家に帰った怜太がリビングを覗くと、母親がキッチンで夕食の支度をしていた。
まな板に包丁が当たる小気味よい音に混じって、コンロにかけられた鍋からは白い湯気が細く立ち上っている。見慣れた夕方の光景だった。
「母さん。俺、バスケ部辞めたから」
帰り道のあいだ、何度も胸の中で繰り返していた言葉を、怜太はできるだけ何でもないことのように口にした。
包丁を握っていた母親の手が、一瞬だけ止まる。
「……そう」
返事にはわずかな寂しさが滲んでいたが、それ以上詮索されることはなかった。
すぐに猫の手を作って包丁を動かし始め、いつもの調子を崩さない。
「新しい部活は決めたの? 星華高校って、絶対にどこかの部活に入らなきゃいけないんでしょ」
「母さんも知ってるのかよ」
「当たり前でしょー。お母さん、OGだもん」
「ああ……そうだったね」
怜太は苦笑しながら鞄を下ろした。母親が星華高校の卒業生だったことを、今さらながら思い出す。
「……えっと、ディベート部」
その名前を聞いた途端、母親の手が今度こそ完全に止まった。
「ディベートって、あの政治家がよくやってるやつ? ……いや、あれは討論か」
母親は鍋の火まで止めると、改めて怜太のほうへ向き直った。どうやら、夕食の支度を続けながら聞き流すような話ではないらしい。
「一体全体、どういう風の吹き回しよ。怜太にディベートなんてできるの?」
余計なお世話とばかりに、怜太は唇を尖らせた。
「同じクラスのやつに頼まれたんだよ。人数が足りないから入ってくれって。それで、楽そうだったから決めた」
「ふーん」
母親は怜太をちらりと見た。その目が意味ありげに細くなる。
そして何かを察したように口元を緩めた。
「で、その子は可愛いの?」
「はぁ!?」
思いもよらない方向から飛んできた質問に、怜太の声が裏返った。
「女の子なんでしょ。男の子だったら、普通は『友達に頼まれた』って言うもんね」
「いや、そういうのじゃなくて……」
「なるほどねえ」
母親は自身の青春を振り返るように笑う。
「じゃあ、ディベートで対決しましょう。お母さんは『その女の子は可愛い』の立場で」
「ディベートってそういうことじゃないだろ」
「反論は?」
「はいはい。俺の負けでいいよ」
呆れたように肩をすくめながら、怜太は鞄の中から弁当箱を取り出した。蓋を開けると、朝に母親が詰めてくれた弁当は、きれいに空になっている。
その弁当箱をシンクへ置こうとしたところで、怜太の手が止まった。
「……母さん」
「ん?」
「明日から弁当、半分の量でいいから」
それだけ告げると、怜太は母親の顔を見ないままキッチンを出ていった。
「……はーい」
母親は努めて明るい声で返した。
廊下から松葉杖が床を叩く音が聞こえてくる。
カツン、カツン。
一定の間隔で響いていた音は、やがて少しずつ遠ざかり、家の奥へ消えていった。
母親はしばらくその音を聞いていたが、やがて視線をシンクの中へ落とした。
空になった弁当箱は、頑張ってきた自分にちょっとした嬉しさを与えてくれるものだった。それがあるだけで、息子の身を案じる母親として安心できる。
けれど、今日は違った。
母親は唇をきゅっと結ぶと、一人きりになったキッチンで悔しそうに顔を歪めた。
まな板に包丁が当たる小気味よい音に混じって、コンロにかけられた鍋からは白い湯気が細く立ち上っている。見慣れた夕方の光景だった。
「母さん。俺、バスケ部辞めたから」
帰り道のあいだ、何度も胸の中で繰り返していた言葉を、怜太はできるだけ何でもないことのように口にした。
包丁を握っていた母親の手が、一瞬だけ止まる。
「……そう」
返事にはわずかな寂しさが滲んでいたが、それ以上詮索されることはなかった。
すぐに猫の手を作って包丁を動かし始め、いつもの調子を崩さない。
「新しい部活は決めたの? 星華高校って、絶対にどこかの部活に入らなきゃいけないんでしょ」
「母さんも知ってるのかよ」
「当たり前でしょー。お母さん、OGだもん」
「ああ……そうだったね」
怜太は苦笑しながら鞄を下ろした。母親が星華高校の卒業生だったことを、今さらながら思い出す。
「……えっと、ディベート部」
その名前を聞いた途端、母親の手が今度こそ完全に止まった。
「ディベートって、あの政治家がよくやってるやつ? ……いや、あれは討論か」
母親は鍋の火まで止めると、改めて怜太のほうへ向き直った。どうやら、夕食の支度を続けながら聞き流すような話ではないらしい。
「一体全体、どういう風の吹き回しよ。怜太にディベートなんてできるの?」
余計なお世話とばかりに、怜太は唇を尖らせた。
「同じクラスのやつに頼まれたんだよ。人数が足りないから入ってくれって。それで、楽そうだったから決めた」
「ふーん」
母親は怜太をちらりと見た。その目が意味ありげに細くなる。
そして何かを察したように口元を緩めた。
「で、その子は可愛いの?」
「はぁ!?」
思いもよらない方向から飛んできた質問に、怜太の声が裏返った。
「女の子なんでしょ。男の子だったら、普通は『友達に頼まれた』って言うもんね」
「いや、そういうのじゃなくて……」
「なるほどねえ」
母親は自身の青春を振り返るように笑う。
「じゃあ、ディベートで対決しましょう。お母さんは『その女の子は可愛い』の立場で」
「ディベートってそういうことじゃないだろ」
「反論は?」
「はいはい。俺の負けでいいよ」
呆れたように肩をすくめながら、怜太は鞄の中から弁当箱を取り出した。蓋を開けると、朝に母親が詰めてくれた弁当は、きれいに空になっている。
その弁当箱をシンクへ置こうとしたところで、怜太の手が止まった。
「……母さん」
「ん?」
「明日から弁当、半分の量でいいから」
それだけ告げると、怜太は母親の顔を見ないままキッチンを出ていった。
「……はーい」
母親は努めて明るい声で返した。
廊下から松葉杖が床を叩く音が聞こえてくる。
カツン、カツン。
一定の間隔で響いていた音は、やがて少しずつ遠ざかり、家の奥へ消えていった。
母親はしばらくその音を聞いていたが、やがて視線をシンクの中へ落とした。
空になった弁当箱は、頑張ってきた自分にちょっとした嬉しさを与えてくれるものだった。それがあるだけで、息子の身を案じる母親として安心できる。
けれど、今日は違った。
母親は唇をきゅっと結ぶと、一人きりになったキッチンで悔しそうに顔を歪めた。
