レイトブルーマー

 翌朝、アラームが鳴るより少し早く、怜太は目を覚ました。
 まだ眠気の残る目をこすりながらカーテンを開ける。
 窓の外は薄い青に染まり、住宅街は静まり返っていた。通学する生徒の姿もほとんどなく、昨夜まで吹いていた風に運ばれた桜の花びらが、道路の端にいくつも溜まっている。
 顔を洗い簡単に朝食を済ませると、いつものように早々と家を出た。

 自転車にまたがり、ペダルを踏み込む。
 朝の空気はまだひんやりとしていて、走るたびに頬を撫でていった。
 いつもなら通学する生徒たちで賑わっている道も、この時間は人影が少ない。時折聞こえてくるのは通り過ぎる車の音くらいだった。
 近道で公園を通ると、ラジオ体操終わりの集団とすれ違った。そのまま交差点に出て、シャッターの下りた商店街を颯爽と駆け抜ける。
 街がまだ一日の始まりを迎える前から、怜太の一日はすでに動き始めている。

 十五分ほど自転車を走らせると、星華高校の校門が見えてきた。
 校舎の窓には明かり一つ灯っていない。
 グラウンドにも人影はなく、校門を抜けた先に広がっているのは普段の学校生活からは想像できないほど静かな景色だった。
 まだ眠っている学校へ足を踏み入れ、部室棟から一番近い駐輪スペースに自転車を止めた。

 誰もいない部室でいつものように練習着へ着替えていると、
「おはよー」
 扉が開き、同じ学年の部員が顔を出した。
「おう」
「相変わらず、怜太は早いねえ」
 その後ろから、別の部員も入ってくる。
「俺、今日アラーム鳴る前に起きれたわ」
「お、ついに人間やめた?」
 二人は顔を合わせるなり、いつものような調子で言葉を交わし始めた。
「わかるわー。あの現象に名前付けようぜ」

 怜太は会話を聞きながら、手を止めることなく着替えを続ける。
 こういうやり取りは、もう何度も繰り返してきたものだった。
 無理に入ることはしない。二人もそれを分かっているから話を振ってこない。怜太にとってはそれが心地よく、ちょうどいい距離感でいてくれる仲間に、心の中で感謝した。
 怜太はバスケットボールを片手に、一足早く部室を出た。

 早朝の体育館は昨夜の誕生日パーティーが嘘のように静まり返っていた。
 高い窓から差し込む朝日が床を照らし、その光の中を細かな埃がゆっくりと舞っている。きらきらと明滅するそれさえ、どこか神秘的に見えた。
 怜太は手のひらでバスケットボールの感触を確かめるように一度撫でると、床へ強く叩きつけた。
 ダム! ダム!
 乾いた音が、誰もいない空間を切り裂くように体育館いっぱいへ響き渡る。
 ボールを受け止め、そのままドリブルへ移る。
 まずは基礎から。右手、左手。クロスオーバー。バックチェンジ。レッグスルー。
 一つ一つの動きを確かめながら、何度も繰り返す。試合中と同じ緊張感を保ち、相手の動きを頭の中に描きながら、足を止めない。シュートを打って、外れれば同じ場所からもう一度。入れば次の位置へ。
 休憩を挟むことすら惜しむように、怜太はひたすらゴールと対峙し続けた。

 ふと顔を上げると、体育館の時計はいつの間にか七時を回っていた。
 現在体育館には七名の部員が集まっていたが、その多くは練習よりも仲間との雑談に夢中になっていた。
 朝練は強制ではない。参加するだけでもいいし、何をどれだけ練習するかも本人次第だ。だから怜太も、彼らが怠けていると責めるつもりはない。
 しかしコートの中から眺めていると、どうしても遊びに来ているようにしか見えなかった。

 そんな中、怜太以外で唯一、黙々と練習を続けている男がいた。
 松下だった。
 誰とも話さず、一定のリズムでシュートを打ち続けている。ボールを掴んでからすぐには放たない。フォームを確認するようにゆっくりと構え、リングを見据える。
 そして無駄のない動きで腕を伸ばした。
 ボールは鮮やかな放物線を描き、リングに触れることなく、そのままゴールへ吸い込まれていく。
 松下は転がったボールを拾うと、今度は少し離れた位置へ移動した。そして、先ほどと寸分違わない動作でシュートを放つ。
 一連の動きを怜太が観察していると、その視線に気づいた松下が手を止めた。
「どうした? 俺のフォーム、どっかおかしいか?」
 額に浮かんだ粒状の汗を手の甲で拭いながら、松下が尋ねてきた。
「逆だよ。相変わらず綺麗なフォームしてんなーって」
「なんだよ、急に褒めるじゃん。サプライズ忘れてた、穴埋めか?」
「え、何で知ってんの」
「大蔵から聞いた」
「あいつさあ……忘れてたわけじゃなくて、見落としてただけだから」
「一緒じゃねえか」
 それ以上、どちらから言葉を続けるでもなく、二人はそれぞれの練習へ戻った。

 朝練が終わると、放課後の部活まで怜太にとっては退屈な時間が続く。
 眠気と格闘しながら辿り着いた、三時間目の地理。
 新年度が始まってまだ間もないせいか、教室には授業中にもどこか落ち着かない空気が残っている。新しい席、新しい時間割、そしてこれから始まる一年間。まだ教室そのものが生徒たちの居場所になりきっていないようだった。

 怜太は教室の中央付近の席で頬杖をつき、気怠そうに黒板を眺めていた。
「えー地図には様々な種類がある。では、航海図に使われているのは○○図法。怜太―この問題分かるか―?」
 朝練の疲れで意識が沈みかけていた怜太は、名前を呼ばれて頬杖を止めた。
「えーっと……」
 適当に教科書を開くと、全く関係のない産業のページだった。

 分かりませんが喉元まで出かかったとき、隣の席からノートがスッと滑ってきた。
 怜太が目を向けると、そこにはペンで書かれた手紙のようなマークと、蚊取り線香の絵が描かれていた。
「ん……手紙?」
 隣の女子生徒は、困ったような顔をしながら小刻みに首を横へ振る。
「あ、メールか」
 今度は満開の笑みを浮かべ、縦に首を振った。
「ってことは蚊取り線香だから……」
 怜太は絵を順番に追いながら、どうにか意味をつなげていく。
「メルカトリ図法です」
「惜しいッ! 正解はメルカトル図法だ」
 教師が残念そうに首を傾げる。
 怜太が解せなかったのは、自分が間違えたことではなかった。
 隣を見ると、先ほどまで助け舟を出してくれていた女子生徒まで、同じように頭を抱えている。

「じゃあ助け船を出した千家(せんけ)。メルカトル図法の特徴、わかるかー?」
 千家と呼ばれた女子生徒は「はい!」とよく通る声で返事をすると、勢いよく立ち上がった。
 背中まで伸びた濡れ羽色の髪が、その動きに合わせて扇状に広がる。
「角度が正しいことです」
「正解!」
 教室のあちこちから自然と拍手が起こった。千家は得意げに胸を反らしてそれに応える。

 メルカトル図法の長所と短所についての説明が始まると、怜太は声を潜めて千家へ話しかける。
「なあ、どうして嘘の答えを教えたんだよ」
 千家はこともなげに答える。
「私はヒントを与えてあげたの。だって自分で考えないと面白くないでしょ」
 悪戯っぽく笑うと長い髪を耳へかけ、そのまま板書を始めた。

 放課後。
 授業を終えた部員たちが体育館へ集まり、いつも通り練習が始まった。
 ランニング、フットワーク、シュート練習と、決められたメニューを順番にこなしていく。
 怜太も他の部員たちと同じ練習を続けていた。

 ただ、この日の怜太はいつもとは少し違った。一つ一つの動作に普段以上の力が入っている。休憩に入っても一人黙々と練習を続けていた。
 練習着は時間が経つにつれて汗を吸い、背中から胸元までじわじわと濡れていく。
 最初のうちは誰も気に留めなかった。
 もともと練習熱心なのは部員たち全員が知っている。怜太の辞書に妥協の文字はない――そんな冗談が囁かれるほど、普段から練習には真面目だった。

 しかし、その日は少し違っていた。
 休憩時間になっても怜太はドリンクを一口飲んだだけだった。軽く喉を潤すと、すぐにまたボールを手に取る。
 息を整える時間すら惜しむように、人よりも何倍も高い強度でメニューをこなしていく。
「飛ばし過ぎだ」
 大蔵から心配の声が飛ぶが、怜太は足を止めることなく答えた。
「練習からガチでやらないと意味ないだろ」

 紅白戦では怜太と松下は別のチームになった。
 松下がボールを運び始めると、怜太の目つきが変わった。
 ボールだけを見るのではない。松下の足の運びや肩の向き、次にどこへ動こうとしているのか。その一つ一つを追いながら、わずかな隙を狙って果敢にスティールを仕掛ける。
 松下がドリブルで前へ進むたび、怜太は執拗にプレッシャーをかけ続けた。
 ついに笛が鳴り、プッシングのファウルを宣告される。シュートに向かう松下を腕で押したという判定だった。

「普通の接触だろ」
 思わず口からこぼれた言葉に、審判をしていた二年生が困ったような表情を浮かべる。
 助けを求めるような視線を受け、普段は物言わぬ松下が口を開いた。
「どうした? 今のは試合でも吹かれるぞ」
 松下に軽く咎められ、怜太はようやく少しだけ冷静さを取り戻した。
「……悪い」
 二年生の審判へ頭を下げるが、完全に納得した様子ではなかった。

 全体練習が終わってからも、怜太は黙々とシューティングを続けていた。
 何本目になるのか分からないシュートを放つ。
 リングに弾かれたボールは松下の足元へ転がっていく。怜太がボールを要求するが、松下は拾ったまま渡そうとしない。
「今日はもう休んだらどうだ。明らかにオーバーワークだぞ」
「オーバーワーク? あれのどこがだよ」
 怜太は鼻で笑うと、新しいボールを取り出す。
「高校最後の年だから、気合いが入るのは当然だろ」
「だからって限度がある」
「限度ってなんだよ。補欠がレギュラー取るために必死になるのが変か? そっちはいいよな、レギュラーだから。俺だって松下みたいに──」
 そこで怜太の言葉が途切れた。
 口にしてしまった言葉の重さに、自分自身が遅れて気づく。
 目の前にいる松下の表情は、形容しがたいものになっていた。
「……今のは忘れてくれ」
 怜太は誤魔化すように笑おうとした。
 けれど頬が引きつるだけで、思うような笑顔にはならない。
 自分でも今の言葉が適切ではなかったことは分かっているが、若さとプライドが素直に頭を下げることを拒んでいた。

「おーい、何やってんだ。体育館閉まるぞ!」
 張り詰めた空気を察したのか、それとも偶然だったのか。大蔵が二人の間へ入ってきた。
 何も知らないふうを装いながら、松下の背中を押して体育館の外へ向かわせる。
「早くしろよー。怒られても知らねえからなー」
 怜太は返事をする代わりにシュートを放つ。崩れたフォームから放たれたそれは、リング手前で失速して力なく床に落ちた。

 思春期を拗らせている怜太にとって、素直になることは何より難しかった。
 普段なら冗談で誤魔化せることも、バスケが絡むとどうしても意地を張ってしまう。
 全てはレギュラーの座を掴むため。怜太の無理は少しずつ体に影響を及ぼし始めていた。

 オーバーワークを指摘されてから三日後。体育館にはバスケ部員の野太い声が響いていた。
 基礎練とスリーメンを終えてからの3対3は、負け残りのルールで行われている。怜太のチームは細かなミスが重なり、何度もコートに残されていた。疲労が蓄積される中、それでもやってくる次のプレーに備えて腰を落とす。

 松下がボールを受けると、怜太はすぐに身構えた。ここまで何度も対峙してきた相手だけに、次にどちらへ動くのか、その癖まで分かっているつもりだった。
 松下が右へ踏み込む。それに合わせて怜太も体の向きを切り返した。
 左足を強く踏み込んだ瞬間、踵の上に鋭い衝撃が走った。

「――っ!」

 後ろから誰かに思いきり蹴られたような、これまで経験したことのない衝撃だった。怜太は反射的に踏みとどまろうとしたが、左足に力が入らず体を支えきれない。そのままコートへ倒れ込んだ。
「怜太?」
 異変に気付いた松下がドリブルを止めて駆け寄って来る。周囲でプレーしていた部員たちも一斉に動きを止め、体育館に響いていたボールの音が途切れた。
 怜太は床に手をつきながら、何が起きたのか確かめるように左足へ力を込めようとした。
 しかし、踵の上に鈍い痛みが走り、思うように踏ん張ることができない。
「……なんだ、これ」
 左足の見た目に変化はない。それでも怜太の耳には、あの瞬間に聞いた音がこびりついている。

『ブチッ──』

 三年最後の夏は、春に唐突な終わりを迎えた。