レイトブルーマー

 昼休みの中庭は、弁当を広げる生徒たちで賑わっていた。
 春の柔らかな日差しは葉の隙間からこぼれ、地面には小さな影がいくつも揺れている。その一角で、ディベート部の三人も昼食を囲んでいた。

 怜太の左足のギプスは外れていた。手術を選んだため、保存療法よりもギプスの期間を短く済ませられた。今はアキレス腱を補強する無骨な装具がつけられている。
 松葉杖はまだ必要だが、必須というよりもお守りとしての意味合いが強く、近く卒業する予定だ。
 歩く姿も以前に比べてずいぶん安定してきた。怪我をしてから一か月、少しずつ日常が戻りつつあることを、怜太自身も実感していた。

 向かいに座るくるみは、サンドイッチを頬張りながら、何度も怜太の弁当へ視線を向けていた。最初はちらちらと見ているだけだったが、どうしても気になるらしく、ついには本人に尋ねる。
「大宮先輩のお弁当、すごく大きいですね」
 怜太は玉子焼きを頬張ったまま、自分の弁当箱を軽く持ち上げる。
「ふぉうか?」
「えぇ……わたしの一日分より多いですよ」
「バスケ辞めたから、これでも半分の量に減らしたんだけどな。つーか盛り過ぎだろ」
 怜太が笑う一方、膝の上に水色の小さな弁当箱を乗せた千家は、呆れたように二人を見た。
「もー、食べるか喋るか、どっちかにしてよね」
 ぷりぷりと怒ったような顔で、弁当のおかずを口へ運んでいく。
 怜太は紙パックのお茶を一口飲み、口の中の玉子焼きを胃へ流し込む。
「千家の弁当小さくね? そんなんじゃ大きくなれないぞ」
「はい、セクハラ出ました」
「えぇ!? 俺は身長のことを言ってるんだぞ?」
 怜太は本気で反論しながら、並んで座る千家とくるみを見比べた。二人の身長に大きな差はないが、わずかにくるみのほうが大きい。
「まさか、胸じゃなきゃセーフだと思った? 価値観が昭和ジジイそのものじゃない」
 怜太は露骨に肩を落とした。
「ごめん……俺、本当にバスケしかやってこなかったから、ガチで知らなかったんだ」
「免罪符みたいにバスケを使わないでよ。こっちが悪者みたいになるじゃんか」

 二人のやり取りを前に、くるみはどちらに味方すればいいのか分からないといった様子で、二人の顔をおろおろと見比べている。やがて、なんとか場を和ませようとしたのか、口を挟んだ。
「さ、最近の〇〇ハラって、たくさんありすぎて混乱しますよね」
「ハラスメントのハラスメントでハラハラとかもあるくらいだから。もう何が生まれても驚かないって決めた」

 千家の返しを聞きながら、怜太は弁当のおかずを眺めた。少し前までなら、昼休みも頭の中にあるのはバスケットボールのことばかりだった。練習、試合、体の使い方、どうすれば松下との差を埋められるか。そんなことを考えているうちに一日が終わっていった。
 けれど、今はもう違う。
「俺も真面目に勉強しようかな。時事問題とか法律とか、そっち系」
 何気なく口にしたつもりだったが、千家は目を丸くした。
「どういう風の吹き回し? 明日雪でも降るんじゃない?」
 よほど面白かったのか、「くるみちゃん、天気予報チェックして!」と全力でボケに回る。
 確かに怜太は勉強とは縁がなかったが、ここまで小馬鹿にされるのは少し心外だった。

「ディベート甲子園ってあるだろ」
 ディベート甲子園――学校対抗で行われる、ディベートの全国大会だ。
 全国の中学校と高校が参加し、決められた論題について肯定側と否定側に分かれ、互いの主張をぶつけ合う。予選を勝ち抜いた学校だけが、全国の舞台へと進むことができる。

 真面目な話だと分かると、ふざけ倒していた千家の表情が一変する。
「論題を見たらさ、法律とか政治とか時事問題が多いんだよ。俺たちもディベートやってるなら、当然そこを目指すだろ。だから勉強は必要かなって」

 怜太が真顔で語る決意に、千家はぽかんと口を開けた。
「俺、そんなに変なこと言ったか?」
「いや、変じゃないけど……。怜太君がそこまでディベートにのめり込むとは思ってなくて。お試しで入部って言ってたのに」
「それは前の話だろ。今はもう正式に部員だ。俺もくるみも成長したし、腕試しに出てもいいんじゃないか?」
 怜太にとっては、自然な流れだった。一か月前は右も左も分からなかったディベートのことも、今では少しずつ面白さが分かってきている。だったら、次は実際の大会に出て、自分たちがどこまで通用するのか試してみたい。
 そんな気持ちから出した提案だったので、怜太はあっさり受け入れられるものだと思っていた。

 ところが、向かいにいるくるみの反応は鈍かった。
「……わたしは、うまく喋れるようになりたくてディベート部に入ったので、大会とかはあんまり……」
「何事も挑戦だって。ここで度胸つけて、誰の前でも堂々と喋れるようになったほうがいいだろ?」
「まあ……それはたしかに、一理ありますね。でも、正直不安です」
「俺と千家がついてるから大丈夫だ」
 怜太がそう言うと、くるみはすぐには答えず、サンドイッチを手にしたまま少しだけ俯いた。自分が大勢の人の前で話している姿でも想像しているのか、眼鏡の奥の目が落ち着かない。
 それでも、しばらく悩んだ末に小さく頷いた。
「先輩たちが一緒なら……」
 そうして、くるみは大会への出場を了承した。

 しかし、くるみ以上に渋ったのが千家だった。
「そもそもディベート甲子園って、四人一組の競技だよ」
「事情がある場合は三名でも可って、規約に書いてあったぞ」
 怜太がそう返しても千家は首を縦に振らない。
 いつもの千家なら、こういう話には真っ先に食いついてきそうなものだった。だからこそ怜太にはその反応が意外だった。

「千家らしくないな。むしろ積極的に乗ってくるかと思ったのに」
 くるみも同じ疑問を抱いたのか、不思議そうに千家を見つめている。
「いっそのこと、私抜きで出場しなよ。二名でもエントリーは可能だからさ」
「それじゃあ意味ないだろ。俺たちは三人でディベート部なんだからさ」
「正確には同好会だけどね」
 千家は空笑いを浮かべると、アスパラベーコンを口に放り込んだ。
 その様子はいつもと変わらないように見えたが、怜太は何となく引っかかった。
 せっかく三人で活動してきたのだから、三人で大会を目指したい。
 怜太にとっては、それだけのことだった。

「ち、千穂先輩は、去年出場したんですか?」
 くるみが尋ねる。
「ディベート部としては参加したよ。三年生四人でチームを組んで、私はサポート役。結果は地区予選敗退で、全国大会には出られなかったけど」
「だったら尚更出ようぜ。選手として出場できる最後のチャンスなんだからさ」
 その言葉を聞いた千家は、すぐには答えなかった。
 弁当箱に残ったおかずへ目を落とし、箸を持ったまま黙り込む。怜太は返事を急かすことなく、ただ千家の様子を見ていた。

「……わかったよ」
 散々渋っていた千家は、ついに折れた。
「よっしゃ、決まりぃ! 関東予選まで一か月しかないからな。気合い入れて行こうぜ」
「大会……うまくできるかなあ」
 くるみは小動物のように怯えた顔で、もそもそとサンドイッチを食べる。
 対照的に怜太の気分はすっかり高揚していた。目標が決まったことで、これから何をすべきかが明瞭になった。一か月という限られた期間、のんびりしている暇はない。

 千家はそんな二人を横目に、食べ終わった弁当箱へ蓋をすると立ち上がった。
「もう行くのか?」
 怜太が声をかけると、千家は振り返り、怜太を指差した。
「イエローカード。退場したいの?」
「あ、悪い……」
 千家はそれ以上何も言わず、スカートを翻して歩き出した。
 その背中はいつものように軽やかに見えるのに、なぜか怜太には、どこか哀愁を帯びているように感じられた。

 千家の姿が遠ざかってから、くるみがぽつりと口を開いた。
「千穂先輩、何か変じゃないですか?」
「確かにらしくなかったな」
「それもそうですけど、最初は四人一組の競技だからディベート甲子園には出られないって言ってましたよね」
 怜太は千家の背中を見ながら、首を傾げた。
「実際そうだし、別に普通な気がするけど」
「そこまでは理解できるんです。でもそのすぐ後に、二名でもエントリー可能だって自分で言ってたじゃないですか」
 くるみは少し声を落とした。

「千穂先輩、最初から四人一組じゃなくても出場できることを知ってたんですよ」

 怜太は黙り込んだ。
 確かにおかしい。単に人数の問題だけで渋っていたのなら、あんな言い方をする必要はなかったはずだ。
「……出たくない理由があるんでしょうか」
 くるみの問いに、怜太はしばらく考えてから答えた。
「千家が何か言ってくるまでは、触れないでおこう」
「賛成です」
 二人はそれ以上、千家のことについて話さなかった。
 ただ、さっきまで三人で囲んでいた昼食の席が、千家がいなくなっただけで妙に広く感じられた。