レイトブルーマー

 下校時刻を迎えた校門には、部活動を終えた生徒たちが次々と集まっていた。
 西に傾いた太陽が校舎の窓を赤く染め、その光の中で生徒たちが今日の出来事を話している。
 笑い声が途切れてはまた起こり、校門の周辺には、授業中とは違う放課後特有の開放的な空気が漂っていた。

 その脇を、松葉杖を突いた怜太がゆっくりと歩いていく。
 隣では千家とくるみが、それぞれ自転車を押していた。
 二人とも怜太に合わせて歩調を落としているため、普段ならさほど時間のかからない校門までの道のりも、今日は妙にゆったりとしていた。
「怜太君、もしかして歩いて帰るの?」
「さすがに家までは無理だよ。近くの駐車場に母さんが迎えに来てくれてるから、そこまでは歩くけどな。少しくらい運動してないと、一気に太りそうで怖いんだ」
 松葉杖を使っている今の怜太にとって、歩くことは呼吸をするように自然にはいかない。
 それでも体を動かす機会がほとんどなくなったことで、運動不足への不安は以前より強くなっていた。

「ストイックですね」
 くるみが感心したように呟く。
 怜太は軽く笑ってから、先ほどのディベートを思い返した。
「それよりさ、さっきの究極の二択。どうやったら俺が勝てたと思う?」
「んー……」
 千家はすぐには答えず、髪の毛に指を絡ませながら考え込んだ。
 歩きながら視線を少し上へ向け、茜雲を見上げながら先ほどのやり取りを整理し直しているようだった。
「焼肉を焼いた肉だって認めた時点で、ちょっと厳しかったかなー」
「あーやっぱそこか。あれで一気に流れがきつくなった」

「私ならこう反論してたかな」
 千家は人差し指を立てると、まるで教壇に立つ教師のような口調で続けた。
「焼肉とは、単に焼いた肉という調理法ではなく、一般に焼肉店で提供される料理や食文化を指す言葉です。こんな感じ」
 あまりにも鮮やかな切り返しだった。怜太は思わず感嘆の声を上げる。
「いやー盲点だわ。さすが千家」
 自分の中で引っかかっていた疑問が、ようやく解けた気がした。
 焼肉をどう定義するかという最初の部分で相手に主導権を渡してしまったことで、その後の議論まで不利になっていたのだ。先ほどまで靄がかかっていたような思考が、一気に晴れていく。
「私も考えを整理する時間があったから答えられただけで、即興だとかなり難しいかも」
 千家でその認識なら、やはりくるみがそれを持ち出した時点で、怜太は万事休すだった。

「実際のところさ、怜太君は焼肉って聞いたとき、焼肉屋さんを想定して準備してたでしょ?」
「もちろん!」
「私もその前提でいたから。だからさっき言ったみたいに返せてれば、審査員からも一定の理解は得られたと思うんだよね」
 怜太の発言はただの詭弁ではなくある程度効果的だった。それを知れただけでもかなりの収穫だ。
「くるみの会心の一撃にしてやられたな」
「そ、そんな……偶然ですよ」
 くるみは困ったように眼鏡を押し上げた。その仕草には、本当に予想していなかったらしい戸惑いがにじんでいた。

 そんなふうに話していたときだった。
 部室棟の方角から、賑やかな男子生徒たちの声が聞こえてきた。
「おー、怜太じゃん」
 声の主は、部活を終えたバスケ部の三年生たち。
 千家は相手の様子を探るように彼らを見つめ、くるみは身を縮めて可能な限り存在感を消す。
 怜太は軽く手を上げる。
「おう」
「こんな時間まで何やってたんだ?」
「部活だよ。夏までは強制だからな」
 怜太は、仕入れたばかりの知識をさっそく披露した。
「へぇー。幽霊じゃなくて、ちゃんと通ってるのか。何部?」
「ああ、ディ――」

「ディベート部だよ!」

 怜太が答え終わるより先に、千家が横から言葉を奪った。
 突然の介入に、バスケ部員たちが揃って目を瞬かせる。
「うちにそんな部活あったっけ?」
「あるんだなあ、これが。文化祭ではディベートのパフォーマンスをするから、ぜひ見に来てよ」
「面白そうじゃん。怜太も出るの?」
「いや、俺は――」

「もちろん!」

 千家が即答した。
「……え?」
 初耳だった怜太の口から、間の抜けた声が漏れる。
「当たり前じゃん。文化系の部活が文化祭で蚊帳の外なんて意味不明だし」
 そう言ってから、千家は少しだけ肩をすくめた。
「同好会っていうのは内緒ね」

 自虐的に笑う千家を横目に、怜太は文化祭で人前に立つ自分の姿を想像してみる。
 これまでディベートの練習で話してきた相手は、千家とくるみだけだ。
 そんな怜太が大勢の観客を前にして話すことになる。バスケの試合とは違って、ディベートでは自分の言葉そのものが人前にさらされることになる。
 その事実を思うと、胸の奥がじわりと重くなった。
 まだ始めたばかりなのに、本当に大丈夫なのか。そんな不安が頭をもたげ、さっきまでの気楽な気分が少しずつ遠のいていく。
 怜太が文化祭への不安を膨らませていると、再び声がした。

「お前たち、まだ帰ってなかったのか」
 その声を聞いた瞬間、怜太の表情が固まった。
 校門の前に立つ人影は沈みかけた夕日の向こうにいる。
 逆光で顔は見えないが、怜太が思い浮かべたのは一人だ。
「松下……」
 自転車を押していた松下の足が止まる。
 ほんの一瞬で、それまで校門を包んでいた放課後の解放感が消えたように感じられた。

 怜太と松下。
 数日前に大喧嘩をしたばかりの二人が、校門の前で向かい合っている。
 誰も口を開かない。
 怜太は松葉杖を握ったまま、松下も自転車のハンドルを握ったまま、互いの出方を窺うように、身動きひとつしなかった。
 さっきまで自然に続いていた会話が嘘のように途切れ、道路を行き交う車の音だけが妙にはっきりと聞こえてくる。

 その沈黙に耐えきれなくなったのか、バスケ部員たちが示し合わせたかのように自転車へまたがった。
「俺たち、そろそろ帰るわ」
「じゃあな怜太。頑張れよ」
「……ああ」
 数台の自転車が逃げるように校門を離れていく。
 その後ろ姿を見送ることもなく、残された怜太たち四人の間には、さらに気まずい沈黙が落ちた。

 怜太と松下は、まるで石になってしまったかのように動かない。
 見かねた千家が助け舟を出した。
「私たちも帰りますかー」
「は、はい……!」
 くるみが即座に応じる。千家はさりげなく怜太の背中を押して、「行こう」と促す。
 怜太も何も言わず松葉杖を突いて歩き出した。千家とくるみも続き、ディベート部の面々はそのまま校門を離れていく。
 誰も振り返ろうとはしなかった。

 校門からしばらく離れ、背後の気配が十分に遠ざかったところで、ようやくくるみが口を開いた。
「い、息ができませんでした」
「まったく怜太君は。バスケ部とは普通に喋れるのに、キャプテンが来たら急に借りてきた猫みたいになるんだから」
「ちょっと前に喧嘩したばっかりだぞ。仕方ないだろ」
「素直じゃないねえ」
 千家はおどけるように肩をすくめた。
 怜太は何も返さなかった。松下の姿を思い出すだけで、胸の奥にまだ引っかかっているものがある。ぶつけてしまった言葉や松下の表情は、簡単に忘れられるものではない。

 そんな怜太の様子を見ていたくるみが、何かを思いついたように顔を上げる。
「そうだ!」
 ここまで大きな声を出すのは珍しく、二人はくるみを注視する。
「仲直りするべきか否か、ディベートで決めるってのは――」
 空気が凍りついた。
 千家の眉間に、深いしわが刻まれる。
「あ……」
 くるみは自分の発言がどれほど場違いだったかを、まじまじと思い知った。
「あ、嘘です。冗談……はは。なんちゃってぇ」
 千家が無言でくるみの頬をつまむ。
「もぉー。慣れないことしないの」
「ふぁーい。ごめんなさあい」
 両頬をぐにぐにと引っ張られながら、くるみが謝った。
 その光景を眺めていた怜太は、二人のやり取りに口を挟むことなく、さりげなく後ろを振り返った。
 校門の前には、もう誰もいない。
 校舎の窓から漏れる明かりだけが、静かに辺りを照らしていた。