レイトブルーマー

 くるみは演台の前に立つと、一度だけ深く息を吸った。先ほどまで泳いでいた目も、今は手元の台本に向けられている。用意してきた言葉を確かめるように、立論を始めた。
「パリパリが優れている点は食感にあると思います。おにぎりを一口かじった瞬間、パリッと海苔が割れて、その直後にふっくらとしたご飯の食感がきます。この食感の変化こそがおにぎりの魅力であり、しっとりにはない利点ではないでしょうか」
 声にはまだ緊張が残っているものの、言葉が詰まることはない。事前に何度も練習してきた立論を、台本で確認しながら一つずつ積み上げていく。
「過去に行われた一万人規模のアンケートでは、パリパリ派が大差でしっとり派を上回っています。一度ではなく二度までもです。これは揺るぎない結果と言ってもいいのではないでしょうか」
 その後も大きく言葉に詰まることなく、予定していた立論を最後までやり遂げた。
 観客席の反応は上々だった。誰もが一度は考えたことのあるテーマを多角的な視点から紐解き、パリパリ派へと観客を引き込む。
 遊びだけど遊びじゃない。怜太たちが求めていたディベートの形になっていた。

 演台を離れたくるみは、むーちゃんが次の質疑を準備している間に水を口に含み、ゆっくりと呼吸を整える。立論を終えた安心感がある一方で、これから始まる質疑では台本をそのまま読むことができない。くるみは気持ちを切り替えるように、もう一度小さく息を吐いた。

 むーちゃんは大勢の視線を浴びても平然としている。大会経験者の貫録を見せながら、マイクの位置を調整した。
「ダブルスコアと仰っていましたが、具体的な数字を教えてください」
「パーセンテージなら答えられます。一回目がパリパリ派が75%、二回目が63%です」
「それぞれ何年のデータですか?」
「2012年と2020年です」
「最新のデータはないということですね?」
「ありませんでした」
 むーちゃんはさらにいくつかの質問を投げかけ、くるみもその場で考えながら答えていく。色々なパターンの質問を想定していたのか、くるみは大きく崩れることなく受け答えを続けた。

 やがて時間切れとなる。
 最初は緊張で表情を強張らせていたくるみだったが、アドリブ力が求められる質疑を無事に乗り越えたことで、少しだけ自信を取り戻したようだった。
 むーちゃんもくるみの手腕を認めるように表情を引き締めた。

 続いて、しっとり派の立論が始まる。
「しっとりの海苔の利点は食べやすさにあります。パリパリの海苔は食べるときに周囲を汚してしまうことがあります。一方、しっとりした海苔ならご飯に密着しているため、最後までまとまった状態で食べられます」
 具体的な場面が容易に想像できる主張に、客席からは「なるほど」と感心するような声が漏れた。
「人気があることと、おにぎりとして優れていることは、同じではありません。ご飯と具材と海苔をバランスよく味わえることが、おにぎりに求められる価値だと考えます」
 ディベート部OGとして場数を踏んできたむーちゃんは、落ち着いた口調で主張を積み重ねていく。
 舞台上の空気は真剣そのもの、観客たちもどちらを支持すべきか悩んでいる。

 くるみの質疑は無難に終わり、相手の主張の綻びを突くことはできなかった。
 十分前にお題を知らされたとは思えない対応力に、怜太は舞台袖から感心させられた。

 残るは反駁のみとなった。本来なら反駁は二度行うが、今回はタイマン形式を考慮して一度しか行われない。自陣営に勝ちをもたらすことができる最後のチャンスだ。
 準備時間が始まると、千家がマイクを使って反駁について説明した。
 反駁という字面が抱かせる難しさを感じさせないような説明に、怜太は改めて千家の手腕を知った。

「では、パリパリ派への反駁をお願いします」
 むーちゃんが再び演台に立つ。
「パリパリ派は、パリパリの海苔は食感の変化を楽しめる、と主張しました。しかし、食感の変化があることと、それがおにぎりとして優れていることは別問題です。しっとり海苔には、ご飯と海苔が一体となって味わえるという明確な利点があります」
 くるみは真剣な表情で耳を傾けている。
「2012年のアンケートで75%、2020年のアンケートで63%だったというデータを示しました。しかし、この二つの調査はいずれも過去のものです。8年間で12ポイント減少していることを鑑みると、現在もパリパリ派が多数派だとは、このデータだけでは言い切れません」
 
 よどみのない反駁に、観客席から拍手が沸き起こる。
 くるみはその拍手を聞きながら、必死に頭を回転させていた。残された準備時間は少ない。むーちゃんの反駁に対抗し、ここから勝利を引き寄せるには何を言えばいいのか。
 考えて、考えて、ようやく一つの言葉を絞り出す。
「しっとり派は、パリパリの海苔は割れて周囲を汚してしまうと言いました。しかし、海苔が落ちるから何だというのでしょう!」
 普段のくるみからは想像できないほどの声の張りに、怜太は思わず目を丸くする。
「そ、それなら口を大きく開けて食べればいいじゃないですか! おにぎりに必要なのは一体感よりも感動です。海苔がパリッ! ご飯がふわっ! 具がドン! これでいいんですよ!」
 理屈だけではない。パリパリの海苔を愛する者としての、魂の叫びだった。
 その勢いに押されるように、客席のパリパリ派から大きな拍手が沸き起こった。
「いいぞー!」
「俺も絶対にパリパリ派だ!」
 一部の支持者から声が飛ぶのも文化祭ディベートならではの光景で、興奮冷めやらぬまま、投票タイムへと移った。

 観客は入口で渡された投票用紙に、どちらが勝者だと思うかを記入していく。
 くるみは、やり切ったという表情を浮かべていた。対するむーちゃんも勝ちを確信している。ボクシングの試合直後のような空気が漂っていた。
 文化祭実行委員によって投票用紙が回収され、選挙さながらの開票作業が始まった。
 間を繋ぐように、観客席に下りた千家が次々と感想を聞いていく。そこでも意見は割れていて、いかにこのディベートが接戦だったかを物語っている。

 集計を終えた結果が、千家のもとへ届けられる。
 緊張の一瞬。
「勝ったのは──」
 千家が溜めを作ると、ドラムロールが流れた。

「しっとり派!」

 発表と同時に、観客席が大きく沸いた。
「下馬評を覆す勝利でしたねー! 僅か4票差の大接戦でした!」
 くるみはがっくりとうなだれ、むーちゃんは微笑をたたえている。
 的確に相手の主張を突いたむーちゃんの反駁に、くるみのパッションはあと一歩及ばなかった。
 試合後のインタビューでは、お互いの健闘を称え合い、最後は固い握手で締めくくられた。
「ま、またどこかでリベンジさせてください」
「もちろん。あなたのために牙を研いでおくわ」

 舞台袖で千家とむーちゃんが熱い抱擁を交わしていた。
「ありがと、むーちゃん。あなたは救世主だよ」
「早くいきなって。次の準備があるんでしょ」
 むーちゃんに促され、千家は名残惜しそうに次の準備へと向かった。
 その背中を見送った怜太が、むーちゃんに声をかける。
「ありがとうございました。あの、凄かったです」
「頑張ってね。千穂は私よりもずっと凄いよ」
 むーちゃんは怜太の肩を軽く叩くと、そのまま舞台袖を離れていった。