病院で検査を受けた結果、左アキレス腱断裂と診断された。医師からそれを告げられても、怜太はすぐには実感が湧かなかった。固定された左足から目を背けるように、診察室の椅子に座ったまま、壁に貼られた人体図をぼんやりと眺めていた。
付き添いで来ていた母親が医師の説明を聞くたびに表情を曇らせるのを見て、事の重大さを少しずつ実感したのだった。
「しばらくは松葉杖になると思います。手術をして、リハビリを続ければ競技に復帰することは十分可能ですよ」
「……どれくらいかかりますか」
「個人差はありますが、競技復帰までは半年から一年程度を見ておいたほうがいいでしょう」
半年から一年。その言葉が頭の中でぐるぐると渦を巻いていた。
夏のインターハイにはどう頑張っても間に合わない。医師はまだ何かを喋っていたが、怜太の耳には到底入ってこなかった。
診察室を出ると、廊下のベンチに松葉杖が置かれていた。看護師から使い方を説明され、怜太は言われるまま松葉杖を手に取った。
「大丈夫?」
母親が心配そうに顔を覗き込んでくる。
「……何が」
「何がって……足。痛くない?」
いつもなら、母親に心配されれば「大丈夫だって」と笑って返していた。しかし今日は、言葉を返す気力すら湧かなかった。
自動ドアを抜けると、春の暖かな風が吹いていた。
母親に支えられながら、怜太は松葉杖をついて慎重に歩く。ついさっきまでコートを走り回っていたのが嘘のように、ゆっくりとした歩みだった。
帰宅した怜太は、左足に注意しながら靴を脱いだ。いつもなら何気なく上がっている階段が、今日はやけに高く感じられる。松葉杖を使いながら一段ずつ体を支えて上がっていく。左足を庇うたびに腕へ体重がかかり、数段進んだだけで肩が重くなった。途中で一度立ち止まり、息を整える。
「大丈夫?」
後ろから母親が声をかけた。
「大丈夫」
「治るまでは一階の和室使ったら?」
「大丈夫だから。これくらい自分でできるって」
怜太はそう言って、松葉杖をつき直した。
「……じゃあ、困ったら呼んでね」
「うん」
母親はそれ以上口を出さず、階段の下から心配そうに見守っていた。
汗をかきながら部屋に入ると、ベッドの脇へ松葉杖を立てかけた。
左足のせいでズボンを脱ぐのにも苦労する。ベッドに腰を下ろしてようやく脱ぎ終えると、壁に貼られたNBA選手のポスターと目が合った。いつもなら気持ちを奮い立たせてくれるはずのポスターが、今日は無機質な紙切れにしか見えなかった。
セットしていたアラームが鳴る少し前に、怜太は目を覚ました。
時刻は午前七時。いつもならこの時間にはもう体育館で汗を流している。
薄暗い部屋の中で天井を見上げ、体を起こそうとして左足が固定されていることを思い出した。
しばらく天井を眺めたあと、小さく息を吐き、そのままもう一度目を閉じる。
この日、怜太は初めて学校をさぼった。
翌朝、母親の運転する車で学校へ向かった。
校門の前で別れ、そこからは自力で昇降口を目指す。ちょっとした段差や坂が気になるようになり、いかに世の中がバリアフリーに対応していないかを実感することとなった。
松葉杖をついて校内を歩くと、普段とは違う視線が集まる。すれ違う生徒が一瞬だけ足を止めたり、声をかけようとしてやめたりする。そんな気配まで伝わってくるようだった。
怜太はできるだけ周囲を見ないようにして、職員室へ向かった。
「失礼します」
部活中に怪我をしたことは、すでに伝わっている様子だった。
教師たちは怜太の姿を見て、それぞれに反応を示す。心配していることは分かるけれど、その心配を向けられることが、今の怜太には居心地が悪かった。
教師たちは平静を装っているのだろう。それでも普段とはどこか違うよそよそしさがあった。
顧問の姿を見つけ、松葉杖をつきながらごちゃごちゃした職員室を進んだ。
「大宮……怪我、大丈夫か?」
「はい、平気です」
笑顔を作る。口元だけを動かすような、ぎこちない笑いだった。
何一つ大丈夫ではないけれど、それを説明したところで事態が好転するわけでもない。
心配されたくない。弱っていると思われたくない。そんな気持ちがいつものように「大丈夫」という言葉を選ばせた。
このままでは気まずくなる一方だと感じた怜太は、鞄から一枚の紙を取り出した。用意してきた退部届だった。それをデスクの上へ置く。
顧問は目を丸くして怜太の顔を見る。
「そうか……」
それだけ言って、退部届を受け取った。
怜太は一瞬だけ、その紙から目を離せなかった。これを渡せば全てが終わる。もう部員ではなくなる。練習に行く必要もなくなる。大会を目指すこともない。
そう考えても、踏みとどまりたいという感情は湧いてこなかった。
「今までお世話になりました」
怜太はぎこちなく体の向きを変えた。松葉杖をつく音を響かせながら、職員室を出ていく。
退部の結論を出すのには、一日もかからなかった。迷う時間すら必要なかった。
怜太の高校バスケは、正式に幕を閉じた。
