レイトブルーマー

 会場はディベートが始まるのを今か今かと待っている。
 その熱気の中で、怜太とバスケ部だけが、わずかな温度差を感じていた。
 千家は、あえてこの論題を選んだのだ。
「怜太君。やれるよね?」
 過去の自分と向き合い、それを清算する。怜太にとって、これほど重い論題はない。
 プレッシャーは計り知れない。だが、パッションで殴り合うという前提なら、これ以上ふさわしい論題もない。
 怜太は、ただうなずいた。

「くるみちゃん。お願い」
 進行を任されたくるみは、あたふたしながらマイクを握る。
「では、論題は『早生まれは損なのか』です。くじを引いてください」
 二人は箱から四つ折りにされたA4用紙をそれぞれ引き抜き、同時に客席へ向けて開いた。
 千家、肯定。
 怜太、否定。
 その文字を目にした瞬間、怜太は心臓を掴まれたように息ができなくなった。
 否定の二文字が、重く胸にのしかかる。
「そ、それでは……肯定派の千家先輩。立論をお願いします」
 演台に立った千家は、水を飲んで口を潤した。わずかな時間の中で立論を組み立てているはずなのに、それを微塵も感じさせない。表情にも声にも、揺らぎはなかった。

「私の誕生日は三月です。当事者として、はっきりと早生まれは損だと言い切ります」
 強い言葉が、観客の意識を一気に引き寄せる。
「運転免許を例に説明します。早生まれの場合、仮免許を取得するのが遅くなり、四月になっても本免許の受験ができないことがあります。免許が必要な仕事に就く場合、不利につながる可能性があります」
 怜太は以前見たニュースの内容を思い出した。
 道路交通法改正により、仮免許は17歳6カ月で取得可能になった。
 千家は現在の法律と照らし合わせると間違った情報を示している。
 怜太は反駁の材料を急いでメモをした。

「プロスポーツ選手で比べてもそうです。高校卒業時点でプロになる選手は、早生まれが少ないという資料は存在します。これを不利と言わずして何と言うのでしょう」
 その情報は怜太も知っていた。
 立論の内容を頭の中で一つずつ精査しながら、質疑でどこを突くべきかを考える。

「小学校に入学したとき、四月生まれの子はもうすぐ7歳でした」
 千家は、先ほどまでとは打って変わって声のトーンを落とした。
 勢いで押すのではなく、今度は一人ひとりに言葉を染み込ませるような話し方だった。体育館に響いていたざわめきも、少しずつ小さくなっていく。
「私は6歳になったばかり。体の大きさも思考能力も違う。最初からスタートラインが違うんです。大人になればその差は小さくなっていきます。でも私が言いたいのはそこじゃありません」

 千家はそこで言葉を止めた。
 数秒にも満たない短い沈黙だったが、誰も口を挟まない。観客の視線が、演台に立つ千家へと集まっている。

「小さいころに『できない』と思ってしまったことや、『自分は周りより遅れている』と感じたことは、劣等感となって現在の自分を苦しめます。これは言い訳ではなく、紛れもない事実です」

 怜太は、無意識に握っていたペンに力を込めた。
 自分にも覚えがある。
 小学生のころ、周りの男子より背が低かったこと。バスケットボールを始めてからも、体格の差を何度も意識したこと。
 早生まれだからといって、すべてを片づけることはできない。
 それでも、千家が口にした『自分は周りより遅れている』という感覚だけは、妙に胸に引っかかった。

 体育館が、水を打ったように静まり返る。
 マイクを通した千家の声だけが、広い空間に残っていた。
「私は何度も思いました。どうしてあと数か月早く生まれていなかったんだろうって」
 千家は客席をまっすぐ見つめる。
 さっきまでの軽快な立論とは違う。その言葉には、用意した原稿を読み上げているだけでは出せない重さがあった。
「もし生まれた日が違っていたら、できたことがあったかもしれない。諦めなくてよかったことが、あったかもしれない」

 千家は拳を握った。
 握った拳が、小さく震えているようにも見えた。
 怜太は、反論するために開いていたノートから目を離した。
 千家が今話しているのは、統計でも資料でもない。
 これまで自分が何度も考えてきたことと、よく似ていた。
「それを確かめることは、もうできません。だからこそ私は――」
 千家が言葉を切る。
 一拍。
 体育館中の視線が、千家の次の言葉を待っていた。

「早生まれは損だと、言い切ります!」

 次の瞬間、体育館が沸いた。
 あちこちから歓声が上がり、それに続いて拍手が一気に広がっていく。手を叩く音が重なり、体育館の壁や天井に反響する。
 千家の言葉に胸を打たれたのか、拳を突き上げている生徒までいた。
 怜太は拍手の中で、ただ千家を見つめていた。
 ついさっきまで『早生まれは損なのか』という一つの論題だったはずなのに、千家はそれを、自分自身の人生の話に変えてしまった。
 ディベートとして正しいのかは、怜太にも分からなかった。
 それでも観客の熱は、しばらく冷めそうになかった。