千家の指の先を見る。
そこでは、バスケ部の面々が立ち上がりこそしないものの、妙に大仰な仕草で手を叩いていた。まるで試合に勝った選手を称えるように、全身を使って拍手を送っている。
あまりにも見慣れた連中らしい姿に、怜太の口元が緩んだ。
そして、その中に松下を見つける。
松下も、ほかの部員たちと同じように拍手をしていた。
その表情には、からかうような色も悔しさもなかった。
称えるように、まっすぐに拍手を送っている。
怜太の胸の奥で張り詰めていたものが、ふっとほどけた。
手応えはあったが、まだ千家に追いつけていない。
それでも、ようやく背中を捉えることができた。
問題は次の立論だった。
感情を爆発させたあの日の自分を、言葉で説得することは可能なのか。
怜太の挑戦が始まる。
「早生まれは損なんかじゃない……って言い切ったらかっこいいんだけどな。正直、俺も少し前までは損だと思っていた」
その言葉を口にした瞬間、怜太の脳裏に過去の自分が重なった。
「俺はバスケ部でレギュラーになるため、誰よりも練習した。朝練は毎日欠かさなかったし、授業中も帰宅後も頭の中はバスケのことだけ。それでもレギュラーにはなれなかった」
告白するような声だった。観客に訴えるというより、過去の自分自身に向けて言葉を吐き出しているようにも聞こえる。
「レギュラーの松下は四月生まれで、俺は三月生まれ。ほとんど一年違う。早生まれだから勝てないんだって、自分に言い聞かせた」
怜太は間を置き、心を整理しながら立論を進める。
「ある日、俺は松下にそれをぶつけた。早生まれを盾にして、俺の方が努力してる、この差は努力じゃ埋まらないって」
怜太は苦笑した。
「松下が悪いわけじゃないって理解しているくせに。全部八つ当たりだって気づいていながら、自分が納得できない悔しさを吐き出さずにはいられなかった……」
その言葉には、松下への謝罪だけではなく、あのときの自分自身に対する怒りも滲んでいた。
「本当に愚かだった。レギュラーを勝ち取った奴が、努力をしてないはずがないのに」
誰もが息を潜めていた。中庭から楽しそうな声が響くが、誰一人として気にしている様子はない。
当事者の一人である松下も、何も言わずに舞台を見つめていた。
「身長、体格、技術、判断力、チームとの相性。スポーツの結果には、いろんなものが関係してくる」
怜太の脳裏を、バスケ部で過ごした三年間が駆け巡る。
練習に明け暮れた日々。思うように伸びなかった身長。何度も繰り返したシュート。松下と競い合った時間。そして、最後まで埋められなかった差。
「早生まれによって不利になる場面があることは否定しない。ただ、その不利があったからといって、それを自分の人生の『損』だと決めつけることには反対だ」
怜太は、あの日の自分に言い聞かせるように、言葉を続けた。
「もっと早く生まれていれば。もっと体が大きければ。もっと違う自分になれていたんじゃないか。何度もそう思った。何度も何度も!」
声が大きくなり、体育館の隅々まで響き渡る。
握った拳に力がこもる。
「でも――それじゃあ、前に進めない」
そこで、言葉が止まった。
静まり返った体育館で、怜太は次の言葉を探した。
頭の中には伝えたいことがある。ここまで何を経験してきたのかも、それを踏まえて何を伝えたいのかも分かっている。
それなのに、言葉にならない。
数秒が過ぎた。
怜太は何かを言おうとして口を開く。しかし、声が出てこない。
さらに数秒が過ぎた。
客席の誰もが、固唾を呑んで見守っている。
くるみが心配そうに怜太を見つめている。
怜太の手はマイクを握ったまま小さく震えていた。
そのとき、
「もういいよ。十分伝わったから」
千家は、怜太にだけ聞こえる声でそう言うと、震える手からそっとマイクを受け取った。
マイクの先端を叩いて音が出ているのを確認すると、観客席に向かって一礼した。
「突発的に始めた三試合目でしたが、ここで終わりにさせてください」
千家はマイクを握ったまま、客席をゆっくりと見渡した。
さっきまで怜太と激しく言葉をぶつけ合っていたとは思えないほど、その表情には不思議な清々しさがあった。
勝敗を決めるための試合は終わった。そう割り切ったような顔だった。
「今の試合は本当にひどかったと思います。私と怜太君の立論、あれは大きく逸脱していました。部長としてこの場を借りて謝罪させていただきます」
千家が深々と頭を下げる。
隣にいたくるみも、何が起きたのか理解しきれないまま、それでも千家に倣って慌てて頭を下げた。
観客席からは、困惑したような小さなざわめきが起こる。
怜太は二人の横に立ったまま、身動きが取れずにいた。
頭の中には、さっき言おうとしていた言葉がいくつも浮かんでは消えていく。
伝えたいことはあった。自分なりに考えていたこともあった。それなのに、いざ口にしようとすると何も出てこなかった。
悔しさもあった。情けなさもあった。途中で言葉を失った自分への苛立ちもある。それらが胸の中で絡まり合い、どう整理すればいいのか分からない。
このまま終わらせることだけはできなかった。
怜太は横から手を伸ばしてマイクを求める。千家は一瞬だけ迷ったが、怜太を信じた。
バトンのように繋がれたマイクで、言えなかった言葉を紡ぐ。
「えっと……さっきはすみませんでした。言いたいことはたくさんあったんですけど、ちょっとテンパっちゃって」
マイクを握る手に、まだわずかな震えが残っている。
さっきまでとは違う。用意された原稿もなければ、考え抜いた反論もない。
口から出てくる言葉は、ひどく拙かった。
私服登校を巡って、あれほど激しく千家と渡り合っていた人間と同一人物とは思えない。
不格好でも、怜太は言葉を続ける。
「俺たちは三人とも早生まれです。それが原因で、過去に悩んだりしたこともあります。でも、今は前を向いて歩けてます」
怜太は一度、左右に立つ二人を見た。
千家も、くるみも、何も言わない。ただ怜太の隣に立っている。
それだけのことが、今の怜太には何よりも頼もしく感じられた。
「この会場にも早生まれの人はたくさんいると思います。俺とは違って、壁なんて一切感じずに全速力で駆け抜けた人もいるはずです。本当に尊敬しかありません」
自分とは違う人生を歩いてきた人たちが、この会場にはいる。
早生まれであることを意識することもなく、何かに躓いたとき、その原因を生まれ月に求めることもなく、ただ前へ進んできた人もいるのだろう。
そんな人たちを思い浮かべると、怜太は少しだけ自嘲するように笑った。
「もし、早生まれが原因で悩んでいる人がいたら聞いてください」
怜太は、胸の奥に残っていた緊張を押し込むように、小さく息を吸った。
ここから先に用意された言葉はない。
けれど、だからこそ今の自分にしか言えない言葉だった。
「ここから巻き返せるから、絶対に大丈夫です」
資料も根拠もない、説得力のない無責任な発言。
相手を論破するためでも、早生まれが得なのか損なのか、その答えでもない。
ただ、自分と同じように悩んでいる誰かに向けた、怜太自身の宣言だった。
「俺たちは大器晩成だから」
勝ち負けを決めるための言葉ではなかった。
「年を取ったときに、何でこんな馬鹿馬鹿しいことで悩んだんだろうって、笑い飛ばしてやりましょう」
怜太はそこで言葉を切った。
客席を見渡してから、ゆっくりと一歩下がる。
さっきまで自分が立っていた演台から、少しだけ距離を取った。
「今日は足を運んでいただきありがとうございました」
三人が同時に頭を下げる。
その瞬間、会場から音が消えた。
ほんの一瞬だった。
誰もが言葉を失ったような静寂が、体育館いっぱいに広がる。
そして次の瞬間、その静寂を打ち破るように拍手が湧き上がった。
最初は一人、二人だったものが、あっという間に周囲へ広がっていく。手を叩く音が重なり、体育館の壁や天井に反響して、まるで滝のような音になっていった。
怜太が頭を上げると、観客席の母親と目が合った。
その顔は、涙で濡れていた。
怜太は、その涙が何を意味しているのか考えないようにした。
考えてしまえば、自分まで耐えられなくなる気がした。
演台の後ろに隠した手を太腿に押し当て、強くつねる。痛みでどうにか涙を引っ込めようとする。
それでも、視界の奥が熱くなっていく。
拍手は鳴りやまない。
いつまでも続くその音の中で、怜太がどうしていいのか分からず立ち尽くしていると、隣から肘で軽くつつかれた。
千家が客席の右側を指差している。
「あそこ」
千家の指の先を見る。
そこでは、バスケ部の面々が立ち上がりこそしないものの、妙に大仰な仕草で手を叩いていた。まるで試合に勝った選手を称えるように、全身を使って拍手を送っている。
あまりにも見慣れた連中らしい姿に、怜太の口元が緩んだ。
そして、その中に松下を見つける。
松下も、ほかの部員たちと同じように拍手をしていた。
その表情には、からかうような色も悔しさもなかった。
称えるように、まっすぐに拍手を送っている。
怜太の胸の奥で張り詰めていたものが、ふっとほどけた。
