ある日の午後、いつになく真面目に地理の授業を受けている怜太。
要点の説明を終えた教師は、一呼吸置いてから教室を見渡した。
そのあいだ、生徒たちは黒板の内容をノートへ書き写していた。やがて教室に響いていたペンの音が少なくなると、教師は再び口を開く。
怜太は、これまで何となく聞き流していた授業を、少し違った角度から眺めていた。
黒板に書かれたことをノートに写すための間。重要なことを説明する前に置かれる、ほんのわずかな間。教師はただ思いついたことを順番に話しているわけではない。聞いている側がついてこられるように、話す速度や言葉を挟むタイミングまで考えている。
そのテクニックを活かすことはできないか。怜太の頭に昨日の発表が浮かぶ。
本の内容を思いつくまま口にして、時計を見ては焦り、話が尽きそうになると別のエピソードを探す。そして何か思いつけば、それをまた次の言葉へつなげる。そうやって途切れることを恐れるように、言葉を並べ続けていた。
(俺は思いついたことを、ただ矢継ぎ早に喋ってただけだ)
聞いている相手が内容を理解したり、自分の中で考えたりするための時間など、ほとんど意識していなかった。
怜太はノートの端にペンを走らせ、昨日の反省を短く書き留めた。
『間を大事にする』
書き終えたところで、すぐ隣から小さな笑い声が聞こえた。
顔を上げると、千家が怜太のノートをちらりと覗き込んでいる。目が合うと、千家はふふっと微笑んだ。
怜太は少し照れくさくなり、何事もなかったように黒板へ視線を戻した。
放課後、怜太は一人で図書室へ向かっていた。
階段に苦戦しながら古びた扉に手をかける。読書の妨げにならないよう、松葉杖の音を殺しながら奥の図書準備室を目指す。
(千家は委員会で遅れるって言ってたな。それまでディベートの本でも探してみるか。まずは鞄だけ置いてから――)
そんなことを考えながら扉を開けた怜太は、一歩足を踏み入れたところで動きを止めた。
見慣れない女子生徒が一人で部屋にいた。
特徴的なくせ毛に黒縁の眼鏡。胸の赤色のリボンは一年生の証だ。
向こうも突然現れた怜太に気づいたらしい。
二人の視線が交差するが、どちらも何も言わなかった。
静かな部屋に、妙に気まずい沈黙が落ちる。怜太はどうしたものかと戸惑いながらも、ぎこちなく部屋へ入り、空いている席へ腰を下ろした。
すると、女子生徒がおそるおそる口を開いた。
「あれ? まだ熱があるのかな……。千穂先輩が、男の人に見える」
女子生徒は自分の眼鏡を外すと、レンズを丁寧に拭いた。念入りに両方のレンズを磨いてから、もう一度眼鏡をかけ直す。そして確かめるように怜太をじーっと見つめた。
「現実だぞ」
「ひゃあぁっ!」
突然声をかけられ、女子生徒の体が大きく跳ねた。椅子から転げ落ちそうになり、慌てて机に手をつく。
「ど、どなたでしょうか……。ここはディベート部の部室ですよ」
「昨日、ディベート部に入部したんだ。君は千家が言ってた一年生の――」
「よ、芳田くるみです……」
消え入りそうな声で名乗った。
「初めまして。三年の大宮怜太です」
二人は向かい合い、ぺこりと頭を下げた。
「先輩はどうしてディベート部に?」
「元々バスケ部だったんだけど、見ての通り怪我で早めの引退だよ」
怜太は苦笑しながら、松葉杖の先でギプスを軽く小突いた。
それから、昨日千家に誘われたことや、部員が足りないこと、三年生が夏までどこかの部活に所属しなければならないことなど、ディベート部へ入るまでの経緯を順番に話していった。
くるみは口を挟まず、黙って聞いている。
「つまり、口喧嘩がきっかけでディベート部に入部したわけ」
「喧嘩って、もっとこう……河原で殴り合う感じのやつかと思いました」
「そんなの漫画の中だけだろ。というか、漫画でも最近はやらないんじゃないか」
「そうなんですね。わたし、喧嘩って一切したことなくて」
「マジ!?」
「はい。なるべく揉め事を起こさないように、穏便に過ごしてきたので」
くるみはもじもじしながら爪をいじる。
「偉いなあ。俺も、くるみちゃんみたいに大人だったら……」
何気なく口にした言葉。その瞬間、くるみがふっと漏らした。
「大人……なんですかね?」
「え?」
「思ったことは口に出したほうが、お互いのためになりますよ」
くるみは顔を上げた。
「たとえ相手を怒らせたとしても、正解かと……」
怜太は一瞬、言葉に詰まった。
まさか、そんなふうに返されるとは思っていなかった。先ほどまで穏便に過ごしてきたという話をしていた少女から出てきた言葉にしては、思いのほか強かった。
「……生意気言って、すみません」
「いや、全然! むしろありがとうだよ」
怜太が笑うと、くるみはほっとしたように肩の力を抜いた。
「ちなみにわたしも早生まれなんですよ」
「マジ!?」
思わず声が大きくなり、くるみの肩がびくっと跳ねた。
「は、はい……」
怜太は思わず身を乗り出した。
自分と同じ早生まれの人間が、こんなに近くにいる。その事実だけで、胸の奥に張りつめていたものが少し緩むような気がした。
「千家もだから、ディベート部は全員早生まれだな」
「千穂先輩も……」
くるみの口元がほんの少し緩んだ。
その表情を見て、怜太もなんとなく嬉しくなる。
この際だから、怜太は以前から気になっていたことを口にした。
「ちなみになんだけどさ。俺の話、どうだった?」
「どうとは?」
「共感できたとかじゃなくて、聞きやすかったとか、そういうベクトルの話」
くるみは小首を傾げ、唸り声を上げ始めた。すぐには答えず、あーだこーだとぶつぶつ言いながら考えている。
「んー……」
「忖度なしではっきり言ってくれていいから」
「では、遠慮なく」
怜太はなぜか背筋を伸ばした。
忖度なしのくるみの評は──。
「普通でした」
「……普通」
怜太は、その言葉をゆっくり噛みしめた。
「ご、ごめんなさい……忖度なしって社交辞令ですよね。わたしってば、気を遣えなくて。さ、最高! 最高でした!」
狼狽するくるみは、自分の首を締めていることに気づけていない。
そんなくるみを正気に戻したのは、怜太の一言だった。
「なんで謝るんだよ! 普通なんだろ?」
普通であることを嬉しそうに受け止める意味が分からず、くるみはぽかんとする。
「はい。特筆すべき点はありませんでした」
「よしっ!」
怜太は拳を握った。
「全然だめだったのが、レベルアップしたぞ!」
嬉しそうに笑う怜太を前に、事情を知らないくるみは、愛想笑いを浮かべることしかできなかった。
要点の説明を終えた教師は、一呼吸置いてから教室を見渡した。
そのあいだ、生徒たちは黒板の内容をノートへ書き写していた。やがて教室に響いていたペンの音が少なくなると、教師は再び口を開く。
怜太は、これまで何となく聞き流していた授業を、少し違った角度から眺めていた。
黒板に書かれたことをノートに写すための間。重要なことを説明する前に置かれる、ほんのわずかな間。教師はただ思いついたことを順番に話しているわけではない。聞いている側がついてこられるように、話す速度や言葉を挟むタイミングまで考えている。
そのテクニックを活かすことはできないか。怜太の頭に昨日の発表が浮かぶ。
本の内容を思いつくまま口にして、時計を見ては焦り、話が尽きそうになると別のエピソードを探す。そして何か思いつけば、それをまた次の言葉へつなげる。そうやって途切れることを恐れるように、言葉を並べ続けていた。
(俺は思いついたことを、ただ矢継ぎ早に喋ってただけだ)
聞いている相手が内容を理解したり、自分の中で考えたりするための時間など、ほとんど意識していなかった。
怜太はノートの端にペンを走らせ、昨日の反省を短く書き留めた。
『間を大事にする』
書き終えたところで、すぐ隣から小さな笑い声が聞こえた。
顔を上げると、千家が怜太のノートをちらりと覗き込んでいる。目が合うと、千家はふふっと微笑んだ。
怜太は少し照れくさくなり、何事もなかったように黒板へ視線を戻した。
放課後、怜太は一人で図書室へ向かっていた。
階段に苦戦しながら古びた扉に手をかける。読書の妨げにならないよう、松葉杖の音を殺しながら奥の図書準備室を目指す。
(千家は委員会で遅れるって言ってたな。それまでディベートの本でも探してみるか。まずは鞄だけ置いてから――)
そんなことを考えながら扉を開けた怜太は、一歩足を踏み入れたところで動きを止めた。
見慣れない女子生徒が一人で部屋にいた。
特徴的なくせ毛に黒縁の眼鏡。胸の赤色のリボンは一年生の証だ。
向こうも突然現れた怜太に気づいたらしい。
二人の視線が交差するが、どちらも何も言わなかった。
静かな部屋に、妙に気まずい沈黙が落ちる。怜太はどうしたものかと戸惑いながらも、ぎこちなく部屋へ入り、空いている席へ腰を下ろした。
すると、女子生徒がおそるおそる口を開いた。
「あれ? まだ熱があるのかな……。千穂先輩が、男の人に見える」
女子生徒は自分の眼鏡を外すと、レンズを丁寧に拭いた。念入りに両方のレンズを磨いてから、もう一度眼鏡をかけ直す。そして確かめるように怜太をじーっと見つめた。
「現実だぞ」
「ひゃあぁっ!」
突然声をかけられ、女子生徒の体が大きく跳ねた。椅子から転げ落ちそうになり、慌てて机に手をつく。
「ど、どなたでしょうか……。ここはディベート部の部室ですよ」
「昨日、ディベート部に入部したんだ。君は千家が言ってた一年生の――」
「よ、芳田くるみです……」
消え入りそうな声で名乗った。
「初めまして。三年の大宮怜太です」
二人は向かい合い、ぺこりと頭を下げた。
「先輩はどうしてディベート部に?」
「元々バスケ部だったんだけど、見ての通り怪我で早めの引退だよ」
怜太は苦笑しながら、松葉杖の先でギプスを軽く小突いた。
それから、昨日千家に誘われたことや、部員が足りないこと、三年生が夏までどこかの部活に所属しなければならないことなど、ディベート部へ入るまでの経緯を順番に話していった。
くるみは口を挟まず、黙って聞いている。
「つまり、口喧嘩がきっかけでディベート部に入部したわけ」
「喧嘩って、もっとこう……河原で殴り合う感じのやつかと思いました」
「そんなの漫画の中だけだろ。というか、漫画でも最近はやらないんじゃないか」
「そうなんですね。わたし、喧嘩って一切したことなくて」
「マジ!?」
「はい。なるべく揉め事を起こさないように、穏便に過ごしてきたので」
くるみはもじもじしながら爪をいじる。
「偉いなあ。俺も、くるみちゃんみたいに大人だったら……」
何気なく口にした言葉。その瞬間、くるみがふっと漏らした。
「大人……なんですかね?」
「え?」
「思ったことは口に出したほうが、お互いのためになりますよ」
くるみは顔を上げた。
「たとえ相手を怒らせたとしても、正解かと……」
怜太は一瞬、言葉に詰まった。
まさか、そんなふうに返されるとは思っていなかった。先ほどまで穏便に過ごしてきたという話をしていた少女から出てきた言葉にしては、思いのほか強かった。
「……生意気言って、すみません」
「いや、全然! むしろありがとうだよ」
怜太が笑うと、くるみはほっとしたように肩の力を抜いた。
「ちなみにわたしも早生まれなんですよ」
「マジ!?」
思わず声が大きくなり、くるみの肩がびくっと跳ねた。
「は、はい……」
怜太は思わず身を乗り出した。
自分と同じ早生まれの人間が、こんなに近くにいる。その事実だけで、胸の奥に張りつめていたものが少し緩むような気がした。
「千家もだから、ディベート部は全員早生まれだな」
「千穂先輩も……」
くるみの口元がほんの少し緩んだ。
その表情を見て、怜太もなんとなく嬉しくなる。
この際だから、怜太は以前から気になっていたことを口にした。
「ちなみになんだけどさ。俺の話、どうだった?」
「どうとは?」
「共感できたとかじゃなくて、聞きやすかったとか、そういうベクトルの話」
くるみは小首を傾げ、唸り声を上げ始めた。すぐには答えず、あーだこーだとぶつぶつ言いながら考えている。
「んー……」
「忖度なしではっきり言ってくれていいから」
「では、遠慮なく」
怜太はなぜか背筋を伸ばした。
忖度なしのくるみの評は──。
「普通でした」
「……普通」
怜太は、その言葉をゆっくり噛みしめた。
「ご、ごめんなさい……忖度なしって社交辞令ですよね。わたしってば、気を遣えなくて。さ、最高! 最高でした!」
狼狽するくるみは、自分の首を締めていることに気づけていない。
そんなくるみを正気に戻したのは、怜太の一言だった。
「なんで謝るんだよ! 普通なんだろ?」
普通であることを嬉しそうに受け止める意味が分からず、くるみはぽかんとする。
「はい。特筆すべき点はありませんでした」
「よしっ!」
怜太は拳を握った。
「全然だめだったのが、レベルアップしたぞ!」
嬉しそうに笑う怜太を前に、事情を知らないくるみは、愛想笑いを浮かべることしかできなかった。
