レイトブルーマー

 イベントステージでは、シックなスーツに身を包んだお笑いコンビが漫才を披露していた。
 中央に置かれたマイクを挟み、二人がテンポよく言葉を交わす。そのたびに客席のあちこちから笑い声が上がり、観客の反応がさらに二人の勢いを押し上げていく。
 客席は立ち見が出るほどの盛況ぶりで、ステージ周辺には大勢の人が集まっていた。
「あれ、有名なコンビなのか?」
「知らないの!? 漫才コンテストで決勝に行ったコンビだよ」
 千家が呆れたように答える。
 バスケに青春を捧げてきた怜太には、そのあたりの知識がごっそり抜け落ちていた。テレビをほとんど見てこなかったわけではないが、少なくとも、お笑い芸人の名前や大会の結果を覚えるような生活は送ってきていない。

 二人はステージ後方の邪魔にならない場所に立った。
 表向きは警備ということになっているものの、実際には突っ立ってステージを眺めているだけだ。
 休日のファミリー層が中心の会場に、わざわざ警備が必要になるような危険が潜んでいるとは思えない。スタッフの目が届かない場所を見張る必要があるとはいえ、少なくとも今のところ、トラブルが起きる気配はなかった。
 会場にいる誰もが、目の前で繰り広げられるお笑いを純粋に楽しんでいる。

 そんな中、怜太だけは真剣な表情で漫才師を見つめていた。
 ただ笑わせることに感心しているわけではない。二人の間を飛び交う言葉の速さ、相手の言葉を受けてから返すまでの絶妙な間、客席の隅まで届く声量、そして会話全体を途切れさせずに進めていくテンポ。
 どれも、ディベートで千家から指摘されていたことと無関係ではなかった。

 話す速度が速すぎれば聞き取りにくくなる。逆に遅すぎれば、聞き手の集中が途切れる。言葉をただ羅列するのではなく、相手の反応を受けて次の言葉につなげる。
 笑いを生み出すために磨かれた技術を、ディベートに活かせないか。
 そんなことを考えながら漫才師の一挙手一投足を目で盗み、自分の糧にしようとしていた。

 一組目の出番が終わると、続いて別のコンビがステージへ上がった。
 歓声と拍手を浴びながらセンターマイクの前に立つと、最初の一言でさっそく笑いを取った。ポップなスーツに身を包んだ姿とは裏腹に、経験を感じさせるベテランの技を見せる。

 そのとき、怜太の視界に三人の女子が映った。
 大学生らしき茶髪の三人組は、ステージ脇の通路からフードコートの方面に歩いている。漫才には興味がなさそうにしていたが、千家を見て獲物でも見つけたように口元を歪めた。
「千穂じゃん。何してんの?」
 ショートボブの女が、値踏みするように目を細める。
 ただの知り合いなら、軽い挨拶で終わるはずだった。
 それなのに、怜太は三人から視線を外せなかった。

 声の調子が、それまで聞いていた漫才師たちとはあまりにも違っていたからだ。
 漫才師たちが客席を笑わせるために声を張り、言葉を投げ合っていたのに対して、こちらの声には、人を小馬鹿にするような冷たさが混じっている。笑っているように聞こえても、そこにあるのは親しさではなく、相手を見下すような響きだった。

 千家の表情も、いつの間にか変わっていた。
 子どもたちを相手にしていたときの明るさは消え、三人を警戒するように構えている。
 怜太にはその変化だけで十分だった。千家にとって好ましい相手でないことは明白だ。
「ねえ、千穂。なんで無視すんのよ」
「おい、あんま調子乗ってんじゃねえぞ」
 敵意をむき出しにしながら距離を詰めてくる。
「今、忙しいから」
 千家は相手にせず、警備としての仕事を続けようとした。
 しかし、それがかえって逆鱗に触れた。

 一人の手が、千家の頭を乱暴に叩く。
「あんた結局ずっとチビのまんまじゃん」
 耳障りな笑い声は、漫才師のボケによってかき消された。辛うじて大事にはなっていないが、これ以上混乱が広まるのは避けなければならない。

 馴れ馴れしく頭上に伸びてきた手を、千家が振り払う。
 耐えられなくなった怜太も一歩前へ出た。
「こんにちは。どうかしましたか?」
 表向きは笑みを携えているが、内心は穏やかではない。
 周囲には、ステージを楽しむ家族連れや子どもたちがいる。笑い声や拍手が飛び交う、幸せな空気に満ちた場所に、揉め事は不必要だ。

「あんた誰?」
「千家のクラスメイトです」
「なんだ。同じじゃん」
 ショートボブの女が、ニヤリと口の端を吊り上げた。
「うちらも高三のとき、千穂と同じクラスだったの」
 その発言に戸惑いを隠せない。

 当然だ。怜太のクラスに目の前の三人は在籍していない。
 怜太の記憶と今の発言は、完全に食い違っている。
 困惑を察したのか、今度は巻き髪の女が口を開いた。
「あーあ、可哀想。聞かされてないみたいだね」
「……何がですか?」
「ちょっと!」
 千家が止めようとする。
 しかし、巻き髪の女は千家の制止を無視した。

「千穂はね、うちらを殴ったせいで留年したの」

 三人組の笑い声が上がる。
 ステージ上では、ボケとツッコミにお客さんから拍手笑いが起こった。二つの笑い声が重なり合う。
 怜太はその言葉がすぐには理解できなかった。
 千家が殴った。
 そのせいで留年した。
 どちらも言葉としての意味は分かる。それなのに、知っている千家の姿と結びつかなかった。

 怜太の頭に浮かんだのは、これまで一緒に過ごしてきた千家だった。明るくて、よく喋って、くだらないことでも笑っている。ディベートのときには人一倍熱心で、怜太やくるみの発言にも容赦なく突っ込んでくる。
 そんな千家が、人を殴った。

 疑念を抱いた怜太が隣を見る。
 そこにいた千家は何も言わず、ただ目の前の相手を睨み付けていた。
 その目を見た瞬間、怜太の中にあった疑念は別の形へ変わった。
 お笑いライブが続いているというのに、怜太たちのいる一画だけ、切り取られたように笑顔が消えていた。

「可哀想。あんたは暴力女の本性を知らなかったってわけ」
 蔑むような表情を見た瞬間、怜太の頭の中で答えが弾き出された。
「すみません。俺は千家を信じます」
 笑顔のまま、はっきりと告げた。

 カラーコンタクトを入れた瞳が、怜太を睨み付ける。
「うちらが嘘ついてるとでも思ってるわけ?」
「千穂は本当に――」
 怜太は笑顔を崩さず、ゆっくりと首を横に振った。
「疑ってるわけではありません。千家が暴力を振るって留年したことは、おそらく事実でしょう」
 三人組の言葉を認めたうえで、怜太は続ける。

「ですが、そこに至るまでの過程を隠すのは、なぜですか?」
 鋭い視線が怜太に突き刺さる。
「少なくとも俺が千家と一緒にいる間、暴力を振るうような兆候は一度も見られませんでした」
 怜太は三人組を見据えた。
「いきなり現れて、千家に対して粗暴な言動を取った。その態度からして……むしろ原因はあなたたちのほうにあるのでは?」

 千家は、目の前で理路整然と話す怜太を呆然と見つめていた。
「何か反駁はありませんか?」
 その瞬間、ステージから大きな拍手が沸き起こった。
 それは怜太ではなく、圧巻の漫才を披露したコンビに向けられたものだった。
 けれど、偶然とするにはあまりにも完璧なタイミングだった。
 まるで怜太の言葉に対して観客が判定を下したかのように、その拍手は長く大きく続いた。

 その美学は、往生際の悪い相手には一切通用しなかった。
 認めなければ負けではない。そんな信念でもあるのか、尚も口汚い言葉で千家を責め立てる。怜太の言葉など、最初から存在しなかったかのようだった。

 やがて漫才が終わり、ステージから出演者が去っていく。
 それまでステージに集中していた周囲の客たちも、少しずつこちらへ視線を向け始めた。
 怜太は頭を巡らせ、この場を収める方法を必死に考えた。
 ここまで言っても駄目なら、言葉だけでどうにかするのは難しい。
 何か別の方法があるはずだ。事を荒立てずに切り抜ける方法を模索するが、いくら考えても妙案は浮かばなかった。

 そのときだった。
 漫才にも引けを取らないほどの大きな歓声が上がった。
 何事かと、周囲の人々が一斉にそちらへ振り向く。
 歓声の中心にいたのは、ミナモリンだった。
 休憩室で休んでいたはずのくるみが、ミナモリンの着ぐるみ姿のまま、こちらへ向かってくる。
 短い着ぐるみの脚に苦戦しているのか、左右によろめきながら、それでも懸命に体を揺らして一歩ずつ近づく。
 あの着ぐるみの中で、くるみがどんな表情をしているのかは分からない。
「くるみ……」
 思わず、怜太の素の声が漏れた。
 ミナモリンはそのまま三人組の前までやってくると、怜太との間に割って入った。

「あ、ミナモリンだ!」
 ミナモリンを発見した子どもたちが、一斉に押し寄せてくる。
「えっ、ちょ――」
 三人組の鼻につく声は、押し寄せる子どもたちの波に飲み込まれた。
 そのまま流されるように、三人組とミナモリンは、あっという間に人だかりの向こうへ消えていった。